セカンドライフ シニアの旅 団塊世代KenとMaryのNO-SIDE

2014年9月 カナダ/アメリカ東海岸

海外紀行TOP
カナダ/アメリカ日程
HOME Ken & Merry's Second Life
バンクバー
オタワ
モントリ
オール
ケベック
シティ
シャーロット
タウン
トロント ナイアガラ ワシントン
DC
フィラデル
フィア
ニューヨーク
(1)
ニューヨーク
(2)
ボストン
  アメリカ合衆国マサチューセッツ州 
2014年10月08日 ボストン (Boston)
NewYork (2) 全日程表へ
2014年10月08日
ニューヨーク
ボストン南駅
クラブ クウォーター
イン ボストン・ホテル
ボストン街歩き

NO-SIDEホームへ
HOME
K&MSecond Life

2013年4月15日14時45分頃 第117回ボストンマラソンで発生した爆弾テロj
ボストンマラソン参加者が実際に履いていた数多くのスニーカーを使って、“ハートマーク”を描いたクリエイティブ。ハートの中心には、“We will finish the race”と刻まれている。
筆舌に尽くしがたい惨事、この悲しみを共に乗り越えて、来年も例年と変わることなく、『私たち“ボストン”はマラソン大会を開催し、全員で“完走します“』、『我々はどんな困難があっても、協力して立ち向かい絶対に負けません!』という力強い決意が込められている。

ボストンホテル/クラブ クウォーター イン ボストンClub Quarters in Boston

10月8日
ニューヨーク・カサブランカホテル。早朝4時に起きて荷造りする。6時フロントに行き勘定を済ませる。4月予約時にデポジット428j支払っていたので残りが911j3泊合計1339j=1泊約5万円。宿泊料は高いがとてもゆっくり滞在でkて満足いくホテルだった。


7:15ホテルを後にして42.stバスターミナルへ。ボストン行きの84番ゲイトはすでに長い行列ができていた。係員が来て予約票のチェックをして列の順番を入れ替え列の一番前に並び替えられた。予約日の順番なのかもしれない。

Greyhounbusでニューヨークからボストンへ

しかし8時発のバスが折り返し出発するようでバスの到着が渋滞で遅れ予定より1時間遅い9:00に出発した。


約2時間でボストン鉄道南駅の隣接バスターミナルに到着。地図で通り名など確認しながらホテルへ。

ボストン鉄道南駅の隣接バスターミナル

約15分くらいでホテルに着きロビーでチェックイン、部屋の掃除が途中だそうで隣りのロビーで待つ。ホテルロビーにはチョコレートやピーナッツ、お茶やソフトドリンクなどフリーで用意されていた。
部屋に荷物を置いて早速街に出る。旅行最後の観光はボストン・フリーダムトレイル(Freedom Trail)街歩き。

フリーダムトレイル/2.マサチューセッツ州会議事堂
フリーダムトレイル
1.ボストンコモン
2.マサチューセッツ州会議事堂
3.パークストリート教会
4.グラナリー墓地
5.キングス・チャペル
6.キングス・チャペル墓地
7.B・フランクリンの銅像
8.オールドコーナー書店
9.オールドサウス集会場
10.旧マサチューセッツ州会議事堂
11.ボストン虐殺地跡
12.ファニエル・ホールとクインシー・マーケット
13.ポール・リビアの家
14.オールドノース教会
15.コンスティテューション号
16.バンカーヒル記念塔
現在の州会議事堂は、旧州会議事堂に代わる庁舎として1798年に建設されたものである。しかし次第にこのレンガ造りの庁舎が手狭になったため、州の中央部に州都を遷都し、新たな州会議事堂を建設する提案が持ち上がった。しかしその提案は実行されず、庁舎は4度にわたって増築されることになった。最初の増築は1831年に行われ、建物の後部が拡張された。その後チャールズ・ブリガムによって、1853-56年と1889-95年の2度にわたる増築が行われ、このときにマサチューセッツ州下院が増築されたほうの建物に移転した。4度目の増築となる1914-17年には、もとの庁舎の東西がそれぞれ拡張された。庁舎の外観も数回にわたって変わった。1825年には建物全体が白く塗られた。その30年後、1855年には黄金色に塗り替えられた。4度目の増築の際に、庁舎は白く塗り直された。1928年、それまでの塗装が全て剥がされ、もとの赤レンガの色に戻った。その後塗装は行われず、現在でも赤レンガそのものの色が残っている。建物だけでなく、ドームの色もまた数回にわたって変わっていった。1802年に銅で覆われた後、ドームは灰色と薄黄色に塗られた。1831年にはドームが灰色に塗り替えられた。ドームに金箔が張られ、現在の姿になったのは1874年のことである。しかし第二次世界大戦の最中、敵機による爆撃を避けるため、一時的にドームが灰色に塗られていた。
By Wikipedia

