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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)5月14日
坂東三三ヶ所
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6番・長谷寺(飯山観音)

1986年(昭和61年)5月14日3回目の坂東札所巡り
8番・星谷寺から座間に戻り小田急線・本厚木駅へ。本厚木から上飯山行きバスに乗りで30分飯山観音下車、歩いて10分で6番・長谷寺(飯山観音)に着く。
桜の時期はこのあたりの名所で特に賑わい、裏山が白山ハイキングコースになっている。
温泉旅館の間を抜け静かな参堂を行くとと飯山観音の石段になって仁王門右手に六地蔵があり石段を登ると観音堂がある。


飯山観音は縁結びの観音様で本堂内の十一面観音像は4番長谷寺と同じで奈良の長谷寺の本尊と同じ材を使用して作られた。

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次は7番平塚の光明寺へ。

5番

7番
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第六番飯上山長谷寺 (飯山観音)  高野山真言宗
〒243-02神奈川県厚木市飯山五六〇五 0462(41)1635
本尊●十一面観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●神亀二年(七二五)  
●詠歌●飯山寺  建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく  松風の音

行基・弘法二師の開基
 厚木市街から約六キロ、丹沢から東へのびる尾根、海抜二八○メートル余の白山の中腹に長谷寺は位置している。「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる衆生縁豊かな霊場である。『風土記稿』に「飯山寺と号し、長谷観音と唱ふ」とあり、前者の呼称は観応元年(一三五〇)の文書、後者は嘉吉二年(一四四二)の鐘銘によるとしている。
 飯山白山森林公園の道標にみちびかれて小鮎川の清流を渡り、桜並木の一本道をたどると、建久年間(一一九〇〜九九)源頼朝が秋田義景に命じて造営させた、やや小ぶりの仁王門に至る。これをくぐると天然記念物指定の槙の大木がそびえたち、右手の広い境内は桜並木でうまる。満開の頃は、花見客がこの観音さまのお膝もとで一日を清遊するという。さらに石段を踏むと嘉吉二年再建と伝える観音堂の前に出る。
 やや基本形をくずした斗キョウなどの組み物や十二支を素朴な彫りで飾った暮又など、まことに格調高い本堂である。寺伝によれば神亀二年(七二五)ここより四百メートルほど離れた地から清水が湧き、五色に輝いたので里民は怖れをなして近づかなかった。たまたま来錫の僧行基の鉄鉢を縁として、その泉の中から十一面観音が示現された。そこで行基は末世度生の悲願をおこし、かたわらの楠の木をもって新たに三尺余の尊像を彫み、さきに感得したお像を胎内に納め、ここに霊刹を設けた。そして、のちに大同二年(八〇七)弘法大師が密宗の道場としたといわれている。ご本尊の出現された「彼の泉の流れを服するに諸病愈ざる者なし」ともいう。
 もう一つの縁起は、この地の領主飯山権太夫が旅僧に一夜の宿を布施したところ、そのお礼にと大和長谷寺の本尊と同材で造った観音像を賜わり、一宇を建立したのがこの寺の始まりであり、その旅僧こそ弘法大師であったという。
 この二つの縁起は行基・弘法という優れた大徳と長谷寺信仰とを組み合わせたものであるが、大衆の期待を一身に集めた二高僧と霊験豊かな長谷観音さまの登場で、この寺は多くの人々の信心をより深めてきたのである。また、これらの説話は水神信仰に始まり、その山容が大和の初瀬「川上の聖地」にかようこと、そして十一世紀後半に各地に見られた開発領主たちの寺院建立の史実にもつながっていくものであろう。そして弘法大師の遊化をいうことで真言宗の道場となる過程を物語っているといえよう。

