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Ken & Mary's Second Life
坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1987年(昭和62年)5月13日
坂東三三ヶ所
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昭和62年5月13日坂東三十三ヶ所札所7回目・巡拝
高崎から伊香保への街道沿いの15番・長谷寺〜伊香保町の16番・水沢寺の2ヶ寺。

伊香保には昭和47年8月軽井沢から伊香保・榛名湖そして日光へのドライブ旅行に来て以来15年ぶり。
15番白岩観音ドドメキ・バス停からバスに乗り伊香保・榛名湖へ。
榛名湖では湖畔をしばらく散策して12:30分のバスで伊香保温泉へ戻りバスを乗り継いで16番・水沢寺へ。
水沢うどんの知名度が高いせいで沢山の観光客。いままでまわった秩父札所・坂東札所の中で一番の参詣客で賑やか。



水沢観音・本堂

六角堂・この寺を参拝したら必ず回すだろう六角堂で参詣客に混じって六周まわって願をかける。


山門をくぐって石段をおり名物の水沢うどんを店頭で打つ実演販売の店が並ぶ通りに出て、座敷で沢山の観光客に混じって食べる。名物に上手い物なしというが、水沢うどんは腰が強くなかなかおいしかった。

15年ぶりの伊香保温泉・榛名湖畔

7度目の坂東札所巡りは水沢うどんを食べてそこからバスで高崎へ下り東北線・上野行きに乗り帰路に着く。


15番

17番
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第十六番五徳山水澤寺 (水沢観音) 天台宗
〒377-0103 群馬県北群馬郡伊香保町水沢二一四−一 0279(72)3619
本尊●千手観世音菩薩 開基●恵灌僧正 創立●推古天皇の朝 
●詠歌●たのみくる 心も清き 水沢の 深き願いを うるぞうれしき

僧恵灌の開創
 水澤寺のすぐ下にはバス停、右の高台には駐車場があり、参拝には便利な寺。宝暦十四年(一七六四)の「伊香保道の記」には「上野の国伊香保なる出湯あみんと思ひ立つ・・・山路に入りゆく限りなふ遙けき心地す・・・・観世音菩薩立たまふ、関のこなたにては十阿まり六つの番にあたらせたまふ御寺とぞ。御堂もこの頃営みはてしなどきらきらしう見ゆ」とあり、往時は困難な路を辿っての参拝であった。表参道の石段を上る所に水屋があり、清冽な水が豊かに流れこんでいる。「五徳山」と水の徳を讃える山号の由来がわかる。そこから仰ぐ山門の偉容、そして歩一歩石階を踏むと、おのずから心がひきしまってくるが、これが山岳霊場のよさである。山門の仁王尊の背後には五風十雨を願う風雷神が祀られており、いかにも上毛地方の寺という印象をうける。この門の左手に群馬生まれの詩人山村暮鳥の歌碑が建っている。
 約百段を登りつめると観音堂。南北朝時代成立の『神道集』によれば、金堂・講堂・常行堂・潅頂堂・経蔵・鐘楼・多宝塔・全山併せて仏像百八十体を祀る巨刹であったようだが、火災により焼失。そのつど再建を重ねて現在のお堂は、大永年間に仮堂を造り、元禄から天明(一六八八〜一七八九)に至るまで年々改築を加えてきたものである。水沢山(浅間山一一九二メートル)を背にする朱塗りのお堂は実に見事である。
『縁起』には「推古天皇の朝に当り、上野の国司高光中将菩提の所となさんがため、奏聞を経、御勅宣を以て高麗来朝の僧恵灌僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置し建立する寺なり」とある。そして「住僧多くして三百余防に及び、上帝叡感有り勅額寺と定む。御宸毫の額、五徳山水澤寺を賜ふ」とある。

伊香保姫物語
 ここのご本尊は伊香保姫を妬んだ継母が姫を吾妻川に沈めようとした時、霊験を表わし救い給い、やがて高光中将に嫁いで幸せになったという物語の千手観音さまである。その梗概は履仲天皇の頃、高野辺左大将家成という公卿が上野国へあることによって流されていたが、北の方との間に若君一人と姫君三人があった。若君は上洛して左小将になり、姫たちはそれぞれ淵名の姫・赤城の御前・伊香保姫となって成長した。しかし、北の方が亡くなり家成が後添えを迎え一女を設け、家成は宣旨を受けて単身上洛するや、継母はこの三人の姫を殺そうと謀ったのであった。ところが伊香保姫を淵に沈めようとした時、「赤城山の峯より俄かに黒雲起り風雨烈しく雷電ひらめき鳴り、又河の中には数万のときの声おこり、兼光が一党是に驚き前後を亡じて逃退たり、斯る所へ異形の人出て来り、漫々たる大河をかちわたりし玉ふに、その渦まく流れ左右にひらき」姫は助かった。「雲中に声ありて日く、今仮りに人の形を現じて危き汝が命を助けたりしは、我れ汝に与えし守本尊なり」と、その霊験を『坂東霊場記』は語っている。いわゆる継子いじめ譚にむすびつけた観音利生の話である。中世以降のお伽草子流行期に入ってから大いにもてはやされたものであり、水澤寺もその頃から有名な寺院になっていったのではなかろうか。この霊験が一般に共感を呼び、七難即滅、七福即生の「融通観音」としての霊名を高めていった。
 本堂右手に元禄年間造立の六角輪堂があり、この六地蔵を廻して罪障消滅、後生善処を祈る人が絶えない。「水沢うどん」は有名。半透明に光り、生イカを思わせる口あたり、まことに美味しい。これも観音さまからの授りものといえよう。
●主な法要行事  初詣 七草祭 節分会
●付近の名所旧跡  水沢山 船尾滝 万葉植物園
●宿泊施設  なし。近くに伊香保温泉がある。
●拝観料  内陣拝観三〇〇円
●納経時間 午前八時〜午後五時