金色に輝くドームを持つマサチューセッツ州議事堂。ボストンのランドマークのひとつで正面のブロンズ像の中に、第35代大統領ジョン F. ケネディの像もある。


ダウンタウンのボストンコモンからチャールズタウンのバンカーヒル記念塔まで続く約4kmのトレイルで、アメリカ独立の歴史にまつわる16カ所の史跡を巡る。


フリーダムトレイル(2)パークストリート教会.
ボストンコモンの向かいにある教会。1829年の独立記念日に、この教会の前でウィリアム・ロイド・ガリソンが初めて奴隷制度の廃止を堂々と発言。


パークストリート教会


フリーダムトレイル
1.ボストンコモン
2.マサチューセッツ州会議事堂
3.パークストリート教会
4.グラナリー墓地
5.キングス・チャペル
6.キングス・チャペル墓地
7.B・フランクリンの銅像
8.オールドコーナー書店
9.オールドサウス集会場
10.旧マサチューセッツ州会議事堂
11.ボストン虐殺地跡
12.ファニエル・ホールとクインシー・マーケット
13.ポール・リビアの家
14.オールドノース教会
15.コンスティテューション号
16.バンカーヒル記念塔

フリーダムトレイル(5)キングス・チャペル隣接オールドシティホール

旧マサチューセッツ州会議事堂




HOME

旅紀行(海外)

旅紀行(国内)

旅紀行(札所)

