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霊山の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり |
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壱番・霊山寺 |
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四国八十八ヵ所第一番/霊山寺参道
霊山寺山門
霊山寺本堂
弐番極楽寺へ
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参拝日 |
2013年(平成25年)3月27日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:1日目 四国遍路はじまり
羽田空港~徳島空港~バスで徳島駅~JR坂東駅~徒歩で一番・霊山寺へ。
四国遍路の始り、なんともいえない気持ちの高ぶりを感じながら小雨の降るJR坂東駅に降り立つ。さあ、これからだ。長い旅の第一歩を踏み出す。小さな駅舎で数人一緒におり皆霊山寺へ向かうようだ。
駅前の売店のおばさんが「足元の緑の線の通り行って下さい」と声を掛けてくれる。その通りに歩くと間もなく『四国第一番・霊山寺』の大きな石碑から参道に入る。
霊山寺門前でお辞儀して境内に入ると、壱番札所らしく遍路の人々で賑やかだった。心を整え本堂へ。テレビで何度も見かけた住職さんが外人さんを案内している。本堂でろうそく、線香をたて、納札を納め、両手を合わせ、般若心経を読経。同じように大師堂をお参りした後、納経所でご朱印をいただく。
境内のお堂や観音さんを見学してトイレを借りたが、これが古く汚い。たくさんお寺をお参りしてきたが、どこもトイレは綺麗にしていて、その点このお寺は四国壱番札所らしく全体は立派だが、お寺の姿勢の低さを感じた。
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壱番・霊山寺の歴史・由来
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、365里におよぶ。この霊場を札所番号の順に巡拝する遍路には、ここが「発願の寺」、「同行二人」の長い旅となる。縁起によると、聖武天皇(在位724-49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である。往時は阿波三大坊の一つとされ荘厳な伽藍を誇った。しかし天正10年(1582)、長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主・蜂須賀光隆公によってようやく復興したが、明治24年(1891)には出火により本堂と多宝塔以外の堂宇を再び焼失している。以来、100年の努力で往時の姿となっているが、おおかたが近年の建物である。別格本山。地の利を生かした寺観の配置は妙で美しく、お遍路さんに彩りを添えている
霊山寺の見どころ
一番札所:長い遍路の旅には、途中で困らないように、また、他人に迷惑をかけないなど、万全の用意が大事である。とくに最初の札所では、こころの準備をととのえることが大切であるといえる。
多宝塔:応永年間(1394-1428)の建造で、五智如来像が祀られている。
明治の庭:大師堂の北側にある。お遍路をはじめる「発願の寺」を象徴している。
第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺
じくわざん いちじょういん りょうぜんじ
宗 派: 高野真言宗
本 尊: 釈迦如来
開 基: 行基菩薩
創 建: 天平年間(729-749)
真 言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
住 所: 〒779-0230
徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126
電 話: 088-689-1111
駐車場: 普通100台・バス10?20台・無料 宿 坊: 休止中
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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1番・霊山寺/御朱印 |
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極楽の弥陀の浄土へ行きたくば 南無阿弥陀仏口ぐせにせよ |
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弐番・極楽寺 |
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弐番極楽寺山門

境内にある仏足石

極楽寺大師堂

大師お手植えの長命杉

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参拝日 |
2013年(平成25年)3月27日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:1日目
羽田空港~徳島空港~バスで徳島駅~JR坂東駅~徒歩で一番・霊山寺から弐番極楽寺。
壱番から僅か1.4㌔で弐番極楽寺だ。
