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Ken & Mary's Second Life
坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)8月16日
坂東三三ヶ所
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昭和61年8月16日
5回目の坂東札所巡拝は夏休みの長女を連れて周る。
9番・慈光寺をお参りした後明覚駅に戻り電車で東武東上線・小川町〜東村山駅へ。東村山からはバスが出たばかりで11番・吉見観音へは歩くことにする。
途中で吉見百穴遺跡を見学する。古墳時代末期に2百数十個といわれる穴を多数掘って造られた日本一の規模の集合墳墓だ。戦時中は軍用に掘られたらしい大穴に入ると涼風が天然の冷蔵庫のようで心地よかった。


吉見遺跡から更に1時間猛暑の中を歩く。
愚痴を言わず懸命に一緒に歩く娘の姿が嬉しかった。石段上には見事な山門、さらに階段を登りつめると本堂があらわれる。

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付録
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11番・安楽寺(吉見観音)本堂

@無事に札所を周れますように
A家族が健康で暮らせますように
B仕事が順調に運びますように
C母が健康で長生きできますように
D早世した兄が成仏できますように

お参り後タクシーで東村山へ戻り今日最後の10番・正法寺へ。


10番

12番
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第十一番 岩殿山安楽寺(吉見観音)真言宗智山派
 〒355-0151埼玉県比企郡吉見町御所三七四 0493(54)2898
本尊 聖観世音菩薩 開基 坂上田村麻呂 創立 大同元年(八〇六) 
●詠歌●吉見よと 天の岩戸を 押し開き 大慈大悲の 誓いたのもし

源範頼ゆかりの寺
 安楽寺は町の中心部から離れており、長い参道を行くと、老杉の梢越しに三重塔の九輪が鋭く空にのびているのが見えてくる。かつては泉屋、山田屋、土瓶屋など巡礼者のための宿が、この辺にあったという。六月十八日の「厄除け観音」 のご縁日には、午前二時頃からこの表参道を参拝者がたどる。朝早ければそれだけご利益が多いとされている。門前では「厄除け団子」が売られている。これは昔、疫病が流行した時にダンゴをつくって観音さまへお供えし、難を逃れた故事によるものである。大きさも不揃い、味もまちまちであるのが面白い。
 石標に「坂東十一番、蒲冠者源範頼旧蹟」とあるのを見ながら石段を上ると仁王門、その奥正面に観音堂が樹林を背に建っている。寺の草創は僧行基が東国巡錫の折、ここを霊地と定め、聖観音像を刻み、岩窟に納めたというもので、岩窟寺院の一つである。のちに桓武天皇の時、奥州征討の坂上田村麻呂が戦勝を祈願、七堂伽藍を建立した。関東東北の地に観音信仰普及の端緒を開いたのは、田村麻呂であったが、ここもその一霊場である。また天慶三年(九四〇)平将門叛乱の折、調伏を命ぜられ、百院百壇を設けて修法、効験があったとも伝えている。ともかく平安朝期には関東で有数な寺となっていたことは疑いない。
 なんといってもこの寺と縁の深いのは源範頼である。平治の乱のあと助命され、この寺の稚子僧となって育ったが、のちに領主となってからその折の報恩にと所領の半分を寄進し、三重塔、大講堂を建立した。惜しくも天文年間 (一五三二〜五五)松山城の攻防戦で焼失してしまった。「吉見御所」 の地名は範頼の子孫がここに根をおろし、吉見一族となったのによろう。

