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色も香も無比中道の藤井寺 真如の波のたたぬ日もなし
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十一番・藤井寺 |
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へんろ道 道標
十番切幡寺から 吉野川潜水橋を渡り 十一番・藤井寺へ 
吉野川潜水橋 
十一番・藤井寺山門
十一番・藤井寺本堂本堂/その左に十二番へ登最大の遍路ころがし 
藤井寺近くの遍路宿「旅館吉野」 夕食  |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月30日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:4日目
(宿泊)土柱ランド新温泉〜10番切幡寺〜藤井寺へ。
土柱ランドで朝食後十番切幡寺まで送ってもらう。切幡寺を出てすぐ広い車道の信号を渡ったとき後ろから来た乗用車が横で急停車した。びっくりして横を向くと窓から「これ食べて」とオレンジ数個を手渡される。歩き遍路にするこれがお接待だと思う。ありがとうと言うと同時にすーっと車は去っていった。お接待を受けたら納札を渡すのが礼儀だと来る前予習していたが実際に受けた直後に直ぐに実行できなかった。十一番・藤井寺へのへんろ道は吉野川の潜水橋を超えて行く。そしてお昼過ぎにはお寺に到着。名物の藤が咲くのは4月末ごろだという。お参りして本堂前のベンチで休憩していると向かいのベンチに背の高い外人さんを連れた中年日本人がいて、目が合ったので挨拶するとその人は徳島の電車の中でその外人さんと会い一緒にへんろして歩いてここまで来たそうだった。(この方とはこの後縁があり一緒に歩くことになり、静岡から一人遍路をしているので静岡さんと呼ばせてもらう)外人さんはまだ18歳でオランダから一人出来て四国遍路に興味があり挑戦する為来日したらしい。二人は言葉もほとんど伝わらないのに片言英語とジェスチャーだけで来たそうだが、親切な人だと思う。帰り一緒に藤井寺門前下へ行き広告看板前で今夜の宿など一緒に見てあげる。鴨島駅近くに行けば何とかなるのではと外人さんと二人は去っていった。うちは藤井寺から5分程下ったところにある吉野旅館で2時過ぎチェックインする。部屋は藤井寺側の角部屋で狭い部屋だが応対が手馴れた感じでゆっくり出来そうだった。お風呂は一階にあり男女別でなかなか広くゆっくり入れた。
6時からの夕食は一階食堂で宿泊客全員(9名)一緒にいただく。歩行数16577歩 10.7km (宿泊)吉野旅館 2食付6500円x2
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藤井寺の歴史・由来
全長236キロ、四国最大の吉野川が阿波の北部を貫流している。阿波中央橋を南に渡り、およそ3キロの山麓に十一番霊場の山門が見えてくる。三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、この地で護摩修法をされたのは弘仁6年のことと伝えられている。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄難を祓い、衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、一七日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになった。
寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍を構える壮大な大寺院と発展した。だが、天正年間(1573?92)の兵火により全山を焼失、江戸時代初期まで衰微した。その後、延宝2年(1674)に阿波藩主が帰依していた臨済宗の南山国師が入山して再興し、その折に宗派を臨済宗に改めている。天保3年(1832)に再び火災に遭い、本尊以外の伽藍はすべて灰燼に帰した。現在の伽藍は、万延元年(1860)に再建されたもの。本尊は、「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。藤井寺から次の十二番・焼山寺までは、往古の姿を留める「へんろ道」が通じている。弘法大師が修行中に休息したという遺跡や石仏、標石が残される貴重なへんろ道である。
藤井寺の見どころ
藤の古木:大師が悪疫退散の祈願のあとにお手植えしたと伝えられ、4月下旬から5月上旬にかけ五色の藤が咲きほこる。
雲龍の天井画:本堂。昭和52年、地元出身画家の作で30畳ほどの巨龍。
遍路ころがし:次の12番札所までは細く嶮しい山道で約13キロ。男8時間、女9時間かかるといわれる遍路の難所。
宗 派:臨済宗妙心寺派
本 尊:薬師如来(伝弘法大師作)
開 基:弘法大師
創 建:弘仁6年(815)
真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所:〒776-0033
徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
電 話:0883-24-2384
駐車場:門前に「本家ふじや」の駐車場がある
参拝時間
200円 / 1日
500円
宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会礼場紹介より11金剛山 一乗院 藤井寺(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)
所在地:徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
電話:0883-24-2384
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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11番・藤井寺/御朱印 |