遍路も壱番よりだいぶ少なく落ち着いた静かな境内。参拝手順も慣れてきてゆっくり丁寧にお参りする。納経所は山門前にありご朱印をいただいた後、Mの遍路笠を買う。ネットの口コミを見て、笠はこの弐番札所売店で買うことに決めいた。サイズや種類がいろいろあり、売店の人のアドバイスを聞きながらリュックにあたらない小さいサイズのものに決める。
参番金泉寺へ。 |
極楽寺の歴史・由来
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。その後、天正年間(1573-92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。三方を山に囲まれた閑静な境内で、朱塗りの仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような庭園が広がる。44段ほどの石段をのぼった正面に本堂がある。その右手奥が大師堂で、この大師像は「安産大師」とも呼ばれている。大師が流産ばかりする夫人に加持祈祷したところ、即座に子宝に恵まれたという由縁によるもので、安産祈願に霊験があるとされている。弘法大師お手植えとされる「長命杉」は、樹齢1200年あまり、高さが約31メートル、周囲約6メートルもある霊木である。触れれば家内安全ばかりか、病気平癒、長寿も授かるといわれる。鳴門市の天然記念物に指定されている。千古の風雪に耐えてきた巨杉だけに、巡礼の折にはぜひ触れてみたい。
極楽寺の見どころ
長命杉:釈迦が石の上で説法をすると、
仏足石:石に足形が残ったといわれるもので、本堂階 段の上り口にある。
願掛け地蔵:仁王門をくぐった左手にあり、お地蔵さんの真言を唱え、自分も精進努力すれば不思議なご利益があるとされる。
寺宝:本尊・阿弥陀如来像 は国重要文化財。
「両界曼荼羅図」(二幅)と「地獄極楽図」はともに県指定文化財。
宗 派: 高野山真言宗
本 尊: 阿弥陀如来(伝弘法大師)
開 基: 行基菩薩
創 建: 奈良時代(710-793)
真 言: おん あみりた ていせい からうん
住 所: 〒779-0225
徳島県鳴門市大麻町檜字段の上12
電 話: 088-689-1112
駐車場: 普通40台・大型10台・無料
宿 坊: 150人
URL http://www.tv-naruto.ne.jp/gokurakuji/
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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2番・極楽寺/御朱印 |
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参番・金泉寺 |
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参拝日 |
2013年(平成25年)3月27日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:1日目
羽田空港~徳島空港~バスで徳島駅~JR坂東駅~徒歩で一番・霊山寺~弐番極楽寺~3番金泉寺へ。弐番極楽寺を出てのどかなへんろ道を、幸せをかんじながら歩く。2.5㌔で参番金泉寺。朱塗りの立派な山門から境内へ。バス遍路の団体さんが賑やかにお参りしている。先達に従って一心に読経している老年男女を見ると、皆自分達と同じ気持ちで無心に手を合わせ、遍路は歩いて周るのも、車で周るのもバスでツアーで周るのも良いことと思う。境内に黄金井戸という井戸があり上からのぞいて自分の姿を映して見る。「姿が映ると長命まちがいなし」だそうだ。映るのは当たり前だがこういう逸話がどの寺にもあって面白い。参拝を終えて本堂裏のベンチでリュックを下ろし腰掛けて、家から用意してきたおむすびで昼食にする。予定では今日はここで終わりにするつもりだったがまだ午後2時、そこで四番もお参りすることにする。 |
金泉寺の歴史・由来
聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810?24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259-74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368?83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
金泉寺の見どころ
沙羅双樹:釈迦が入滅したときに、季節はずれの一対のこの樹が花を咲かせ、花びら
を降り注いで遺骸を供養したといわれ、かつての大規模な境内の初夏を彩った光景が偲ば れる。
熊蜂:寺の付近は交通の要所としてひらけたが、一方、古くから熊蜂が多く飛ん でくることがあって、悪行の遍路を懲らしめたともいわれる。
宗 派: 高野山真言宗 本 尊: 釈迦如来(伝行基作) 開 基: 行基菩薩
創 建: 天平年間(729-749)
真 言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
住 所: 〒779-0105徳島県板野郡板野町大寺字亀山下66 電話 088-672-1087
駐車場: 普通14台・大型3台・終日・無料
