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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)2月12日
坂東三三ヶ所
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坂東三十三ヶ所
神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県にかけてある33か所の観音霊場。
源頼朝によって発願され、源実朝が西国の霊場を模範として札所を制定したと伝えられている。第一番札所の杉本寺から第三十三番札所である那古寺までを巡拝すると、その道程は約1,300キロメートルにもなる。巡礼者は全ての札所を巡拝(結願)すると、善光寺および北向観音に「お礼参り」をすることが慣わしとされている(上記2寺を参拝して結願とする場合もある)。お礼参りの始まりは江戸時代とされる。また、西国三十三所、秩父三十四箇所と併せて日本百観音といい、その結願寺は秩父三十四箇所の三十四番水潜寺となる。

昭和61年2月12日 坂東三十三ヶ所巡拝。坂東一回目の最初は鎌倉市二階堂の1番・杉本寺。
渋谷〜横浜〜鎌倉と電車を乗り継いで鎌倉へ。鎌倉は3方を緑豊かな丘陵で囲まれ海に面した街で風情がある。鎌倉駅から金沢八景行きバスに乗り10分杉本観音下車、八幡宮東の観光コースから外れたひっそりとした場所に建つお寺。拝観料100円。雪の残る参堂をあがり本堂で坂東札所最初のお参りをする。
@無事に札所を周れますように、A家族が健康で暮らせますように、B仕事が順調に運びますように
C母が健康で長生きできますように、と祈る。新しく納経帖を購入して1番の納経朱印をいただく




本堂へ続く石段は磨り減って長い歴史を感ずる。
歩きにくいほどだが沢山の信者の参詣を受けた証、きれいに直さないのがいい。



参堂から本堂まわりは十一杉本観音奉納旗がずらっと並び風になびいて賑やか。
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坂東三三ヶ所
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昭和61年2月12日
坂東札所参拝初日の今日は1番・杉本寺〜4番・長谷寺〜3番・安養院・田代寺〜2番・岩殿寺〜14番・弘明寺の5ヶ寺を回る。

次は4番長谷寺へ。

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第一番大蔵山杉本寺(杉本観音) 天台宗    〒248-0002神奈川県鎌倉市二階堂九〇三 0467(22)3463
本尊●十−面観世音菩薩  開基●行基菩薩  創立●天平六年(七三四) 
●詠歌●頼みある しるべなりけり 杉本の 誓ひは末の 世にもかはらじ

三尊同殿の霊場
 美しい自然の景観、それに奈良や京都では拝めぬひなびたみはとけを祀る鎌倉の魅力にひかれてこの地を訪ねる人はまことに多い。いまや、その古都としての静けさも破られてしまったかと嘆かれるはどである。
しかし、閑寂な雰囲気を保ち続けている寺もあり、そのうちの一ヶ寺が杉本寺である。鎌倉に来て、この杉本寺へ参る人で、ここが坂東観音札所の第一番霊場であることを知る人は意外に少ない。 
鎌倉の鶴岡八幡宮から東へ金沢街道を約一・三キロはど進むと、左手に丘陵が追ってくるが、これが大蔵山、その中腹に杉本寺がある。
享保十年(一七二五)建立の山門をくぐつて、多くの参詣者によって踏み減らされた急勾配の石段を登りつめると、茅葺きの五間四面の観音堂が杉木立ちを背に建っている。鎌倉最古の寺らしい枯れきったたたずまいが、まず拝者に心のやすらぎを与えてくれる。延宝六年(一六七八)の再建である。いたる所に千社札が貼られ、また明和・安永・天明など江戸期の「巡礼奉納額」などが長押を埋め、本尊に寄せられたあつい信仰の歴史が知られる。入山料を納めて新しく設けられた脇の表参道から詣でることになる。
 永禄三年(一五六〇)書写の『杉本寺縁起』に、天平六年(七三四)僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創したとある。のちに慈寛大師が同じく十一面観音を内陣の中尊として納め、天台の法流に属せしめた。
さらに寛和二年(九八六)恵心僧都が花山法皇の命をうけて十一面観音を奉安したと伝える。これが三尊同殿の由来である。
明和八年(一七七一)沙門亮盛師によつて著わされた『坂東三十三所観音霊場記』は、このことについて「坂東第一番と成る事、其の故あらんか。・・・行基・慈覚・恵心の三師、各々十一面の尊像を作り三体同殿を算れば、三十三の悲願分身にあたる。是れ其の第一番に在て四八の霊場を発く由乎」とみえているのが面白い。