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後の世を思えば恭敬焼山寺 死出や三途の難所ありとも |
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十二番・焼山寺 |
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十一番・藤井寺から遍路ころがしを十二番・焼山寺へ 
十一番・藤井寺から遍路ころがしを十二番・焼山寺へ 

遍路ころがし中間点・柳水庵で水補給

遍路ころがし・一本杉庵別名浄蓮庵の大師像

左右内集落到着・焼山寺へもう一息

四国札所 最大難所12`の遍路ころがしを5時間40分かけ踏破し焼山寺参道へ

6時半宿を出発して13時10分十二番・焼山寺本堂到着

杖杉庵を通り4`下の鍋岩へ |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月31日 |
参拝経路
参拝経路
参拝経路
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四国八十八ヶ所巡礼第一回:5日目
(宿泊)吉野旅館〜11番藤井寺〜12番焼山寺〜鍋岩
いよいよ今日は今回の遍路最大の難所、焼山寺までの12`の山道「へんろころがし」と鍋岩までの18`あまりを歩く行程だ。
6時に宿泊者全員一緒に朝食。食後荷物を整理して衣服を整え玄関へ。宿のご主人はだいじょうぶですよというが、少し緊張しながら6:30出発する。藤井寺本堂脇から「へんろころがし」登山道に入る。健脚で6時間、弱足で8時間と言われる道、8時間ペースでいいからゆっくりあせらずに行こう。古い八十八ヶ所のほこらを右に見ながら山道に入る。鬱蒼とした林の道をしばらく登ると急に展望が開け、遠く吉野川一帯が見下ろせる雄大な景色。更に登り続け尾根つたいに歩くと最初の休憩所、長戸庵に出る。(藤井寺から所要1:30)はじめて小休止する。ここで昨夜吉野旅館で一緒だった人達数人に会う。そしてその人たちの後を追うようにゆっくり又歩き始める。山道も険しさを増して一歩一歩踏みしめながら急な登り坂を上ると下りになり何度か繰り返し息も荒くなってきた頃、林が開け「へんろころがし」中間点、柳水庵が見えてくる。(長戸庵から所要0:50)ここで湧水を補給して2度目の休憩をとる。宿で一緒の方々が先に着いて休憩中だ。皆さん数度目の遍路だというが年齢は自分達と同じかそれ以上で元気なのと健脚に感心する。中に一人外人さんがいて宿で夕食の時見かけた人だ。この方達の後についていけるだけついて行こうと又登り始める。足もだんだん重く坂道も急になってきて、杖を支えに一歩一歩登っていく。前の人達の白衣が小さく杉林の中に見え隠れして距離が遠くなって行くようで、置いていかれまいと懸命に歩を進める。何度か急な登り下りの連続の後、石段が現れ、その先の天をつく杉の巨木の下に写真でも見た、弘法大師像が大木を背にして遍路たちを迎えるように立っていた。幻想的な光景に石段を一歩一歩上りきり大師像前に出る。お遍路さんは例外なく大師像に両手を合わせることだろう。自分達も手を合わせ無事ここまでこれた事を感謝する。ここは一本杉庵・別名浄蓮庵と呼ばれている。(柳水庵から所要1:00) 焼山寺までの最後の休憩場所のようだ。巨木を囲んで木のベンチが並び先に歩いていた人たち全員も休憩中だった。しばらく腰を下ろして気持ちを引き締めて歩き始める。今度は先を歩いていた外人さんと一緒に歩き始める。そのオーストラリア人の青年は膝を痛めているようで相当きつそうだったが、気持ちは元気で、札所に来た経緯など話ながら山道を後になり先になりながら一緒に歩く。IBMの社員で日本人の奥さんと子供さんは東京に残して長期休暇をとって一人遍路に出たそうだ。再び這うような急坂、ころげ落ちるような坂を下りきると「左右内集落」に出た。そのあと急な登り坂をひたすら進むと、やっとやっと標高700b『十二番・焼山寺』が見える。(浄蓮庵から所要2:00)
両側に石燈篭が並んだ長い参道を進むといよいよ石段の先に山門が構えている。山門で一礼し境内に入る。杉の巨木が先に見える本堂前まで続き、静寂と厳かな雰囲気が漂っている。宿を出て5時間40分。健脚の歩行時間で歩くことが出来てのは、先を歩いてくれた同宿の方々のお陰だと思う。初めての遍路ころがしの難所を二人だけで登ったらとてもこんな短時間では登れなかったろう。遍路に来る前、練習歩行では20`を超えると必ずひざに痛みのくるMだったが今のところなんともなさそうだ。本堂前でリュックをおろしてゆっくり時間をかけてお参りする。納経後、宿で用意のおむすびをいただいていると、参道をこちらに向かって来る見覚えのある二人連れ。昨日藤井寺境内で会った外人少年と日本の方だった。二人が近寄ってきて再会を喜ぶ。その後、先に到着して本堂前で休んでいたオーストラリア青年とオランダ少年が遭遇。オランダ少年もここまで一人旅ですごく不安だったろう。二人は初対面だったが英語が話せ嬉しそうに話あっている。オランダ少年と一緒に来た静岡からの方もほっとした様子。
そろそろ焼山寺から4`先の今夜の宿のある鍋岩へ下ろうと支度をして、オーストリア青年とオランダ少年に別れを告げようと声をかけると、今夜の宿を聞かれる。鍋岩荘と答えるとオーストリア青年も偶然同じ宿で、オランダ少年が鍋岩荘に泊まれるかどうか、自分には細かい日本語が話せないので聞いて欲しい頼まれる。快く引き受けて鍋岩荘に電話する。しかし不在らしく誰も電話に出ない。彼らのことを考え出発を遅らせでしばらく時間を空けてかけ直すことにする。納経所横の休憩所で、しばらくしてからもう一度電話する。何度か呼び出し音の後やっと電話に宿の主人が出た。どうか空いていてくれと心の中で祈りながら事情を話すと、部屋は空いていると返事。よかった、外人二人に予約取れたと伝えるととても喜んでくれた。静岡さんも一緒に下山することになり道連れが増え五人で焼山寺を後にして山を下る。オランダ少年は心強い道連れが出来て安堵の様子が身体全体からほとばしっていた。日本に来て一番楽しい瞬間だろうなと思った。静岡さんもやっと無罪放免で気持ちが楽になったと喜んでいる。片言英語と日本語が飛び交いながらの山下りは皆とても楽しそうだ。へんろころがしの厳しい12`余り歩いた後、鍋岩まで4`の道もあっという間で午後2時半、宿に到着する。善根宿や格安民宿を寝泊りしてきた静岡さんも空いていたら自分も鍋岩荘に泊まりたいといい出して、宿の玄関に入り直ぐに訊ねると、一部屋空いていると言われ、今夜は5人全員こちらで厄介になることとなる。
