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坂東三十三ケ所二十二番・佐竹寺 平成17年9月20日巡拝

坂東三十三ヶ所
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坂東三十三ヶ所
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茨城県常陸太田市
天神林町2404

平成17年9月20日12回目で最後の坂東札所参り。
今日最初の茨城県大子町八溝山・日輪寺から車で60q佐竹寺へ到着。

いつものように
@無事に札所を周れますように
A家族が健康で暮らせますように
B仕事が順調に運びますように
C母が健康で長生きできますように
D早世した兄が成仏できますように
を祈願する。

常陸太田のまちはずれには水戸黄門様隠居所・西山荘がある。
坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30

平成17年9月20日12回目で最後の坂東札所巡拝。
1989年(平成元年)8月15日から17年も途絶えていた坂東札所巡拝。
平成17年9月旅行中の京都で清水寺に寄った際、清水寺は西国札所と気づいて急ぎ納経帖を購入朱印・納経してもらう。そして帰ってから坂東が忙しさの中で未だ結願していないので坂東の残ったお寺を急ぎ巡拝することになる。
坂東最後の巡礼は茨城県大子町21番・日輪寺〜常陸太田22番・佐竹寺〜木更津30番・高蔵寺〜結願寺館山市33番・那古寺の4ヶ寺をまわる。あしかけ19年7ヶ月かかってしまったが坂東三十三ヶ所札所をやっとまわり終える。

今日2番目の佐竹寺から千葉県館山市33番・那古寺へ。
30番〜33番と回る予定だったが順序を変えないと納経時間内につけないと判断33番を先に回ることにして館山に向う。

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西国三十三ヶ所
坂東三十三ヶ所
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付録
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坂東三十三ヶ所

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第二十二番妙福山佐竹寺 (北向観音)真言宗豊山派
 〒313-0049 茨城県常陸太田市天神林町二四〇四 0294(72)2078

 ●本尊●十一面観世音菩薩  開基●元密上人  創立●寛和元年(九八五) 
●詠歌●ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ

元密上人の草創
 常陸太田駅から県道を約二キロ、バスで十分余り、天神林の台地、佐竹寺の仁王門前に着く。門には山号を書いた扁額があり、その上に『吾妻鏡』にその由来を記す五本骨、日の丸絵文の佐竹氏の陣扁があげられている。
 『坂東霊場記』には「花山法皇の御発願、元密上人の草創なり。本尊十一面の像は聖徳太子の手彫、法皇護持の聖躯なり」とあり、それを正暦年間(九九〇〜九五)のこととしている。もちろん、伝説であるが、元密上人は花山法皇の坂東巡礼に従った一行八名の中に名をつらねておられる僧である。
 『新編常陸国誌』にも「僧元密の創立する所といふ、観音堂一宇同地にあり、境内千二十五坪」とあるが、その所在地ははじめ鶴ガ池のうしろ、洞崎の峰観音山であった。のち天文十二年(一五四三)兵火に焼かれ、同十五年佐竹十八代義昭が佐竹城の鬼門除けとして現在地に再建。北向観音といわれる所以である。

佐竹氏出世の瑞兆
 元密上人の開基から約二百五十年を経た保延六年(一一四〇)観賢上人の教えにより、この本尊に深く帰依した初代佐竹昌義は、居城の鬼門除けとして信心をあつくし、武運の隆盛を祈ってはたびたび霊験を得たので、その報謝のため寺領三百貫文の地を寄進し、佐竹氏代々の祈願寺と定め、寺観を大いに整えた。
 この寺で昌義が長さ二十尋に一節しかない奇竹を発見し、これぞ出世の瑞兆なりと感じ源姓を佐竹に改めたという話がある。庫裡に九〇センチほどの「一節の竹」が伝存する。この寺はこれより以後、佐竹氏の興亡とその消長を共にすることになるが、天正十八年(一五九〇)頃には本堂のほかに宝蔵・歓喜などの六支院と三ヶ坊を有する大寺となっていた。
 仁王門を入ると天文十二年(一五四三)建立の本堂(重文)が正面に建つ。単層、「もこし」付、寄棟造り、唐破風の見事な建物である。ところどころに禅宗様式をとり入れているので簡素・剛直な雰囲気をかもし出している。桃山時代建築の先駆をなすものとして注目されている。その豪壮ともいうべき観音堂を囲むようにして杉の老樹が境内をくぎっているので、往来に近い割に自動車の騒音もそれはどに気にならぬ。参道を進んで堂前にぬかづくと、時代を経た木造建物特有の枯れた落ちつきが、心をやすらかにしてくれる。
 堂内に入ると内陣は瓦がしきつめられており、ひんやりと肌に冷気を感ずる。箔押の来迎柱を立てた大須弥壇の上に、金箔の跡を留めた家形の厨子が置かれ、ご本尊が納められている。十字に交叉した舟肘木が軒桁を支え、繁垂がいかにも美しい線を出している。それに左右の火頭窓が風情をこの建物に与えている。
 慶長七年(一六〇二)佐竹氏が秋田へ移封されてから寺門は急速に衰えを見せた。水戸義公が除地十七石を寄せて保護したが、寺の維持にはかなりの困難がともなった。だが延享年間(一七四四〜四八)に神崎寺を第一番とする「水戸藩の三十三札所」が設けられるや、佐竹寺はその第十一番の札所となり、第十番の村松の如意輪寺から巡ってくる巡礼と八溝山からくる坂東巡礼者によって賑わった。しかし明治維新の廃仏没釈などにより、寺門は急速に荒廃した。のちに本堂が明治三十九年特別保護建造物、昭和四年国宝に指定されながらも無住の寺であった。昭和二十四年 前住職が晋山、その努力によって漸く寺観も整い今日に至る。
●主な法要行事  一月一日元朝大護摩祈願 二月初午祈願会 七月十日四万六千日 一万灯祭 毎月十七日縁日護摩修行
●付近の名所旧所  西山荘 水戸借楽園 大洗
●拝観料  無料
●納経時間  夏午前八時〜午後五時、冬午前八時〜午後四時

