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京都/東寺.南禅寺.宵山
2017年07月23日
京都/祇園後祭り
2017年07月24日
滋賀/比叡山延暦寺
2017年07月25日
京都/東寺.南禅寺.宵山

祇園祭宵山
2017年7月23日
東京
京都
東寺
南禅寺
祇園宵山
居様/IZAMA
ホテル
三井ガーデン京都別邸
おごと温泉

南禅寺境内の水路閣(水道橋)


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琵琶湖疏水は琵琶湖から京都市内に向け引かれた水路 スペイン・セゴビア(水道橋)⇒
2017年7月23日 長女AKさんと二十数年ぶりの親子3人旅。確か就職が決まったお祝いで鬼怒川に行って以来。今日一日目は京都で弘法さんの東寺から 南禅寺を参拝し、そして祇園祭宵山見物の予定。
東京駅6:56発新幹線こだま号 朝ごはんは、3人とも 30品目バランス弁当(By駅弁祭900円) 
AKさんは今年45歳になった。二人の子供の子育てをしながら、辛い病気も克服して、生きる術も、知恵も、いつの間にか親を追い抜いてしまった。子どもではあるが、敬愛をもってAKさんと呼ぶようになっている。今度やっと親の誘いに応えて一緒に旅ができる事になり、こんな日が訪れるとは、感無量である。久しぶりの親子旅 笑顔いっぱいで出発。
往きはゆっくり話ができるように こだま号に乗る。AKさんを真ん中にして挟んで座り、京都までの4時間半、 仕事の事、家庭の事、孫たちの事、健康の事、 話続けてあっという間に10:34京都駅に到着した。
天気はあいにくの曇り空だが心はみんな晴れ晴れ。
京都の夏は厳しい蒸暑さなので炎天下よりは歩くのにはいい。
京都駅八条口を出て東寺までは歩いて15分ほどの距離、近鉄京都線の高架下を歩く。
しばらく歩いて東寺大通りを右折すると間もなく、東寺の五重塔が見え始めた。

東寺に到着・慶賀門から境内へ入る。
                東寺         (出典:Wikipedia)

京都市南区九条町にある仏教寺院。真言宗の根本道場で、真言宗全体の総本山である。「教王護国寺」とも呼ばれ、山号は八幡山。本尊は薬師如来。平安京鎮護のための官寺として建立が始められ、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集め、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月に「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
東寺の歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらに東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立した。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖・空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院で、霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

帰りは南大門から九条駅へ。 
慶賀門を入ると左側に蓮の花が綺麗に開花しはじめていた。
二千年前の大賀ハス⇒
初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)に再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失、現在の建物は昭和9年(1934年)に完成したもの。千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、昭和40年から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。
東寺/食堂(じきどう)
納経所.食堂(じきどう)で四国八八か所納経帳に御朱印をいただく。
「身は高野、心は東寺に納めおく」という御詠歌があり、 弘法大師空海は、高野山奥の院にご入定なったが、 心は東寺にある、と、うたっている。四国八十八ヶ所巡礼は東寺御影堂で出発の挨拶をして、高野山奥の院で巡礼終了のお礼をすると伝えられている。
東寺/講堂
講堂は金堂の背後に建ち、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)完成した。その堂は文明18年(1486年)の一揆により焼失、室町時代.延徳3年(1491年)に再建されたのが現在の講堂。大日如来を中心とした密教尊を安置、中央に大日如来を中心とする五体の如来像(五仏.五智如来)右に金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、左に不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置され、全部で21体の彫像が整然と安置、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。
これが東寺の 3D立体曼荼羅
風信帖(空海筆/東寺所蔵)
風信帖
空海が最澄に宛てた尺牘(せきとく)3通の総称で、日付はあるが年紀はなく、弘仁元年(810年)から3年(812年)まで諸説ある。1通目の宛名は、ともに空海が最澄の消息に答えた書状で、2通目には宛名がなく、最澄、藤原冬嗣の両説ある。風信帖は空海の書の最高傑作であり、書体は行草体、大きさは、28.8cm×157.9cm。
東寺/金堂
国宝。東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)一揆で焼失し、その後、現存の建物は慶長8年(1603年)豊臣秀頼の寄進によって再建した。
東寺/五重塔
東寺のみならず京都のシンボル五重塔は高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さ。天長3年(826年)空海により、創建が始まるが、完成したのは空海没後の9世紀末だった。創建以来しばしば焼失したが、寛永21年(1644年)徳川家光により、古製に則り再建したもの。
東寺/南大門    南大門のアオサギ
東寺に居るサギは人慣れをしているそうで、南大門脇にいたアオサギものどを震わせ首をふるがじっと周りの様子を伺っていた。
東寺の南大門は桃山時代建築の重要文化財建造物。九条通に面して建ち、東寺伽藍正面の門をいう。焼失したため、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念として、三十三間堂の西門を移築した、慶長6年(1601年)建造の八脚門。
久しぶりの親子3人水入らず、弘法さんゆかりの東寺ではAKさんに、弘法さんと同行二人.四国八八ヵ所巡拝の喜び苦労など聞かせながら境内を参拝。南大門から九条通りに出る。
コンビニでお昼を買って市営地下鉄九条から南禅寺最寄りの蹴上駅へ向かう。