部屋で荷物をおろし、すぐお風呂へ。大きな石の湯船で、のんびりゆっくり疲れを癒して夕食時間まで部屋で横になる。夕食は6時から一階食堂で精進料理をいただく。民主党の菅元総理が遍路した時泊まった写真が食堂にかかっていた。部屋も広い部屋で窓から満開の桜がきれいだった。
歩行数28393歩 18.4km
(宿泊)鍋岩荘 2食付6825円x2
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焼山寺の歴史・由来
焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。剣山や白髪山など四国山脈の山々がひろがる眺望はすばらしい。四国霊場には「遍路ころがし」といわれた札所がいくつかあるが、焼山寺もその一つで、昔から嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」であった。いまは山上まで車道が通っている。縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。
大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた。「摩廬」の山号も「焼山」の寺名も、こうした奇異な伝説に由来しており、鎌倉時代の後期には後醍醐天皇(在位138?39)の勅願所となっている。境内は樹齢数百年の杉の巨木(県の天然記念物)が並び、巡礼者を迎えている。
焼山寺の見どころ
三面大黒天:中央が大黒天、右面が毘沙門天、そして左面が弁財天の像。本堂左横のお堂に安置。
杖杉庵:四国遍路の元祖・右衛門三郎が終焉したと伝えられる地に建てられたお堂。境内から車道1.6キロほど下ったところの番外霊場。
神山町:徳島県の特産であるウメやスダチの産地。
宗 派:高野山真言宗
本 尊:虚空蔵菩薩
開 基:役行者小角
創 建:弘仁6年(815)
真 言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか
住 所:〒771-3421
徳島県名西郡神山町下分字中318
電 話:088-677-0112
駐車場:各車種あわせ70?80台 志納料として普通車 300円ワゴン車 500円 ・大型車
1,000円
宿 坊:30人(山上のため予約ください)
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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十二番・焼山寺大師堂 青い目の道連れ
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12番・焼山寺/御朱印 |
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阿波の国一宮とはゆうだすき かけて頼めやこの世のちの世 |
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十三番・大日寺 |
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管元総理も宿泊した鍋岩荘から7:15分のバスで寄井中へ

十三番・大日寺

十三番・大日寺本堂

十三番・大日寺大師堂
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参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜
8:27一宮札所前着〜大日寺へ。
へんろころがしを歩いた後次の日は歩けるかどうか判断出来なく万が一を考え鍋岩から一三番まで17.7`はバスで移動することに決めていた。縁あって今日一日静岡さんと一緒に行動することになる。鍋岩荘で朝食後、三人で出発。宿前の焼山寺入口バス停7:25発の町営バスで寄井中へ行く車窓から先に出発していった外人さん二人をバスが追い抜いていき思いっきり手を振ると手を振って応えていた。名残おしいが外人さんは全て歩き通すと決めていた。7:35寄井中着、7:45徳島行きに乗換えて一宮札所前8:27に着く。停留所は一三番大日寺門前で道路向かいにバス停名の一宮神社がある。なかなか立派な神社だ。
一三番大日寺から十七番まで五ヶ寺は隣り合っていて五ヶ所参りという日帰り遍路を楽しむ人も多いとか。
昔は一宮神社と大日寺は一体だったが神仏分離令で別れ本尊の十一面観音は一宮神社から大日寺に移され今もそれが本尊となっている。
三人でお参りする。静岡さんが予定表を見せてくれる。地図の各札所地点を線で結んで所々に「テ」という文字が沢山見られ、それはテント泊の場所だそうで野宿する場所だそうだ。4月といえ夜は寒いだろうに心配すると、もう何度も山登りして経験があるそうだった。彼は奥さんがまだ仕事していて一人遍路を通し打ちといって1番から88番まで一度に周る歩き遍路だ。あの二人の外人さんも、名古屋から来て財布を拾ってあげた人も皆通し打ちの人たちで、皆約2ヶ月余り毎日歩きとおしで大変だなと思う。が、それだけ時間の取れるのも幸せな事とも思う。
再び三人で十四番・常楽寺へ向かう。
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大日寺の歴史・由来
徳島市には5ヶ所の霊場がある。そのいちばん西部で鮎喰川を渡った平地にあり、車の往来が激しい県道の反対側が、かつて阿波の総鎮守であった一の宮神社となっている。開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときには、その別当寺として同じ境内にあり、管理に当たっていた。