僧杲境の復興
 天文年間の合戦で堂舎を失い、住僧は離散という衰運を迎えた。『縁起』はその有様を「八百年来聚る所の仏像、霊宝など須臾に灰燼となり」と嘆き記している。そののち下総国印旛郡出身の僧杲鏡が法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復興に精進、近里の檀越を勧進して五間四面の観音堂と現存朱塗りの見事な三重塔を再建した。
 比企丘陵の一角にそびえ建つこの華麗な塔は、江戸初期の地方色豊かな建物として貴重なものである。昭和三十五年、解体修理を行い一層気品を加えた。県指定の文化財である。
 さらに弟子の秀慶が七間四面の観音堂を寛文元年(一六六一)に完成。ついで元禄に仁王門力士像成り、宝永に地蔵尊、薬師、十二神将像の造立、享保に御拝欄干の擬宝珠荘厳、宝暦に宝筐印塔の建立など、江戸時代のこの寺の進展は目を見はるものがある。特に本堂前の寛政二年 (一七九〇)鋳造の露座の阿弥陀如来は「吉見の大仏」として親しまれているが、なんといっても全体に穏健な和風の雰囲気をもつ塔が巡礼者の心をなごませてくれる。ここの本堂の外陣には江戸初期の西国・坂東・秩父の百観音を満願にした「奉納額」が四十余枚もあり、巡礼史研究の大切な史料となっている。この「納札」はご本尊との永久的な結緑をねがって奉納されたものであるが、三百年の風雪にたえて、巡礼者の志願をよく今に伝えているものといえよう。なお、本堂内陣には左甚五郎作の「野あらしの虎」 と呼ばれる欄間がある。境内には 「写し札所百観音堂」もある。文化十年(一八一三)法印妙心の発願になるものであるが、容易に巡礼の旅に出られなかった者には、大変有難い企てであったといえよう。
●主な法要行事 元旦会 節分会 六月十八日厄除観音会 八月九・十日四万六千日(千灯籠)九月十八日施餓鬼会 冬至星供養祭
●付近の名所旧跡  吉見百穴 森林公園
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 (夏)午前八時〜午後五時  (冬)午前九時〜午後四時

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 貧者の福を得た霊験記  安楽寺件鹿島本虔栄

元禄の中頃、細谷村の某氏当山の観世音に皈依して月詣りを怠らず修行しておりましたが、事業が不如意で朝暮悩んでおりました。
 ある時感慨して自分は過去に樫貪邪見にて布施行の善因を積まぬためこのような境遇にあるのではなかろうかと反省いたしました。そこで三ヵ年日参の願を立ていかなる風雪もいとわず毎夜登山精誠に祈念いたしました。 ようやく千日成満の夜、ご宝前に籠り、観音大悲の宝号を唱えておりましたが、暁の頃夢の中に須弥壇のうしろより香衣の老僧が出て、「お前の願い浄心なればこの摩尼珠を与える」と掌中へ黒色の玉を賜わりました。某氏は驚き、目が覚め掌を開き見ると棗大の黒色の玉がありました。これは観音さまが自分の願いを顧み福衆の宝珠を賜わったのであろうと喜び、住僧の教えに従って観音さまを造り、胎内に感得の宝珠を納め朝夕祈念しておりました。
 その後家業は繁昌し、子孫も孝順の者ばかりにてますます繁栄されたといいます (坂東観音霊場記)。

出典:『坂東札所会のページ』より

10番

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坂東三十三ヶ所巡拝日
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16 2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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昭和61年3月12日熊谷の病院に入院中の姉のお見舞いも兼ねて、13番・浅草寺をお参りした後、浅草から東武線を乗りついで豊春駅下車。人形の町岩槻の郊外のお寺。田園風景の道を約30分歩き12番・慈恩寺へ。


近くに来ると木々が伐採されて本堂も境内も丸見えで殺風景。道を隔ててむこうに三蔵法師の遺骨を納めたという玄奨塔が建つ。


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帰りは本堂右の道を東岩槻駅へ歩く。東岩槻〜大宮〜熊谷。
熊谷駅から妻沼行きバスに乗り市立女子高校で下車10分程歩き姉の入院中の関東脳神経外科病院へ。
評判を聞いて東京からこんなに遠い病院に入院していた。顔面神経痛の手術後は右目の痙攣もとれて3月16日に退院できると明るく笑って言う。思ったより元気そうで一安心。しばらく話した後病院向かいのバス停でバスを待ち熊谷に戻り帰路に着く。


11番

13番
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第十二番 華林山慈恩寺 (慈恩寺観音)  天台宗
 〒339-0009埼玉県岩槻市慈恩寺一三九 048(794)1354
 本尊●千手観世音菩薩 開基●慈覚大師 創立●天長元年(八二四) 
●詠歌●慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても

東叡山末の大寺
 慈恩寺は人形づくりで知られる岩槻の町から五キロはど北の郊外にある。『風土記稿』に「慈恩寺、天台宗、東叡山の末、華林山最上院と号す。当寺古は本坊四十二坊、新坊二十四坊云々とあるにても、大寺たりしこと知らる」とあり、また現存の元禄七年(一六九四)の古図でも約十三万五千坪に及ぶ境内を構えていた。だから「慈恩寺は古蹟にして、しかも大刹なりしかば、その境内、山林、田畠のかかわる所は、いつとなく慈恩寺村と呼ならはせり」と『風土記稿』は誌している。しかも『坂東霊場記』は「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」とその繁栄ぶりを書きとめている。
 だが文政十年(一八二七)焼失、天保十四年(一八四三)に至って深乗上人の代に再建、昭和の大改修がなされて今日に及んでいるのが、現在の十三間四面の大本堂である。格天井の花鳥絵、天井の鳳凰の図、欄間の天人の彫り物などこの大寺にふさわしく、みな立派なものである。
 江戸時代には天正十九年(一五九一 徳川家康が寺領百石を寄せ、なかでも寛文十年(一六七〇)東照神君の霊牌供養料二十八石を受けたことは特記すべきことである。そして文政年間(一八一八〜三〇)から日光輪王寺法親王歴代の参籠所となるなど、いかに由緒正しき寺であったかが知られる。
 寺伝によれば天長年間(八二四〜三四)慈寛大師の草創という。大師が関東巡錫の折、日光山の頂から仏法弘通の霊地あらば示し給えと「李」の実を虚空に投ずると、この地に落ち華を咲かせたので、千手観音の尊像を自刻、一宇を建立して安置したのに始まると伝える。山号の由来である。この伝承は「異常成長譚」に属するもので、植物生成の説話は農耕に深い関係をもっており、ここの観音さまの示現が農耕民の希求に、その発想をもっていたと考えてよかろう。そして李の実に大きな除魔力を期待した地域開発の願望でもあった。のちにご本尊は焼失、現在は天海大僧正が寛永十一年に納められた本尊を祀る。夫婦の円満を祈る観音さまとして知られる。 本堂前に天正十八年 (一五八九)伊達与兵衛尉房実が奉納した南部鉄の灯籠が古雅なたたずまいをみせている。

玄奘塔のある寺
 寺名は慈覚大師が入唐求法の時に修学した長安の大慈恩寺の風景に、この地が似ているのでつけられたという。これが縁となって現在では境内から東南三〇〇メートルの地に玄奘三蔵法師の「霊骨塔」が建てられている。玄奘三蔵法師が仏典を求めてインドヘ旅立ったのは、西暦の六二七年、二十六歳の時であった。この旅の辛苦の有様をモデルにして書かれたのが、あの有名な孫悟空の登場する「西遊記」である。経・律・論の三蔵に精通した僧のことを三蔵法師という。
 仏蹟を巡拝、多くの師に法を聞くこと十六年、玄奘は長安の大慈恩寺に帰り、六十三歳でその生涯を閉じるまでの間、専ら持ち帰った仏典の漢訳に従事されたのであった。昭和十七年、南京駐留の日本軍がたまたま土木作業中に玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘し、南京政府に届け出た。そこで、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在、ここの石造十三重の塔に納められているのである。境内から水田をはさんで高さ一五メートルの塔が望めるが、是非歩を運んで参拝したいものである。
 坂東札所がこの十二番までは、その道順に何の無理もないが、浅草寺、弘明寺へと次第するのは、どうも鎌倉へ戻るようで腑に落ちない。順番にかまわず巡ってよいというのであろうか。

●主な法要行事  一月一日与三日初詣・正月大護摩供 二月五日玄奘忌  八月九・十日四万六千日
●付近の名所旧跡  牛島の藤 人形の町
●宿泊施設 なし。
●拝観料 無料。
●納経時間 午前八時より午後五時