藤原の世の二躯鎌倉の世の一躯 相伴れおはす南無観世音  と歌人吉野秀雄氏が歌っている。
せっかくの参拝なのだから入堂して、ご三尊を拝していただきたい。
ご本尊の霊異
『吾妻鏡』文治五年(一一八九)十一月二十三日の条に「夜に入りて大倉観音堂回禄」とあり、時に別当浄台房が煙火の中から本尊三体を運び出したが「衲衣わずかに焦ぐといへども身体あえて恙なし」と霊験が語られている。
この頃から多くの信者を迎えるに至ったのであろう。『坂東霊場記』には、この時に本尊自らが境内の杉の木のもとに難を避けられたので、それ以後、杉本寺と呼ばれることになったとある。 源頼朝は深くここの観音に帰依し、『吾妻鏡』の建久二年(一一九一)の条に「累年風霜侵し、甍破れ軒傾けり、殊に御燐愍有って修理を為す」とみえており、寺運の再興につくし、そのうえ前立本尊も納めている。
建暦二年(一二一二)将軍実朝も参詣している。この寺には信仰心のない者が寺の前を乗馬したままよぎると落馬するという伝えや、のちに建長寺開山大覚禅師が袈裟で尊顔をおおったら、そのことは止んだので下馬観音・覆面観音といわれたなど、いかにも当時の武士たちとつながりの深い話である。
本堂横の五輪塔群は南北朝時代、北畠顕家との戦乱でたおれた斯波一族の供養塔で、わびしげに互いにそりよって建っている姿が杉本寺に一層の静けさを与えている。歴史の多くはこのような目立たない一隅に、その真相を伝えているものだ。

●主な法要行事  四万六千日(八月十日) 毎月一日・十八日 本尊護摩供
●付近の名所旧跡  鎌倉市内の寺社
●宿泊施設  なし
●拝観料  一般二〇〇円 小学生一〇〇円
●納経時間  午前八時から午後四時半まで。

争いのない世界 杉本寺住職 静川慈昭

杉本寺に十表観音さまのお像が三体おまつりされているのは、十一面観音信仰の波が三度この寺に高まったことを示しているといえましょう。
頭の上をよく拝しますと正面に三つのやさしいお顔、その左側に三つの怒った顔、右側に三つのこわい顔、そしてうしろに笑った顔、その十の顔の中心に正面を向いて仏さまの顔がついているのがわかります。
 これは観音さまが、その日、その時によって変る私たちの心と行いにあわせて、それに最も適した顔で導きお救いくださることを意味しているといわれるものです。すなおで正しい人にはやさしい顔で、悪いことを考えている人には怒りの顔で、善いことをしている人には、これはこわい顔ですが励ましておられ、また落ちつかない人には、そんなことでどうするのかと笑いながらたしなめてくださるわけなのです。 だから、どのお顔も私たちを幸せにしてくださるためのもので、すべてが観音さまの温かい心のあらわれなのです。ですから、みんなが十一面観音さまを信ずると争いのない世界が実現するのです。

出典:『坂東札所会のページ』より

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1回 昭和61年02月12日 1-4-3-2-14 7回 昭和62年05月13日 15-16 2回 昭和61年03月12日 13-12 8回 昭和63年03月09日 29
3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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岩殿寺本堂裏手の奥の院 この岩窟が岩殿寺名称の由来
岩窟内には行基菩薩作といわれる十一面観音が祀られている


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昭和61年2月12日
3番安養院からバスに乗るが行き先を間違え乗ってしまい、俗称お化けトンネル(逗子トンネル)を歩いて抜け迷い迷いながらやっと到着。


山門脇に「歴史散歩、文学散歩、撮影の方の入山禁止」と厳しい戒めの文言、これにはもっと広い心で受け入れたらと少々抵抗を感じたが考えあっての事と理解し山門を入る。
左手に庫裡があり玄関には納経所の札がかかっている2番・岩殿寺は文豪泉鏡花が愛した寺といわれ茅葺の本堂前には泉鏡花寄進の小さな池がある。
本堂前からの逗子方面の街並み、海岸の風景はとても心休まりしばらく見入ってしまう程。

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昭和61年2月12日
岩殿寺からは新逗子駅まで歩き電車で今日最後の14番・弘明寺へ。


1番

3番
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第二番海雲山岩殿寺(岩殿観音) 曹洞宗

〒249-0001 神東川県逗子市久木五ー七ー十一 0468(71)2268
本尊●十一面観世音菩薩  開基●徳道上人・行基菩薩  創立●養老五年(七二一)   
●詠歌●たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき

徳道・行基両上人の開基
逗子駅からバスで久木東小路下車、静かな住宅地の中を縫うようにして山門に至る。表参道の「写し札所」の観音さまを拝しながら行くと巡礼者としての心構えがおのずから整ってくるのが有難い。山門を経て百余段の石段を踏むと江戸期再建(逗子市重文)の観音堂である。古木に囲まれたここの風致は森厳そのものといえる。
 寺伝によれば大和長谷寺の開基徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁に逢い、霊地たるを知り、また数年のちに僧行基が訪れて十一面観音の石像を安置したのが開創という。本堂裏の石窟に立ち給うご尊像、これに寺号は由来する。全体にはっそりと丸みのあるお姿に生身の菩薩を感じ、合掌せずにはおられない。この縁起は長谷寺の勧進蟄たちによって説かれたものかも知れない。