名鐘の由来
 鎌倉時代には四宗兼学の寺として栄え、鎌倉の覚園寺、金沢の称名寺と交流があった。すなわち弘仁二年(八一一)この寺の長老であった覚阿は、覚園寺開山の心慧や称名寺開山の審海と共に、相模国大山寺中興の願行の附法の弟子であったのである。本堂の右手前に、住僧が晨昏の例鳴を怠ったらその夜に鐘の行方が知れなくなり、のちに夢告によって地中より掘り出し得たという「飯山の隠れ鐘」の伝説をもつ梵鐘がある。『坂東霊場記』に「若し病者此の響を聞て至心に大悲者を持念すれば、病の愈ゆること流れに物を洗ふ如し」とあるが、実に美しい余韻をもつ、関東の地ではじめて清原国光が鋳造した名鐘である。境内には「梵鐘の余韻若葉の峡渡る」の句碑がある。本堂裏に文化七年(一八一〇)「山上白山宮道、是より五丁」の石標があり、この寺に丹沢山塊一帯の修験の信仰があったことを示している。本堂内には「役の行者」のお像がまつられている。

●主な法要行事  除夜〜元旦初護摩供 一月一日〜三日本尊開扉 四月八日大祭日 秋まつり柴燈護摩(厄除火渡)  十一月三日本尊開扉
●付近の名所旧跡  飯山白山森林公園 飯山温泉
●宿泊施設  なし 近くに飯山温泉がある。
●拝観料  無料
●納経時間 午前八時〜午後五時。

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 桜並木と公園の開かれた寺     長谷寺住職 米山隆応

 当山は丹沢近辺のハイキングコースになっていますので、巡礼の方々のほかにハイキングの人たちが多く訪ねて来られます。私が座っておりますと、特にそうした方から寺の来歴についてよくお尋ねを受けます。何かのご縁と思いますので、できるだけ説明して差しあげています。堂を一巡する形で第一番から三十三番までの観音像を並べ、順に参拝できるようにいたしましたが、中にはそれが機縁となって巡礼を発願される方もおいでのようです。
 門前の桜並木はよく知られていて春にはお花見客で賑わいますが、もとは先代が炭でも焼こうかと裏山一帯に植えたのが始まりでした。子供たちが遠足に来たりいたしますので、境内地を広く公園として開放しておりますが、山門から内はみ仏にお仕えする場として厳しく区別し、名前入りのベンチ、屑籠、灰皿など一切置かず、禁止札なども建てておりません。お花見客もよく心得ていて、ついでのお参りもお酒の入る前に済まされるようです。
 先生に連れられて遠足に来た子供たちが、境内地の公園で嬉々として無心に遊んでいるのを見ますと、いかにも平和なその風景が、観世音の宏大なご慈悲を目のあたりに見る思いで、このようにして本当によかったと思っております。

出典:『坂東札所会のページ』より

5番

7番
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3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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1986年(昭和61年)5月14日3回目の坂東札所
6番・長谷寺から小田急線大秦野駅へ平塚行きバスで30分、金目で下車7番・光明寺/金目観音。お金に縁がありそうな名前だが源頼朝が政子夫人の安産祈願をした頃から安産祈願にご利益がある観音様と言われている。
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安産にご利益のある観音様の祀られる光明寺本堂

1986年(昭和61年)5月14日3回目の坂東札所巡り
今日最後の5番・勝福寺へは小田原に戻りバスで行く。


6番

8番
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第七番金目山光明寺 (金目観音) 天台宗
 〒259-1201 神奈川県平塚市南金目八九六 0463(58)0127
 本尊●聖観世音菩薩  開基●道儀上人  創立●大宝二年(七〇二) 
●詠歌●なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ