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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弐番から参番金泉寺へ |
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参番・金泉寺 |
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本堂 |
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金泉寺境内 |

金泉寺・黄金井戸 |
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3番・金泉寺/御朱印 |
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ながむれば月白妙の夜半なれや ただ黒谷のすみぞめの袖 |
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四番・大日寺 |
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参番奥の院「愛染院」をお参りして四番へ

4番大日寺山門



遍路宿「旅の宿 道しるべ」 |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月27日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:1日目
羽田空港~徳島空港~バスで徳島駅~JR坂東駅~徒歩で一番・霊山寺~弐番極楽寺~3番金泉寺~4番大日寺。
参番から四番に向かう途中、大師自ら刻んだ不動明王の座像があるという、参番奥の院である「愛染院」をお参りしていく。足の信仰があり無数の草履やギブスが奉納されている。 野道を約5㌔進んで、まわりに人家のほとんどない人里離れた山中の四番大日寺に着く。まわりの風景に似つかわしくない大きな駐車場からバス遍路の大型バスが満員のへんろを乗せて発車していった。四国遍路一日目、今日はここで終わり予約していた宿に電話して迎えをお願いする。迎えに来てくれた宿のバンで今日の宿「道しるべ」へ。
一日目歩行数20050歩 13㎞
(宿泊)旅の宿 道しるべ 2食付5250円x2
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大日寺の歴史・由来
弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。寂本(1631-1701)の『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)によると、かつては立派な堂塔が並び、美しく荘厳な小門から入った境内は広々としていた。しかし、歳月が経ち、伽藍の軒は風化していたが、応永年間(1394?1428)に松法師という人に夢の託言があって修復されたという旨が記されている。
伽藍は再び荒廃し、天和、貞享年間(1681-88)に再興されている。また、阿波藩主・蜂須賀家は代々大日如来を守り本尊としており、とくに5代藩主・綱矩公の帰依があつく、元禄から宝暦年間(1751-64)には手厚い保護をうけ寺塔の大修理がほどこされている。本堂と大師堂を結ぶ回廊には、西国三十三観音霊場の木造観世音像三十三を安置している。江戸時代の中頃、大阪の信者により奉納されたという。また、先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを、手厚く接待していたことで知られる。境内は、板野町史蹟に指定された防災区域で、霊地にふさわしい幽玄な雰囲気を漂わす。
大日寺の見どころ
鐘楼門
朱塗りの山門で、上部が円柱の鐘楼となっており、1階は角柱という珍しい造り。
蛤水
かつては、蛤の汁のようにうっすらと白濁した水が湧きだし、この水を飲むと胃腸によいとされていた。
ハガキになった樹の葉
かつて庭にあった「多羅葉樹」。葉に爪などで願いごとを刻むと樹液が変色し、ハガキ代わりになったという。
宗 派: 東寺真言宗
本 尊: 大日如来(伝弘法大師作) 開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁6年(815)
真 言: おん あびらうんけん ばざらだどばん
住 所: 〒779-0113 徳島県板野郡板野町黒谷字居内5
電 話: 088-672-1225
駐車場: 普通5台・マイクロバス5台・大型3台午前7時?午後5時・無料
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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4番・大日寺/御朱印 |
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五番・地蔵寺 |
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五番地蔵寺へ
五番奥の院・羅漢堂の五百羅漢
羅漢堂から下に見える地蔵寺へ
五番・地蔵寺
五番・地蔵寺本堂と大師お手植えの大イチョウ |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月28日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:2日目