ただ、一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、江戸時代には一の宮神社が札所であり、納経所として参拝されていたようである。このことは真念著『四國邊路道指南』(貞享四年・1687)にも記されている。その後、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺ともとの寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 日本人の心には仏と神が融和している。遍路は大師の御心を慕い歩みつづけている。
大日寺の見どころ
ぼけ封じ観音:東に0.7キロほどの新奥の院・国中寺は、お年寄りへの祈祷で知ら れる
奥の院・建治寺:約5キロ離れた深山幽谷の地にあり、修行の道場とされている。 本堂岩窟に安置する尊像は弘法大師作と伝えられる。
しあわせ観音:樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像。幸せの願いを祈る。
宗 派:真言宗大覚寺派
本 尊:十一面観世音菩薩
開 基:弘法大師
創 建:弘仁6年(815)
真 言:おん まか きゃろにきゃ そわか
住 所:〒779-3132
徳島県徳島市一宮町西丁263
電 話:088-644-0069
駐車場:普通車であれば15台マイクロバスであれば10台 大型車であれば8台
利用時間の制限は特になく、料金は不要
宿 坊:150名
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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13番・大日寺/御朱印 |
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常楽の岸にはいつか到らまし 弘誓の船に乗りおくれずば |
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十四番・常楽寺 |
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十三番・大日寺から十四番・常楽寺 |
参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜
8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺へ。静岡さんとはいろいろ話しながら歩く。歩き遍路とはこういう風に道ずれや知り合いがおのずとでるものなのだろう。名前も名乗らずお互いの話したい事だけ話して、聞いた感想を言って、歩くのも初めての経験だがなかなか楽しいことだった。でも誰でもこうだとは限らず、そんな気楽な気持ちにさせてくれたのは静岡さんの人柄なのかもしれない。十四番・常楽寺は入口から四十段あまりの石段を上がると寺の境内で、珍しい流水岩の庭園といって境内中心部が岩盤が露出したままの一枚岩だそうで、その岩盤の上に堂の建物が建てられている。
遍路も5日目ともなるとお参り手順も余裕が出来て一つ一つの動作にも丁寧さや気遣いが出来ている。静岡さんは必ず山門にある何番札所…寺という石標横で記念写真を撮るようでシャッター係りになってあげた。 |
常楽寺の歴史・由来
四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに京都・広隆寺の国宝で、片膝を立てて頬を右手でささえ考える半跏思惟の弥勒像は、そのやさしいお顔の表情が美しく、お大師さまとともに光明を授けてくれるような仏といえよう。縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また高野山の再興で知られる祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。室町時代には阿波守護大名の祈願所にもなっているが、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」。自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。
常楽寺の見どころ
常楽園:昭和30年に設立した戦災孤児のための社会福祉施設。1歳から18歳まで の子供たちを収容している。四国霊場ただひとつの養護施設。
アララギ大師:本堂右側 の樹周8メートル、高さ10メートルの巨木。糖尿病、眼病の祈願をする。地蔵菩薩像:本堂前。子供の寝しょうべん、夜泣き、歯痛、足の痛みなどの治癒に祈願する。
宗 派:高野山真言宗 本 尊:弥勒菩薩
開 基:弘法大師 創 建:弘仁6年(815)
真 言:おん まい たれいや そわか
住 所:〒779-3128 徳島県徳島市国府町延命606
電 話:088-642-0471
駐車場:普通 約10台・無料 宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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十四番・常楽寺
十四番・常楽寺
十四番・常楽寺
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14番・常楽寺/御朱印 |
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薄く濃くわけわけ色を染めぬれば 流転生死の秋のもみじ葉
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十五番・国分寺 |
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十五番・国分寺

十五番・国分寺本堂

十五番・国分寺大師堂 |
参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜
8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺〜15番国分寺へ。
十四番から十五番国分寺は僅か10分ほどの所にある。
例によって山門で一礼して境内へ。正面に二層の本堂があり、右手に大師堂がある。国分寺とは741年聖武天皇の勅令で全国に建立された寺で四国八十八ヶ所内には四ヶ寺あり、この阿波国分寺はその内の一つである。
