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Ken & Mary's Second Life
坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)6月11日
坂東三三ヶ所
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1986(昭和61年)6月11日坂東札所4回目の巡拝
潮来と犬吠崎観光もしながら28番・滑河観音と27番・銚子の飯沼観音をまわる。
早朝起床、東京駅5:36発の電車に乗る、が馬喰町で故障し停車したまま動かない、しばらく待つが回復の見込みがない為地下鉄東日本橋へ行き京成浅草線で青砥駅へ、青砥から京成・急行成田行きに乗換え8:00やっと成田駅に到着。佐原行きバスで30分、28番・滑河観音到着すると同時に関西から観光バスで団体遍路さんが到着していた。
やはり犬吠崎や潮来観光もしていくのだろうか。

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茅葺の山門には一抱えもある真新しい大しめ縄がかかっている。
山門をこぐると正面にやはり朱塗りの本堂が構えている。


朱塗りの本堂は元禄10年建立天井に、誰を乗せて運んだ物なのだろうか朱塗りの“かご”がつるされいた。



素朴な駅舎の滑河駅に戻り電車に乗って佐原・潮来方面、銚子の27番・飯沼観音へむかう。


27番

29番
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第二十八番 滑河山龍正院 (滑河観音) 天台宗
〒289-0125 千葉県香取郡下総町滑川一一九六 0476(96)0217
本尊●十一面観世音菩薩  開基●慈覚大師  創立●承和五年(八三八)  
●詠歌●音にきく 滑河寺の 朝日ヶ渕 あみ衣にて すくふなりけり

慈覚大師の開基
 成田市の北東にある下総町は古くは利根川の舟運で栄えた地。その滑河にあるのが龍正院である。現存の永正十三年(一五一六)鋳造の鰐口に「下総州行河山勝福寺」とあるので、そのようにいわれていた時もあったようだ。承和五年(八三八)滑河の城主小田宰相将治の発願により、慈覚大師が開基となっている。
 のちに大師の高弟修円が伽藍を整えたが、特に将治の帰依入門により常行三昧堂を構え、自ら導師となって所領の男女を集め、昼夜にわたって行法を修せしめたという。まさに天台宗門の古刹であり、その供料に香取一郡四十八ヶ村が当てられたという。これはのちのことではあるが、江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう「下知状」(現存)を下している。
 まず大きな注連縄がかかる仁王門をくぐるが、この仁王尊は享保年間(一七一六〜三六)門前に火災があった時、観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえし、本堂から下の集落は焼失をまぬがれたという伝説の主である。それより火伏の仁王尊としての信仰があつく、毎年正月八日に火災をまぬかれた下の集落の人々によって注連飾が奉納される。
 中央一間を入口とし、両脇に疎連子を付し、仁王尊を安置した寄棟造りの構えは実にどっしりとしている。この八脚四柱の門は飛騨の大隅の意匠、永仁六年(一二九八)に再建された室町時代の貴重な遺構で、重要文化財の指定を受けている。柱は一見、円柱のようだが、実は十六角、それだけに素朴さがあふれている。

小田将治と朝日姫
 寺の『縁起』には、その昔、五月というのに冷害で大凶作、住民が困ったので領主の将治が仏天にご加護を祈ったところ、その結願の日に「朝日姫」と名乗る少女に逢い、「汝の願いはかなうべし」と小田川辺に案内して忽然と姿を消した。あたりを見ると老憎が船を浮かべ、川から一寸二分の観音像を掬いあげて将治に与え、「この淵より湧く乳水をなめよ」と教えた。これがなめ河−滑河の地名の由来だが、そのお告げのとおりにすると、領民の病も、穀物の実りも回復したとある。この観音さまご出現の霊地は、龍正院から三〇〇メートルほどの所で「観音応現碑」が建てられている。
 建保四年(一二一六)折からの暴風雨で本堂・護摩堂・三重塔・鐘楼などを失ったが、現在の朱塗り方五間、入母屋造りの観音堂は元禄九年(一六九六)弁海法印の代に五代将軍綱吉が大檀那となって、名主の根本太右衛門ら信徒一同によって再営されたものである。
 内陣の大きな厨子は定朝作と伝える一丈二尺の本尊(示現像は胎内に納める)のものだけに立派な造り。そして不動・毘沙門の両像が脇に立ち給い、まことに荘厳な道場といえる。外陣は虹梁をを架して大きな空間がつくられており、それだけゆったりとした気持で参拝できるようになっている。
 江戸期奉納の多くの「巡礼額」に昔からの寺門の繁栄を知る。昭和四十三年に大修理が完了した。安産子育、延命開運の祈願に詣でる人が多い。昔は二十六番かち土浦を経て利根川まで辿り、渡し舟で龍正院へ詣で、そして逆打ちで二十七番へ向う巡礼も多かったという。ここはかつては「木下茶船」や「三社詣で」の客船も寄った所であり、それも巡礼に利用されたことだろう。