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霊験について 佐竹寺住職 高橋俊裕

 これは「坂東霊場記」にのせてある話ですが、江戸時代のある夏の日のことでした。駿河の国富士曲村の矢作又右衛門が坂東巡礼のとき、もう五、六町で佐竹寺へ着くというところで、折からの炎暑のため路傍に倒れてしまいました。自分はたとえ道芝の露となってもかまわないが、故郷に残してきた年老いた母のことが気にかかって悩んでいました。
 そこで一心に観音さまを念じておりますと、一人の僧が現われ、「十句観音経」を授け、持っていた瓶水を身にそそいで「早く我が寺へ来るべし」と告げて立ち去りました。すると又右衛門の苦しみは洗うが如く去り、佐竹寺へお参りすることができたのです。そして、あの僧こそ佐竹寺のご本尊十一面観音さまの化身であったとますます信心を深めたというのであります。
 このような霊験を語ることは、次元の低い世界の話だなどという人もありますが、それは間違いだと思います。信仰には必ず現証がともないます。ですから私たちはそれをすなおに有難く受けとっていけばよいのです。佐竹氏がこのご本尊さまから煩いた霊験も実に尊いものです。佐竹城の鬼門除け、その故に「北向観音」といわれるご本尊さまを、どうぞ深くご信仰になられ、「厄除け」のご霊験を皆さまもお受けくださるよう祈ってやみません。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三十三ケ所 二十三番・正福寺(佐白観音)昭和61年12月10日巡拝

坂東三十三ヶ所
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昭和61年12月10日坂東札所6回目巡拝は23番・正福寺〜20番・西明寺〜19番・大谷寺の三ケ所をまわる。
AM4:00起床。凍えるほど寒い朝駅へ電車で上野駅へ。
6:00上野発・常磐線で友部駅へ、水戸線に乗り換え〜笠間駅8:02着。
白い息を吐きながら歩き始める。
佐白観音への道すがらには坂本九ちゃんが結婚式を挙げたという笠間稲荷神社に寄りお参りして行く。日本三大稲荷といわれるだけあって朱の大鳥居や堂々たる拝殿・本殿がとても立派。
笠間駅から少し道草したが30〜40分で正福寺(佐白観音)に着く。

坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30

お参りした後、納経・朱印してくれた奥さんらしき方に奥に誘われ座敷に上がる。ひとしきり仏法の説教らしき講釈をして観音経・般若心経を一緒に読経する。ここでは参拝者一人一人皆そのように接しられているようだ。 お礼を申し上げて次の20番・西明寺へ向う。


自動車遭難精霊供養塔と書かれた石碑

予定の時間が遅れ歩くつもりだったがタクシーで笠間駅へ。
次の益子20番・西明寺に向う。


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第二十三番佐白山観世音寺 (佐白観音) 普門宗
〒309-1611 茨城県笠間市笠間一〇五六−一 0296(72)1332
●本尊●十一面千手観世音菩薩  開基●粒浦氏  創立●白雉二年(六五一) 
●詠歌●夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風