温泉紀行

日曜名画座

Retirement

Hit-Parade

 Archive

Mami

Site.Map

Profile

フリーダムトレイル(10) 旧マサチューセッツ州会議事堂
旧マサチューセッツ州会議事堂... By Wikipedia.
(植民地時代〜独立戦争)
ボストン虐殺事件。もともと、この建物には1階に商人の取引所、地下室に倉庫が設けられていた。2階の東側には総督の会議室、西の端にはサフォーク郡裁判所及びマサチューセッツ邦最高裁判所の裁判官室が置かれていた。2階中央には選挙で選ばれたマサチューセッツ邦議会の議場が置かれた。この議場は、公衆の傍聴席があることで注目され、選挙された議員の議場に傍聴席が設けられた例としては、知られている限り初めてである。1761年、弁護士のジェイムズ・オーティスが、総督会議室で、援助令状(関税徴収に関する捜査協力令状)の発付に対し反駁する弁論を行った。オーティスは敗訴したものの、その弁論はアメリカ独立戦争へつながっていく一つの出来事となった。独立戦争中、印紙法会議がマサチューセッツ邦議会で結成された。1770年3月5日、5人の植民地人がイギリス兵によって殺されるボストン虐殺事件が、この建物の東側すぐの場所で起きた。1776年7月18日、アメリカ独立宣言が、トーマス・クラフツ大佐(自由の息子達の1人)によって、この建物の東側バルコニーから、沸き立つ群衆に対して読み上げられた。午後1時、まずクラフツが議場の中で立ち上がり、議員らに対して独立宣言書を読み上げた。そしてウィリアム・グリーンリーフ保安官がバルコニーからそれを読み上げようとしたが、声がかすれて出なかった。そこでクラフツが保安官の隣に立ち、力強い声で独立宣言書を読み上げた。その後、合図を受けて、フォートヒルの要塞から13発の大砲が鳴らされた。ドーチェスター・ネック、キャッスル、ナンタスケット、ポイント・オールダートンの要塞でも、同じように大砲を発射した。さらに、砲兵分遣隊が大砲を13回発射し、それに続いて二つの連隊が13の部隊から続けざまに13発を撃ち鳴らした。13発という数字は、この時独立したアメリカの邦(後の州)の数である。式典は、議場のメンバーらの軽食で締めくくられた。議長が次のものに対して乾杯し、列席者がこれを固く誓った。街の鐘が鳴らされ、皆が祝祭を喜び合った。その夜、イギリス国王の紋章やそれに類するマーク――ライオンと王冠、乳棒と乳鉢、心臓と王冠など――は、トーリー党のマークとともに取り払われた。
(独立後)
アメリカ独立戦争の後、この建物はマサチューセッツ州政府が1798年に現在の議事堂へ移転するまで、州会議事堂として使われた。1830年から1841年まではボストンの市役所として用いられ、その後商用に転換された。1881年、開発の中で取り壊される可能性が出てきたことから、建物を保存し、管理するためにボストニアン・ソサエティが組織された。その後、植民地時代の外観へと復元工事が行われた。独立200周年祭。1976年7月11日、イギリス女王エリザベス2世が、アメリカ合衆国独立200周年祭を祝いにボストンを訪問した際、夫とともに旧州会議事堂を訪れた。女王は、1773年のボストン茶会事件の時の紅茶のサンプルを目にした。そしてフィリップ王子とともに歴史的なバルコニーに現れ、ケルヴィン・ホワイト市長、マイケル・デュカキス州知事、詩人のデイヴィッド・マッコード、歴史家のウォルター・ミューア・ホワイトヒルを含め大勢の聴衆に対し、スピーチを行った。女王は、スピーチの中で、次のように述べた。もしポール・リビアやサミュエル・アダムズ、その他の愛国者たちが、いつかイギリスの君主が、独立宣言が最初にボストン市民に読み上げられた場所である州会議事堂のバルコニーに立つことがあると、そしてこのように温かく寛容な言葉で迎えられることがあると知ることができたなら……、彼らは非常に驚いただろうと思います。しかしまた、最終的に我々が自由な人民として、また友人として、アメリカ独立戦争が目指したまさにその理想を共に守るべく、再び一緒になったと知れば、彼らは喜んだのではないでしょうか。独立宣言書が読み上げられたバルコニーのある東側正面。屋根のユニコーンとライオンは、イギリスの紋章に使われているシンボルである。女王は、Aynslkey China Ltd.社が作った磁器製の鷲を、旧州会議事堂を管理するボストニアン・ソサエティに贈った。女王はまた、オールドノースチャーチで朝の礼拝に参加し、ボストン市役所で昼食会に出席し、ビーコンヒル地区、バックベイ地区、ケンブリッジ、チャールズタウン地区を自動車でパレードした。そして、海軍長官とともにコンスティチューション号で周遊し、王室専用船HMYブリタニア号でボストン港を後にした。女王は、出発前に、王室専用船上でマサチューセッツ州から250名のゲストを招いて90分間のレセプションを催した。旧州会議事堂には、現在、東側正面に、イギリスの紋章であるユニコーンとライオンが飾られている。いずれも、1882年にボストン歴史協会が昔の外観へと復元を行った時に取り付けられたものである。元のものは、1776年に独立宣言書がバルコニーから読み上げられた時に引きはがされ、火に投げ入れられてしまった。

ボストンで人気のダックツアー。第二次世界大戦で実際に使われていた水陸両用車を使用して走っている。


フリーダムトレイル(12) ファニエル・ホールは1740年に市場として建てられ、その2年後に集会場に転用された。サミュエル・アダムズやジェームス・オティスなど、独立派有力者が演説を行った場所としてボストン歴史的建造物に指定されている。