●主な法要行事  一月元旦祈祷会 一月八日初仁王・〆縄かざり 節分の日節分会 春分の日彼岸会 四月八日灌佛会 八月十日四万八千日 八月十九日施餓鬼会 十一月十八日秋の大祭
●付近の名所旧跡  成田山新勝寺 香取神宮 小御門神社 潮来のあやめ 利根川 成田空港
●宿泊施設  なし
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時(但し、十一月〜二月までは午前八時三十分〜午後四時)

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観音さまのご利益  龍正院住職 廣瀬孝泉

 娘が小学校一年生の時、盲腸炎で入院したことがあります。朝からお腹が痛いと言うので近くのお医者さんに診ていただいたところ盲腸炎、すぐ入院手術をするようにと言われました。家内は下の子を出産して一方月もたたないので、私が付添いました。
 手術も無事終わり、病室に戻って来ました。「お腹を切ったところが痛くなったらお父さんの手ををぎゅっと握りなさい。観音さまが直してくれるからね」「はい」幼いながらもわかったのでしょう。時々「う−ん」と唸りながら私の手を握ります。少し経つと眠り、また手を握りしめ、を繰り返して夜が明け、一声も泣きませんでした。翌朝隣室のおばさんが「どうしたのよ、ひとつも泣かないで。昨夜は眠れないと覚悟していたのよ」とびっくりしていました。娘は「観音さまが痛くないようにしてくれたの」「う−ん。そうだったの。ありがたいねぇ」
 おかげさまで隣室の方々にも迷惑はかけずにすむし、私もおろおろせずにすみ、これが本当のご利益と感銘を受けたことでした。小さい時から私と一緒に本堂に上りお勤行をしておりましたため、観音さまのご利益をいただけたと思っております。その娘も今は二児の母親となり、母子共に健康で、二人の孫は「般若心経」と、となえています。

出典:『坂東札所会のページ』より


27番

29番
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1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16 2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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第二次大戦の戦火で焼かれた本堂は鉄筋コンクリートで再建された

昭和63年3月9日坂東札所 8回目29番・千葉寺
今回は札所参りは本来の目的でなく、姉から誘われて早世した兄のお墓参りに行った帰りに近くの千葉寺に寄る。

家から電車で〜三鷹〜錦糸町と乗り継いで市川駅へ。
駅前で待ち合わせ、そば屋さんに入り早めの昼食をとってから姉の運転で千葉の市営桜木霊園へ。50歳を越したばかりで志半ばで急逝した兄の墓前で冥福を祈る。墓前で思い出話をしばらくした後帰りの道すがら29番・千葉寺に行ってもらう。市営霊園からは車で10分程。


本堂前の大イチョウ

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千葉寺の帰りに千葉市営桜木霊園に寄り兄のお墓参りをする。

28番

30番
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第二十九番 海上山千葉寺  真言宗豊山派

〒260-0844 千葉市中央区千葉寺町一六一 043(261)3723
本尊●十一面観世音菩薩   開基●行基菩薩   創立●和銅二年(七〇九)  
●詠歌●千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや 岸うつ波に 船ぞうかぶる

僧行基の巡錫と瑞蓮
 千葉市の中心部を抜けて大網街道沿いの一角に広い境内をもつのが千葉寺。天保十二年(一八四一)に再建された単層入母屋造りの山門を入ると、開創の時に植えたと伝える銀杏の老樹が目につく。今では千葉寺の象徴でもある。
 『千葉寺縁起』によれば和銅二年(七〇九)僧行基がこの地に来られ「池の中に茎一本に花二つ開き、千葉の青蓮華あり、其の花の中に弥陀如来、観音大士の二尊並びましまして説法し玉ふ」という瑞蓮を見て、丈六の観音像を刻み奉安したのに、この寺は始まるという。
 そして聖武天皇の勅諚により海照山(現在は海上山)千葉寺と称した。やがてご本尊の霊カによって十八間四面の観音堂が建立され、繁栄を示した。ところが永暦元年(一一六〇)落雷のため諸堂及び霊宝のすべてを焼失してしまった。だが本尊は近くの桜の木の枝に難を避けられた。このことがあって「奇なるかな、本尊の開帳には必ず花の咲くこと時節にかかはらず」(板東霊場記)との奇瑞があるとか。この時に寺の位置が移動したというが、現在地から奈良時代の古瓦が出土するので千葉寺は創建以来、場所は変わらなかったと推考されている。
 最近の数次に及ぶ発掘および考古学的な調査によると布目瓦などの様式からして、奈良時代後期には現在地に堂宇が建てられていたことが判明した。そして千葉寺伽藍の主要をなしたのは金堂であり、そのはか南大門、東大門、西大門、講堂の存在が確かめられている。

