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3月29日/1日目 |
羽田空港 |
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松山空港 |
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松山駅 |
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久万高原 |
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45番・岩屋寺 |
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44番・大寶寺 |
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Hotelガーデンタイム |
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34385歩24.0㌔ |
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2017年3月29日(水) 羽田空港 JAL7:25発------------8:55分 松山空港着 |
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空港バスでJR松山駅。
バスを乗り換え、32㌔先4回目のお遍路 出発地 44番/大寶寺のある愛媛県上浮穴郡久万高原へ。 |
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ホテル・ガーデンタイム チェックインして荷物を預け、白衣に袈裟と数珠を首にかけ金剛杖、納経帳、線香、ロウソク、などお遍路姿に身を固めて前回に終わった43番の続きである44番・
大宝寺を目指す。久万高原 くままちひな祭り2017.2.26~4.23日開催中 |
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くままち ひな祭り |
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くままち ひな祭り
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第3回 くままちひなまつり 街中がひなまつり! 久万高原に春が来る!
2017年早春、遊食祭くまくるまるしぇでお馴染みの久万町商店街は、15,000体のお雛様で飾り尽くされます! 平成29年2月26日(日)~ 4月23日(日) ひなまつり運営委員会 |
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ホテルをでてすぐの商店街はおひな様飾りで埋め尽くされていた。そこから大宝寺はほんの数分で到着。 |
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44番・大宝寺は、四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高490mの高原にあり、境内は老樹が林立、静寂な空気が漂う。 |
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お遍路最初のお寺参拝、納経.御朱印をいただき次の45番岩谷寺は10㌔先、遍路転がしの山道を進む。 |
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八丁坂など難所を登り、標高700㍍ 45番岩谷寺には奥の院側に着く。弘法大師が修行したという「逼割(せりわり)禅定」登ることもできるが納経所で門の鍵をいただく必要がある。高所恐怖症ではちょっと無理、見上げるだけで退散。 |
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「逼割禅定」から急坂を下り岩屋寺 本堂へ。本堂横に |
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45番岩谷寺山門。 |
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帰りがたいへんだった。岩谷寺から宿まではまだ10㌔以上もある。夕闇もせまり疲れもピーク、ただもくもくと歩をすすめていた時、車で通りかかった地元の奥さんが近づいて窓から「乗っていきませんか」とありがたいお言葉!歩き遍路でもこれはお接待と、お言葉に甘え乗せてもらう。あっというまにホテルへ到着。17:45分 |
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大きなお風呂は貸し切りで使わせてもらう。ガーデンタイムはお遍路宿のようなビジネスホテルで、食堂に珍しい薪ストーブのある宿。温かい夕食をいただき、ベッドへ直行バタンキュー。 |
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ホテル・ガーデンタイム |
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翌朝2日目は朝食後7:30の出発。 |
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3月30日/2日目 |
ガーデンタイムHotel |
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46番・浄瑠璃寺 |
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47番・八坂寺 |
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南道後温泉ホテル
ていれぎ館 |
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39824歩27.8㌔ |
次㌻3日目へ |
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2日目 46番浄瑠璃寺へ。
昨日は初日にしては26㌔歩行と少しオーバーワークだった。出発して少しは疲れが残っていたがすぐに元のコンデションに戻り普段通りに歩けるようになる。 |
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豪華なお接待。 |
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浄瑠璃寺 途中で7~8人のお年寄りのグループに『休んでいきませんか』と声掛けられお接待を受ける。テーブルの上はお接待用にお菓子が並び、うどんや甘酒も勧められる。 |
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46番・浄瑠璃寺に到着。浄瑠璃寺は松山市内にある八ヶ寺の打ち始めの霊場。 |
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46番/浄瑠璃寺名物の仏足石/仏手石に願掛け |
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境内にそびえる樹齢約1,000年のイブキビャクシンの大木の下にある 仏足石/仏手石。延命、豊作にご利益があるとして信仰を集めている。樹高約20メートルのイブキビャクシンは弘法大師が加持したものといわれ松山市の天然記念物に指定されている。
⇦ 浄瑠璃寺 参道入口にある松山出身 正岡子規「永き日や衛門三郎浄るり寺」の句碑
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浄瑠璃寺から北へ約1キロ 47番・八坂寺へ。 |
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めったにない近くで楽な遍路もたまにはありがたい。47番・八坂寺へ到着 |
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47番・八坂寺 鐘楼 天井画 |
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山門と その天井画 |
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八坂寺本堂と大師堂の間には「極楽の途」「地獄の途」があり、極楽には美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、修羅道などが描かれている。 |
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「極楽の途」 |
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「地獄の途」 |
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番外・文殊院 |
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47番八坂寺近くの衛門三郎出生地に建てられた文殊院をお参りする。 |
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阿波の焼山寺近く杖杉庵
で弘法大師に巡り合う。
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衛門三郎とは |