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国分寺の歴史・由来
四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波国分寺」である。仏教に篤く帰依した聖武天皇(在位724?49)は、天平13年に国家の安穏や五穀豊穣、政教一致、地方文化の向上などを祈って、勅命により全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建した。奈良・東大寺はその総国分寺ともいわれる。縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は奈良の法隆寺や薬師寺、興福寺と同じ南都の学派に属する法相宗であり、寺領は二町四方で、ここに金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。この寺域からは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。
弘法大師が弘仁年間(810?24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」によって灰燼に帰しており、境内は相当に衰微していた様子が寂本著『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)からも知ることができる。寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。境内の遺跡から往時の栄華がしのばれる。
国分寺の見どころ
庭園:本堂の左右。非公開であるが、桃山時代(1573?98)の作庭といわれ、 築山、泉水それに枯山水、高さ4メートルの巨岩が組み合わされており、平成12年に国 の名勝に指定された。
本堂:重層の入母屋造りで、文化、文政年間(1804?30) に再建された。聖武天皇、光明皇后の位牌が祀られている。
宗 派:曹洞宗
本 尊:薬師如来
開 基:行基菩薩
創 建:天平13年(741)
真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所:〒779-3126
徳島県徳島市国府町矢野718-1
電 話:088-642-0525
駐車場:普通10台・マイクロバス1台(特例)大型車は入車不可で駐車禁止午前7時?午後5時・無料
宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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14番・常楽寺/御朱印 |
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十六番・観音寺 |
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参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺〜15番国分寺〜16番観音寺へ。十五番から十六番は1.2`。帰りの電車の時間を考えながら一三番から十七番までは一寺20〜30分の参拝時間と決めてお参りを続けて時間通りに進んでいる。十六番観音寺は町の通りに面して堂々とした二層の山門が建っている。静岡さんの記念写真を山門前でMがシャッターを押してからお参りする。
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観音寺の歴史・由来
楼門寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が詳しく記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724?49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。大師堂その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573?92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したはなしが語りつがれている。遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。
観音寺の見どころ
夜泣き地蔵
子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊で、子供の病気平癒、健康と成長を祈願する。ご利益をあずかったお礼にと、何枚ものよだれかけが奉納される。
絵馬
炎に包まれた女性が描かれた奉納額で、本堂内に掲げられている。明治時代にあった遍路の実話という。
天狗久
人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。
宗 派: 高野山真言宗 本 尊: 千手観世音菩薩
開 基: 弘法大師 創 建: 天平13年(741)
真 言: おん ばざらたらま きりく そわか
住 所: 〒779-3123 徳島県徳島市国府町観音寺49-2 電 話: 088-642-2375
駐車場: 普通6?7台・マイクロバス1台 午前7時?午後5時・無料
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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十六番・観音寺 |
十六番・観音寺本堂
十六番・観音寺大師堂

十六番・観音寺仏足跡 |
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16番・観音寺/御朱印 |
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面影をうつしてみれば井戸の水 結べば胸のあかやおちなん |