三白から佐白への山号
 笠間稲荷と笠間焼で全国に知られている笠間市の本通りから笠間城址の方へ道をとると、「佐白観音堂」の石柱が目に入る。そして左折、朱塗りの門をくぐると、もうそこが境内。昭和五年、先代の天津忠道師が佐白山麓に正福寺を移し今日に及んでいる。現住の忠興師は東大寺の三月堂を摸した観音堂を建立すべく、現在、勧進しておられるので、近いうちに本建築の立派なお堂が完成し、明治初年以来の念願を果されることになろう。
 『佐白山縁起』によれば白雉二年(六五一)狩人の粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍で護る霊木をもって千手観音像を仏工に刻ませ、安置したのにこの寺は始まる。山号は三白山。やがて孝徳天皇の勅願所となり、のちに「誠に尊徳日々に新たなれば、漸妨舎繁栄して既に一百余宇の僧坊有り、今の土民の家宅は古へ皆僧坊の跡と申し侍り」と『縁起』は往時の盛況を記している。実に鎌倉時代初頭までには関東における有数な霊場になっていたのである。
 ところが近隣の徳蔵寺との寺領の争いがきっかけとなり、宇都宮頼網の命をうけた宇都宮氏が正福寺を襲って堂宇を破却し、そこに築城、笠間氏を名乗り徳佐二山の寺領まで占有してしまった。時に建保二年(一二一四)であった。
 頼網は時朝の伯父にあたり、平安中期から戦国時代におけるこの辺の豪族である。しかも笠間氏の宗家にあたっているので、その命には従わざるを得なかったのであろう。時朝はその後、戦没僧侶の亡霊に悩まされ、悪業の恐ろしさに観音の宝前で懺悔、忠円阿閣梨を招いて観音堂を再建した。しかも幕府に無断で用兵、築城した咎により罰せられたが、観音さまの霊験によって助けられ、それより「佐く」の文字を使って、三白を佐白とあらため山号とした。そして六ヶ坊を建てた。
 因みに時朝は鎌倉初期の歌人で『後選集』に名をつらねている。それもそのはず父の朝業は将軍実朝に仕え、その死去にあたって出家、「信生」を名のって、のちに「信生法師集」を残している有名な歌人である。
 かくて笠間氏は約四百年の間、代々がこのご本尊に崇敬の誠を捧げ、七堂伽藍をそなえる霊場としていった。永禄八年(一五六五)笠間高広は三重塔の第一層を、その子の広直が第二層を寄進しているなどがそれである。
 しかし、天正十八年(一五九〇)宗家である宇都宮氏により亡ぼされ、時朝より十八代で笠間氏は絶えた。以来この寺は衰亡に向かい、わずかに宥明上人がご本尊を一坊舎に移して衆庶の参詣にこたえる有様であった。

信仰の結晶千手尊
 「髪の毛筋など端正に仕上げてあり、端靂な面長の顔で中央の系統の仏師の作」といわれる鎌倉時代初期の優作、写実的な彫法に時代の特色がうかがえるといわれるが、なんと申しても、ご尊容を拝していると無条件で『有難い』という心が湧いてくる観音さまである。信仰の結晶とも申さるベき、このご本尊さまを、よくも今日まで護ってこられたものである。不動、毘沙門の両脇侍尊は室町時代初期のお作。拝するはどに信心の深まる三尊である。いずれのご尊像も明治の廃仏運動の時に戸倉の徳蔵寺に移されて難を逃れ、明治六年に玄勝院に祀られ、そして現寺域に。長い間のご遷座続き。これからはご安泰である。ここは近年「観世音寺」と改称した。
「城址博物舘」に寄るといい。
●主な法要行事  元朝参り 節分会 四月十七日春例大祭 除夜の鐘
●付近の名所旧跡  城址公園 つつじ園 あじさい園 芸術村 陶芸公園 日動美術館
●宿泊施設  なし(市内、ホテル旅舘多し、問い合わせ可)
●拝観料  無料
●納経時間  四月〜十月午前八時〜午後五時 十一月〜三月午前九時〜午後四時

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すばらしい方にお目にかかる巡礼の旅 観世音寺住職天津忠興

 「お観音さまへの巡礼って何ですか?」 こんな質問に、
「すばらしい方にお目にかかりに出る旅ですよ」 と答えます。
 世にもお優しく美しいお姿で、三十三もの手だてを立てて人々をお導きお救いくださるすばらしい方にお目にかかるのですから、写経をさし上げる、せめて読経をしてご印をいただくようにと申し上げている毎日です。 生きていく上には、さまざまな喜びや悲しみに出会います。お観音さまはそのお胸の中に、限りない人々の喜びや悲しみを優しく受けとめられ、喜びの中にいる人には感謝の心を持つように、悲しみの中にいる人には生きる勇気を持つように導き続けてこられた、そういう方がお観音さま・・・・。このように思いいたる時、お観音さまの前ではたいそうすなおな心になることができます。
 巡礼の旅を通して、日頃の暮らしや生き方をもう一度見なおしてみたいものです。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三十三ケ所 二十四番・楽法事(雨引観音)平成元年8月15日巡拝

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今日の3ヶ寺周り最後の雨引観音さんにお参り。
坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30
多宝塔

無事3ヶ寺周り終え車で常磐自動車道〜首都高速〜帰る。


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第二十四番雨引山楽法寺 (雨引観音)  真言宗豊山派
〒309-1231 茨城県桜川市本木一 0296(58)5009
本尊●延命観世音菩薩  開基●法輪独守居士  創立●用明天皇二年(五八七) 
●詠歌●へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺

独守居士の開創
 「雨引かんのん」として知られ「安産」の祈願をこめる人が多い雨引山阿弥陀院楽法寺は、筑波連峰の端を占める雨引山の中腹に建つ。山裾まで来ると黒門があり、そこから石段の上り坂となる。この薬医門はもと真壁城のもので室町時代の貴重な遺構である。だが今はほとんどの人がこの旧参道を見下しながら自動車で仁王門近くの駐車場まで行ってしまう。享保年間(一七一六〜三六)再建のこの仁王門をくぐると、左手に見事な曲線を描く大石垣がある。
 慶長七年(一六〇二)徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与えたがその寺格を象徴するかの如く実に立派なものである。文政年間(一八一八〜三〇)幕府の下賜金を得て、当山住職元盛上人の代に築かれたものである。延長一〇〇メートル、高さ一三メートルある。さらに進むと「宿かり椎」があるが、これは応永三年(一三九六)の火災の折、ご本尊自らがこの木に難を避けられたとの伝説を語るもの。また開山法輪独守居士が龍に乗って昇天されたという「龍杉」、観音像のお袖からしたたり湧き出たと伝える霊泉など、「二木一水」の霊異がここでは説かれる。まことに深秘な霊場である。この仁王門に至るまでの表参道の景観は坂東札所の中でも「山寺」としての絶景であろう。できたら徒歩で登拝していただきたいものである。
 石段を登りきると松山の稜線を背に観音堂が建っている。この内陣には木彫一木造り、像高一七〇センチ、弘仁期(八一〇)の作と伝え、関東造りとしてはきわめて注目すべきお像といわれる「延命観音」(旧国宝)さまがおわすのである。『縁起』によれば用明天皇(五八六)の時、中国より渡来した法輪独守居士によって開創され、推古天皇の御悩平癒を祈って効験あり「勅願寺」となった。まさに古刹である。

安産祈願の霊場
 光明皇后の御産(七三〇)のみぎり、皇后は遥かに当山に安産を祈らせられて「法華経」を書写してご奉納になられた(写経は現存)。その効験があって安産なされたので、三重塔を寄進された。それから全国に安産祈願の観音として霊名が知れわたった。
 観音堂は入母屋造り、本瓦葦きの大伽藍であり、龍頭の彫刻も見事な尾垂など宝永七年(一七一〇)以来の余香が感じられる建物である。嵯峨天皇の弘仁十二年(八二一)大旱ばつの折、天皇は法華経を書写して納め給い、当山の観音さまに降雨を祈られたところ、三日にわたって満天下に雨が降ったという。これより「天彦山」の山号を「雨引山」に改めたといわれる。
 さて建長四年(一二五二)宗尊親王が諸堂を建立、建武二年(一三三五)足利尊氏が祈願所に指定、また、これより以前、北條時頼はお前立ち本尊を納めている。だが応永三年(一三九六)兵火で多くを失った。その時に当山守護のマタラ神が住職の吽永を励まして、七日七夜で再建させ、寺勢をとり戻した話は有名。この故事により毎年四月にマタラ神祭が行われる。鬼神が破魔矢を参詣者に授け、鬼たちの踊りが奉納される。
 境内は桜の開花の頃、「関東の吉野」として訪れる人が多い。

●主な法要行事  正月元旦〜三日正月元旦大護摩供 四月第一日曜日厄除大祭マタラ鬼神祭 四月五日〜二十日桜祭 五月一日〜十日つつじ祭 五月五日小児成長野天護摩供 六月十日〜七月二十日アジサイ祭 十一月十日〜十一月二十日紅葉祭 十一月二十三日護摩札御焚き上げ
●付近の名所旧跡  あまびき美術舘
●宿泊施設  センター「あまびき」百人収容 一泊二食付五〇〇〇円、六十歳以上四五〇〇円 休憩可  0296・58・5211、完全予約制
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時三十分〜午後五時

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延命長寿を授ける延命観音さま 雨引山楽法寺 住職川田聖定

 当山延命観世音菩薩は、今から一千三百余年前の用明天皇二年、梁の人法輪独守居士が請来した仏像であり、特に人の寿命をお守り申し上げることをご誓願とせられる、霊験あらたかな尊い観世音菩薩であります。 ゆえに当山観世音菩薩を信仰し、日々観世音菩薩のご真言をお唱え申し、至心に祈念する時は、延命観世音菩薩の加持カをこうむることを得て、無病息災にして天寿を全うすることができるといわれているのであります。 当山にご参詣のお方は必ず仁王門前の百四十五枚の大石段をお登りになりますが、この石段は俗に″厄除け長命の石段″といわれ、ご真言を唱えながらこの石段を登ることにより、長命できると信ぜられております。 幾百年の長きにわたり、人々の足によってすり減って丸くなった花崗岩の石段の一つ一つに、ご利益の探遠さと延命長寿を祈念した人々の信仰の跡を感ずるものがあります。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三十三ケ所 二十五番・大御堂(知足院中禅寺)平成元年8月15日巡拝