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観音さまのご功徳   慈恩寺住職 大嶋見順

 当山にお参りの方々には案内と一緒に「十句観音経」をお頒ちいたしております。当山先代が癌の手術の折、十句観音経のおかげで九死に一生を得たことから、その功徳をみなさまにお頒ちしたいと考えてのことです。この観音経を、少しでもお役にたてば、と布施続けてくださっておられた中村余容先生も、観音経により救われ、書家として画家としてご活躍された方です。白隠禅師の霊験記をまつまでもなく、そのご功徳をいただいた方々の救われた喜びを多々うかがっております。
 一心に念ずることにより観音さまと一体となり、観音さまのお心をわが身にいただいて、心にやすらぎと喜びが湧いてくるのは、すべてのとらわれから解き放たれることによるものでしょうか。
 いずれにしても、喜びとやすらぎをお持ち帰りいただきたいものであります。
 十句観音経
 観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念々従心起 念々不離心

出典:『坂東札所会のページ』より


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2007年元旦・浅草観音様へ初詣

1986年3月12日2度目の坂東札所巡り(写真の黄ばみが年月を感ずる)


浅草寺の宝物を収蔵している宝蔵門


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坂東札所2回目は熊谷の病院に入院中の姉のお見舞いを兼ねて13番・浅草寺〜岩槻の12番・慈恩寺をまわる。
お見舞いの時間を考え朝7:30分人気の少ない時間にお参りする。

納経をお願いすると『奥へどうぞ』と促され本堂へ上がる。
いつもながら
@無事に札所を周れますように
A家族が健康で暮らせますように
B仕事が順調に運びますように
C母が健康で長生きできますように
D早世した兄が成仏できますように
と祈った、今回から今年3月26日兄が亡くなりDを加える。

早朝にもかかわらず護摩のたかれた本堂では数名の方が正座し手を合わせていた。入院中の姉の病気快方を祈った後、奥の納経所で納経を受ける。

昭和33年再建された本堂
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昭和48年完成した五重塔・徳川家光建立の塔は焼失

 仲見世から宝蔵門も早朝で人影まばら


坂東札所2回目は熊谷の病院に入院中の姉のお見舞いを兼ねて13番・浅草寺〜岩槻の12番・慈恩寺をまわる。
12番・慈恩寺へは浅草から東武線で曳船、春日部と乗り換え豊春にむかう。



12番

14番
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第十三番金龍山浅草寺 (浅草観音) 聖観音宗
〒111-0032東京都台東区浅草二−三−一 03(3842)0181〜9
本尊●聖観世音菩薩 開基●土師直中知・桧前浜成・桧前竹成 中興開山●慈覚大師創立●推古天皇三十六年(六二八) 
●詠歌●ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身なれば

かんのんさん
 推古天皇三十六年(六二八 三月十八日、桧前浜成・竹成の兄弟が宮戸川(今の隅田川)で、その投網の中に聖観音像を感得、土師直中知と三人で祀ったのが浅草寺の草創という。桧前氏、土師氏は奈良時代の氏族で、東大寺大仏開眼供養式の楯伏舞に共に関係しており、しかも土師氏の名を記した文字瓦が武蔵国分寺址から出ていることなどによって、この物語を記す『浅草寺縁起』は信憑度が高いといわれている。
 のちにこの三人を祀ったのが三社権現(浅草神社)である。『武蔵野地名考』に「この地、観世音の霊場にて、おのずから聚落となり、荒蕪をひらくること他より先だちたれば、浅草の名はおこりたり」とあるように、浅草寺を中心として浅草は開けたのである。江戸湾で生活する名もなき漁民たちの守護仏、なんといっても寺の成り立ちがまことに庶民的である。だから今日まで千三百六十余年の間、観音さまと大衆とが深い縁によって結ばれ、民衆文化というものが観音さまのふところの中で自由自在に花開いたのも当然である。あさくさといえばかんのんさんといわれるほどに全国にその名が通っている。
 さて、慈寛大師が来山「お前立ち」のご本尊を刻み安置されてから参拝者が増したと寺伝は語るが、鎌倉時代にあっては源頼朝が深く帰依し、八幡宮の造営に浅草から大工を召したことが『吾妻鏡』に記されているのは、浅草寺が当時相当な伽藍を構えていた証である。正和二年(一三一三)頃に書かれた 『とはずがたり』には「霊仏と申すもゆかしくて参る」とあり、霊名をはせていたことが知られる。なお、天文十四年(一五四五)の『東国紀行』には「角田川もみえわたる森のようなる木末あり、とへば関東順礼観音浅草といふ所となむ」とあり、札所としても知られていた。