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五徳のこころ 水澤寺住職 山本玄晃

 五徳山水澤寺は、推古天皇の祈願により創立以来千三百有余年、年中お参りの絶えない所です。
 山号、五徳山は、水の五つの徳をたたえたもので、五徳とは一、“常に己れの進路を求めてやまざるは水なり”居着いても止まることなく自分の進路に向かって進みなさい。二、“自ら活動しで他を動かすは水なり”自分から進んで動きなさい。三、“盛害に逢ってその勢力を倍加するのは水なり”障害にぶつかればぶつかった時以上のカをつけて進みなさい。四、“自ら潔くして他の汚濁を洗い而して、清濁併せいるは水なり”怠けないで悪い人も良い人も一緒に連れて行きなさい。五、洋々として大海を充し、発しては雲となり雨と変じ凍っては玲瑞たる氷雪と化して、其の性を失わざるは水なり”長年連れ添った妻を今になってイヤになったというようなことはしてはいけない、の五つで、一切の生命を生かそうとする観音さまのお心から出てきたものです。私は「如何なる国、如何なる所でも一刹那として観世音の光の中にあって世間をみて、目にみえる物、心の感じるもの一つ一つを生かそうと努力する」気持ちが強く、ご本尊をお参りせず去ろうとする人を大声で叱りとばしたことがあります。
 観音さまはいわば自然の声ですから自然にお参りしてほしい。心の向くまま、どんなことでもよい、熱心におがめばよいのです。

出典:『坂東札所会のページ』より


15番

17番
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3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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昭和63年6月8日
9回目の坂東札所巡拝は栃木の17番・満願寺〜18番・中禅寺。
家から〜浅草へ、東武日光線に乗り栃木駅へ約1:30で到着。
駅前で1時間ほどバスを待ち出流観音(満願寺)へ。
バスの乗客は大宮からの方と四谷からの方どちらも年配の1人参拝の方と一緒でおまいりも一緒にする。



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17番・満願寺は三代将軍徳川家光の加護厚いお寺。本堂脇から奥の院は有料となり拝殿おくが鍾乳洞になっており鍾乳石で自然に造形されたという十一面観音が御本尊になっている。


帰りのバスは来る時のご年配の方々と一緒になる。
乗客は来る時と同じ4人だけ。
運転手さんに13時37分栃木駅発の電車に乗れるだろうかと尋ねると親切心から通常55分かかるところを急いで走らせてくれて40分で栃木駅に着いてしまう。
ぎりぎり予定時刻の電車に間に合って日光へ向う。


16番

18番
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第十七番出流山満願寺 (出流観音)真言宗智山派別格本山
  〒328-0206 栃木県栃木市出流町二八八 0282(31)1717
  本尊●千手観世音菩薩 開基●勝道上人 創立●天平神護元年(七六五) 
  ●詠歌●ふるさとを はるばるここに たちいづる わがゆくすえは いづくなるらん
 
  奥の院霊泉の神秘
 JRの栃木駅から出流行きバスで五十分、享保二十年(一七三五)建立という雄大な構えの山門前に達する。輪王寺守覚法親王御染筆の「出流山」の扁額がかかげられている。途中、石灰の産地銅山あたりから山峡に入った感を深くする。それもそのはず、千二百年前からこの標高三六〇メートルの出流山は勝道上人ご修行の場であり、のちには山伏練行の所であるからだ。自然に造形された岩窟の神秘をよりどころとして寺院が開かれる例は、わが国には多い。満願寺の開創も、現在奥の院と呼ばれている霊窟によっているぐ鐘乳石のあらわす容態を十一面観音と崇めたのが始まりである。
『坂東霊場記』には「殊勝の体相凡舌に演べがたし、巡礼の輩これを拝見して、感涙袖を絞らざる者なし」と記してある。当山の奥、剣ケ峰の中腹に七つの霊窟(鐘乳洞)があり、特に観音霊窟は奥の院と呼ばれる。その中に拝される「西方弥陀の浄土に向かわせられる、一切衆生済度のため御看経みうしろの御姿」といわれる十一面観世音のご尊体は、高さ三メートル余の鐘乳石で、全く自然に造形されたもので、それだけ信徒の随喜やまざるところである。鐘乳石や石筍の成長は百年にわずか数ミリというから、開山当時とそのお姿はさはど変わっていないことになる。文字どおり千古の霊窟である。
 うっそうと茂る木立ちを仰ぎながら奥の院に向かうと、見事な舞台造りの礼堂に行き着く。お堂の前には落下六メートルの大悲の滝、ここで行者が垢離を行う。かつて修験者たちは二十一日間、この滝に打たれなくては日光山への入峰は許されなかったという。この奥の院をはさんで大日と大師の霊窟があり、これを巡るのを「出流山厄除け三山めぐり」と呼んでいる。境内に「三山切手所」という碑があるが、これは三つの籠り場に入るのに「切手」を必要としたことを示している。