前日宿泊「旅の宿 道しるべ」~5番地蔵寺。
遍路やどの朝は早い。朝食も6時からで、宿泊者全員4人(うちも含めて)が食堂で一緒に食べる。話はもっぱら昨日の行程と今日の予定をお互い披露しあう。他の二人とも60代後半の男性一人遍路。6:30宿のご主人の車で4と5番の中間地点へ送ってもらう。車の中で今日の予定を聞かれたので「今日は七番までまわって宿に入る」というと「それでは早く着きすぎもったいないので別格壱番大山寺はとてもいいお寺ですよ。是非寄って行ってみたらどうですか」と勧めてくれる。確かに7時から歩き始めて4ヶ寺だけだと宿にあまりに早すぎると思い番外壱番大山寺に寄って行く事にする。車を降りて五番・地蔵寺へ。お寺間近に奥の院・羅漢堂がありそこもお参りする。弥勒堂、釈迦堂、大師堂を結ぶ回廊には、等身大でカラフルな彩色で立派な五百羅漢が祀られなかなかのものだ。羅漢堂から石段を下ると左に地蔵寺が見えてくる。
ひろい地蔵寺境内には大師お手植えといわれる樹齢800年の大イチョウがそびえている。 |
地蔵寺の歴史・由来
嵯峨天皇の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。その後、淳和天皇、仁明天皇の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩の信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。これらの寄進により寺領は拡大し、阿波、讃岐、伊予の3ヶ国におよそ300を数える末寺ができ、塔頭も26寺にのぼったと伝えられる。
しかし、天正年間の長宗我部元親による兵火で、これらの堂塔はことごとく灰燼に帰した。その後、歴代の住職や僧侶、信者たちの尽力により堂宇が整備拡充され、いまでも寺領は40,000平方メートル(12,000坪)にもおよぶ古刹である。本堂左の参道をとおり、石段をのぼったところが奥の院で、ここが羅漢堂である。安永4年(1775)の創建で、五百羅漢堂とされていた。だが、大正4年参拝者の失火で罹災、いまは200ほどの等身大羅漢像がさまざまな喜怒哀楽の表情で並んでいる。境内の大銀杏。樹齢は800年を超え、母なる大木につつまれ歴史が刻まれている。
地蔵寺の見どころ
勝軍地蔵像:甲冑を身につけ、右手に錫杖、左手には如意宝珠をもち、軍馬にまたがる勇ましい姿をしているが、悪者を退治し、災いを祓ってくれるという地蔵さん。
淡島堂:和歌山県の淡島神社の分身とされ、万病封じの守護神。
水琴窟:本堂前にあり、澄んだ琴の音色が聞ける。
宗 派: 真言宗御室派 本 尊: 延命地蔵
胎内仏・勝軍地蔵菩薩(伝弘法大師作) 開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁12年(821)
真 言: おん かかかび さんまえい そわか
住 所: 〒779-0114徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
電 話: 088-672-4111
駐車場: 普通50台・マイクロバス20台・大型10台・無料
宿 坊: なし(門前に遍路宿)
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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5番・地蔵寺/御朱印 |
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かりの世に知行争うむやくなり 安楽国の守護をのぞめよ |
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六番・安楽寺 |
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別格壱番・大山寺 |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月28日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:2日目
前日宿泊「旅の宿 道しるべ」~5番 地蔵寺~6番 安楽寺へ。道しるべのご主人が進めてくれた番外壱番大山寺に向かう。簡単に考えていたらとんでもなく険しい山道を2時間以上も歩いてやっと到着する。へんろころがしを歩く予行演習になった。このお寺は、1月に大鏡餅(86㌔)をかかえ歩き距離を競う行事で有名なお寺だ。番外といっても納経をしてもらい六番へ向かう。六番安楽寺は温泉山の名前通り以前は温泉が湧き出ていたが今は枯れてしまったようだ。参拝して境内を散策していたMが、沢山の現金やクレジットカードの入った財布を拾い社務所に届ける。境内にいたお遍路さんにも声を掛けてみるが落とした人は見つからなかった。六番を後にして七番へ向かう。 |
安楽寺の歴史・由来