小磯の浜より示現
 平塚から秦野へ向かう中間地点に金目があり、その街道に沿って流れる金目川のほとりに金目観音の別当光明寺がある。この川が相模湾にそそぐ所、大磯町の小磯の浜で感得されたのがここのご本尊である。『光明寺縁起』には大宝二年(七〇二)潮汲みの海女の桶によって示現されたとある。『坂東霊場記』は、海女ははじめ木片が桶に入ったので両三度捨てたが、また入るので不思議に思い、わが家に持ち帰った。そこへ一人の行脚の僧が来て、これぞ聖徳太子御作の観音像であると告げて立ち去った。そこでわが家の奥に奉安したのがこの寺の草創であると記している。
 これは仏教信仰流伝の経路をいう一つのパターンであり、この辺一帯には早くから高麗文化が及んでいたことを考えると、この縁起もうなずけるといえよう。「かなひの観音」と呼ばれるのは家内に祀ったのによるとか、所願みな叶うによるとか、俗称の由来は興味深いものがある。のちに道儀上人が一宇を建立、三十年後の天平年間(七二九〜四九)に僧行基が一・七メートルの観音像を彫み、その「胎内」に海浜出現の金像を納めた。安産守護のご本尊
 この故事により「お腹ごもりの観音」として喧伝され、源頼朝の夫人政子も実朝出産の折、祈願をこめた。もちろん、頼朝をはじめ将軍家相次いで帰依し、寺領を寄せて祈願所と定めたので、寺運はこの頃から大いにあがった。明応年間(一四九二〜一五〇一)の建立で、平塚最古の建造物、間口七間、奥行八間の観音堂。また本尊が納められている室町時代末期の様式である「一間厨子」(国の重文指定)とその屋根や欄間の見事な造形は創建当初の姿を残しており、優作と評されている。お前立のご本尊も明応年間の彫刻であるという。
 昔、お産は女性にとって大厄であった。全国に安産守護の仏、菩薩の多いことがこれを物語っているが、この金目の観音菩薩も政子の祈願以来、「お腹帯」の授与をうける者がきわめて多い。足利尊氏の弟で鎌倉の宝戒寺第二世の惟賢和尚が、この寺に住した頃、全国から天台の修行僧が来て学び、 一大学林を成した。光明寺において空忍に灌頂を授けたこの惟賢阿閣梨の頂相が宝戒寺にある。境内の梵錘は正平七年(一三五二)の在銘。作風は全体として繊細だが、よく南北朝期の特色を見せている。慶安二年(一六四九)将軍家光より朱印状を受け、約二千六百坪の境内を構えた。元禄年間(一六八八〜一七〇四)に慶賀和尚が「彼の観音力を念ず。是に於て奇しきかな、百姓、石を担い土を運び、之を盛り之を度る・・・期せずして来る者雲の如し」(縁起)とあるように真俗一体の功業によって中興した。それ故に慶賀和尚を中興開山と仰いでいる。その復興の勧進帳が失火のため大半は灰と化したが、名簿の部分だけが残り「鳴呼、慈眼の照らす所なり、実に奇しきかな、之を以て光明寺今に至るも之を蔵し以て珍とす。太だ異験あり、如し患疫の人あり、来り之を拝すれば頓かにいゆ」と「縁起」は綴っている。古刹が人を引きつけるのは、こういう先人の見るべき営みがそこにあったからであろう。勧進の尊さといえよう。しかし、明治初年には無住に等しい荒廃を示した。だが、現住の晋山をみて、今や元禄期の慶賀和尚をしのぐ復興ぶりを見せている。特に最近の解体修理によって往時の盛観がよみがえった。金目川の洪水から、また兵火から今日まで霊場を護り続けてきた里人の信仰と共に尊いことである。

●主な法要行, 一月一日元旦初詣護摩供 一月十八日初観音会護摩供 四月八日大聖歓喜天大祭 八月九日四万八千縁日 八月十六日孟蘭盆会施餓鬼供 八月十八日観音会 十二月三十一日除夜
●付近の名所旧跡 真田与一墓所
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後五時   (冬)午前八時半〜午後四時半

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 念彼観音力の観音さま信仰     光明寺住職 大久保良允

 観音経の中には優れた名句がたくさんあって、そのどれにも引きつけられます。それらの中からただ一句だけあげるとすれば、「念彼観音力」しかないでしょう。常住坐臥−朝念観世音 暮念観世音−それだけで信仰は充分である、と信じています。 観音妙智力は、何にたとえようもなく、広大にして清浄、無量無辺の慈悲そのものの相であることを観じながら、日々観世音に仕えられることを無上の喜びとして、深く感謝しています。当山ご本尊は海中出現の金像をお腹寵としたことから、源頼朝公政子夫人安産祈願の故事もあり、安産祈願の寺として広く知られてきました。 明応年間建立の観音本堂も、多くの方々のお力によって解体修理が完成し、平塚市最古の伽藍として参拝者も多く、観音信仰も次第に盛んになってきました。 多くの人々のさまざまな悩みを、その人と共に悩み、祈り、幾多の念願成就の喜びを、観音さまのご利益として喜び、感謝しながら、ますます「念彼観音力」の信仰を深めていきたい、と切に願っております。