江戸の繁栄と共に
 江戸に幕府が開かれるや、それ以前十二ヶ坊を擁する大寺ではあったが、天海大僧正の進言で徳川家の祈願所となり、五百石を寄せられ、坂東無双の巨藍となった。『坂東霊場記』は「天正年中より堂社僧院湧くが如く起る」と、その隆昌を記し、『丙辰紀行』には「男女の群集すること京の清水より多く見へける」と、その繁栄のさまを綴っている。だが寛永八年(一六三一)同十九年に焼失。慶安二年(一六四九)将軍家光の代に観音堂、五重塔、仁王門、雷門が再建された。そして境内には数多くの末社を加え、庶民信仰で賑わい、『江戸繁昌記』には「人の賽詣すること未だ嘗て一刻の間も絶えざるなり」と書かれている。「江戸自慢十三番がこのくらい」という川柳は、坂東きっての大伽藍の浅草寺が第一番でないことへの不満であるが、坂東札所が江戸開府以前の創始であるので、いたしかたないことである。今日では日に数万、お正月三ヵ日の初詣では百六十万人といわれる。表参道の仲見世はいつも人が絶えない。
 惜しくも太平洋戦争によって堂塔を失ったが、今日ではそのすべてを復興し、輪奐の美をなしている。幸いにも戦火をまぬがれた「伝法院」小掘遠州の作庭といわれる庭園は見るべきもの。「大絵馬」は江戸時代の高い芸術の香りを今に残している。寺宝には国宝の「法華経」開結十巻。重文の「元版一切経」五千余巻などがある。

●主な法要行事  一月一日初詣 一月十二日〜十八日温座秘法陀羅尼会 三月十八日 本尊示現会  七月九・十日四万六千日(ほおづき市) 十月十八日菊供養会十月二十八日写経供養会 十二月十七・十八日歳の市(羽子板市) 毎月十八日観音ご縁日 毎月お茶湯月参講 毎週土曜日観音経読誦会 月例写経会 無畏参拝団 毎月仏教文化講座(安田生命ホール)
●付近の名所旧跡 浅草神社 寛永寺 江戸一番札所
●宿泊施設 なし。
●拝観料・無料。
●納経時間 (夏)午前六時〜午後五時  (冬)午前六時半〜午後五時 *境内には駐車できません。

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観音浄土     浅草寺貫首清水谷孝尚

 ご本尊さまがご示現になられましてから千三百六十年になります。この間、数えきれないほど多くの人々が一心に祈りをこめて参られ、今日も全国からの参詣者で浅草寺は賑わっております。これは観音経に説く「一心に観音さまの御名を称えれば、たちどころに厄難から救ってくださる」という観音さまの有難いおはたらきによせる信仰の表われでありましょう。
 この観音信仰のわかりやすさと、当山の『縁起』に示される名もなき三人によるご示現という庶民性とが魅力となって、「あさくさのかんのんさん」としての親しみをもっていただける霊場となったものと思います。 観音さまは「慈悲」をご本体とされる菩薩であります。いわゆる「己れを忘れ他を利する」お心の持ち主であられます。皆さんが観音さまを信仰なさいますと、もろもろの願いがかなうばかりではなく、この観音さまの慈悲のお心を自分のものとすることができるのです。 その時こそ皆さまは観音さまの化身となられるのです。そうなれば、この世は観音浄土となります。なお一層のご信心をおすすめいたします。

出典:『坂東札所会のページ』より


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昭和61年2月12日
坂東札所参拝初日の今日は1番・杉本寺〜4番・長谷寺〜3番・安養院・田代寺〜2番・岩殿寺〜14番・弘明寺の5ヶ寺を回る。
今日最後の14番・弘明寺。
逗子から京浜急行・弘明寺駅下車徒歩5分程。


坂東三十三ヶ所巡拝日程
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16
2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18
4回 昭和61年06月11日 28-27 10回 昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24
6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12回 平成17年09月20日 21-22-33-30