勝道上人のご出生
 この寺の開山勝道上人は、下野芳賀の人である。父の国司であった若田氏高藤介という方の奥方が子宝に恵まれなかったのを嘆かれ、この奥の院に参籠して観音さまを祈り、授かったのが勝道上人である。いわば上人は観音さまの申し子であられた。この故事により、現在も「子授け安産」の観音として参詣者が多い。
 上人はこの尊像に深く帰依され、二十歳にして、この霊窟で三ヶ年修行、やがて男体山の登拝、そして日光山を開創されたのである。のちに弘法大師が勝道上人の遺跡を訪ねて来山され、この岩窟への参詣だけでは難儀であろうと千手観音像を刻み、安置され「千手院」と称えたのが、今の満願寺である。
 応永年間(一三九四〜一四二八)足利義満が寄進したお堂は焼失、のち明和元年(一七六四)に住僧道ゴウによって再建されたのが八間四面の今の大御堂。唐破風を有する向拝の壮靂さ、龍頭の尾垂木など江戸時代の特色をみせている。三代将軍家光公の特別な保護の余韻といえよう。
 七万坪に及ぶ境内には、かつては福性院はじめ八ヵ院があり、真言宗智山派の談林であり、現在も若い修行憎が多く学んでいる。近代建築による立派な信徒会舘がある。

●主な法要行事  一月元旦〜七日新春大護摩供・初詣り 旧元旦(旧暦の元旦の日)奥の院滝開き・大護摩供 四月二十一日開山勝道上人御影供・大祭 十月第二日曜日出流弁天ご縁日 毎月十七日本尊千手観世音ご縁日
●付近の名所旧跡  大平山神社(桜の名所) 古峯神社(日本三天狗の一つ)
●宿泊施設  出流山会館約二百人。一泊二食付。昼食のみも可。料理は当山の精進料理。
●拝観料 無料。奥の院参拝者のみ大人三〇〇円、小人二〇〇円。団体割引あり。 ●納経時間 午前八時〜午後五時

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観音さまと護摩祈蒔の寺 出流山住職 竹村智優 

 出流山では、ご信者のみなさまのお願いごとが成就するように、毎日ご宝前で護摩祈頑が行われております。当山のご本尊千手観世音菩薩は、観音経の言葉どおり私たちの願いを即時にかなえて霊験ますますあらたかであります。 護摩祈祷とは、私たちのさまざまな願いごとを観音さまの智慧の火によって浄めて成就させる法要であります。私たちが生きている現実は、悟りも迷いも、間違いも入りまじつているわけです。私たちの願いごとも、身勝手で迷いも間違いもまじっているかも知れません。 それを全部洗いざらい観音さまにぶつけて一心に祈願すると、私たちの迷いや間違いが洗い浄められて、自分自身の本当の願いが何であるか明確になり、その願いが実現できるという弘法大師の秘法が護摩祈祷であります。 もちろん、ご信者のみなさまにも、一緒に観音経を唱和していただけば、山深い本堂に響くお経の声はみなさまの心に深くしみ入って、観音さまの妙智力はみなさまのものになるに違いありません。

出典:『坂東札所会のページ』より


16番

18番
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昭和63年6月8日9回目の坂東札所
17番・満願寺最寄りの栃木駅から電車で日光駅へ。
バスに乗り第二いろは坂を登り中禅寺温泉下車、温泉街を抜け湖畔の道を歩いて20分程でお寺に着く。
みやげ物や食堂などが続く門前町の先に立派な山門が見える。
拝観料を支払い境内へ。
本堂内では若いガイドの女性付きで2ヶ所で寄進を半ば強要され札所を周って初めて不快な気持ちになる。
寄付・寄進は強要するものでなく、強要はお寺の品格を下げてしまう。
立派なお寺だけに惜しい気がする。