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1回 昭和61年2月12日 1-4-3-2-14
2回 昭和61年3月12日 13-12
3回 昭和61年5月14日 8-6-7-5
4回 昭和61年6月11日 28-27
5回 昭和61年8月16日 9-11-10
6回 昭和61年12月10日 23-20-19
7回 昭和62年5月13日 15-16
8回 昭和63年3月9日 29
9回 昭和63年6月8日 17-18
10回 昭和63年10月12日 31-32
11回 平成元年8月15日 26-25-24
12回 平成17年9月20日 21-22-33-30



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江戸三十三ヶ所

平成元年8月15日11回目の坂東札所巡拝は茨城県新治村26番・清滝寺〜25番・筑波山大御堂〜24番・真壁の雨引観音(楽法寺)の3ヶ寺。
今日は夏休みのAとKも連れ車でまわる。
『西の富士東の筑波』とたたえられた名山の筑波山
26番・清滝寺から有料道路を通り筑波山・大御堂へ。
坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30
筑波山神社
筑波鉄道の跡にそって24番・真壁の雨引観音(楽法寺)へ向う。


24番

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坂東三十三ヶ所
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第二十五番筑波山大御堂 真言宗豊山派
〒300-4352 茨城県つくば市筑波七四八 0298(66)0126
本尊●千手観世音菩薩  開基●徳一法師  創立●延暦元年(七八二)  
●詠歌●大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき

徳一法師の開基
 明治の神仏分離令が出るまでは現在の筑波神社と知足院大御堂とは同体であった。だから現存の神橋や随神門は筑波山中禅寺を荘厳していたのである。境内の水盤の銘に宝暦八年護持院、文政二年の石灯篭に筑波山僧侶の名前が彫られていたりする。わずかに八七六メートルの標高だが、関東平野にひとり立つ秀峰筑波山は、男体・女体の二峰からなり、昔はそれぞれ千手観音・十一面観音を本地仏とする大権現として崇められていた。
 寺伝によれば、この霊山は延暦元年(七八二)東国の化主と仰がれた徳一法師によって開かれ、弘仁年間(八一〇〜二四)弘法大師によって真言密教の霊場となったという。そして「この山は天地開閉の古へより、天神地祀降霊の地なり・・・・大御堂千手大悲の像は両大権現の託宣に依って、弘法大師の彫刻なり」(坂東霊場記)とし、ここが神仏習合信仰の山であることを教えている。鎌倉時代には常陸の守護八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、のち出家して明玄となり、この寺の別当をつとめ隆盛を示した。だが応永五年(一三九八)落雷で堂塔を失った。

江戸時代の盛観
 江戸時代に至り、知足院宥俊の代、朱印五百石を得て中興。続いて徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉上人がこの寺に住し、慶長十九年(一六一四)、大阪城攻略に従軍して戦勝を祈願、いよいよ徳川家の恩寵を深くした。さらに家光将軍はことのほか尊崇し、三重塔・鐘楼・楼門などを造建して輪喚の美を整えた。亮盛沙門の著『筑波山名跡誌』にはこのことを「将軍家の御崇敬浅からず、神社仏閣湧くが如くに興隆し、人法繁昌古への千倍なり」と書き綴っている。
 なお貞享三年(一六八六)第十一世隆光上人の代には寺領千五百石の寺格を有する大寺となり、十八支院、三百の住僧を数えたという。正徳三年(一七一三)寺島良安編の有名な図説百科事典『和漢三才図会』は「堂塔楼門最美なり」と讃嘆している。
 また、文化十年(一八一三)刊の『筑波詣』には「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。したがって参拝者・巡礼者もきわめて多く『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得」たる有様であった。
 筑波山大御堂への道は石岡から八郷町の柿岡、そして小幡、十三塚を通る府中街道が古く、次に筑波町山口から平沢、館そして六所神社を通る徳一法師の開いた道があるが、何といっても一番賑わったのは、北条から神郡、臼井の村落を過ぎお堂の正面に出る「筑波六丁」であったという。現在でも辿ることができる。
 だが明治初年、神仏同体の思想を否定する悪令暴挙によって筑波山が激変を余儀なくされたのは惜しみても余りあることである。「筑波千軒」といわれた町の衰亡も、一時は色濃いものであったそうだ。外来性と伝統性とを包含した由緒に富む習合文化はいたずらに破壊されてしまった。それ以来、仮堂のような大御堂にご本尊は祀られ、大津波に遭われるなどのことがあったが、傷一つ負わなかったのは幸いであった。昭和三十六年完成のお堂では、豊頬なお顔が直接拝されるのが有難い。
 時間があったらケーブルで山頂へ。そして筑波山全体が観音さま垂迩の聖地であることを確認したいものだ。