出典:『坂東札所会のページ』より

6番

8番
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1986年(昭和61年)5月14日
3回目の坂東札所巡りは新宿から座間駅へ。
徒歩で8番・星谷寺〜本厚木駅バスで6番・長谷寺〜大秦野駅バスで7番・光明寺〜小田原駅バス5番・勝福寺を周る。
今日最初の8番・星谷寺小田急線・座間駅から徒歩10分

8番・星谷寺
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1986年(昭和61年)5月14日
3回目の坂東札所巡りは新宿〜座間駅徒歩で8番・星谷寺〜本厚木駅バスで6番・長谷寺〜大秦野駅バスで7番・光明寺〜小田原駅バス5番・勝福寺を周る。


7番

9番
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第八番妙法山星谷寺 (星の谷観音) 真言宗大覚寺派
 〒228-0024神奈川県座間市入谷三−三五八三 0462(51)2266  本尊●聖観世音菩薩 開基●行基菩薩 創立●天平年間 
●詠歌●障りなす 迷ひの雲を ふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷

法華経読誦の声
 小田急線座間駅で下車、徒歩十分はどで星谷寺に着く。『風土記稿』に「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とあるのは、現在地より少し離れた所、今そこには「本堂」の地名が残っている。寺伝によれば天平年間(七二九〜四九)僧行基が来錫、「見不知森」の中に法華経読誦の声を聞いた。よく見ると、それは古木の根洞におわす観音の声であった。このことを「かの法華経を読みたるは正しく此尊像にてましますかと、感涙墨染の袖を絞り、土人に対し件の由を告げ玉へば、老若競い来たりて拝念し頻りに大悲殿を営構して、感得の霊像を安置し奉る」と『坂東霊場記』は記している。観世音の尊像が法華経を誦していたというこの奇瑞はまことに宗教的な発想であり、法華経流布につながる開創縁起といえよう。だからこそ山号を妙法山というのであろう。
 座間市一帯は古墳時代の遺跡が多く、早くから文化の開けた地域。観音信仰の伝来も容易に受け入れたものと思われる。それに星影が水中に留まるという自然の瑞相、一般に池泉の神秘によせる素朴な伝承は、寺院の開創にとって有力な条件であり、ここもそれらによって開かれたのである。

撞座一つの梵鐘
 創建より数百年を経て鎌倉時代の兵乱に伽藍の多くを失い、相模野の野火に観音堂を全焼するという悲運を迎えた。その時、本尊は火中より飛び出し給い、南の方六〇〇メートルはど離れた樹上に止り、光明を放たれたという。時の住僧理源が「南方補陀落山は大悲観世音の浄土なり、今や本尊南の方へ飛移り玉ふは度生有縁の地ならんと即ち其の地を占て殿堂を中興」(坂東霊場記)したのが今の霊域であるという。この話は信徒が本尊を火災から守って運び移したことをいうのであって、そこにここの観音さまによせる在地の人々の深い帰依を知る。すなわち旧堂から南の地、今の場所に本堂が再建されたのである。のちに歴代北条氏の篤い保護をうけ、永正十六年 (一五一九)箱根別当領目録には「十一貫五百文、ほしのや寺ぶん」とみえており、また徳川家康によって座間郷に寺領の寄進をうけてきた。
 仁王門から境内に入ると右手に沙弥西願によって嘉禄三年(一二二七)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼がある。「相州星谷寺、大檀那源朝臣信網、大工源吉国」 との銘がある。東日本最古の鐘であるが 「撞座が一つ」 というのがめずらしい。平安時代の作風をとどめながらも、鎌倉期の形態をすでに完成しており、各部にせん細な特色をみせている名鐘といわれている。この鐘によって鎌倉期のこの寺の繁栄が偲ばれる。
 この鐘と星の井・楠の化石・観音草・不断開花の桜・咲き分けの椿・根下り紅葉とを合わせて「七不思議」 というが、乳房のように垂れた老木が今、本堂の中にあり、これに触れると乳の出が良くなるという「根下り紅葉」、これなど悲母観音の誓いに通ずるもので、庶民の願いの純粋さを物語っている。また「星の井」は夏になると井戸の内側に草が茂って、それを通す光が星のように水面に光るのだなどと分析せずに、観音さまの霊異と受け取りたい。不信の者には見えぬとか。
 江戸から大山まで十八里、徒歩で二日がかり、享保年間に「大山講」が設けられ、宝暦年間には約二十万人の参詣を見たというが、その頃、この星ヵ谷寺も観音巡礼で大いに賑わったものと考えられる。観音さまのお加護で「旅」ができるというので民衆は喜んで札所を巡ったことである。