奥の山腹には五大堂があり回廊からの中禅寺湖の眺めはみごとなもの。
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中禅寺温泉バス停に戻り東武日光駅へ。特急浅草行きに乗る。
18時浅草着。夕食は楽しみにしていたビューホテル近くの『とんかつ河金』という特大の100匁とんかつで有名な店に行く。
が、廃業してしまって閉店ビラが貼ってある。あんなにマスコミで取り上げられた有名店でも店の経営内容は解らないもの。残念だがしょうがない、仲見世通り裏の『ニュー浅草』という居酒屋(安くて美味しかった)に入り夕食をして帰る。


17番

19番
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第十八番 日光山中禅寺 (立木観音) 天台宗
〒321-1400 栃木県日光市中禅寺歌ケ浜二五七八 0288(55)0013
本尊●千手観世音菩薩 開基●勝道上人 創立●延暦三年(七八四) 
●詠歌●中禅寺 のぼりて拝む みずうみの うたの浜路に たつは白波

補陀渚浄土
 日光という地名は二荒から出ており、二荒山とは男体山のことである。二荒はフタラと読み、音読でニコウ、これに日光の文字をあてたもの。さて、このフタラ山こそ観音の浄土補陀洛山なのである。この寺の開基勝道上人は幼児から出塵の志を起こし、天平勝宝六年(七五四)二十歳で出家、出流山の霊窟に参籠し、深く観音に帰依された。そして観音浄土への強いあこがれから、やがて男体山を開くに至った。
 すなわち、二十七歳の天平神護二年(七六六)に日光の地に四本龍寺を建てた(これがのちに満願寺、光明院、そして今の輪王寺となった)。それから十五年を要し、ついに延暦元年(七八二)前人未踏の男体山の頂上を道珍・勝尊などの弟子らと共にきわめられたのである。その様子は弘法大師の「沙門勝道、山水を歴、玄珠を磨くの碑」に詳しい。

立木の観音像
 延暦三年(七八四)の春、小舟で上人が中禅寺湖を周遊された折、湖上に千手観音の尊容を感見され、桂の巨木を選んで立木のまま刻まれたのが中禅寺の本尊「立木千手観世音菩薩」(重文指定)である。その六メートル余の尊像は、まさしく平安時代初期のもので、伏目の柔らかな表情、関東造りの素朴さが印象的である。 男体山霊を祀った中宮詞のもとの名は、補陀洛山中禅寺であり、その境内に本寺観音堂が建てられ、そこに奉安されていた。脇侍には奥羽征討の時に源頼朝が寄進した四天王像が祀られているが、荒彫りに近い雄渾な姿は時代をよく反映している。
 中禅寺湖は海抜一、二六九メートルの高地にあり、それまでに馬返し、いろは坂、華厳の滝などを過ぎるのであるが、今ではドライブウェイで一気に湖畔に着く。この霊場は女人禁制であったので、女性はいろは坂の途中にあった「女人堂」からご本尊を遥拝したものである。
 日光山は神仏習合の霊地であったが、明治初期の神仏分離令によって、その様相を変えてしまった。また、明治三十五年の山津波により観音堂が湖畔に押し流されたが、ご本尊は少しの損傷もなく湖上に浮かび、現在の歌ケ浜観音堂に奉安し、今日に及んでいる。
 紺碧の湖に美しい朱の彩りを添えて建つ中禅寺大悲閣、また五大堂は坂東札所の中で最も美しい殿堂。五大堂の天井画「瑞祥龍」は堅山南風画伯の筆、格天井の「日光花づくし」の絵は院展同人二十四人の筆になる。ここからの山と湖の四季折々の眺めは、まさに絶景である。勝道上人の修法に感じて天人が舞い降り、歌詠賛嘆したというこの浜は、日光修験が入峰の護摩を修した聖地でもある。
 映画「愛染かつら」のロケで有名な愛染堂、また開運、足止、安産で御霊験あらたかな波之利大黒天堂があり、湖畔の周囲には薬師堂のある八丁出島、開山勝道上人の首骨を埋葬した「上野島」、千手観音を祀る千手ヶ浜などの聖域が広く点在している。「立木観音講」は毎年六月十八日、盛大な法要を執行する。なお湖上に船をうかべ上人の巡拝された跡を偲ぶ「船禅頂」は八月四日である。ここは輪王寺の「別院」。

●主な法要行事  除夜〜正月修正会 六月十八日中禅寺観音講法要 八月四日船禅頂法要
●付近の名所旧跡 華厳の滝 中禅寺湖 輪王寺 龍頭の竜 戦場ヶ原 湯元温泉 湯元温泉寺
●宿泊施設  なし。近くに湯元温泉寺、素泊り(祈祷科込) 三〇〇〇円。要予約。冬期間(一月中旬〜四月中旬) 閉鎖。
●拝観料 大人三〇〇円、小・中学生一〇〇円。三十人以上団体割引あり。
●納経時間  四月一日〜十月三十一日 午前八時〜午後五時。十一月一日〜十一月三十日午前八時〜午後四時。十二月一日〜二月二十八日午前八時四十分〜午後三時三十分。三月一日〜三月三十一日午前八時〜午後四時。