京浜急行弘明寺駅から坂を下って右手に弘明寺の仁王門がある。急な石段の両脇は坂東札所の観音様を刻んだ石碑が並んでいる。落ち着いて雰囲気の本堂をお参りする。縁結びのご利益があるそうだ。


聖天堂には秘仏の縁結びの歓喜天が祀られているが拝観には別棟の客室で精進料理をいただいた人のみ公開するとか?ありがたみが薄れた。秘仏なら普段は例外なく公開せず何かの折に万人に公開するのがいいと思う。

坂東三三ヶ所
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昭和61年2月12日坂東札所第一回目は5ヶ寺をまわり終え弘明寺駅から電車で帰る。


13番

15番
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第十四番 瑞応山弘明寺 高野山真言宗
〒232-0067横浜市南区弘明寺町二六七 я克末ア所045(711)1231 本堂045(715)0222 仁王門045(715)0224
本尊●十一面観世音菩薩 開基●行基菩薩 創立●天平九年(七三七) 
光慧上人の建立
 『弘明寺縁起』に「其の境域・・・艮に臨めば滄波百丈を湛へ、坤を顧れば富士巍々として白雪皚々たり・・・真に是れ天下無双の勝境」とある景観は、今日求むべくもないが、弘明寺は九百四十年以前に造立されたご本尊と本堂とを擁する関東の古刹であることに変わりはない。京浜急行線弘明寺駅からも近く、また表参道は市営バス停「弘明寺」の角を曲ると一直線の商店街が仁王門まで続き、参拝者を容易に導いてくれる。竹一管造りの「竹の観音」を拝し、石段を上ると観音堂がある。寺伝によれば天平九年(七三七)僧行基がこの地で霊感を得て、十一面観音を刻んで一宇を建立したのが開創という。だが、光慧上人の事跡の方が、ここ瑞応山蓮華院弘明寺では濃い。
 『坂東霊場記』に長暦年問(一〇三七〜四〇)武相の地に疫病が流行した時、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったとある。この霊験を詠んだのが、ここの御詠歌である。
『風土記稿』には「今の堂は明和二年改め造りし所なり、其時古き堂の柱を除き去りしに、ほぞの内に寛徳元年申年と記しありしを、村民庄左衛門まさしく見たり」とあって、現在の観音堂の造られた年代が知られる。寛和元年(九八五)に中興開山と仰がれる光慧上人が建てた頃の、チョウナ削りは内陣にそのまま現在でも見られる。
 「相模八ヵ所、浅草、弘明寺を納め、千葉寺へ赴く」と『坂東霊場記』にあるが、これは江戸時代には全く札所の順序を念頭におかなかったことを示すものであろう。この寺は古い頃、「求明寺」とも称していた。

鉈彫りの観音さま
 僧行基が一刀三礼のうちに刻み奉ったという「鉈彫り」の観音さま。実はその彫刻の形式からして平安末期のものといわれる。顔から足の先まで、丸ノミでシマ目のノミの跡をはっきり表わした尊像。この鉈彫りは十世紀から十一世紀にかけて関東地方に多く見られる仏像彫刻の一形式であるが、その中でも最も優れたものとして知られている。すばらしいご本尊さまである。
 像高一八〇センチ、欅の一木造りといわれてきたが、昭和三十九年、虫害防止のためよく調べると関東地方特産のカタ木の「ハルニレ」の木であることがわかった。まさに関東育ちの仏さまである。荒けずりで一見、粗野に見えるが、赤外線写真で見ると唇に朱をさし、眉目や口ひげ、胸かざりの瓔珞などが墨書されており、愛らしささえたたえた十一面観音さまである。
 昭和三十三年に防災安置堂が完成し、このご本尊が納められたのは、まことに慶賀に堪えない。このような近代的予防設備のない時代、信仰心だけによって護ってきた人々の信心がいまさらながら尊く感ぜられる。ぜひ内々陣に入って身近に拝していただきたい。
 さて『吾妻鏡』によれば鎌倉時代は源家累代の祈願所として、現世安隠の利益を存分に武将たちに与えてきたようだ。源頼朝は僧行基を尊崇していたので、この寺を坂東札所の中に入れたとも考えられる。観音堂の左手に厄除大師と弘法大師が納められたと伝える聖天尊をまつるお堂がある。また仁王門前の文政元年の百番供養塔は貴重な「道しるべ」である。
●主な法要行事  一月一日から三日元旦初詣・家内安全護摩 二月三日または四日節分豆まき・厄除護摩 四月八日釈迦誕生花祭 七月八日〜十日十一面観音四万六千日開帳 十一月十五日七五三詣り 十二月三十一日終夜かがり火供養 毎月三の日、三日・十三日・二十三日聖天秘密浴油祈祷 毎月八の日、八日・十八日・二十八日観音護摩祈祷
●付近の名所旧跡 山下公園 本牧市民公園
●宿泊施設 なし。
●拝観料 三〇〇円。
●納経時間 午前九時〜午後四時