千葉氏の祈願所
 中世には、この地に勢力を張り、源頼朝の旗揚に大きな力を与えた豪族千葉氏の祈願所として栄え、源家を再興し得たのはひとえにこの観音さまの冥助なりと頼朝は千葉常胤に命じて「運慶」作の愛染明王像を寄進している。永禄十一年(一五六八)胤富は海上郡を永代寄進し(寄進状現存)、第十四世空山上人と共に中興した。しかし豊臣秀吉の小田原攻めの際に北條氏と共に千葉氏は滅亡した。それはそのまま千葉寺の衰運につながったのちに天正十八年(一五九〇)徳川家康が朱印百石を寄せ、二代将軍秀忠の参詣も再度にわたり、元和九年(一六二三)に観音堂が新築された。この将軍家とのゆかりによって大いに寺格を高めたが、惜しいかな元禄・文化・嘉永と回禄を重ね、堂舎什宝を失った。
 しかし、そのつど近隣への勧進をはじめ、江戸へご本尊の出開帳を催すなどして浄財をあつめ再興している。文政十一年(一八二八)建立の広壮な構えで知られた観音堂は昭和二十年の戦災で失われた。だが最近立派なお堂が落成をみたのは、まことに慶賀に堪えない。
 蘇我方面から東進して千葉寺へ参る道、これを現在も稲荷町あたりでは「巡礼街道」と呼んでおり、現存の寛延五年(一七五二)の供養塔や宝暦四年(一七五四)の庚申塔にも「ちばてらみち」(他所にあったものが、今は境内に移されている)と刻まれており、江戸、房総、東金、大多喜、佐倉の諸街道は、札所の順序にかまわずに千葉寺へ歩をはこぶ巡礼者で賑わったことが想像できる。だが明治初年には年貢米もないという窮状「無住」の寺ともなった。明治三十一年、義栄法印が「保存講」をつくり、そして孤峯法印の代に至って法灯は再び輝き、今日の隆昌を見ている。千葉笑いの奇習、千葉の戻り鐘の奇譚、重美指定の六角釣灯籠が寺史を彩っている。

●主な法要行事  一月一日〜三日暁天観世音大護摩 一月・五月・九月の二十一日大護摩 小児虫封じ 四月大師巡礼 水子供養 除夜の鐘
●宿泊施設  なし
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時

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観音さまと私 千葉寺住職 藤沢利恭

「アッ、この子だ、おじいちゃんの生まれ代わりの子は」叔父たちは私の頭にあるあざを指して叫んだ。大正四年の夏母の里帰りの日のことである。
 母の生家は奈良県桜井市白木中森家で、祖父は医者であったが、西国八番札所長谷寺に毎朝参拝し、来世は僧に生まれ代わるよう願をかけていた。祖父の死後霊媒者にその死後のことを尋ねると「私は極楽の上座に住むことができた。私の分身はもう生まれている。頭に印があり、天竺に詣り天寿を全うする・…・・」等々。
 それから十七年後、私は長谷寺で八十日の加行にも堪え、インドの釈尊遺跡巡拝など、予言どおりになった。人の大半は生まれ代わるのである。
 ありがたい観音さま、いつも真心をもってお祈りすれば必ずお救いくださることを信じないわけにはいかない。ありがたい、すまない、もったいないと拝む人は拝まれる人でもある。
 浄業成就を祈る。
 南無大慈大悲観世音菩薩           合掌

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2005年(平成17年)9月20日
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高蔵寺本堂

千葉県木更津市矢那1245

平成17年9月20日最後の坂東札所巡拝。
平成元年8月15日から17年も途絶えていた坂東札所。
平成17年9月旅行中の京都で清水寺に寄った際、清水寺は西国札所と気づいて急ぎ納経帖を購入朱印・納経してもらう。そして帰って、忙しさの中で未だ結願していない坂東の残ったお寺を急ぎ巡拝することになる。坂東最後の巡礼は茨城県大子町21番・日輪寺〜常陸太田22番・佐竹寺〜木更津30番・高蔵寺〜結願寺館山市33番・那古寺の4ヶ寺をまわる。あしかけ19年7ヶ月かかってしまったが坂東三十三ヶ所札所をやっとまわり終える。

33番・那古寺から急いで車を走らせ納経時間ぎりぎり午後4:30分坂東最後の巡拝寺木更津30番・高蔵寺に到着する。


平成元年8月15日から途絶えていた坂東札所巡拝。
秩父三十三ヶ所札所をK・35歳 M・33歳からまわり始めあしかけ19年7ヶ月かかってやっと坂東三十三ヶ所結願を迎え感慨深い。

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12回目の坂東三十三ヶ所札所巡り結願。

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第三十番 平野山高蔵寺 (高倉観音)  真言宗豊山派
〒292-0812 千葉県木更津市矢那一二四五 0438(52)2675
本尊●正観世音菩薩  開基●徳義上人  創立●不詳(用明天皇の代)  
●詠歌●はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう 阿裟婆なるらん