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観音さまのお声 中禅専門主 鈴木常俊 

 ある夏の日、七十歳前後のおじいさんが、中学生ぐらいの孫をつれて、ご本尊立木観音さまの前で、一心に観音経を読誦している。その姿があまりに真剣なので、後刻声をかけてみると、実は、と言いながら次のようなことを話してくださった。 私は若い頃、経済的な悩みごとで人生に失望、死ぬつもりで華厳の滝まで来たが、この世の最後にと思い立木観音さまをお参りしたところ、「死んではいけない。頑張りなさい」という観音さまのお声が聞こえてきたのです。 観音さまのお言葉で死ぬのを思い留まり、それからは一生懸命働いてきました。おかげさまで今日の私があるのです。年に一度必ず参拝お礼を申し上げているのですが、おそらくほかにも私のような人がいると思いますよ、とのことであった。 観音さまをお参りしたため、華厳病から救われている人が何人もいるということは本当に有難いことです。  南無大慈大悲観世音菩薩

出典:『坂東札所会のページ』より


17番

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昭和61年12月10日坂東札所6回目巡拝は23番・正福寺〜20番・西明寺〜19番・大谷寺の三ケ所をまわる。
20番・西明寺から約一時間益子駅まで歩き宇都宮行きのバスに乗る。
宇都宮駅から大谷行きバスに乗換え15:00大谷寺到着。


大谷は名前の通りの大谷石の産地で大谷寺のご本尊も大谷石。
背後から迫る岩中に本堂が建つ姿は特異なもの。


お参りした後、近くの平和観音にいってみる。ここはかって大谷石の採掘場でその後を利用して彫り上げられた。青空の中に浮かぶ優しい観音様の白い顔が壮観。


平和観音を見た後歩いて10分ほどの大谷石資料館に寄る。
地下深く入って採石現場を見学。後楽園球場がすっぽり入ってしまうという地下の採石場は迫力満点だった。

宇都宮に戻り16:53分上野行きに乗り帰路に着く。


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第十九番天開山大谷寺 (大谷観音)天台宗
〒321-0345 栃木県宇都宮市大谷町一一九八 028(652)0128
本尊●千手観世音菩薩 開基●弘法大師 創立●弘仁元年(八一〇) 
●詠歌●名を聞くも めぐみ大谷の 観世音 みちびきたまへ 知るも知らぬも

毒蛇調伏を緑として
 天平年間(七二九〜四九)にはすでに下野の薬師寺、国分寺の礎石にその使用例がみられるという歴史の古い大谷石の産地、宇部宮大谷にこの寺はあり、ご本尊も大谷石で造られている。寺伝によれば弘仁元年(八一〇)弘法大師が自らこの千手観音像を刻まれ、開基となられたという。『坂東霊場記』は「昔此中に毒蛇住て時々毒水を流し出せり・・・地獄谷と申せしが」湯殿山の行者三人来りて修法、千手像を造って住民の苦難を救ったのに始ると記している。毒蛇調伏を縁とした遊行的な山伏と奇岩によせる素朴な部落信仰とがむすびつき、ここに仏教信仰が流入してきたとみてよいだろう。
 ここで注目したいのは「内陣は山、外陣は御堂なり」(坂東霊場記)とあることで、大谷石の山そのものを崇める自然崇拝からここの信仰がおこっていることである。たしかに大谷石の淡青色は神秘である。そこに霊感を得てはとけを刻み奉ったのも当然といえよう。山門を入ると行く手をふさぐような高い岩壁、これをくりぬいて建てられたお堂、まさに石の寺である。

石心塑像のご本尊
 「いつの世に刻まれたか知れぬ年古りた石のほとけの姿、大きい岩のおもてを拝する時、人は何か神秘の感に打たれる」と川勝政太郎氏が述べている。あるいは化人の彫刻といい、あるいは弘法大師の御作といわれるのも無理はない。像高四・五メートル、放射状に四十二本の御手が何ら乱雑な印象を与えることなく、美しい律動感すらともなって拝される観音さまは秀麗の一語に尽きる。平安時代初期の造立で、わが国の石仏のうちで最優秀作といわれる所以である。「下野風土記」は「まこと凡人のきざみなせる仏にあらず、感涙銘肝、拝殿を出づ」と記している。
 柔らかくて崩れやすいこの大谷石に、よくもこのような複雑な表現ができたものだ。まさに神技といえよう。石心塑像といって、石を削り、その上に朱を塗り、塑土で細部を粉飾して仕上げたものという。続く脇堂には釈迦・薬師・阿弥陀のそれぞれ三尊像が彫られている。
 江戸時代には徳川家康の娘奥平亀姫が深くこの尊を信じ、元和年間(一六一五〜二四)には天海大僧正の法弟伝海僧正によって中興され、以後、天台宗に属し、輪王寺の末寺としての寺格を誇った。今も葵紋の幡幕が本堂の向拝を飾っている。宝永年間(一七〇四〜一一)松平輝貞、奥平昌成らによって堂宇が整備された。また、歴代の輪王寺の法親王は上野寛永寺から日光社参の折には、この寺を宿泊所とされ、したがって幕府の庇護も尋常ではなかった。
 不忍池を偲んだといわれる前庭の池や背景の老松があたりによく調和して、心にくいばかりの落ちつきをみせている本坊である。
 昭和三十七年からの保存維持の工事の際、堂下から縄文初期より弥生時代に至るまでの「屈葬」の人骨や土器・石器が発掘された。参拝のあと宝物館で観られることをおすすめする。なお、このあたりを中心に直径四キロが大谷石の本場だというが、寺のすぐ前に昭和三十一年、太平洋戦争殉難者の慰霊と平和祈願のためにと像高二七メートルの観音像が造られた。詣でたいものである。