●主な法要行事  一月一日元旦護摩法要 四月十五日観音例祭 八月十日施餓鬼供養法要 十月十二日薬師如来例祭
●付近の名所旧跡  鈴鹿明神社 海老名国分寺
●宿泊施設 なし。近く相武台駅付近に旅館あり。
●拝観料 無料。
●納経時間 午前八時〜午後五時(冬期は午後四時三十分)

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 幸せとやすらぎを与える     星谷寺前住職 三矢智光

 巡拝は古く鎌倉時代に始まるといわれ、昔は順拝、順打ちといって順番どおりに巡って行くのがふつうでした。交通の発達した今日では、巡拝、逆打ちなどといって順番どおりでない巡り方が多くなりましたが、それは一向にかまわないのです。観音信仰は、いうなれば現在の幸福、生活の豊かさを与えてくれるものですが、際限なく与えてくれるわけではないのです。
 私達は日常生活を営む中で多くの悩みや苦しみを抱えています。仏教ではこの悩みや苦しみを貪瞋癡、それを除くことを抜苦といい、観音さまは苦しみを除くため二求という二つの望み、願いごとを与えてくださいます。この二求は清浄欲という願(願い)のことで、人の物を盗んでもよいなどという悪い欲望のことではありません。自分で願をかけると、即身成仏といってこの身のままで仏になる、つまり観音さまと自分が一体になれ、観音さまの作用が自分に出現するわけです。だからといって、願さえかけるとすぐに叶えられるというのではなく、信仰心を必要とします。観音信仰をすれば、その功徳により、幸せ、やすらぎが与えられるということです。 当寺は、相模の打止め寺として水子供養、安産祈願、商売繁昌、家内安全、就職祈願などの参詣者が数多く巡拝されています。千羽鶴をあげる人、般若心経をあげる人もおられ、そうした信仰のあつい人はど、願いも叶い、やすらぎが与えられているのです。

出典:『坂東札所会のページ』より

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昭和61年8月16日
5回目の坂東札所巡拝は9番・10番・11番寺。
今日は夏休みの長女Akiも一緒。父・母の札所巡りをどう受け止めるのだろうか。電車で国分寺〜東村山〜所沢〜東飯能〜と乗り継いで明覚駅へ。明覚から町営バスで9番・慈光寺へ。
9番・慈光寺

お住職さんから本堂へ招かれ千手観音、母の愛などについてお話を伺ううちに何か心に響いたのかのAkiの目に涙が溢れていた。『なぜか解らないけど涙が出て困った』という、札所の意味も解らない娘だが連れてきて良かったのかもしれないと思った。

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又明覚に戻り駅前の食堂に入り懐かしい昔ながらのラーメンを食べる。
明覚から電車で東上線・小川町〜東村山駅〜11番・吉見観音へむかう。


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第九番都幾山慈光寺 天台宗
〒355-0364埼玉県比企郡都幾川村西平三八六 0493(67)0040
本尊●十一面千手千眼観世音菩薩 開基●慈光老翁 創立●白鳳二年(六七三)
●詠歌●聞くからに 大慈大悲の 慈光寺 誓いも共に 深きいわどの