徳義上人の感得
 木更津太田山にある「金鈴塚」の遺物保存館から旧鎌足村高倉(矢郡)へ約九キロの一本道、山峡の集落を抜ける頃、左手に木立ちの茂る山が見えてくる。高蔵寺、通称「高倉観音」である。登ってみると高くも険しくもないが、樅や杉の巨木が茂り合い、歴史の古さを思わせる寺である。
 用明天皇の御代、徳義上人がこの地において観音の宝号を唱えること一日に数千遍の修行をつんでおったが、ある日雷光しきりにおこり、鳴動してやまなかった。里民はまさに変化のしわざと恐れをなしたが、上人はこれを妙緑として一人山中に籠られた。
 雷光の激しさを不思議に思っていると、一人の老翁が現われ、「上人よ、当山に草舎を結び、永く国土を守護し、衆生済度のため観音飛来し給えり」と古木を指さして、忽然と消えた。上人が感動のうちにその梢をみると、そこに四寸ほどのお身丈の観音像が安置されていたので、里民と共に堂宇を建立して祀ったと当山の『縁起』が、その草創を語っている。木の梢から観音さまが現われるという話に、日本仏教が単に抽象的な学問でなく、野性的なエネルギーをもっていることが知られて興味深いと学者はいう。「隣里郷党の者、尊信せざるなし」とご本尊への在地の人たちの深い帰依を『縁起』は記しているが、まず観音さまの霊験は矢那郷の猪長官に現われた。
 四十歳になっても子のないのを嘆いた長官が、この観音さまに百日参拝の願をかけ祈ったところ一女を授けられた。長官は大いに喜び、子与観と名づけた。子与観は心清く、親切ですばらしい娘になったが、器量があまり・良くないので二十歳を過ぎても良縁がなく困っていた。そこで再び観音さまにお祈りして願ったところ、ある夜「鹿島へ行きて日天を拝せよ」とのお告げをいただき、そのとおりにして結婚、めでたく男子を得たが、これぞ藤原氏の祖「藤原鎌足」であったという。
 「鎌足公観音の弘誓を崇敬し……白雉庚戌七月廿三日を以て七間四面の本堂、五間四面の阿弥陀堂、三層の塔、輪蔵、鐘楼、仁王堂」(縁起)を建立し報謝し奉ったという。のちに僧行基が丈余の観音像を彫み、その頭部内に梢で感得の尊像を納めて本尊とした。貞観年間(八五九〜七七)には慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めたともいう。

高床式建物の本堂
 この高蔵寺の本堂は「構造は壮大にして古朴なる稀に見るべきものなり」と評されている如く、高床式の特異な建物である。大永六年(一五二六)藤原時重の建立。重層入母屋造り、床の高さ一・八メートル、床をささえる柱の数八十八本の堂々たるものである。享保年間(一七一六〜三六)に大改修をしたが、中世建築の面影を十分に残している。ことに斧で削ったままのような、ひと抱えもある十六角の柱に木匠たちの非凡な腕がうかがえる。「郡誌」によれば、この地に「アサバ」(密教でいう仏部、蓮華部、金剛部)という大木があったが、その枝葉が繁茂しすぎて日影をつくり、五穀が実らず大いに因っていた。時に夢告があり、この樹を伐って伽藍を造り、観音さまをまつるべしとの因縁を喜んで建てたのが、このお堂ともいう。また柱に大小のあるのは一本の大木だけから造ったためで、終わりの頃「木足らず」となり、これを木更津の地名に付会する人もある。古代文字の刻まれた柱がある。ここは縁結び、子授けの名刹。堂内に「写し百札所観音像」が奉安されている。

●主な法要行事   除夜〜新年 除夜の鐘  節分の日節分会春分の日 春彼岸会   八月十八日 観音大祭   八月二十四日 施餓鬼会  秋分の日秋彼岸会
●宿泊施設  なし
●拝観料  無料(但し時間外は必要な場合もある)
●納経時間  午前八時〜午後五時

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観音信仰=極楽生活 高蔵寺住職 宮寺弘正

 最近は車で来られる方が多くなりましたので駐車場を設けましたが、ちょうど手頃なのでしょぅか、いわゆる暴走族と思われる若者もよくやって来ます。初めは困ったことだと見ておりましたが、お正月にこの者たちが服装を正して観音さまにお参りに来ました。その神妙な姿を見て、やはりこの人たちも心のどこかによりどころを求めているのだなあ、と感じ入りました。
 観音さまは本堂やお厨子の中に安置してありますが、実は私たちのこの世界におられるのです。道を歩いている時、急に自動車が来たら、近くにいる人が「危い」と注意してくださる、それが観音さまのお姿でありお声です。この慈悲の心が観音さまです。観音さまはこの実社会の中に方便をもって現われ、法を説いておられます。こう思うと、誰の言うことも観音さまの声だからよく聞かなければならないということがわかります。ここに気づくことが極楽に入ったことになるのです。周囲に観音さまがおられるのだから悪いことや災難は一切逃れることができるのです。金持ちも貧しい人も、みなこの身このまま観音さまのお膝に乗って安楽に暮らすことができます。こうなったら立腹も喧嘩もすることなく、このまま極楽生活になる これが観音信仰です。
 先生に連れられて来た幼稚園の子供たちが、きちんと手を合わせている姿をよく見かけます。
「ああ勿体ない」と思う次第です。

出典:『坂東札所会のページ』より


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昭和63年10月12日 10回目坂東札所巡拝は千葉県の2ヶ所
長南町の31番・笠森寺〜岬町の32番・清水寺。

家から電車で総武線・錦糸町駅へ、快速千葉行きに乗換。
千葉で外房線鴨川行きに乗り茂原へ。
AM7:49分牛久行きバスで笠森下車。しばらく歩くと急な登りの参道に出る。深い木立の中に『子授けの楠木』がある。大楠木の股をこぐると子宝に恵まれるそうだがうちはもう子宝には恵まれ必要ないので眺めるだけだ。