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十七番・井戸寺 |
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十七番・井戸寺 十七番・井戸寺本堂 十七番・井戸寺大師堂
JR府中駅(ふちゅうえきでない、 こうえき・と読む)
JR府中駅から徳島へ戻りバスで十八番恩山寺へ向かう。 |
参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺〜15番国分寺〜16番観音寺〜井戸寺へ。
井戸寺の朱塗りの山門はお寺というより武家屋敷のようだがそれは蜂須賀藩主が寄進したもの。大師堂の中にある井戸は弘法大師が飲み水不足で困っていた里人の為に掘った井戸で寺名となっている。三番寺にも同じような逸話があるが、この井戸も自分の姿を映してちゃんと映れば無事で映らなければ三年の間に変事があるといわている。お参り前に静岡さんにこれからの移動を説明する。
それは、徳島市内の札所はここで終わり電車で一度徳島に戻り、徳島駅からバスに乗って十八番・恩山寺に向かう。
納経を終えて最寄のJR府中駅まで歩き、12:09発の徳島行き電車に乗る。
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井戸寺の歴史・由来
7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673?86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めたと伝えられている。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。
ただ、南北朝時代以降の寺史は激変する。まず貞治元年(1362)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1582)には三好存保と長宗我部元親との戦いでも罹災している。江戸時代に本堂が再建されたのは万治4年(1661)であった。 七仏薬師如来は全国でも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。
井戸寺の見どころ
面影の井戸:大師が掘った伝説の井戸で、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなかったら3年以内の厄災に注意する。
日限大師:石造の大師像で「水大師」ともいわれる。5日、7日などと日数を限って日参すればご利益ありといわれる。
仁王門:阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門。
宗 派:真言宗善通寺派
本 尊:七仏薬師如来
開 基:天武天皇
創 建:白鳳2年(673)
真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所:〒779-3118
徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1
電 話:088-642-1324
駐車場:普通30台・マイクロバス5台・大型5台午前7時半?午後5時・無料
宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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17番・井戸寺/御朱印 |
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子を生めるその父母の恩山寺 訪らいがたきことはあらじな |
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十八番・恩山寺 |
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参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目
(宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺〜15番国分寺〜16番観音寺〜17番井戸寺。
JR府中から12:09〜12:21JR徳島まで静岡さんと三人で電車に乗る。徳島駅前から小松島市営バス徳島12:45発に乗る予定。お昼は静岡さんは駅近くの「セルフうどんやま」へうちはセブンイレブンでパンを買い、バス乗り場で食べる。12:45バス時間ぎりぎりに静岡さんが息を切らせて走って帰ってくる。約40分でバスは恩山寺入口に到着。歩いて約20分程山の中腹のお寺に着く。この寺は弘法大師のご母堂・玉依御前が剃髪されたと伝えられるお堂が本堂右に残っている。お参りした後、境内で休憩していると、地元の参拝客のご夫婦が話しかけられるしゃべっている中で、義経が屋島に行く途中この近くを通ったことなど話してくれた。ここから十九番へのへんろ道は弦巻坂など通るのが道が崩れて不通になっていてだいぶ迂回した車道を歩かねばならなく残念だった。
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恩山寺の歴史・由来
小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にある。縁起をたどると、創建は聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。十九番霊場に向かって下る「花折り坂」という坂から上には、女性が入ることは許されていなかったのである。延暦年間(782?806)になって、弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)ころのことと伝えられる。
寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804?30)ころに建立された由緒ある建造物である。境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は、県の天然記念物にもなっている。母君を慕いつくした大師のこころが、いまも宿っているような寺である。
