高知〜土佐温泉 |
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(1日目) 4月05日 |
羽田空港 |
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高知龍馬空港 |
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JR高知駅 |
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JR窪川駅 |
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高知空港〜JR高知駅〜JR窪川駅〜37番岩本寺〜土佐温泉こぶしの里(泊) |
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JR高知駅前広場で迎えてくれるのは『武市半平太』『坂本龍馬』『中岡慎太郎』の像 |
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2016年4月4日 3回目の四国八十八ヶ所遍路。出発の4月4日早朝Mおむすび用意してでかける。小雨模様だったが高知龍馬空港からJR高知駅に着く頃には青空に変わり、お遍路日和。
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羽田空港JAL491便〜高知龍馬空港9:05着。空港到着ロビー1階にお遍路さん用特別コーナーがあり、そこでゆっくり遍路姿に着替える。バスで高知駅へ
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JR高知駅発で時間まで朝食(おむすび) 11:39発 急行南風3号で窪川へ向かう。 |
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あんぱんマン号 |
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3回目のお遍路は前と違った目的が2つある。
今年乳癌の手術をした長女の回復、不妊治療を続けている末っ子の子宝に恵まれる事を祈る。
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四万十町にある JR四国窪川駅は、四国八十八箇所/37番岩本寺の最寄り駅。37番岩本寺から足摺岬にある38番金剛福寺までは84Kmもあり、急峻の山の遍路ころがし(遍路が転がり落ちる程の道)に対して、長い距離を歩くので、距離の遍路ころがしと言われる遍路道である。そこを3泊4日かけて歩く出発点の駅⇒
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四国八十八カ所/37番 岩本寺
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37番 岩本寺の本堂には、昭和53年に新築の際、全国から公募した花鳥風月から人間曼荼羅まで、575枚の絵が天井を彩っている。
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岩本寺の仏具・独鈷は手で持って煩悩を打ち砕く。
最初の参拝寺、岩本寺で納経・御朱印をいただき、いよいよ3回目の遍路歩きのスタート。今日はここから12Km先の土佐温泉までを歩く。
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土佐温泉/こぶしの里では岩本寺の境内であったお遍路さんと一緒になる。
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16時 土佐温泉/こぶしの里にチェックイン
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天然温泉の宿のお風呂は近隣の方達も沢山入浴にきていてそれ程広くない浴場は混雑していた。歩いた後の温泉は疲れが取れる
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お遍路プランで二人で2食付き\15400ととても安いが料理もサービスの満点!明日の姉妹施設ネストウェストガーデン土佐と一緒に予約したので今日明日はワンドリンクサービスで500MLの生ビールをいただく。
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1日目:歩行数21724歩
15.6km.
1歩=72pで計算 |
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2016年4月5日 (2日目) 土佐湾沿いを歩き〜土佐西南大規模公園ネストウェスト土佐 |
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土佐湾沿いを歩く |
| 2016年4月5日(2日目) | 土佐温泉 | | 土佐湾 | | 土佐西南大規模公園 |
| ネストウェスト土佐 | |
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お遍路の朝は早い。ユーチューブでラジオ体操をして7時朝食。
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今日は長距離歩くので気を引き締めて7:30に出発する。今夜泊まるネストウェスト土佐は姉妹ホテルで荷物を運んでくれるサービスがあり依頼したので納経帳と水だけ持って出発。
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外国人遍路も多く英語表記も増えている。 |
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熊野神社
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黒潮鉄道を右にところどころ見ながら熊井集落から斜面を登っていくと明治38年完成の熊井トンネル伊豆の天城隧道によく似ている。
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熊井トンネルを抜け下り佐賀の町。
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黒潮鉄道を右にところどころ見ながら熊井集落から斜面を登っていくと明治38年完成の熊井トンネル伊豆の天城隧道によく似ている。
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民宿白浜で手打ちうどん&焼うどんの昼食。
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伊の岬 国道沿いでアイスクリームでなく「アイスクリーン」
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入野海岸にやっと着くが7〜8時間歩いてきて限界手前。
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入野松原は入野浜の背後の延長4kmの松原で、長宗我部時代の防風の植林に始まるという。
ネストウエストガーデン土佐まであと一息!
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16:30ネストウェスト土佐到着チェックイン。お遍路プランで宿泊。
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なかなか近代的なきれいなホテル。窓の外正面に入野松原を眺めなかなか雄大な景観だが、南海トラフ大地震の注意書きが置かれ津波がきたらひとたまりもない場所だ。
ホテルは天然温泉、着替えてお風呂へ。
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近隣の漁師さん達と一緒になるが、声の大きいのには閉口する。おまけに手足のタトゥーを自慢げに晒してこんな大きなホテルで入場は珍しい、いや禁止されてるはず?お風呂は静かにゆっくり入りたいもの。とにかく疲れているので、こんな人たちと一緒のお風呂は気が滅入るが無視してゆっくり入る。
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お風呂は天然温泉/ホテルHP写真 |
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お遍路プランでは夕食(ワンドドリンク付き)二人で税込み14760円格安!この料金はありがたい。37番札所の境内でみかけたお遍路さんも一緒に宿泊。その方とは道中何度も会うことになる。
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2日目:歩行数41058歩
29.5km.