仁王門をくぐり境内に入ると『四方懸崖造り』で有名な本堂がそびえている。階段を上がり参拝する。回廊からは遠く茂原の町がきれいに見え気持ちいい。

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バスで茂原に戻り、日本三大七夕(仙台・平塚・茂原)で七夕には競って飾りつけるというアーケード商店街を通るが千葉市などへ客足は向いてしまっているのか人通りが非常に少ない。

茂原駅から11:09分発の電車に乗り32番・清水寺最寄駅の長者町へ。

第三十一番 大悲山笠森寺 (笠森観音)天台宗
〒297-0125 千葉県長生郡長南町笠森三〇二 0475(46)0536
本尊●十一面観世音菩薩   開基●伝教大師   創立●延暦三年(七八四)   
●詠歌●日はくるる 雨はふる野の 道すがら かかる旅路を たのむかさもり

伝教大師の開基
 札所を順番どおり巡ってくると、この笠森寺に詣でる頃には、あと二ヶ寺を残すのみとなり、誰でも何かしら気が引き締まると共に安堵の心を抱くもの。この霊場には樹齢何百年の杉や楠が亭々としてそびえ、この恵まれた自然環境に巡礼者の法悦は一層深まる。外房線の茂原から車で三十分、バスの終点から数分歩くと参道だが、駐車場脇の「女人板」の道標に沿って右に折れ、山上へとたどる方が容易。
 しばらく行くと「子授けの楠」があり、これをくぐり抜けると子宝に恵まれるという。いかにも庶民に親しまれている霊場の発想として、ほほえましいものである。やがて「男坂」と合流、さらに登りつめると二天門、それを入ると境内の景観は一変する。あの有名な四方懸崖造りの本堂が、もうそこから間近く拝されるからである。これが二代目広重の「諸国名所百景」の錦絵にも画かれたお堂である。
 寺伝によれば延暦三年(七八四)伝教大師が東国巡錫の折、尾野上の山頂に霊光を拝され、楠の根がたに十一面観音像を感得、楠の木で七尺六寸の尊像を刻み、開基になられたという。「光明と楠との縁をとりて大悲山楠光院と題し給へり」と『縁起』にみえている。楠の木で仏像が造られたという縁起を語る寺は、きまってその創建が古いといわれている。ここもその例にならう古刹である。

天下の奇構
 長元元年(一〇二八)後一条天皇の勅命で飛騨の工匠一条康頼と堀川友成が棟梁となって舞台造りの本堂を建てた。だが焼失。現在のものは近年の解体修理の際、安土桃山時代の年号の墨書銘が発見されたので、その頃の再建ではないかといわれている。岩丘の上に縦横に架け組まれた束柱の配列が生む構成実に、木匠のなみなみならぬ腕のさえが感じられる。
 靴をぬぎ七十余段を登ると本堂の廻廊に出る。ここは高さ三十メートル。眺めはまことにすばらしい。このあたりは房総半島の内陸部丘陵地にあたるので、もともと人家は少ないが見渡す限り一軒だに目にとまらぬ大自然そのままの風光である。この本尊のいます主殿とそれをめぐる廻廊とからなる観音堂に身を置く参詣者は、雲上の浄土にある感を抱かずにはおかない。土地の古老の話では九十九里方面からこの本堂前の杉の梢に「龍灯」が見られるという。まさに神秘の世界でもある。
 堂内に入るとお手綱に良縁の願いをこめたハンカチや手拭いがどつさり結びつけられており、ご本尊の利生の豊かさが知られる。このご本尊は十一面観音としてはめずらしく四ヒのお像であり、背面腰部に室町時代の仏師慶賛が応永十三年(一四〇六)彫造したとの墨書がある。楠の一木式寄木造りであり、この尊に対する地元の人々の信仰がいかに深いかは、ここでは楠の木を神聖視して小枝ですらたき木にしないとか。
 岩の上に錫杖をもってお立ちになっているのは大和長谷寺系統のお姿といえよう。本堂の片隅に「日蓮上人参籠の間」があり、墨田五郎時光との対面がここで行なわれ、その時、墨田五郎が最初の信徒になったと伝えている。『縁起』によれば、この観世音を信じていた美しい娘が宮中の后に選ばれ、報恩に伽藍を建てたという。また天正・文禄・慶長・元和・寛永などの「巡礼札」が残されており、なかでも天正十年(一五八二)同十三年のものは坂東札所の貴重な史料である。

●主な法要行事   除夜〜一月七日 修正会  節分会追難式  春秋彼岸会  四月八日灌仏会  六月四日山家会  八月十三日〜十六日孟蘭盆会  八月二十日施餓鬼会  十一月二十四日霜月会  毎月十七・十八日大般若会
●宿泊施設  なし 近くに笠森保養センター(04 75・46・2381)がある 百五十人収容
●拝観料  大人一〇〇円 小人五〇円 五十人以上団体割引(一割引)あり
●納経時間  (夏)午前八時〜午後四時三十分 (冬)午前八時〜四時