本堂『四國禮霊場記』(元禄2年=1689)には「医王の神化を人みな仰ぎ寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し鈴鐘のひびき絶える時なし…」と記され、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在し、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至っている。ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。その記録である「駅路寺文書」(慶長3年=1598)が今も残されており、宿坊はいらい400年の歴史を有する。藩政時代は山門に蜂須賀家の家紋が入った雪洞が許され、寺域は殺生禁断とされた。茅葺き屋根の方丈は、250年前に蜂須賀公により寄進され、質素ながら堂々とした木造建築である。山門愛知県尾西市の水谷しづさん(当時49歳)は、脊髄カリエスの難病にかかり床についていた。当寺の住職は、夫の繁治氏に病床で苦しむしづさんを伴い、四国遍路をすすめた。二人は遍路の旅を決行した。ところが不思議にも巡礼の途中に、しづさんの難病が快癒した。現在の本尊・薬師如来像は、その報恩のために奉納されたもので、43センチほどの古来の本尊は胎内仏として納められている。昭和37年のことである。安楽寺には、運慶・快慶の流れをくむ慶派の京都大仏師・松本明慶師(1945?)が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。大師堂の弘法大師像はじめ、愛染明王、不動明王などである。また、性霊殿には胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅がかけられ、石の壁には「五筆和尚」と称された弘法大師のさまざまな筆法の書が刻まれている。
安楽寺の見どころ
さか松と多宝塔
内部は極彩色の仏画や彫刻で浄土を表現している。周囲では八十八ヶ所のお砂踏ができる。さかまつ 鯉が泳ぐ日本式の回遊庭園の中央に、弘法大師42才(男性の大厄)の時に猟師の弓矢から大師を守ったと伝わる、大師お手植えの厄除けの「さかまつ」がある。宿坊:400年の歴史を持つ宿坊(宿泊施設)には、温泉山の名にふさわしい、天然温泉の大浴場があり、お遍路さんに好評。第6番札所
温泉山 瑠璃光院 安楽寺
おんせんざん るりこういん あんらくじ
宗 派:高野山真言宗 本 尊:薬師如来(伝弘法大師作)開 基:弘法大師
創 建:弘仁6年(815)真 言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所:〒771-1311徳島県板野郡上板町引野8 電話088-694-2046
駐車場:普通80台・大型バス10台・無料
宿 坊:あり(300人・温泉あり)URLhttp://www.shikoku6.or.jp/
出典:四国八十八ヶ所霊場会編 |
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別格壱番大山寺から六番安楽寺へ |
六番・安楽寺 |
六番・安楽寺本堂 ここでお財布を拾い届ける。 |
六番・安楽寺境内 |
別格壱番大山寺から安楽寺 遍路道 |
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6番・安楽寺/御朱印 |
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七番・十楽寺 |
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六番から七番・十楽寺へ

七番・十楽寺山門
七番・十楽寺本堂
遍路宿「いしだ」 六番でお財布を拾ってあげた
お遍路さんと同宿になりお礼を言われる。
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参拝日 |
2013年(平成25年)3月28日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:2日目
前日宿泊「旅の宿 道しるべ」~5番地蔵寺~6番安楽寺~
7番十楽寺。
七番十楽寺の山門は竜宮城のようなかわいい門で石段をあがり門をこぐり境内に入る。直ぐ左に遍路さんの休憩用にベンチが並んでいてそこにリュックをおろしていると、目の前のベンチで荷物を懸命に整理する人がいる。ひょっといてと思い声を掛けるとやはり財布を紛失した人でさっき六番寺で拾って社務所に届けましたよというと本当にほっとした表情で「へんろの途中で帰らなければならないと思いました。ありがとうございました」と丁寧にお礼を言われる。本堂、大師堂とお参りしてくると財布を失くした方と又本堂前で会い、ここの納経料もないのではと300円お貸しする。遍路の旅2日目も今日はここで終わり。十楽寺からすぐ近くの宿「民宿いしだ」さんに行く。
普通の民家で老夫婦で民宿を営んでいて、あがって居間に通されお茶をご馳走になりながら雑談してから二階の部屋に通される。二階はふすまだけで仕切られた二間だけだ。すぐにお風呂に入らせてもらう。温泉付の分譲地だそうで、脱衣場には温泉の効能が掲出されてはいるが少し広めな普通のポリバスだった。しばらくして来客があり下から話し声が聞こえて、話の内容がどうもさっき財布を失くした方の様子で下におりていきお互い大笑いで再会する。今夜はその方とうちの計3人だけの宿泊客で夕食も一緒でまた話に花が咲いた。
その方は名古屋の方でトヨタを勤め上げて退職し60日かけて一人遍路に出たそうだが、財布をなくして今日はここで帰る覚悟をしたそうだった。
(宿泊)民宿いしだ 2食付6000円x2
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十楽寺の歴史・由来
寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。
創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。明治時代になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している。本堂左前にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病、失明した人たちの治療に霊験があるとされ、眼病に悩むお遍路さんの参詣が多い。尊像の前には熱心に祈る人の姿がよく見られ、信仰者のなかには、開眼したという例も数多く伝えられている。四国霊場には、24番最御崎寺、39番延光寺の目洗い井戸、52番太山寺の一畑薬師など、目の不自由なお遍路さんの祈願所が多く、霊験の力をお祈りしたい。
十楽寺の見どころ
水子地蔵:山門を入るとすぐ正面に。
治眼疾目救済地蔵尊:大師堂階段手前の横。古くから眼病平癒の地蔵尊として知られる。 宗 派: 高野山真言宗
本 尊: 阿弥陀如来(伝弘法大師作)
開 基: 弘法大師
創 建: 大同年間(806-810)
真 言: おん あみりた ていせいから うん
住 所: 〒771-1509 徳島県阿波市土成町高尾字法教田58
電 話: 088-695-2150
駐車場: 普通20-30台・大型5台午前7時?午後5時まで・寸志を
宿 坊: 100人(個室)
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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7番・十楽寺/御朱印 |
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たきぎとり水熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため |
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八番・熊谷寺 |
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参拝日 |
2013年(平成25年)3月29日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:3日目
(宿泊)民宿いしだ~8番熊谷寺へ。早朝6時朝食、6:30出発。同宿の名古屋の一人遍路の方は一足先に出発して行った。八番は4.2㌔先で約1時間へんろ道は集落の中を通って行く。早朝の歩行は爽快だ。野道の先に立派な大きな山門がそびえて見える。元禄時代に建てられた門をくぐり進むと広い境内に入る。本堂・大師堂はだいぶ先の石段をあがったところにある。ろうそく、線香、納札、納経の順番もだいぶ慣れてきた。納経所で納経帖にご朱印をいただき九番へ向かう。 |
熊谷寺の歴史・由来
四国霊場のなかで最大級の仁王門を構える。縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地の閼於ヶ谷で修行をされていた。その折、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げられ、5.5センチほどの金の観世音菩薩像を授け、虚空はるかに去っていったという。大師はその場にお堂を建てて、霊木に自ら一刀三礼して等身大の千手観音像を彫造し、その胎内に金の尊像を納めて本尊にされた、と伝えられている。元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記』には、「境内は清幽で、谷が深く、水は涼しく、南海が一望できる。千手観音像の髪の中には126粒の仏舎利が納められてある」という意の記述がある。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。元禄のころ(1688-1704)までに幾度か火災にあった説もある。ただ、昭和2年(1927)の火災では本堂とともに弘法大師作のご本尊も焼失している。その後、歴代住職の尽力により本堂は昭和15年に再建されたが、第2大戦で工事が中断、ようやく同46年に堂宇の全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。前述の仁王門は、貞享4年(1687)の建立で、徳島県の指定文化財である。和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル。2層目の天井や柱には極ごくさいしき彩色の天女の姿などが描かれている。大師堂に安置されている弘法大師坐像は室町時代の作で、県指定の文化財である。
熊谷寺の見どころ
大師堂:本堂左手36段の石段をのぼったところ。宝永4年(1707)の建立で、県指定文化財。宝塔:安永3年(1774)建立。内部には胎蔵界の大日如来像を中心に、四方に如来像を安置している。
弁財天:納経所横。太鼓橋のかかった安産の祈願所。
宗 派: 高野山真言宗
本 尊: 千手観世音菩薩
開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁6年(815)
真 言: おん ばざらたらま きりく
住 所: 〒771-1506