1歩=72pで計算 |
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2016年4月7日 (3日目) ネストウェスト土佐〜民宿いさり火 |
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土佐湾沿いを歩く |
| 2016年4月5日(2日目) | ネストウェスト土佐 | |
民宿いさり火 | |
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7:00起床ラジオ体操して1Fレストランで朝食。強風だが天気は快晴。 |
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遍路3日目は足摺岬までの中継点土佐清水市久百々まで、歩き切れるか気合を入れてとにかく出発する。 |
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宿を出て約1時間で四万十大橋に到着。 |
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Mが渡りながら一句『四万十の 流れ清らか 日本一』 |
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日本一の清流を下に見ながら四万十大橋を渡る。 |
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四万十川を渡り国道を逸れて遍路道を一時間で大文字の送り火の四万十市間崎を通過。 |
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新伊豆田トンネルは1.6`もあり30分かけて抜ける。 |
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新伊豆田トンネルを抜けた先に四国遍路の中興者『真念庵』がり寄って行く。地図だと遍路道から僅かだが、急な山道を結構歩いて着く。 |
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真念は『四国遍路道指南』を江戸初期に出版し、200基を超える道標を設置善根宿を設けた遍路を庶民にひろめた功労者だ。 |
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真念庵をお参りして遍路道に戻り進む。 |
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下ノ加江海岸を通過。久百々まであと一息。 |
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このあたりの国道沿いに高知名産の柑橘類の無人店舗がならんでいる。文旦や山北みかん、200円入れてひと袋買って宿に持っていく。久百々民宿いさり火に到着。 |
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下ノ加江海岸を通過。久百々まであと一息。 |
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3日目の宿土佐清水久百々『いさり火』 |
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いさり火は典型的なお遍路宿。一階の和室に通される。お風呂は貸切で太平洋を眼下に見ながらの贅沢ないいお風呂。遍路宿らしく洗濯やアメニティも至れり尽くせり揃えてありがたい。 |
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宿泊者はうちの他に4名の計6名。皆一人遍路でそれぞれビールを飲みながら お遍路同士の連帯感か和気あいあいの夕食。
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名物の清水サバ、気前いい盛り付け |
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お遍路プラン二人で税込14000円、この料金はありがたい。四国はお接待の心が宿にもあり、遍路に優しい |
3日目:歩行数41352歩
29.7km.
1歩=72pで計算 |
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2016年4月8日 (4日目) 民宿いさり火〜足摺テルメ |
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4日目出発の朝。ラジオ体操して朝食。遍路宿らしい心配りで、朝ごはんのテーブルにお昼用のおむすびが、置かれている。昨夜の同宿の遍路さん達が荷物をしょって旅立っていく。 |
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4日目のお遍路はあいにくのどんより曇り空と強風が吹き荒れている。果たして足摺岬まで無事たどり着けるのか。雨具に着替えて緊張した気持ちで8:00出発する。 |
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いさり火を出て40分大岐海岸の四国八十八箇所唯一の海の遍路道に出る。 |
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大岐の浜の遍路道は木橋を渡って海岸へ出る。 |
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大岐の浜で『南無大師遍照金剛』を砂に描く。最後の一字書く前にが途中で波にさらわれ、後からM(剛)だけ書き込む。 |
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大岐の浜から国道を通る遍路道に戻る。 |
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以布利トンネル |
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土佐清水市浦尻の港は強風で荒れ狂っている。が幸い雨は降られなかった。 |
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高知市の「桜井戸」室戸市の「岩佐の清水」と共に土佐の三名水で土佐清水も地名の由来になっている。 |
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足摺岬
中浜万次郎像
中浜万次郎1880年頃 |
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ジョン万次郎(中浜万次郎)
1827年1月27日 - 1898年(明治31年)11月12日)by-Wikipedia. |
文政10年(1827年)、現在の高知県土佐清水市中浜の半農半漁の家の次男に生まれた。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった。天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた中浜万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をつけられた。アメリカ本土に渡った中浜万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれた。1850年(嘉永3年)、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た$600の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会、1850年12月17日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。1851年2月2日、琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した中浜万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校の英語講師として招いている。薩摩藩での取調べの後、中浜万次郎らは長崎に送られ、長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、約2ヶ月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の1852年、漂流から11年目にして故郷に帰る事が出来た。帰郷後すぐに、中浜万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。嘉永6年(1853年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、中浜万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、中浜万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。1861年には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。 文久2年、幕府の軍艦操練所教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。1866年、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。1867年には、薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月、武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていた。更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。帰国後に軽い脳溢血を起こし、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。
明治31年(1898年)、72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られている。 |
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ジョン万次郎、中浜万次郎が生まれた中浜地区を通る。 |
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足摺岬の宿泊は『足摺テルメ』で足摺岬を見下ろす山の中腹にありここまで長い道のりで最後の急坂がとてもきつかった。 |
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『足摺テルメ』にチェックインして38番金剛福寺までホテルのバスで送ってもらう。 |
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強風の足摺岬を見て、金剛福寺へ。37番寺を出て3日かけてやっと到着した。 |
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38番金剛福寺 |
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『足摺テルメ』もお遍路プランで宿泊なので部屋は1F。フロントから階段を降りた部屋。 |
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『足摺テルメ』夕食 |
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『足摺テルメ』 |
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4日目:歩行数36698歩 26.4km.
1歩=72pで計算
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足摺テルメ・天然ラドン温泉
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