天台別院
 平安時代の初期、清和天皇が慈光寺を勅願寺と定め、「天台別院一乗法華院」と称せしめたことは、鎌倉時代に栄朝上人が願主となって鋳造奉納したこの寺の梵鐘銘に「天台別院慈光寺」とあることからも十分承知できる。また『風土記稿』に「昔は大伽藍にして、何の頃よりか台・密・禅の三宗を兼学」すとあるから、鎌倉時代には関東の地に重きをなす寺院であったことが知られる。
 それに弘長二年(一二六二)のものをはじめ九基を数える「板碑」の伝存は、中世におけるこの寺の繁栄がいかに大きかったかを示している。鎌倉時代文化の一異彩であるこの寺の大板碑群、六百年の風雪に堪えてきた姿は気高くさえある。
 寺伝によれば天武の朝(六七三)慈光翁が僧慈訓に命じて千手観音像を彫ませ、本尊として祀ったのが、この寺の始まりである。現在は鎌倉時代の作といわれる千手観音像が、切れ目の長い慈眼で私たちを優しく迎えてくれる。子供を背負う如く一臂を背に向けておられるのが特色。
 比企のゆるい兵陵地帯から山間部に入り、都幾川に沿って進むと、海抜三〇〇メートルの都浅山が姿を見せるが、ここを役ノ行者が修験の道場としたとも伝え、平安時代作といわれる蔵王権現がその流れを今に伝え、早くからの山岳寺院であったことが知られる。『慈光寺実録』に「毎年四月十二日此三峯(鐘岳・堂平・笠山)を始め秩父山峯を苦行し、六月十八日富士山に登り、七ケ日日夜苦行して慈光へ帰る」とあるように練行の基点であった。それだけに天台修験の高い格式を誇っていた。のちに鑑真和上の高弟道忠が丈六の釈迦如来像を大講堂に安置、全山の堂宇を整えたことで慈光寺第一世におされている。さらに関東に足跡あまねき慈覚大師が密教の法門を伝えた。大師の植えられた多羅葉樹は今に千百余年の樹齢を数えている。

文化財の宝庫
 貞観十三年(八七一)三月、上野国の安部小水麿が大般若経六百巻を納めたのは、この寺の歴史で特筆されるべきもの。現在は百五十二巻が伝存する。昔は希望する者があれば気前よく頒ち与えていたことや、特に経文の一字を切りとって患者に服用させると病気がなおるという信仰があったからであるという。経典の呪カによせる常民の切ない願いであったのだ。
 小川町は和紙の産地であるが、この紙工業の発達は慈光寺の需要に由来するといい、明覚の近くの「番匠」という町も、当寺の建築の時に、全国から巨匠を集めて、その居住にあてた名残りという。
 鎌倉時代には清和天皇を祖先として崇敬した源頼朝が、文治五年 (一一八九)奥州藤原泰衡征討のため愛染明王像を贈って住僧厳耀に祈願せしめ、寺領千二百町歩を寄せていることも見逃せない。建久三年(一一九二)後白河法皇尽七日忌のため幕府は武相の地より百僧を出仕させて法要を営んだが、この寺からは十人が加わった。大寺たることを示している。
 また寛元三年(一二四五)物部重光鋳造の梵鐘、文永七年(一二七〇)後鳥羽天皇はじめ藤原兼実など三十二名が書写した一品法華経など、この寺は文化財の宝庫でもある。昭和六十年十一月放火により釈迦如来、蔵王権現像等を焼失したのは実に惜しいことであった。

●主な法要行事 正月三日元三大師護摩 四月十七日 (四月第二日曜日も)本尊開扉護摩
●付近の名所旧跡 霊山院・東関最初禅窟 東京大学堂平天文台
●宿泊施設 なし。登山口になる山麓に内田屋旅飽(0493・67・0031)がある。
●拝観料 宝物殿大人三〇〇円、小人一五〇円、二十五人以上団体割引あり。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後五時(宝物殿は午前九時与午後四時すぎ)休舘日なし。
      (冬)午前九時〜午後四時