徳島県阿波市土成町土成字前田185
電 話: 088-695-2065
駐車場: 普通20台・マイクロバス・大型6台他に臨時駐車場三ヵ所ある50台可 志納金制宿 坊: なし
URL: http://www14.ocn.ne.jp/~kumadani/
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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八番・熊谷寺参道 |
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八番・熊谷寺山門. |
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八番・熊谷寺大師堂から本堂を見る |
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8番・熊谷寺/御朱印 |
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大乗のひほうもとがもひるがえし 転法輪の縁とこそきけ |
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九番・法輪寺 |
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参拝日 |
2013年(平成25年)3月29日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:3日目
八番から九番は果てしなく広がる田園風景の中をひたすら進む。持参したラジオを初めて聞きながら歩く。九番法輪寺に着くと門前の茶店はNHK/TVで放映された四元奈生美さん札所歩きの中でたらいうどんを食べた店だ。参拝を終え納経してもらう際、各寺でいただいた御影を順番に整理していると七番八番の物がない、納経していただいてる方にその旨申し出るとここにどちらもありますので差し上げますと嬉しい返事。しかしその次に「七番は納経されていませんね」と意外な言葉が返ってくる。「いや、そんなことはないですよ」と納経帖を見返すと、ない、抜けている。そんな馬鹿なと何度見返しても七番・十楽寺のページは白紙になったまま!「M大変な事になってしまった」「どうしたの?」「七番の納経をしないで来てしまった!」七番の境内でお財布を落とした人の世話をやいていて自分の納経を忘れてしまったようだ。Mは怒りながら「戻るしかないわ」という。そうだそれしかない。宿を出てここまですでに6㌔以上歩いている。いまから引き返し、さらに十番まで歩かねばならない。
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法輪寺の歴史・由来
古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。その礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。縁起によると、弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。涅槃釈迦如来像は、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されている。開帳は5年に1度で、最近では平成14年2月15日に行われた。
現在地に移転し、再建されたのは正保年間(1644?48)で、当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、山号と寺名をいまの「正覚山法輪寺」と改めた。しかし、安政6年(1859)にまたしても罹災している。これは村人が浄瑠璃芝居の稽古をしていた際に、堂内から出火したと伝えられ、鐘楼堂だけを残して全焼した。明治時代になって再建されたのが現在の堂塔である。寺宝に「弘法大師御おころも衣」が伝えられている。高野山奥の院で入定されている御衣替えの恒例にちなんで、明治15年(1882)、明治天皇が法輪寺に下賜されたものである。
法輪寺の見どころ
法輪:仏の教えは衆生のどこにでも転じ、人々を教化するといわれる。
草わらじ鞋のお守り:むかし、松葉杖なしでは歩けなかった人が参拝にきたとき、参道の真ん中あたりで足が軽くなり、松葉杖なしでも歩けるように完治したという伝えがあり、本堂にはたくさんの草鞋が奉納されている。健脚祈願「足腰お願いわらじ」は納経所で。
宗 派: 高野山真言宗
本 尊: 涅槃釈迦如来
開 基: 弘法大師
創 建: 弘仁6年(815)
真 言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
住 所: 〒771-1506 徳島県阿波市土成町土成字田中198-2
電 話: 088-695-2080
駐車場: 普通50台・又はマイクロバス30台・又は大型10台・無料
宿 坊: なし
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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八番熊谷寺から九番・法輪寺へ |
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九番・法輪寺 |
