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2014年9月 カナダ/アメリカ東海岸

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2014年9月22日(月)15:40成田空港第二ターミナルでJAL:JL18便にチェックイン。
18:10離陸  同日11:00バンクーバー国際空港到着



荷物をピックアップして国内線ターミナルに移動 空港ビル2階の荷物預り所に大バッグを預ける。ネットで調べておいた Vancouver1Day乗車券をセブンイレブンで購入する。電車バス船 市内ほとんどの交通機関がシニア二人で15j。空港からカナダラインの電車に乗りダウンタウンへ。


この電車は空港から乗るとダウンタウンまで片道乗車料金だけで4j+5j=9jもかかるのだが、シニア1Dayチケットだと7.5jでBus、SkyTrain、SeaBus 全 部乗り放題。事前に情報入手すごく得した気分でカナダの旅がスタートする。


荷物を預け身軽になって、カナダライン終点のウォーターフロント駅へ。最初にバンクーバー発祥の地 ガスタウン通りにある、街のシンボルで1977年製の蒸気時計 Steam Clock を探す。ガスタウンは石畳のウォーター通り沿いのエリアで、蒸気で動く時計は15分毎に蒸気音で時刻を告げる。時計前はたくさんの人だかりで直ぐに発見できた。


のどかな音色の蒸気時計の音を聞いた後バラード通りから運行している44番バスを見つけてコロンビア大学へ。構内にある新渡戸記念庭園はブリティッシュコロンビア大学のキャンパス内にあり、大学の植物園の一部を構成する。


もちろんバスは1Dayチケットでフリー。コロンビア大学で下車して何度も道を尋ねながらやっと到着。日本庭園に入るとカナダとは思えない日本の風情。


新渡戸記念庭園は1959年から1960年に造園が行われた。



バンクーバー・コロンビア大学構内にある新渡戸稲造記念公園。2009年7月には天皇陛下と美智子妃殿下も訪れているそうだ。


新渡戸稲造...出典:ウィキペディア
陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。盛岡から上京作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいる叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となったという。農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。1911〜1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、オーランド諸島紛争を食い止めるという外交的成果も成し遂げている。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。 1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。

妻メアリー・エルキントン
1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している。




























































新渡戸稲造記念公園から帰りは大学構内のバス乗り場からダウンタウンに戻る。

カナダプレイスは1986年のバンクーバー万博のカナダ館を使用した総合施設でバンクーバーのシンボル。コンベンション・センター、クルーズ船ターミナル、パン・パシフィック・ホテル、レストランなどがあり、5階建てビルのサイズの巨大スクリーンCN アイマックス・シアターもある。

カナダプレイス

バンクーバーでもうひとつ楽しみにしていた『JAPDOG』の屋台を見つける。日本人ご夫婦が苦労して築きいまでは店舗を拡げバンクーバーに代表する日本の味。


日本人女性スタッフおすすめの『TERIMAYO』『OROSHI』注文。彼女は留学中で宮城県出身でアルバイトしながら勉強を続けていると焼きあがるのを待ちながら話を聞く。料金を支払い近くのベンチで賞味すると大根おろしにソーセージ、日本にもない日本的な味でとても美味しい。マクドナルドなどとは比較できないくらい旨い。



近くの波止場に行き港の向こうに見えるスタンレー公園に行こうと今度は19番バスに乗る。ダウンタウンの西、日比谷公園の約25倍もある広大な公園。

公園にを散策してダウンタウンに戻りTranslinkの電車で空港に戻る。

19:00 バンクーバー国際空港で預けた荷物を受けとって エアカナダ国内線オタワ行きにチェックイン。AC138便は30番ゲートから22:50発の飛行機でオタワへ向かう。バンクーバーとオタワはカナダ国内でも時差が3時間あるので4時間半のフライトだがオタワ時間で朝の6時半に到着。

Vancouver空港

2014年9月23日
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OttawaHotel
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日本を出てから20時間ほとんど寝ないで移動している。オタワ・マクドナルド・カルティエ国際空港到着ロビーを抜けてまだ薄暗い中で 市内行き97番のバス乗り場を探す。幸いバスはすぐに来てがらがらで空港を出たが途中のバス停で続々乗客が増えて満員のバスは約30分位キャンパス駅へ。そこで下車。


Ottawa市バスキャンパス駅。
バス停からホテルに歩き始めると間もなくリド運河に着く。運河の陸橋を渡って直進すると約15分位でマクラーレン通りにあるホテルに到着する。


リドー運河にも世界中に拡がっている、愛の錠(Love Padlocks)。


The Business Innに到着。まだチェックイン出来ないので荷物を預けて市内観光に出る。ホテル前がエルジャン大通りで地図で見ると真っ直ぐ進むと国会議事堂にでるはず。



オタワは1857年にイギリスのビクトリア女王がカナダの首都と定めた都市だ。
ホテルから地図のとおり進んで行くと左前方に街のランドマーク国会議事堂の雄姿が見え始める。



ウェリントン通り沿いに 荘厳重厚な堂々たる建物が庭園の先に構えている。パーラメント・ヒルと呼ばれるこのあたりには、カナダ政府主要機関の建物が集まっている。早朝だがすでにたくさんの観光客。

カナダ/国会議事堂 中央が時計台(ピースタワー)
カナダ/国会議事堂 中央が時計台(ピースタワー)

カナダの君主は今もエリザベス女王。その名代として5年間の任期で総督(ガバナー・ジェネラル)が選ばれてる。議事堂見学時間まで間があるのでリドー運河脇を散策する。

リドー運河...出典ウィキペディア
米英戦争の直後、イギリスの植民地であったアッパーカナダはアメリカ合衆国の軍事的な脅威に備えて、アメリカの侵攻を阻止するための要塞と領土を守るための運河を数多く建設した。そのうちのひとつがリドー運河で、当初はモントリオールとキングストンの区間を結ぶ物流輸送ルートを確保するのが目的であった。ニューヨーク州と接しているセントローレンス川は物資を供給するイギリスの輸送船が攻撃されたり、川を封鎖される危険があったため、川を迂回するルート(バイパス)として1826年から1832年の間にリドー運河は建設された。モントリオールからオタワ川で西へ進むとオタワに行くことができ、オタワから運河を経て南西に進むとオンタリオ湖畔のキングストンにたどり着くことができる。


戦没者記念碑
2011年6月英国のウィリアム王子とキャサリン妃)結婚後初の海外公式訪問で首都オタワ戦没者記念碑を参拝した時の写真パネルが飾られていた。
 
帰国後10月22日この場所でテロ発生
警備兵一人が死亡する事件がある

リドー運河横のメジャーズ・ヒルパークからオタワ川の向こうにカナダ国会議事堂が見える。



対岸のカディノーへ渡るオタワ川に架かる アレクサンドラ橋を半分位歩いてみる。



カナダ国会議事堂 参観列に並び堂内へ。



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国会議事堂見学



国会議事堂リドー運河に隣接する歴史のある ホテルフェアモント シャトー ローリエ、その向かい広場にリドー運河クルーズのチケット売り場がある。



リドー運河クルーズは(2時間一人20j)



オンタリオ湖とオタワを結ぶために1832年に開通したリドー運河は、冬は世界一長いスケートリンクになる。。クルーズはダウンタウンから南にあるドウス湖まで下る。美しい町並みや運河沿いの緑地帯の景観が眺めながら進む。


運河観光からマクラーレン通りを下ってホテルに戻りゆっくりお風呂に入る。

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こいうサービスはありがたい。


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