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十一面観音が笑う?!?   弘明寺住職 美松寛定

 十一面観音を本尊と奉る寺院は全国各地に多く、当山本尊も、天平時代に行基が、鉈彫と呼ばれる方法で彫ったといわれる十一面観音である。
 先日、わけがあって本尊さまを動かしていたら、普段はお目にかかることができないまうしろのお顔とご対面させていただくことができた。
 実はこのお顔、カンラ、カンラと笑っているのである。『十一面観音神呪経』という経典に、「当前の三面は、菩薩の面に作れ。左の廂の三面は当に瞋れる面に作るべし。右の廂の三面は、菩薩の面に似て狗牙を上に出せ。後に一面あり当に笑面に作るべし。其の頂上の面は当に仏の面に作るべし」と書かれている。 つまり正面の三面は菩薩面、左三面は怒りの顔、右三面は牙を出し、頭の上に仏面をおき、そしてうしろの一面は邪心をおさえるために笑っているのである。機会があれば一度ご覧になってみてはいかがだろう。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和62年)5月13日
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昭和62年5月13日坂東三十三ヶ所札所7回目・巡拝は群馬県榛名町の15番・長谷寺〜伊香保町の16番・水沢寺の2ヶ寺。

中央線・西国分寺〜武蔵野線・南浦和〜東北線と乗り継いで高崎駅着8:02分。榛名湖行きバスに乗りドドメキという変わった名前の停留所で下車そこから30分歩く。
坂東札所には鎌倉の4番長谷寺、厚木の6番長谷寺と、ここ15番・長谷寺の3つ長谷寺がある。


納経・朱印は通りをはさんだ向かいの、お寺を守る半農家の坊で受け付けていた。

境内に入ると一人の中年女性がひたむきにお百度参りをしている姿が目に入る、脇を静かに抜けてお参りする。何を祈っているのか解らないがただひたすら歩き祈願している心が伝わってくる。

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又、ドドメキ停留所に戻りバスを待ち、伊香保・榛名湖方面行きで16番・水沢寺へむかう。


14番

16番
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第十五番 白岩山 長谷寺(白岩観音) 金峯山修験本宗
〒370-3332 群馬県群馬郡榛名町白岩四四八 0273(43)0349

本尊●十一面観世音菩薩 開基●役ノ行者 創立●文武天皇朱鳥年中 
●詠歌●誰も皆な 祈る心は 白岩の 初瀬の誓ひ 頼もしきかな

役ノ行者・僧行基の伝説
 「背の高い美しい姿の像である。両眼はやや伏目で、両瞼に墨線をいれ、瞳には墨を点じ、唇は厚手で朱をさし、口もとに墨で髭をあらわし・・・・面相は柔和なうちにも、素朴な野趣にあふれ・・・木彫像の古い作例で藤原期のもの」と久野健氏が紹介されているのが、白岩の観音さまとして親しまれている長谷寺の御本尊である。東国における平安文化の代表作といえる。『坂東霊場記』には「白岩山長谷寺は役ノ優婆塞苦行の陳跡なり、十一面観自在の影向、不動明王湧出の霊窟なり。本尊大悲の像は行基大士他の除厄のために楊柳の霊樹を以て彫刻し玉ふ」とあり、そして郷土の高崎氏が檀主となって観音堂を建立した。高崎氏は四十二歳の厄年を恐れていたが、ある時、一人の旅僧のために一夜の宿を供した。そのお礼にと旅僧は役ノ行者のゆかりの地に生えていた楊柳の木で、大和初瀬の十一面観音を摸して尊像を造り与えてくれた。その旅僧こそ行基であったというのである。 役ノ行者ゆかりの地とは、行者が烏川の底から白い巨岩を運ばせて、ここに修行の場をつくったという伝説のことをいう。これは寺が開かれる場所の神聖さを示す「磐坐信仰」から出たもので、この「岩」の存在が大和長谷寺の系列にこの寺を入らしめたものと思われる。