恩山寺の見どころ
玉依御前の剃髪所:大師堂の手前。「大師御母公剃髪所」の石碑と小さなお堂が建ち、また、大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置されている。弘法大師像:大師自ら彫造した像で、現在、大師堂の本尊とされている。「源義経上陸の地」石碑
:境内の山裾にあり、近くの神社に義経が弓を引く銅像が立っている。
宗 派:高野山真言宗 本 尊:薬師如来
開 基:行基菩薩 創 建:天平年間(729?749)
真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所:〒773-0008 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40
電 話:0885-33-1218
駐車場:普通20台・マイクロバス5台・大型4台午前7時?午後5時 ・無料
宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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徳島駅からバスで十八番・恩山寺へ |
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大師御母公剃髪所 |
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十八番・恩山寺本堂 |
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18番・恩山寺/御朱印 |
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いつかさて西のすまいのわが立江 弘誓の舟に乗りていたらむ |
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十九番・立江寺 |
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十九番・立江寺門前の「静岡さん」 十九番・立江寺 十九番・立江寺本堂
十九番・立江寺 「肉髪付鉦の緒」黒髪堂 十九番・立江寺で打ち止めでJR立江駅から徳島駅に戻る。
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参拝日 |
2013年(平成25年)4月1日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:6日目 (宿泊)鍋岩荘〜バス焼山寺入口7:25〜7:35寄井中7:45〜8:27一宮札所前着〜13番大日寺〜14番常楽寺〜15番国分寺〜16番観音寺〜井戸寺〜JR府中12:09〜12:21JR徳島〜小松島市営バス徳島12:45〜13:25恩山寺前〜18番恩山寺〜19番立江寺へ。 十九番・立江寺は今度のへんろ最後のお寺となった。 十八番からは一時間あまりで着く。お寺に入る前静岡さんは近くの公園で野宿をするといって場所探しに行っているがいい場所は見つかっただろうか。 立江寺が今度の遍路最後なので参拝手順をより丁寧にお参りし終える。本堂横には「肉髪付鉦の緒」となにかおどろおどろしい名前のお堂があり関所寺といわれる所以になっている。悪いこと邪心を持っている人はお咎めを受けここから先へ進めないという。昔のお遍路さんは本当にそう信じて「お関所もすんだ」と安心したそうだ。お参りを済ませると静岡さんを見つけ「ここでお別れです。大変楽しかったですありがとうございました。」と声をかけると両手を差し出し手を握り締めて涙を浮かべ「こちらこそお世話になりました。」とお礼を交わし名残惜しくお別れする。これから彼は50日余り旅が続くのだろう、どうぞ無事にとお祈りする。
立江寺からJR立江駅は直ぐ近く、無人駅だ。ホームで十一番の吉野旅館に同宿しへんろころがしも同じ時間出発した方と再会する。あまりの歩く速さに「スーパーマン」と呼んでいた人だ。一緒に14:13の電車に乗り徳島に着くまでいろいろ話が聞けた。本職のお坊さんで、大阪から何度も歩きへんろをしているそうでここまでの各お寺の住職のことやへんろ宿のことなどとても詳しくガイドブック以上の情報を沢山持っていた。 徳島に着きホテルは駅間近のビジネスホテル。 四国遍路第一回目はここで終わる。
六日目の歩行数31955歩 20.7q
JR立江駅14:15〜徳島15:00着 (宿泊)アグネスホテル徳島
朝食付ツイン3400円(特別プラン)x2 2泊。
(余談)
このホテルで思わぬ出来事があった。
翌朝、朝食後にレストランからホテルロビーに出たところで、なんと鍋岩荘で別れたオーストリア青年とオランダ少年にばったり再会した。二人は歩き続けて今日は十七番から十八番に行く途中ここに宿泊したそうだ。励ましの声をかけて送り出す。昨日18・19を予定より早く周れたので今日は徳島市内を観光する。
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立江寺の歴史・由来
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400メートルほど山寄りの景勝地にあって、七堂伽藍を備えた巨刹であったといわれる。「天正の兵火」(1575?85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。のち、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依をうけ、現在の地に移って再建された。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財であると高く評価されている。寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。 邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれている。