●宿泊施設  なし。近くに「田丸屋」(0286・ 52・0019)がある。
●拝観料  大人三〇〇円、中学生一〇〇円、小学生七〇円。三十人以上団体割引あり。
●約経時間  四月〜十月午前八時三十分〜午後五時。十一月〜三月午前九時〜午後四時三十分 
●拝観休業日  毎年十二月十九日〜三十一日。一月・二月・三月の各第二・四木曜日(但し定休日が祝祭日と重なる場合は除く)。

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身代わりになくなったお守り   大谷寺住職 高橋敬忠
 当山ご本尊の千手観音は、弘仁元年(八一〇)弘法大師の作と伝えられており、古くから大谷観音と称され親しまれております。
 さて、近年は観光旅行のブームに乗り、観光主体の参拝者が増えておりますが、とても信心深い青年のことをお話ししましょう。 親子代々信仰のあつい家に育ったその青年が、先日、交通安全のお守りを下さい、と当山お守り授与所へ飛び込んで来ました。しかし、彼は数日前に同じお守りを受けていたのです。わけを尋ねますと、車の運転中に子供が道路に飛び出して来たそうです。避けられないと思いながらも急ブレーキを踏み、「アッ」と叫んだ時、不思議にも子供が向きを変え、無事に事故を避けられたそうです。冷や汗を抗い、あとで気がつくとお守りがなくなっていたそうです。もちろん、どこかでなくしたのかも知れないとも話しておりました。 そして、彼は同じ交通安全のお守りを受けて帰って行ったのでした。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三十三ヶ所巡拝日
1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16 2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)12月10日
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昭和61年12月10日坂東札所6回目巡拝は23番・正福寺〜20番・西明寺〜19番・大谷寺の三ケ所をまわる。

23番・正福寺からタクシーで笠間駅、下館で乗り換えて〜益子駅11:01分着。この頃には陽も高くなり暖かくなり気持ちがいい。
田園風景の道を約1時間歩きお昼過ぎ20番・西明寺到着。
130段あるという石段をあがると立派な山門左には三重塔、右手には閻魔堂が建つ。


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帰りは同じ道を又一時間益子駅に戻る。みちすがら益子は陶器の里、沢山の窯元直販の店が並ぶ。お土産に陶器を2点を買う。
今日最後の宇都宮19番・大谷寺へはバスでいく。

第二十番 獨鈷山西明寺   真言宗豊山派
 〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町大字益子四四六九 0285(72)2957
 本尊●十一面観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●天平九年(七三七) 
●詠歌●西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ

獨鈷山の由来
 西明寺の縁起によれば、天平九年(七三七)僧行基が十一面観音を刻み、安置したのが草創という。のちに天平宝字元年(七五七)に唐僧恵林が入山し、観音堂を建て寺門の充実につとめた。このような経緯をもつこの古刹は、東日本の焼き物の代表「益子焼」で有名な益子の町を見下ろす高館山の中腹にある。
 延暦年間(七八二〜八〇六)弘法大師がここの「幽寂たる禅境を愛して錫を大悲堂」(坂東霊場記)にかけられたという。「霊場記」には弘法大師の来山によって「貴賎渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧ら、挙げて大師の徳を妬み」岩屋におしこめるということがあった、と記されており、これを大師は所持の独鈷をもって避けられたといぅのである。それより獨鈷山と称した。そして一山十二ヶ坊、四十八の伽藍を構える基礎を築かれたのである。
 しかし、たびたびの兵火によって焼失衰亡した。下って康平年間(一〇五八〜六五)紀正隆が高舘山に居城を築き、益子氏を名乗り大いにこの寺を保護した。さらに宇都宮景房、続いて北条時頼が本堂を修営、益子寺を西明寺と改め、寺容を旧に復した。だが正平六年(一三五一)益子城の落城に際し、すべてが灰盡に帰した。境内の石段の下に立つと、ここが北限といわれる椎の巨木が参道をおおい、森厳さを加えている。