ねじりまんぽ
地下鉄東西線/蹴上駅下車、コインロッカーに荷物を預けて南禅寺へは有名な『ねじりまんぽ』を抜けていく。まんぽ」とは鉄道や川の下をくぐったり、 素掘りで農業用水を通したりする小規模なトンネルの事。
お寺までの道は のどかな参道で有名寺にしては人混みも少なく静かで歩きやすい。10分程で南禅寺入口に出る。
境内に入りすぐ左にそびえ立つのが、歌舞伎でも名高い南禅寺の山門(三門)
山門の下でサンドウィッチなど昼食休憩。が、休み終えて目の前に境内での飲食禁止の注意書き!確かにこんな神聖な場所で飲食するのはマナー違反もいいとこ。話に夢中とはいえ深く反省。
南禅寺三門
歌舞伎『楼門五三桐』の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」という名せりふで名高い「南禅寺山門」がここ。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。正面柱間が5間、うち中央3間が出入口の2階建ての門。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。
   南禅寺      (出典:Wikimedia)
左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。
歴史
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。  亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に出家して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。   無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死をうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円が指揮、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。 建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。 1467年の応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。  南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長10年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。 南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水道橋は明治維新後に建設され、当寺の境内を通る琵琶湖疏水水路閣はテレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。
法堂
法堂は、法式行事や公式の法要が行われる場所であり、南禅寺の中心となる建物。慶長11年(1606年)に完成したが、明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失し、明治42年(1909年)に再建された。
南禅寺境内.琵琶湖疏水の水道橋(水路閣)
一番見たかった水道橋。これが見たいのでここに来たかった。琵琶湖/疏水は、琵琶湖から京都市内に向け引かれた水路で、滋賀県大津で取水され、南禅寺横を通り京都東山区蹴上迄の区間である。疏水工事は1885年(明治18年)~1890年に竣工した。明治時代にこんなレンガ造りの水道橋が作られたのには感動する。 スペインの水道橋⇒
南禅寺のものは規模は
小さいが趣がある。

南禅院 亀山天皇は正応2年(1289)離宮で出家して法皇となりここ南禅院は離宮の遺跡で南禅寺発祥の地。
南禅院
静かな南禅寺を満喫して参道を戻る。地下鉄 蹴上駅からホテル最寄駅の烏丸御池へ。
烏丸御池駅を出て烏丸大通りから歩いて今日の宿『三井ガーデンホテル京都新町別邸』へ。
途中の烏丸通りにある西国札所でもある六角堂に立ち寄る。この寺は華道池坊発祥の地で六角堂住職は華道家元が務める異色のお寺、お寺の敷地内に池坊会館。西国巡礼で2005年に一度参拝している。
六角堂の北側に、聖徳太子が身を清めたと伝えられる池の跡があります。この池のほとりに、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。東福寺の禅僧の日記『碧山日録』には、寛正3年(1462)に池坊専慶が花を挿し、京都の人々の間で評判になったことが記されています。
出典:六角堂HP
西国18番札所『頂法寺六角堂』お参り。秩父お遍路を始めたAKさんに西国三三か所の納経帳をプレゼント。御朱印をもらう。秩父が終わったら西国札所を周ってくれるといいが。
午後2時半、三井ガーデンホテル京都新町別邸に到着。
ホテル前には祇園山鉾『北観音山』

風情のある建物、それもそのはずここは以前呉服問屋を改築してホテルに変身した。
三井ガーデンホテル京都新町別邸   前身は町家風 旧松坂屋京都業務部
三井ガーデンホテル京都新町別邸は1903年に建てられた大丸松坂屋百貨店が所有する旧松坂屋京都業務部.染織参考館をリノベーション、江戸時代には呉服問屋の大店が軒を連ね、京町家が今も残る独特な佇まいの新町通りに面して、祇園祭の山鉾『北観音山』は巡行のルートで、客室やレストランIZAMAから祭りが観賞できる。
午後3時チェックイン

                祇園祭り       (出典:Wikimedia)
祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日〜16日・後祭:7月21日〜23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭のひとつに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。
その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述のとおり仏教由来である)。
休憩して街にでる。ホテル前の通りは新町通り。すぐ前に山鉾『北観音山』飾られている。祇園祭りの華やかさにホテルも組み込まれているようで面白い。



その先には八幡山。
そして黒主山

ぐるっと回って最後に南観音山を見てホテルへ戻る
ホテル一階に天然温泉ではないが人工炭酸泉大浴場もある。
お風呂に入って、夕食は19時からホテル一階のレストランIZAMAで。


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夕食のあと又宵山見物に街へ出る。
祇園祭/宵山・後祭
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