●主な法要行事  二月十八日追難式 八月十八日万灯法要
●付近の名所旧跡  筑波山 筑波神社 ●宿泊設備  筑波グランドホテル 江戸屋ホテル 青木屋ホテル
●拝観料  無料(札所参拝者)
●納経時間  午前八時から午後五時(冬期は午前九時から午後四時)

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六観音さま 大御堂執事 岩崎真隆

 三十三観音札所は観音さまの三十三身応現の数にあわせた信仰であります。ですが白衣観音とか瀧見観音とか魚藍観音さまなどの「三十三観音」の信仰とは別のものであります。すなわち各札所のご本尊さまは聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・准胝あるいは不空絹索の観音のうちの一尊をおまつりしているのです。」
 当寺のご本尊さまは千手観音さまです。千本の手を持っておられるわけですが、一本の手で二十五本の手を代表しているお姿もあります。この多くの手はわたしたちを幸せにしてくださるために、その人、その人に応じたいろいろな方法手段を観音さまが用意しておられるためのお姿なのです。たしかにこれだけ多くの手ですと一度に何人でも救っていただけるわけで、まことに有難いことです。
 それにこの千本の手には一つずつ眼がありますので、そのどれかの眼で見守っていてくださると思うと、とても安心です。ですから拝んでいても千本の手が少しも不思議ではありません。坂東では十一面観音さまが十四ヶ寺、次いで千手観音さまが十二ヶ寺と多いのも、この千手観音さまを心から頼みにしている証拠でしょう。

出典:『坂東札所会のページ』より


24番

26番
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坂東三十三ケ所 二十六番・清滝寺  平成元年8月15日巡拝

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平成元年8月15日11回目の坂東札所巡拝は茨城県新治村26番・清滝寺〜25番・筑波山大御堂〜24番・真壁の雨引観音(楽法寺)の3ヶ寺。
今日は夏休み中の双子の娘と一緒に車でまわる。

AM7:30家から中央高速道〜首都高〜常磐自動車道〜茨城県新治村まで渋滞もなくAM9:00頃26番・清滝寺に到着。お寺は筑波山と霞ヶ浦にはさまれて田園地帯を見下ろす小高い丘の上に建つ。
坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30
二人に鈴のついたお守りを買う。
@無事に札所を周れますように
A家族が健康で暮らせますように
B仕事が順調に運びますように
C母が健康で長生きできますように
D早世した兄が成仏できますように、といつもながら祈願する。

昭和40年焼失した後建てられた本堂は鉄筋コンクリート。
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車に戻り25番・筑波山大御堂へむかう。

25番

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第二十六番 南明山清瀧寺 真言宗豊山派
〒300-4108 茨城県新治郡新治村大字小野一一五一 
0298(62)4576
本尊●聖観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●推古天皇十五年(六〇七) 
●詠歌●わが心 今より後は にごらじな 清滝寺へ 詣る身なれば

龍ヵ峰から現在地へ
 筑波山の南の裾、小高い丘の上にある清瀧寺へは石岡・北條を結ぶ道を二本松で右折し(現在ダンプ道路などと呼ばれる二車線の大型農道)「坂東街道」と呼ばれた参道を約三キロたどることになる。または国道一二五号線よりバープルラインを目標に北へ向い、二本松の信号を直進する。参道口には札所の石標があり、やがて正面に高い石段が見えてくる。そしてその上に天保年間(一八三〇〜四四)に再建された仁王門が建っている。それをくぐり、やや上ると観音堂である。(常磐高速道土浦北インターより入ると約五キロ)
 この寺の草創は推古天皇十五年(六〇七)勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したことにあるという。また『坂東霊場記』には「南明山清瀧寺は、筑波権現降遊の砌り、行基大士草創の地なり、本尊聖観世音菩薩(御長丈八)は、同じく開山大士の彫造、今の堂地中興の事は、花山法皇の御叡慮なり」ともある。筑波の二柱の神が小野山に遊幸された折「頻りに渇の心地し」天の鉾をもって地を突かれたら清水が滝の如く、南北二ヵ所から湧き出たので、南の清明なる滝口に僧行基が寺を建てられたというのがその梗概である。のち「二百七十余歳を経て」花山法皇が「かかる瞼岨の山頂に在っては、老若の結線あまねく及ばず」とされ、龍ヶ峯から山の中腹に移された。その伝承は平安時代に徳一法師によって山の中腹(現在、古観音と呼ぶ)に移されたというもので、観音堂の所在を示す礎石が残されている。