西暦830年頃伊予を治めていた河野家の一族で、(現在の松山市恵原町・文殊院)の衛門三郎という者が居た。三郎は、欲深く、民の人望も薄かった。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れ、8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢は8つに割れてしまった。実はこの僧が弘法大師であった。三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波の焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れた。三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたいと託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。翌年、伊予の領主、河野息利に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配し祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。 |
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文殊院から今夜の宿泊先は「ていれぎ温泉 ていれぎ館」小雨が降り始め道に迷いながらなんとか到着。
今日も歩行距離27㌔ |
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ていれぎ温泉ていれぎ館・部屋のお風呂はポリバスだがお湯は天然温泉。疲れた体には温泉が一番。
ここは朝食だけで夜は食べに行くつもりだったが、下のレストランからうどん・カツカレー・ちゃんぽん ルームサービスを頼み夕食。 |
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3月31日/3日目 |
南道後温泉 |
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48番・西林寺 |
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49番・浄土寺 |
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50番・繁多寺 |
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51番・石手寺 |
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道後温泉本館 |
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山頭火終焉の地 |
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52番・太山寺 |
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権現温泉 |
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31724歩22.2㌔ |
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次㌻4日目へ |
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朝7時。ていれぎ温泉 朝食後 48番西林寺へ。今日の行程は、道後温泉を抜け48番~52番の五寺お参りする30㌔近く歩く予定。 |
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天気が下り坂、小雨模様、雨具に身を固め歩き始め今日最初の48番西林寺参拝。 |
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49番・浄土寺。
空也上人が四国を巡拝し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。西国17番札所・六波羅蜜寺も創建したそうだ。 |
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空也上人 |
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49番・浄土寺。雨の中の参拝は雨風で線香・ろうそくに火をつけるのに苦労する。それも修行。
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境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。松山出身だけに子規の歌碑はあちこちで見受けられる。 |
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50番・繁多寺へ。 |
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弘仁年間に空海(弘法大師)が留まり修行しの山号,寺号である東山 繁多寺に改称した。 |
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50番・繁多寺は、松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。 |
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50番・繁多寺から51番・石手寺へ向かう途中の遍路道から道後温泉の街並みが見え始める。 |
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51番・石手寺に到着。 |
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河野氏に生まれた子どもが石を握っていという遍路の元祖、衛門三郎の生まれ変わり伝説のあるお寺なので、四国遍路する人には特別な思いがある寺である。 |
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51番札所・石手寺は日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式,仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、お遍路さんより地元のお大師さん信者や観光客が多いお寺だ。 |
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石手寺由来 |
西暦830年頃伊予を治めていた河野家の一族で、(現在の松山市恵原町・文殊院)の衛門三郎という者が居た。三郎は、欲深く、民の人望も薄かった。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れ、8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢は8つに割れてしまった。実はこの僧が弘法大師であった。三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波の焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れた。三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたいと託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。翌年、伊予の領主、河野息利に長男が生れるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配し祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。 |
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大師堂の別名絵馬堂。夏目漱石や正岡子規など多くの名士が落書きを残した。 |
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本堂と大師堂の間にある絵馬堂 |
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参拝後、石手寺山門前の茶店 しらさぎ舎で温泉まんじゅうで一休み。温かいお茶のお接待.。 |
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茶店からしばらく歩くと温泉街へ入る。道後には6日後戻ってくるが今日はお遍路一筋 観光はなし。温泉街を抜けて遍路は進む。 |
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道後温泉本館前を通り過ぎて山頭火終焉の地『一層庵』へ |
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種田山頭火終焉の地 道後温泉郊外『一層庵』 |
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一草庵から今日最後の52番太山寺(たいさんじ)までは残り約7㎞、すでに雨の中20㌔以上歩いて厳しい道のり。 |
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52番札所・大山寺は山門から本堂までは相当な道のり、雨で疲れた身にはこたえる。本堂、大師堂お参りして納経所がまたかなり下った場所。 |
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52番札所・大山寺参拝で今日のお遍路がやっと終了。境内から電話して宿の 迎えの車に乗って。山の中腹にある今夜の宿権現山荘へ。 |
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権現温泉/権現山荘 |
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天然温泉。冷えた体に沁みる。湯気の向こうに松山.権現町 町並みがかすむ。 |
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