新長谷寺信仰
 この寺には『長谷寺縁起』を少し簡略にし、仮名交り文にした室町時代の『上野国群馬郡白岩長谷寺慈眼院縁起』一軸が伝存するが、これも両寺の密接なつながりを語るものといえよう。「文政十三年歳在庚寅春壬正月、修幀願主、木暮林右衛門義住、下田源八郎智宣」との奥書がある。
 寺伝によれば延暦・大同(七八二〜八一〇)の頃に伝教大師、弘法大師も来錫し、文徳天皇(八五一)の御代、在原業平が堂宇を修営したという。のちに源義家、新田義貞など武将の信仰もあつかった。
 この長谷寺のある所を「白岩」といい、六ヵ坊の修験が修法していた。新田義貞の挙兵にあたって、この修験者たちが坂東八ヵ国に盛んに檄を伝えたという。また白岩に境を接する里見郷は新田義貞と共に滅亡した里見一族の本拠地であり、のちの楠正成の家臣浜名左衛門義尊が遠江国濱名邑より来たりて諸堂を改修し護った。現山主はその三十九代目にあたる。
 天文元年(一五三二)上杉憲政が伽藍を整えてから日本三長谷の一つとなった。だが永禄六年(一五六三)武田信玄の箕輪城攻略の兵火で烏有に帰した。そこで武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(一五八〇)再建させたのが現在の観音堂である。唐破風をもつ見事な建築である。本堂向拝に見る彩色をはどこした重厚な彫刻、狩野派の絵師牧守俊の画く天人奏楽の天井画など、まことにすばらしい。因みに「お前立ち本尊」は鎌倉前期の作。古蒼な仁王門は、この霊場にふさわしい。
 明治の神仏分離の折、ご本尊は祖師堂に移されたが、三十六代山主の妻の「十一面観音さまを観音堂へ返して欲しい」と、当時の高崎郡役所に日参した熱心な嘆願でもとに戻ったという。尊い話である。やはり寺は在地の人たちの厚い信心によって護られていくものであることを、この話は教えている。

●主な法要行事  新春祈願祭 涅槃会 春分の日春季彼岸会 花祭 祈園祭 孟蘭盆会 秋分の日秋季彼岸会
●付近の名所旧跡  箕輪城跡 幕末勘定奉行小栗上野介の墓 榛名湖 榛名神社 長谷寺守護神白岩白山神社
●宿泊施設  なし。伊香保温泉旅舘案内所へ紹介。
●拝観料 
●納経時間 午前八時〜午後五時

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観音さま 長谷寺住職 浜名静海

 阿弥陀の具現か未来の仏、いずれにせよ現世を救い未来を約す有難きお方、一切の欲から離れ慈悲のみが満ちた観音さまは、たえず仏になるべく努力し苦しむ衆生を助け、仏の教えを信じさせながら苦の底から救ってくださいます。祈る人の心が誠であれば必ず智慧を与え力を貸し、利益、そして楽を与えてくれるのです。
 食べ物を有難くいただく時、コップ一杯の水を感謝の心でいただく時、食べ物も水もみな観音さまなのです。家庭にあっては可愛い子供のために、一心不乱不動で働く母親の姿はまさに観音さまのお姿です。また、重症の患者が心から医者を信頼して見てもらうように、頼る者なら区別なく無限の愛情を注いでくださるのが観音さまです。
 仏の教えは限られた人生を正しく全うすべく説かれた教えで、生活の中で目に見えぬわからぬところで肥しとなり糧となっているのです。
 観音さまは現世における衆生救済の菩薩なのです。

出典:『坂東札所会のページ』より


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