古代からの信仰圏
 いずれにしても、この地は筑波山における古代の信仰圏内であることは確かである。それに鹿島・香取の信仰ルートにも関係深く、相当古くから文化的に開けた地域で、観音信仰の導入も早いものであったろう。「山の荘」は荘園であり、その肥沃な土地は古歌で知られる「小野の小牧」、奈良時代の製鉄所跡とされる「かなくそ山」など古代の遺跡がまことに多い。
 奈良朝の頃、関東文化に現われた大きな変化は国分寺の建立であったが、それ以前においても仏教は関東の地に広く伝来していたとみるのが通説である。だから清瀧寺の『縁起』もさほど虚妄な内容ではないといえよう。さらに時代は下るが当寺よりわずか二キロ足らずの所に、延暦十五年(七九六)最仙上人開基の東城寺があることは、平安初期の山岳仏教の影響も考えられるのである。
 鎌倉時代には幕府の功臣八田知家(小田氏)の保護により栄えたが、室町時代に至り永禄・元亀の頃、常総の野に繰り広げられた戦乱の兵火の中に、その堂宇と什宝を消した。だが元禄年間(一六八八〜一七〇一)本堂が再建され栄えた。しかし明治維新を境として急速に寺運は衰え「無住」の期間も相当長く大字小野の人たちが輪番でこれをささえてきた。大正十四年刊の『新治郡郷土史』に永禄・元亀の戦いの折も「時に尊体依然たり」とある如く、ご本尊さまは信徒のカで護持されてきたのであった。
 ところが昭和四十四年不審火により山門のみを残し焼失してしまった。「昼火事だったが、火の勢いが強くて、気がついた時は、もうご本尊さまをお出しすることはできなかった」と村の人たちは嘆いている。最近、大字小野再建委員会の尽力で立派に再建されたのは、一ヶ寺でも欠いては板東巡礼にならぬとの尊い悲願の結晶といえよう。巡礼者は小野集落を中心とする信徒がたのご功徳を有難くうけとりたいものである。

●主な法要行事  八月九日万灯法要
●付近の名所旧跡  日枝神社 東城寺(比叡山を摸した寺、本尊薬師如来) ゆうもあ村 小野小町の墓
●宿泊施設  なし 近くに「ふじがみ旅舘」がある。
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時(冬期は午前九時〜午後四時) 老人会有志が納経所奉仕を交替で年中無休で行っている

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桃咲く里で   清瀧寺住職 古幡章善

 今もなお 人の心の変らずや 桃咲く里の 清瀧の寺

 どなたかが、そっとご本尊にお供えしてゆかれた歌です。清瀧寺に参られた時、何か心に感じて帰られたのでしょう。
 この寺は、近年災難が相続きましたが、多くの方々のご協力を得て、旧に増して整えることができました。
 寺も、お人の暮しも、整うというのは建物だけではありません。
 ご本尊にご奉仕する者一同、 「人の心の変らずや・・・・」  という問いかけに、「桃咲く里の清瀧寺にまたお参りください。里人の心は今も変わりありませんよ」と申し上げられる寺であり続けたいと念願いたしております。


出典:『坂東札所会のページ』より


25番

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坂東三十三ケ所 二十七番・円福寺(飯沼観音)昭和61年6月11日巡拝

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佐原駅




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1986年(昭和61年)6月11日坂東札所4回目の巡拝
潮来・犬吠崎観光も組み込んで28番・滑河観音と27番・銚子の飯沼観音を周る。
28番・滑河から成田線で佐原へ。
佐原から9:40分のバスで潮来に向い水郷・潮来を歩いて観光。
坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30
佐原に戻り銚子へ、NHK朝ドラ『澪つくし』に何度も登場していたままの銚子電鉄に乗って観音駅下車、歩いて5分くらいで27番・円融寺(飯沼観音)。

27番・円融寺(飯沼観音)円福寺巡礼像

27番・円融寺(飯沼観音)
飯沼観音参拝後又『澪つくし』登場の電車で犬吠岬へ。

少し真ん中が膨らんだ地平線を見ながらお弁当を食べる。
帰りは又銚子電鉄に乗って銚子へ〜千葉〜東京駅17:14分帰着。


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坂東三十三ヶ所
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第二十七番飯沼山円福寺 (飯沼観音)  真言宗
〒288-0054 千葉県銚子市馬場町二九三 本坊0479(22)1741 観音堂пi23)1316
本尊●十一面観世音菩薩   開基●弘法大師   創立●神亀五年(七二八)  
●詠歌●このはどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな

海中より出現の霊異
 「飯沼の観音さま」「銚子の観音さま」として知られる円福寺は、利根川の河口、関東一の漁港として賑わう銚子市の中心に位置し、市街はその門前町として発展してきた。『飯治山観世音縁起絵巻』によれば神亀元年(七二四)毎夜、海上に光を放つものがあり、浦人が怪しんでいたところ、ある漁夫に観音さまの夢告があり、世間の衆生を救いたいので汝の網によって出現したいとのこと。そこで網を投じたところ、御丈二尺余の十一面観音像が瑪瑙石を脇ばんで出現なされたとある。その時に天から降米の奇瑞があったので「飯沼」という地名がある由。
 『坂東霊場記』はこのことを「石の如く罪重くして苦海に沈む衆生をもらさず浄土の岸へ救い上げんとの救世の悲願を示し玉ふ」と綴っている。そしてお像を感得した漁夫は出家して観音さまに仕え、「おこり除けの法師」として諸人を救ったと伝えている。のちに弘法大師が来られ、本尊の蓮座を造られ開眼の秘法を修せられたという。その時、この地の海上長者は大師の高徳を敬慕して、深くこの本尊さまに帰依し、財宝を傾けて壮麗なる堂舎を建立したというのである。

海上氏の帰依
 円福寺には鎌倉から足利時代にかけての古文書が多いが、そのほとんどが海上氏関係のものである。千葉氏第五世の千葉常胤の六男の胤頼が、この地にあって「東氏」を称し、その孫の胤方が海上の庄を与えられて「海上氏」を名乗った。胤方の次男盛胤が正安元年以前に、それまで兼ねていた飯沼寺別当職を弟の長胤にゆずり、その子孫が代々寺を継いだ。康安三年に宗快が円福寺の住持、のちの上超・弘恵もいずれも海上氏出身である。観音堂も天正六年 (一五七八)海上氏によって方八間のものが建立され、また円福寺十ヶ坊の存在は、足利時代からこの寺が海上氏保護のもとに学山であったことを語るものといわれる。
 なお『銚子市史』に「飯沼観音が、その撰(坂東札所としての指定)に入った理由は、鎌倉幕府に重きをなした東氏・海上氏の支持するところたるに依るのみならず、その推挙があったためかと思考される」と記しているはどに海上氏との因縁は深い。
 江戸時代には十間四面の大本堂が造営された。このお堂が戦災前まで広壮な姿を見せていたのは人のよく知るところである。五千六百余坪の境内には仁王門・鐘楼・薬師堂・大師堂があり、安政二年(一八五五)刊の『利根川図志』は「境内に見世物軽わざしばい、其外茶見世多く至って賑はし」とその盛況を写している。それは遠くはるばる江戸から詣で来る善男善女、それに特に航海、漁師の人たちの熱心な参詣者をはじめ、巡礼者による賑いであった。そして現在の本坊と観音堂とはもちろん、地続きであった。今は仁王門の道を右へ、大通りを横ぎって二〇〇メートルはど行くことになり、「納経」はこの本坊で受けつけている。本坊には「円福寺古記録」など古文書をはじめ、江戸の俳人・古帳庵の句碑、天保水滸で知られる侠客銚子の五郎蔵の墓などがある。
 銚子のシンボルである観音堂の再建は、昭和四十六年に衆庶の信助によって見事に完了した。境内の「大仏」は銚子近在の人たちの喜捨で正徳四年(一七一四)に鋳造。このようにこの寺はいつの世にも衆生縁が豊かである。

●主な法要行事  一月一日元旦祈祷会  一月二十三日  二十三夜尊護摩祈祷会  二月三日または四日節分会  二月十五日涅槃会  三月・九月春分・秋分の日の前後七日間彼岸会 四月八日灌仏会  四月五日〜十七日お大師詣り  八月一日施餓鬼会  八月十日四万八千日   十二月二十八日〜三十一日歳の市
●納経時間  年前八時〜午後五時
●付近の名所旧執  犬吠崎
●拝観料  無料
●宿泊施設  なし
●奥の院  じゅんれいの寺満願寺

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観音信仰の奇跡 円福寺住職 平幡良雄

 現観音堂完成間近のこと、二十日ほど前から湯水も喉を通らず危い状態であった観音地内入口の砂場食堂のおじいさん宅から、すぐ来て欲しいと連絡を受けました。急いで行くと、当時竣工間際だった観音堂再建工事が心配だったようで、半紙に大きく「観音さまをお願いします」と私宛の遺言状がありました。翁はすでに死相を呈していました。「観音さまがお守りくださるから大丈夫ですよ」と励まし、寺へ戻って病気平癒の御護摩を奉修、お札を翁の枕元に安置しました。翁は戦火で焼失したお堂再建に最も熱心な総代で、長い間私を励まし慰めてくださった一生の恩人です。この恩人を救えるのは観音さましかいない、信仰あつい恩人をお救いくださいと祈念したのでした。 私が終生忘れることのできない驚くべき奇跡が起こったのはそれからです。翁は翌日湯水も少し通るようになり少し持ち直しました。それから一月はどで一応全快、部屋の中を歩けるまでに回復したのです。観音さまの御加護で信仰深い翁は守られたのでした。
 飯沼観音は古来より家運長久、息災延命、福智増長、求子安産など諸々の善願成就すること、谷の響きに応ずるが如し、と尊信されています。

出典:『坂東札所会のページ』より


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