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観音さまのお心を自らの心に・・・・・・  笠森寺住職 小川長宏

 観音さまは仏の位にありながら十仏になってしまうと衆生を救えないということであえて菩薩となっていらっしゃいます。巡礼をされる方々は、この観音さまのお心を自らの心とするように心掛けてほしい。菩薩の道とは一言でいえば「上求下化」ということで、自分は常に道を求めながらそのことによって下を教化する、ということです。ですから、せっかく札所巡りを発心されたからには、姿形だけ白く清浄にするだけでなく、心から清浄になってほしいと思うわけです。 笠森寺は草深い山の中で何もないところですが、何か心を洗われるものがあるはずです。そのような場所であってほしいと願えばこそみんなが信仰して観音さまをお守りしております。私自身も三百六十五日お供え物とお花を切らしたことはありません。街なかでは当り前のことが、この山中ではなかなか難しいことです。観音さまは生きていらっしゃると思うので、外出した折には必ず観音さまにお土産を買ってまいります。自分が何かお願いするのに何も差し上げないわけにはいかないという気持ちからで、山寺の一和尚が一生懸命に生きている姿を、日々観音さまにご覧いただいているつもりです。 読経の終わりを「願わくはこの経の功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生とみな仏道を成ぜんことを」と結びますが、拙いお経でどうか衆生が救われますように、と願うが故です。

出典:『坂東札所会のページ』より

30番

32番
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坂東三十三ヶ所巡拝日
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16 2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1988年(昭和63年)10月12日
坂東三三ヶ所
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昭和63年10月12日 10回目坂東札所巡拝は千葉県の2ヶ所
長南町の31番・笠森寺〜岬町の32番・清水寺。
笠森寺を終え電車で長者町駅下車。
バスの時刻表を見ると16:00まで3時間以上運行されていない、考えあぐねていると、たまたま居合わせた家族をお迎えの車に途中まで乗せてもらう。そこから霧雨の中30〜40分ほど歩いてやっとお寺に到着。


すりへって苔むした石段を登り本堂へ。本堂の中には近場の漁師さん等が奉納したのであろう大漁絵馬がいっぱい掲げられたいる。外房海岸に近いお寺らしい。32番・清水寺は京都の清水寺と似た地形が寺名の由来と伝えられている。


31番

33番
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帰りは覚悟して5q程の道を歩くことにする。巡礼は本来こうして歩くものだが忙しい日常ではそうも言っていられない。
いつもこうしてゆっくり歩いて回りたいもの。
長者町駅〜千葉駅〜東京〜帰路に着く
第三十二番 音羽山清水寺 (清水観音) 天台宗
〒299-4624 千葉県夷隅郡岬町鴨根一二七〇 0470(87)3360
本尊●千手観世音菩薩  開基●慈覚大師  創立●大同二年(八〇七)  
●詠歌●濁るとも 千尋の底は 澄みにけり 清水寺に 結ぶ閼伽桶

四天門のすばらしい建築美
 外房海岸の夷隅川の河口に位置する岬町から少し内陸部に入った鴨根の山あい、あたりが京都の音羽山に似ているといわれる所に清水寺がある。表坂、仁王門まで二〇〇メートルと書かれた標柱から参道を上るが、その傍の小さな地蔵堂に「霊験昭々」の扁額がかけられている。江戸時代の医僧田丸健良が「終日、日の影を見ず、寂々蓼々として自ら菩提心も起るべき境内なり」という如く、この参道は霊験所らしい雰囲気を保っている。
 登りつめると平坦な境内に出るが、正面に仁王門、奥まって四天門がのぞまれる。銅柿葺き、重層入母屋造り、正面唐破風付の仰ぎ見るような楼門、二層に匂欄をめぐらし「音羽山」の扁額をかかげる四天門、文化十四年(一八一七)に重建されたものだが、美しい曲線を描く桃山期風の花頭窓などまさに完成された建築美である。ここには本尊千手観世音の眷属である風雷二神が祀られている。
 この門を入ると左手に奥の院、右手に百体観音堂、閻魔堂、さらに石段を上ると観音堂と鐘楼、実に整然たる伽藍配置である。観音堂は浜エンの擬宝珠を見ると「文化十四年丑年七月奉再建、別当三十一世占海代」の銘があり、これによって文化十年(一八一三)仁王門だけを残して諸堂が焼失した後の重建であることがわかる。因みに占海は『天台大師和讃』に註を付した学僧でもある。
 八間四面、江戸期建築の粋を集めた立派なお堂である。ご本尊奉安の厨子は初層が寄棟、上層は入母屋造り、組み物は唐様三手先、いたる所に花鳥、龍、獅子の透し彫りを取りつけた豪華なもの。また二十八部衆の木彫像が奉安されている。
 西国、坂東、秩父の百観音巡礼の結願は庶民の夢であったが、その実現はむずかしかった。「うつし霊場」はこの要求から生まれた。ここの百体観音堂もいかに多くの人たちの願いにこたえてきたことであろうか。