美しい姿の三重塔
 石段を登りつめると、明応元年(一四九二)建立の三間一戸、入母屋造り、重層の楼門に達する。飛エン垂の落書きによって完成まで三年を要したことが知られるが、上下両重の比例がよく整い、茅葺きであることがより重厚さを示している。特にカエル股の彫刻は室町時代らしい細麗な形で見るべきものである。
 その左手には天文七年(一五三八)益子家宗寄進の、関東地方の古塔の一つとして知られる三重塔が建っている。各層方三間、めずらしく銅板堅葺きであるが、屋根の勾配が急で、軒の出が深いので陰影が多く荘重な感を与えている。そして軒の真反りが強く、各重の軒先が軽く撥ね上っているために、実に美しい姿になっていると建築の専門家は評する。この和様と唐様の語調になる塔は、少し離れた所から拝むとよいそうだ。
 正面に観音堂、右に閻魔堂、左に鐘楼が、もう一つ階段を上った所にある。観音堂は元禄四年(一六九一)に外陣を増築しているはかは室町時代建立のまま、特に屋根が来迎柱の所で終わっているめずらしい型の「本尊厨子」は応永年間(一三九四〜一四二八)の造立、まことにこの寺は室町時代建築の宝庫であり、いずれも重文に指定されている。
 本堂の板壁には明応三年(一四九四)の坂東札所巡礼者の落書きがある。西明寺から静かな林を抜け、明るい台地に出て、さらに下ること二キロの所に地蔵院があり、ここにも「坂東三十三所幸祐、命禄三壬寅三月三日」「坂東順礼之時、天正三年乙亥五月一五日」の落書きがある。いずれも札所研究の貴重な資料である。札所や霊場に詣でた法悦のあまり書き記したことであろうが、当時の巡礼が「矢立」など持参していたことを知る「旅風俗」の資料でもある。西明寺の観音さまは開運を祈る人の参拝が多い。閻魔堂の笑いの間魔はめずらしいが、かえって不気味だ。いろいろな罪業のうちに生きる自分を思うとき、巡礼の功徳によって少しでもその消滅を願い、閻魔王の前で弁明しなくてもすむようにしたいものである。

●主な法要行事  一月元旦初護摩 節分の日節分会 四月十七日全山石仏供養
●付近の名所旧跡  地蔵院 網神社 益子焼陶芸村(森)
●宿泊施設  なし。
●拝観料  無料。
●納経時間  午前八時〜午後五時。

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菩薩とは・・・・・・  西明寺住職 田中雅博

 弘法大師の著作から観音菩薩について紹介しましょう。
「浄妙国土に於ては仏の身を現成し、雑染五濁の世界に住せばすなわち観自在菩薩たり」
 仏の身を完成しておられる観自在菩薩は、煩悩に染まった現実の世間に住んでおられます。不著生死(仏であり)、不住涅槃(世間に住む)が菩薩の理想です。
「観自在菩薩は手に蓮華を持し、一切有情の心中の如来蔵性、自性清浄光明を観じたもう」心を本尊に集中して、雑念がなく浄らかになった心の状態を信(清浄心)といいます。そこには、すべての他人を自分自身と観る慈悲の心が備わっています。これが仏の心であり、誰もが本来持っているので如来蔵性といいます。蓮の花は渦の中から出てくるが、垢に染まらない。それで観音さまは蓮華を持ちそのように本来浄らかな人々の心を観じられるのです。「この菩薩の加持によって、離垢清浄を得て、聖者に等同なり」このような観音さまを本尊として修行すれば、ついには自身が観自在菩薩であることを悟れるのです。

出典:『坂東札所会のページ』より


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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
2005年(平成17年)9月20日
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茨城県久慈郡大子町
上野宮真名板倉2134

平成17年9月20日12回目で最後の坂東札所巡拝。
1989年(平成元年)8月15日から17年も途絶えていた坂東札所巡拝。
平成17年9月旅行中の京都で清水寺に寄った際、清水寺は西国札所と気づいて急ぎ納経帖を購入朱印・納経してもらう。そして帰ってから坂東が忙しさの中で未だ結願していないので坂東の残ったお寺を急ぎ巡拝することになる。


坂東最後の巡礼は茨城県大子町21番・日輪寺〜常陸太田22番・佐竹寺〜木更津30番・高蔵寺〜結願寺館山市33番・那古寺の4ヶ寺をまわる。あしかけ19年7ヶ月かかってしまったが坂東三十三ヶ所札所をやっとまわり終える。

坂東残りの4ヶ寺は車でまわる、走行距離がどの位になるか相当長距離ドライブになることを覚悟してAM4:00出発。
標高700m歩き遍路にとっては坂東札所最難所寺の日輪寺だが家から車で190q走り細く険しい一本道の八溝山山頂近くの日輪寺にはAM8:45分到着。



誰もいない本堂で坂東最後の一日、いままで以上に厳粛な気持ちでお参りする。

八溝山から常陸太田22番・佐竹寺へ向う。

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第二十−番八溝山日輪寺 (八溝山) 天台宗
〒329-3704 茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉二一三四  02957(7)0552
●本尊●十一面観世音菩薩  開基●役ノ行者  創立●天武天皇の朝(六七三)
●詠歌●迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく

山岳信仰の霊地
 日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山脈の主峰、標高一〇二〇メートルの頂上にある八溝嶺神社から三〇〇メートルほど下った地点にある。「八溝知らずの偽坂東」といわれ、遥拝ですましてしまう者がいたほどの坂東札所第一の難所である。
『坂東霊場記』には「春夏巡礼のはか、尋常の往来なければ熊笹一面に生茂り、更に道の綾分ち難し」とある。今は町道を利用して自動車が行くので、これも昔語りとなった。
 大子から久慈川をたどり、さらに八溝川をさかのぼる。やがて茨交のバスの終点蛇穴に着く。もとはここから登拝にかかったものである。
 蛇穴の先にもとは古い大鳥居があったが、これは日本武尊の創建と伝える八溝嶺神社のものである。
 「八溝」という地名は、もとこの地に源流を発する川のことで、ヤは接頭語、ミゾは川のことであるというが、それより日本武尊が東征の折、ここまで来られ、「この先は闇ぞ」といわれたのによるという話の方が面白い。現在でも原生林におおわれた日輪寺はまさに山岳信仰の霊地といえる。
 寺伝によれば、天武の朝(六七三)役ノ行者の創建といい、「八溝日輪寺旧記書類写」によれば大同二年(八〇七)に弘法大師が八溝川の流水に、香気と梵文とを感得され、再建されたという。大師はこの山の姿が八葉の蓮華を伏せた如くであったのと、この山の鬼人を退治された時、狩衣を着た二神(大己貴神・事代主神)が現われたのを、二体の十一面観音として刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされたのであった。仁寿三年(八五三)慈覚大師の来錫を緑として天台の法流に属し、今日に及んでいる。

僧成弁の参亀
 鎌倉時代には源頼朝が寺領を寄せて信仰し、室町時代の文明年間(一四六九〜八七)には日輪寺の本堂は間口十六間、総欅造りの大伽藍となり、雷神門・札堂・薬師堂・不動堂などが甍を並べるに至ったという。
 また福島県東白河郡棚倉八槻村の都々古別神社の十一面観音像の台座銘に、天福二年(一二三四)僧成弁がこの日輪寺に三百日問お籠りし、坂東巡礼をしたとあるが、これは坂東札所の成立を知る上で貴重な史料である。続いて天文六年(一五三七)佐竹義篤と白河城主藤原直広が大檀那となって堂舎を修営および梵鐘を寄進している。中世以降は修験の道場となり、特に江戸期には山伏の往来もはげしく修行の山となった。
 寛永二十年(一六四三)火災で本堂焼失、仮堂を建立。万治元年(一六五八)再び炎上したが、水戸義公は二回登拝し再建に尽カ、春秋の二季に野・常・陸三州に守護符の頒布を許すなどして保護した。境内には上之坊月輪寺、中之坊尼寺があった。数少ない往時の遺品の一つに正徳三年(一七一三)の銘をもつ、観音堂の向拝にかけられていた「鰐口」がある。だが天保三年(一八三二)の水戸藩の廃仏運動で、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難されるほどの法難に遭遇した。
 そして明治十三年の火災で惜しくも堂宇を全焼。大正四年仮堂が建てられ、さらに昭和四十九年、五間四面の立派な観音堂が茨城、福島、栃木の三県にわたる信徒及び全国からの巡礼者の浄財によって完成した。
 時間が許したら麓から是非徒歩で参拝してもらいたい札所である。田村麻呂ゆかりの三本杉や白毛・金性・龍毛などと呼ぶ小さな瀧も見られる。
●主な法要行事  五月三日八溝梵天護摩供 毎月十七日縁日護摩祈祷
●付近の名所旧跡  袋田の滝
●宿泊施設  なし
●拝観料  無料
●納経時間  午前八時〜午後五時 冬期午前八時三十分〜午後四時  1,2月閉山

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因果応報 日輪寺住職 光栄純秀

 よく私たちは、因果応報という言葉を使います。因果応報という言葉は、原因があって、必ずそれに応じた結果が伴うということです。私たちは、常々この言葉は良い方の意味では使いませんし、理解しませんが、そうではありません。七佛通戒偈の中に、「もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を行え、それが仏の教えである」と、お釈迦さまもおっしゃっているように、仏教とは簡単な教えであるが、守ること、行うことは大変難しいことでありますから、善因善果であり、悪因悪果なのです。 つまり、米の種を蒔けば、米の芽が出て、米の花が咲き、穂がなります。また、麦を蒔けば、麦の芽が出て、麦の花が咲き、麦の実となります。すばらしい種を蒔けば、良い芽が出、良い花が咲き、良い実が結びます。それは、自然のことわりであり、人間だけが逃れるものではありません。良い種を蒔くも、悪い種を蒔くも・・・。   南無大慈大悲観世音菩薩

出典:『坂東札所会のページ』より
記載内容:2007年現在



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