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お母さんの姿     慈光寺住職佐伯明了

                「父母恩重経」というお経があります。そのお経にも説かれていますが、とにかく手のかかるのが赤ちゃんです。両親から受けついだ菩提心・生命力となる因と、身体を緑とする因縁によって結ばれ、両親あるいは祖父母が真剣になって、五体満足な子が授かりますようにと神仏に祈願して、やっと誕生。生まれてからは毎日、授乳や衣類・おむつの交換、夜中に泣き出したりすればどこか具合いが悪いのではないかと心配しながら、泣きやむまで抱いていてくれます。お母さんの手と目は、昼夜休むことなく、大切な役目を果たしています。三歳ぐらいまではこうしたことは母親の責任でしょうが、食事や排泄、さらに入浴時の衣類の着脱などは自分以外に頼めないものです。いつまでもお母さんが手をかけるのではなく、少しずつ自分でやっていくように教えていただきたいと思いますが、それはともかく、いつまでもわが子のことで喜怒哀楽を表情に表わし、たくさんのまなざしを向け、数多くの手を使ってくださる姿を象徴するのが、十一面千手千眼観世音菩薩です。 特に左手の中で一つだけ掌をうしろに向けているのがありますが、これは子供を背負うことを表わしているのです。そう思って、当山のご本尊のお相を礼拝してください。このみ仏が、私をそしてあなたを愛育してくださったお母さんなのです。

出典:『坂東札所会のページ』より

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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)8月16日
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昭和61年8月16日5回目の坂東札所巡拝は夏休みの長女Akiも一緒。
11番・吉見観音をお参りした後今日最後のお寺は10番・正法寺(岩殿観音)。東武東上線・東村山〜高坂駅、高坂から鳩山ニュータウン行きバスに乗る。バスで行く途中に大東文化大学がありなんにもない土地のなかに忽然とあらわれる校舎やグランドにこんなところで過ごす学生生活はどんなだろうと考える。


10番・正法寺(岩殿観音)の背後は物見山でお寺はその中腹。
山門への参道は両側に民家がならぶ静かな道。
本堂には千社札がびっしりと一面に貼りつけられている。

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猛暑の中よく歩いた一日だったが3ヶ寺をまわりここで終わり。
中学生のAkiに札所めぐりは本音では気が進まなかっただろうによく頑張ってついてきたと思う。
東武東上線・高坂〜川越へ、本川越駅に歩き西武新宿線に乗り帰路に着く。


9番

11番
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第十番巌殿山正法寺(岩殿観音)真言宗智山派
〒355-0065埼玉県東松山市岩殿一二二九 0493(34)4156
本尊●千手観世音菩薩 開基●逸海上人 創立●養老二年(七一八) 
●詠歌●後の世の 道を比企見の 観世音 この世を共に 助け給へや
 
田村麻呂への霊験
 東上線高坂駅から東武バスで約七分、やがて標高一三五メートルの物見山が前方にその姿を現わす。五月には「つつじ」、十一月には「もみじ」が全山をおおい、あざやかな彩りを見せる。物見山はぞの名の示すとおり、近傍きっての展望台であり、筑波・三国山・秩父の山々をはじめ武蔵野の広野が展望できる。その中腹に正法寺は位置している。
 ここには「雪見峠」という地名があるが、その昔、比企の山中に悪龍が住み、村人たちに害を加えていた。たまたま奥州征討に向かう坂上田村麻呂将軍の一行が通りかかったので助けを求めた。そこで田村麻呂はこの岩殿山の観世音に冥助を乞う祈願をこめたところ、時ならぬに大雪が降り、そのため山頂より一カ所だけ雪の消えている所を発見した(峠の名の由来)。これぞ目指す悪龍のいる所と定め、観音さま授けの矢を射って討ちとったというのである。
 田村麻呂へのこの霊験が聞こえ、延暦十五年(七九六)宣旨があって堂宇が立派に整ったという。『岩殿山縁起』は、この伝承を重視し、多くの字数を費やしている。
 さて、田村麻呂の祈願以前について寺史は、養老二年 (七一八) 沙門逸海が四十八峰、九十九谷といわれた岩殿山の山腹の崖を削り、千手観音像を岩窟に納めたのが草創であるといい、また、役ノ行者によって開かれた修験の霊場であるとも伝えられている。「大東文化大学」 でバスを下り、裏参道を行くことになるが、少し時間をかけてもこの寺は表参道から詣でたい。