立江寺の見どころ
肉付き鐘の緒の黒髪堂:大師堂右手にある小祠。不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔すると、お京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂。
白鷺橋:寺の手前。行基菩薩が白鷺に暗示をうけたと伝えられる橋。
宗 派:高野山真言宗 本 尊:延命地蔵菩薩 開 基:行基菩薩
創 建:天平19年(747) 真 言:おん かかかび さんまえい そわか
住 所:〒773-0017 徳島県小松島市立江町若松13電 話:0885-37-1019
駐車場:普通30台(300円)・マイクロバス5台(1000円)大型6台(1000円)
各一回 ・他に無料駐車場がある 宿 坊:200人
URL:http://www.tatsueji.com/ 出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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19番・立江寺/御朱印 |
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しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈 |
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二十番・鶴林寺 |
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参拝日 |
2014年3月24日(平成26年3月24日) |
参拝経路 |
四国遍路2回目 3月24日〜4月4日
13日間で20番〜36番を巡拝
一日目
2014年3月23日(日)20時東京ディズニーランドバスターミナル発のコトバス(琴平電鉄バス)深夜便で徳島に向かう。バスはプレミアムシートとバス会社自慢の3列席で割合ゆったり。140°リクライニングは足を伸ばすと寝るには充分の広さがあった。
飛行機は一日目の行動が午後からになってしまうが、長距離バスは徳島に早朝6時着なので一日フルに活用できるということで深夜バスに乗って行くが思惑とは全く違う地獄の一日が待っていた。新宿経由で東名高速道路〜神戸〜淡路島〜徳島駅まで670km乗車時間は10時間、ゆっくり寝て起きる頃に徳島に着くと思っていたが、ほとんど眠れず何度寝返りをうったことだろう苦痛この上ない。やっと6時30分長い夜が明け時刻通り徳島駅前に到着。深夜便バスから開放されて徳島駅前5番バス乗り場から6:50横瀬行きに乗り約1時間生名バス停で下車。そこで遍路衣装に着替える。着替えていると近所のおじさんがみかんを2袋持ってお接待をしてくれる。出発前からお接待を受け幸先がいい、いよいよ出発だ。気持ちは天気のように日本晴れ...しかし、
このあと地獄の遍路が待ち受けているとは夢にも思わなかった。去年の遍路は19番で終わっていたので今回は20番札所鶴林寺を目指して歩き始める。20番鶴林寺までは3キロあまりの距離だが厳しい登り山道を行く。徳島では3つの遍路ころがし(難路)がありここの登山道もその一つ。 生名を出て間もなく展望が開け案内図を見る。 最初にお参りする20番・鶴林寺の次に向かう21番・大龍寺は遥か彼方の山頂なのだ。えーっという感じ。遍路ころがしと呼ばれる山道を約二時間登り、今回の遍路最初のお寺、四国八八ケ所/20番・鶴林寺に到着。2度目の四国遍路の最初寺で参拝する。鶴林寺から21番大龍寺へは又遍路ころがしの難路を越えていく。
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鶴林寺の歴史・由来
標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静謐ながら隆盛の面影をしのばせる。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781?806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど寺運は大きく栄えた。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573?92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。
鶴林寺の見どころ
波切り地蔵・地蔵菩薩立像:本尊で、国の重要文化財。暴風雨で難破しそうになった船を導いてくれた伝説がある。
鶴林:釈迦が入滅の際に、沙羅双樹の葉が鶴の羽のように白くなった伝えから、釈迦の涅槃をも意味する。
丁石:室町時代の年号を刻んだ丁石が、麓から遍路道沿いに11基残っている 。1丁は約109メートル。徳島県最古。
宗 派:高野山真言宗 本尊:地蔵菩薩(伝弘法大師作)開基:弘法大師
創 建:延暦17年(798)真 言:おん かかかび さんまえい そわか
住 所:〒771-4303 徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14 電 話:0885-42-3020
駐車場:あり・志納金制 宿 坊:休業中
出典:四国八十八ヶ所霊場会編 |
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バスを降りて身支度すると早、お接待にみかんをいただく。
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20番鶴林寺山門 |
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20番鶴林寺・本堂前のにはお鶴さんの鶴の像 |
20番鶴林寺・本堂へは納経所横の石段を上がる
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20番・鶴林寺/御朱印 |
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