フリーダムトレイル(12)ファニエル・ホール

クインシー・マーケット前のサムエル・アダムス像。アメリカ合衆国建国の父の一人1773年のボストン茶会事件を組織化し、大陸会議に出席し、第二次大陸会議で独立宣言の採択を主導した人。


クインシー・マーケットは1824年から2年の歳月を費やし建設された。当時の市長ジョサイア・クインシーから名付けられた一昔前のショッピングセンター。

フリーダムトレイル(12) クインシー・マーケット

フリーダムトレイル(12)から(13)途中のノース・エンドパークから見るボストン市街。


フリーダムトレイル(13)ポール・リビアの家


ポール・リビアはアメリカ独立戦争中愛国者として活動、レキシントン・コンコードの戦いで伝令の役割を担って、死後は不朽の名声を与えられている。戦後北アメリカでは初めての銅精錬所を造り、アメリカの銅鍍金製作の先駆けとなった。彼の造った銅板はマサチューセッツ議会議事堂のドーム型屋根に使われた。


ユニオンオイスターハウスは1826年にオープンしたボストン最古のレストラン。インテリアも創業当時のまま残されここもボストンの歴史的建造物。



フリーダムトレイル(14)オールドノース教会

2014年10月09日
Boston
Boston空港
Boston




オールドノース教会は独立戦争の始まった日イギリス軍の奇襲を察知したポール・リビアが、教会の尖塔に2つのランタンを掲げるよう指示し、暗闇の中、レキシントンへ早馬を走らせコンコードに知らせる重要な役割を果たした場所。これが有名な「真夜中の騎行」と言われている。


オールドノース教会の入って右に犬の慰霊碑があり愛犬のネイムプレートが架けられていた。



フリーダムトレイル散策は(14)オールドノース教会で終わりにしてオールとタウンを通ってホテルに戻る。
ボストンでは予定していて行けなかった場所が2つある、ハーバード/マサチューセッツ工科 両大学と映画『若草物語』のあるオールドタウン/コンコード。この2つの街はどちらも下調べしていたのに時間がなくとても心残り。


10月9日帰国の日ボストン南駅から空港へ

10月9日
6時起床。カナダ・アメリカ旅行も、全行程無事終え、日本に帰る。荷造りを終えてチェックアウトして荷物を預け空港行き地下鉄の時間までもう一度ボストンの街を散歩する。


8:30ホテルに戻り荷物を受取ボストン南駅へ。グレーライン地下鉄で空港へ。

グレーライン・空港線はバスで運行されるが地下道を走るので地下鉄と表記されホームは地下鉄そのもの

ボストン空港に着いてJALカウンターで搭乗手続きのとき列の前に並んだマサチュウセッツ工科大学の学生さんと仲良くなる。ずっと成田まで一緒で成田ではJRの乗り場を案内してあげる。成田空港で荷物が出てこなく係りの人が探してくれやっと出てきたトランクは検査の為開けられた様子。中身は問題なかったが気持ち悪い初めての経験だった。

ボストン空港から帰国

ボストン空港で知り合った学生さんは成田空港から東京駅へ、そして今日中に京都まで行くという強行スクジュール。日本では京都大学のカリキュラムを受けて数日滞在しクアラルンプールに渡ってで恋人と合流しボストンに帰るという。





HOME

旅紀行(海外)

旅紀行(国内)

旅紀行(札所)

温泉紀行

日曜名画座

Retirement

Hit-Parade

 Archive

Mami

Site.Map

Profile

10月9日夕方、帰りの道すがら家の近く、日本の夕焼けが綺麗。静かで平和な日本を実感する。

終

NewYork(U)


カナダ・アメリカ日程/資料戻る
海外紀行 日本紀行   札所紀行 温泉紀行 日曜名画座 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVE PROFILE SITE-MAP

セカンドライフ シニアの旅 団塊世代KenとMaryのNO-SIDE 
HOME Ken & Merry's Second Life

NO-SIDE  It aims at a happy retirement E-mail: no-side@no-side.us
Copyright c1998-2007 Ken&Mary. All rights reserved.
Background in New York