山寺の法悦
 正面の石段を上ると、愚禅和尚の筆になる「施無畏」 の扁額をかける仁王門、さらに登りつめると、岩壁に囲まれた五百坪はどの境内に観音堂が建っている。その右手の鐘楼には松山合戦の折、兵の士気を鼓舞するため陣中を引きずったのでキズ跡を残す元享二年(一三二二)在銘の梵鐘がある。昔は六十六ヵ坊を擁し、関東に並びなき大伽藍を構えていたというが、今は堂塔の数は少ない。だが木立ちを吹き抜けてくる風がすがすがしく、巡礼者を山寺の法悦にひたらせてくれる。
 この寺の盛衰はまことに激しかったと記録にあるが、源頼朝の命により比企能員が復興、能員が北條時政のために自害をせまられて死去、その嫡子時員は追手を逃がれて出家し、この寺を護った。のち室町時代には 「袖をつき踵をめぐらして現当二世の道をねがふ」(河越軍記)者が多く大いに栄えた。だが永禄十年(一五六七)松山城合戦の兵火で焼亡、一山の僧徒は悲境に離散。天正二年(一五七四)僧栄俊が中興した。
 寛永年間及び明治十年に失火。現在のお堂は明治十二年高麗村から移築したもの。本尊は千手の坐像であり、相好端正なお姿は鎌倉初期の作風を伝える。万治二年(一六五九)水野石見守忠貞奉納の「明版一切経」慶長以前の記録「正法寺文書」は貴重な寺宝である。江戸時代末期の『山吹日記』に「仏殿に馬の古画の額をかゝげたり。寺僧の説に古法眼の筆なりと。昔はぬけ出て、夜な夜な麦をくひけるを、ある画師の筆をそへて撃ぎとめしより、出ることなくなりし」という「抜け絵馬」や、中山郷の天満宮の奉納相撲に、この村の人がいつも負けていたので、この寺の仁王尊に相手をたおしてもらったという「仁王の相撲」の話は面白い。
●主な法要行事  一月元旦〜七日元旦初護摩修行 二月三日節分会 四月十五日大般若経転読 七月一日尻あぶり 八月二十七日万霊水子施餓鬼 十二月二十二日冬至祭 十二月三十一日除夜の鐘
●付近の名所旧跡  比企丘陵自然公園 物見山眺望 子供動物自然公園 平和資料舘
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後六時    (冬)午前八時〜午後五時

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  観音信仰とそのご利益     正法寺住職中嶋政海

 札所の三十三の数は、観音経の「三十三身示現」に因むもので、観音さまが、仏の身でありながら菩薩となって、広大な功徳をもって、一切衆生に接し給うことをいう。観音さまは、正しくは大慈大悲観世音菩薩といい、「世音を観ずる菩薩」 の意で、南無観世音菩薩と救いを求める衆生の声を聞いて大慈悲の手をさしのべ、衆生を苦悩・危難から救済し給う菩薩である。その仏飯をいただいている毎日の生活に感謝している。
 当山住職となって十年ほどたったある日、本堂裏と北の切りたった崖に生えている木々の枝を伐採、清掃していた時のことだった。三時の休憩を終え、立ち上って二、三歩進み出したその時、それまで座っていた場所めがけて三十センチぐらいの岩が三つばかり、がらがらと崖の上から転がり落ちてきたのだ。
一瞬、肝をつぶす思いがした。わずか数秒の差で生死を分けたのだ。慈悲深い観音さまのご利益に、合掌して深く頭を垂れずにはいられなかったことだ。
 近年、観音霊場巡拝者がめっきりふえ、札所を護持する者としてたいへん喜ばしい限りである。

出典:『坂東札所会のページ』より

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