伝教・慈光両大師とのゆかり
 寺伝によれば延暦年間(七八二〜八〇六)伝教大師が天台の教えを東国に弘めようとこの地に来られたが、難路のため迷っていると熊野権現が樵夫に化して案内したのを縁として草庵を結んだ。時に夜ごと金沢谷から放光の奇瑞があり、そこから観音像を感得したが、勅命により比叡山に帰られた。のちに大同二年(八〇七)慈覚大師が師の志をつぎ、楠をもって千手観音像を刻み、坂上田村麻呂が堂宇を建立して祀ったという。田村麻呂の子孫が関東に土着したという伝えもあるので、興味深い寺伝である。
 『坂東霊場記』はこのことを「上総国夷隅郡鴨根村、音羽山清水寺、熊野権現垂跡の所、円通大士影向の山なり、本尊の彫造、道場の開基は伝教大師の発願、慈覚大師の勲功なり」と記している。京都の清水寺、兵庫御嶽の清水寺と共に、わが国における清水三観音として知られるだけに、本堂東側の廻廊からの風光は絶佳である。
 本堂外陣の長押には幕末頃に奉納されたぬえ退治や、しころ引きといった有名な物語を描いた「大絵馬」をはじめ多くの絵馬が所せましとかけられており、そのなかでも漁師たちが豊漁を祈ってあげたものなど、この寺が海に近いことを知らせる。
 本堂前の「千尋の池」は夏でも涸れない霊水、寺名の由来を示す。また黄銅製の大茶釜が据えられているが、四万六千日の縁日などに参拝者のお接待に使われるという。お接待、そこには施す者と受ける者との心の通いがある。私はこの釜を見ると、いつも信仰の世界の有難さを思うのである。

●主な法要行事  毎月十七日観音縁日  八月九日四万六千日  大晦日除夜の鐘
●付近の名所旧跡  大東崎灯台
●宿泊施設  なし
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時

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景清身代り観音 清水寺住職 井上享海

 当山にはよく知られた千手、十一面の両観世音のほかに、景清身代わり観世音が安置されています。お名前のみでその由来などあまり知られておりませんが、由緒あるお像です。
 御名の因となった平景清は、上総国布施の産、笠松右衛門景高の息で、伯父大日坊殺害のため悪の一字を冠せられ悪七兵衛景清と呼ばれた平家の勇者でした。弱年より観世音を信仰し、日夜誦経を怠らなかったと申します。
 源平の戦に平氏は敗れ、景清虜となって三尺の詰牢に押しこまれましたが、信心いよいよ強くお経を念じて怠ることありませんでした。時に「景清の首打って直見に仰えよ」との頼朝公の仰せあり、御前に差し出されたその首を頼朝公がご覧じなされると、こはいかに景清の首にあらず、勿体なくも観世音の御首でございました。頼朝公大いに驚かれ、「景清や如何に」と尋ねれば、景清牢中にて一心に経を唱えていたということでございます。かくて、悪七兵衛景清、日頃信心せし観世音の宏大なるお慈悲により、この身を解き放たれたのでございました。
 ただいま当山にございます身代り観世音像は、この時のままの御首と両の御手のみのお姿ながら、なおも優しい笑みを浮かべて広く衆生をご覧になっておられます。あまりにおいたわしいお姿なので、ただいまは秘仏として厨子にお納めし、非公開とさせていただいております。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2005年(平成17年)9月20日
坂東三三ヶ所
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千葉県館山市那古1125

平成17年9月20日12回目で最後の坂東札所巡拝。
1989年(平成元年)8月15日から17年も途絶えていた坂東札所巡拝。
平成17年9月旅行中の京都で清水寺に寄った際、清水寺は西国札所と気づいて急ぎ納経帖を購入朱印・納経してもらう。そして帰ってから坂東が忙しさの中で未だ結願していないので坂東の残ったお寺を急ぎ巡拝することになる。
坂東最後の巡礼は茨城県大子町21番・日輪寺〜常陸太田22番・佐竹寺〜木更津30番・高蔵寺〜結願寺館山市33番・那古寺の4ヶ寺をまわる。あしかけ19年7ヶ月かかってしまったが坂東三十三ヶ所札所をやっとまわり終える

今日2番目の佐竹寺から30番〜33番と回る予定だが順序を変えないと納経時間内につけないと判断車を190q走らせ、33番・那古寺に午後3:40分に到着。

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本堂は大修復工事中だった。

順序が逆になったが坂東最後の参拝寺、木更津の30番・高蔵寺へ4:30分の納経時間に間に合うように急いで向う。

平成17年9月20日坂東三十三ヶ所札所結願。


32番
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第三十三番 補陀洛山那古寺 (那古観音)真言宗智山派
〒294-0055 千葉県館山市那古一一二五 0470(27)2444
本尊●千手観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●養老元年(七一七)  
●詠歌●補陀洛は よそにはあらじ 郡古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても

観音補陀洛淨土
 坂東三十三札所の「総納札所」である郡古寺は、房総半島南端の館山市、その市街から少しはずれた郡古山の中腹にある。この山はスダシイ、タブノキ、ヤプニッケイ、ヤブツバキ、ヒメユズリ混生の自然林におおわれている。『郡古寺縁起』に「この山は是れ補陀洛山と称すべし、而して観音影向の地なり」とあるとおり、鏡ヵ浦を俯瞰し、海上の交通者を守りたもう観音さまのお住まいとしての条件をここは充分に備えている。奈良朝末期に日光山が観音のお浄土補陀洛と考えられていたことは、弘法大師の詩文によって明らかである。その頃から関東に補陀洛信仰が取り入れられひろまったのであろう。江戸時代までは観音堂のすぐ足もとまで浦の波が打ち寄せていたという。ご詠歌に「岸うつ波を見るにつけても」とあるのが往時を想いおこさせる。この明媚な風光はこれまでに幾多の巡礼者の心を澄ませてきたことか。しかも、ここが結願の札所、満願の喜びと共に巡礼がそれぞれの感慨を抱く霊場である。
 『那古寺縁起』に元正天皇の養老元年(七一七)天皇の御悩平癒のため、僧行基が老翁の告げにより、ここの海中より香木を得て千手像を刻み、祈念したところ、直ちに効験あり、勅願によって山上に伽藍が建てられたとある。因みに行基作と伝える千手観音さまのお像は専門家の推定では、藤原期の華麗な特長を具えているといわれる。樟造で補修部分は桧材であるそうだ。今、山上の古屋敷と呼ばれているのがその遺跡である。のちに慈覚大師が止住せられ、さらに正治年間(一一九九〜一二〇一)秀円上人に至って真言密教の霊場となったのである。
 俗に裏坂と呼ばれるゆるい勾配の参道を進み、まず仁王門をくぐる。そして石畳の参道を藤原期の作と伝える木造阿弥陀如来の座像を祀る阿弥陀堂を拝しながらさらに行くと、多宝塔が建っている。宝暦十一年(一七六一)住僧憲長が伊勢屋甚右衛門らと力を合わせ、万人講を組織、勧進して建てたものである。
 下層四面に切目棟をめぐらせて、和様勾欄を配した姿は見事であるが、その施工者が地元那古寺及び周辺の大工であったことが注目されている。定型を守りながら新しい様式を取り入れているあたり、棟梁はなかなか意欲的である。
 やがて朱塗り本瓦葺きの本堂が八間の奥行きも堂々とその側面を現わす。表参道からならすぐ入堂できるが、この道からは数段の石段を上り左に廻って正面に出る。観音堂の御拝には老中松平定信の揮もうによる「円通閣」の額がかかっている。

里見氏一族とのかかわり
 源頼朝がこのご本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏・里見義実もあつい信仰を捧げた。特に当山第二十一代の別当は里見義秀であり、二十三代は里見の熊石丸であるなど里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張した。徳川家康の頃には鶴谷八幡宮の別当を兼ね、末寺十五ヶ寺、駕籠側八人衆、三百石を領する大寺となった。寺宝の僧形八幡大画像は当山の隆盛を今に伝えている。
 だが元禄十六年(一七〇三)の大震災で堂塔全壊、幕府は岡本兵衛を奉行として、宝暦九年(一七五九)場所を現在地に移して再建せしめた。外陣安置の青桐の千手尊(重文)は鎌倉期の作である。頬にはりをもっておられるきびしいお顔に内蔵される生命力を感じとることができる。ご本尊と共に善男善女に拝まれ今日に至っている。なお客殿前の大蘇鉄は古株で、茎が十二本に枝分かれした巨木である。嘉永七年(一八五四)江戸の力士「一力長五郎奉納」との刻名が礎石にある。

●主な法要行事  除夜初詣 節分会 星祭 灌仏会 七月十八日観音祭礼(夏祭り)  八月九日四万六千日 十月大施餓鬼会
●付近の名所旧跡  市内船形の崖観音 館山城
●宿泊施設  大和屋旅館・民宿伊藤荘
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時

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山主の観音日誌より 那古寺山主 石川良泰

 ある日一人の老婦人が本堂での読経後静かに私に語りかけた。
 私は近くの農村から戦前横浜に嫁いだ者です。空襲で焼け出され幼い子供の手を引いて故郷の母を頼って帰りました。ある時、母と二人、郡古観音さまの緋緑に座し、このまま田舎に帰って百姓をするか、再び横浜に出るか迷いに迷いました。 その時母に「今のお前にはいずれにしても住むに家なしだ。故郷で兄にわずかな農地を分けてもらい、小百姓となってもうだつもあがらぬ。苦労も多い。同じ苦労するなら空襲で死んでしまったつもりで横浜へ出て一生懸命働きなさい」と言われて、泣き泣き横浜へ出た。 それからは頑張りに頑張って働いた。おかげで子供も成功を収め、今では親戚一番の幸せ者とほめられるようになった。私は毎年故郷へ帰るとまずお観音さまに詣で、次に今はなき母の墓前にぬかづき、さらに親戚廻りをすることにしています。 郡古観音の朱塗りの縁で母が私にさとしてくれた言葉は、母の口を通して語られたお観音さまのお告げであると固く信じて今日まで過ごして参りました。お観音さまのお慈悲はど有難いものはございません、と。

出典:『坂東札所会のページ』より


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