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九番・法輪寺 |
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九番・法輪寺本堂 |
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納経所で七番が納経されていないと指摘され、お財布を拾ってあげた人とやりとりしているまにうっかり忘れてしまったのをき気づき七番まで戻ることになる。 |
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9番・法輪寺/御朱印 |
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十番・切幡寺 |
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九番法輪寺から七番十楽寺に戻り納経して裏近道を探しながら十番切幡寺に向かう。
十番・切幡寺参道333石段を登る。
十番・切幡寺 手水鉢
十番・切幡寺本堂
十番・切幡寺大塔
十番・切幡寺参拝後 宿泊「土柱ランド新温泉」 |
参拝日 |
2013年(平成25年)3月29日 |
参拝経路 |
四国八十八ヶ所巡礼第一回:3日目
九番法輪寺で七番札所の納経忘れを指摘され、九番から七番に戻ることになる。気持ちを切替え朝来た道を戻り始める。ひたすら二人とも無言のまま..道を尋ねながらへんろ道を外れて近道するがこういう時の道はひどく長く感ずる。早朝でかけた民宿いしださんを左に見ながらやっと七番に到着納経所へ。
寺を出て気分を変えようと門前の店に入り、たらいうどんを食べる。さあ、今日最後の十番切幡寺を目指す。地図を見て徳島自動車道を右に見ながら進むのが一番近道と決め歩き始める。行けども行けども十番らしい集落にぶつからない。疲れもピークに近づいている。とへんろ休憩所が見え一休み。へんろ道の案内シールも出てきて近くに来たこと実感。再び元気を出して進んでいくと切幡寺まであと…㌔の表示。そしてやっとやっと切幡寺門前町に到着。お店の並ぶ参道を行くと疲れた身体に最後の試練。333段の石段がそびえている。一歩一歩上がりやっと境内に入る。長い長い道のりだった。ゆっくり参拝する。納経も済ませて宿に出迎えをお願いする。又、333の石段を下って指示された場所で待つ。まもなく宿のバンが到着、地獄に仏のような感じで車に乗せてもらい宿へ向かう。今夜は阿波市役所で教えてもらった土柱ランド新温泉という温泉宿。
2日遍路宿だったので普通の宿が新鮮。部屋に通され浴衣に着替え一目散で大浴場へ。お湯はラドン温泉で湯船に身体をしずめると涙が出るほど気持ちがいい。大きな湯船には何箇所かジャグジーが噴出していて背中にや足に当てるとしびれるような心地よさ。こんなに温泉がありがたいと思ったことがない。
のんびりゆっくり浸って部屋に戻り一休みして6時から夕飯は一階レストランで。生ビール大ジョッキーでお願いする。料理も昨日までの遍路宿と違い普通の旅館の料理で特に豪華ではないが何もかも美味しい。生ビール大ジョッキーがきた。一気に飲み込む。その美味しさ。疲れで身体が火照っている時のビールの旨さは今までの人生の中でも一番ではなかったかと思う。
歩行数33380歩 21.6km
(宿泊)土柱ランド新温泉 2食付7800円x2 |
切幡寺の歴史・由来
切幡山の中腹、標高155メートルに境内がある。国指定重要文化財である大塔からの眺望はすばらしく、眼下には吉野川がゆったりと流れ、前方には四国山脈の雄大な山々が連なる。古く、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望された。乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。
大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁による。麓には遍路宿があり、巡礼用具店などがならぶ門前町となっている。「女人即身成仏の寺」として知られ、七色の光を放つ善女に憧れる女性からの人気が高い。
切幡寺の見どころ
山麓から本堂まで:約800メートル。333段の石段があり、女厄坂、男厄坂を上り切ると本堂。
切幡寺大塔(国指定重要文化財):初重と二重の間が方形で、日本唯一の構造様式。豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため建立、明治6年に移築し、完成に10年を要した。
はたきり観音:乙女が即身成仏して観音さんに化身した銅像。右手にハサミ、左手に長い布をもつ。
宗 派:高野山真言宗
本 尊:千手観世音菩薩
開 基:弘法大師
創 建:弘仁年間(810-824)
真 言:おん ばざらたらま きりく
住 所:〒771-1623 徳島県阿波市市場町切幡字観音129
電 話:0883-36-3010
駐車場:下の境内に普通20台(中・大型は進入不可)午前7時?午後5時・無料
宿 坊:なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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10番・切幡寺/御朱印 |
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