鎌倉将軍家の帰依
 『吾妻鏡』文治三年(一一八七)二月二十三日のところに「姫公岩殿観音堂に参りたもう」とあるように御台所、大姫、実朝など一族の帰依はことのはかあつく、参詣もしばしばであった。というのも源頼朝がはじめ文覚上人の勧めによってこのご本尊を信仰、治承四年(一一八〇)石橋山の敗戦で房州州崎に逃れる折、観世音が船頭となって無事送ったという話は有名であり、これこそ源家再興への大きな霊験であり、頼朝は生涯守り本尊としていたのであるから当然のことであろう。 江戸時代の『観音霊験記』も、この話を絵図入りで載せている。鎌倉とその周辺には源氏の盛衰にかかわる史話が多く伝えられているが、房州へ向かう七騎落ちの船の舳に棹をさしている観音さま、このような霊験図を見ていると自然と宗教的感性がみがかれてくるから不思議である。

文豪泉鏡花とのゆかり
泉鏡花がすず女と恋に落ち、逗子に滞在していたのは明治三十五年と三十七年の夏であり、その折よくこの岩殿寺へ二人は足を運んだらしい。そしてここの老僧に親近して、のちに参詣者の憩いにと鏡花は瓢箪池を寄進した。
この池の端を通って境内右手の熊野社の前を抜けて裏山に登ると、四阿「瑞光亭」からの眺望がすばらしい。逗子の海岸、三浦半島、房総半島までが一望のうちにおさまる。鏡花が『春昼』という作品の中で「此の山の裾にかけまして、ずっとあの菜種畠の辺、七堂伽藍建て連らなって居りましたそうで」と書いているが、かつてはこの山の周囲にわたり広大な寺域をもっていたことが偲ばれる。『板東霊場記』に「南海渺焉として目力をほしいままにする」とあるのがうなずける。「時移り世衰え、此の寺の何宗旨に属するも知らず、天正十九年辛卯に至り、大将軍家康公、旧証を追て許多の田を寄附し、観音堂の領となし」と当山の縁起にあって、寺格を保っていたことが知られるが、明治維新前後は大いに衰えた。だが現ご住持がこれを再興された。
 本堂外陣の格天井を飾る板絵はすばらしいと聞いているが、お開帳の折にでも拝見するのを楽しみにしておこう。現在、山上、山下全域に百観音札所の巡礼歌を刻んだ石碑が建てられ、われわれを信仰の世界に誘ってくれるのは有難い。弘法大師が爪で彫られたと伝える石の地蔵尊をつめの病に悩む人が拝むという。大きな蘇鉄を庭に配した庫裡で納経してくださる。そこに鏡花の「普門品ひねもす雨の桜かな」の句碑がある。

●主な法要行事  一月二十六日高祖降誕祭 二月十五日仏涅槃会 四月八日仏誕生会 五月五日鏡花祭
 七月十五日大施繊鬼会 八月十日四万六千日 九月二十九日両祖忌 十月五日達磨忌
 十一月二十一日太祖降誕会 十二月八日仏成道会 毎月一日、十五日祝祷会
 毎月第二日曜日寶心会 毎月十八日観音会
●付近の名所旧跡  鎌倉周辺に多し。
●宿泊施設  なし
●拝観料  一〇〇円
●納経時間  午前八時から午後五時まで

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泉鏡花と岩殿寺    岩殿寺住職 洞外正教

泉鏡花と岩殿寺との関係は、先住老僧との出合いからはじまります。
明治三十五年の夏、散策がてら来山された折、あまりにも疲れきった顔をされていたのを、老僧が心配し、庫院に迎い入れ、茶話のうちに、四年の年月、老僧との交友がはじまったわけです。 老僧は易学にこっていたので、鏡花も来訪の都度、老僧の易を楽しまれ、ことのほか老僧の漢詩の話に聞き入ったとのことです。
 この四年間の老僧との交友が、後年の鎮花文学のあの神秘な作品の基礎づくりになったことは、作品を読めばうなずけると思います。 当初、不健康の原因となったのは、後年奥さんになられるすず夫人との師(尾崎紅葉)を裏切っての同棲生活にあったわけです。慢性の胃腸病に加えて強度のノイローゼに苦しんでいた鏡花でしたが、適度の散策と、老僧の情熱的な茶談に、健康を回復されたわけです。こうした報恩の心が、御夫妻をして、観音堂前に「鏡花の池」の寄進をおもいたたせたことでしょう。池づくりには、すず夫人の御努力が大変なもので、老僧の奥さま宛に送られた手紙のうちに、読みとられます。

出典:『坂東札所会のページ』より

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昭和61年2月12日今日3寺目は3番・安養院

安養院は鎌倉駅から逗子への道すがらで徒歩20分程。
北条政子が夫源頼朝の菩提を弔う為、願行上人を介し開山したのが寺の始まりで開山の年(1225年)政子は亡くなりこの寺に埋葬され。
安養院は政子の法名でそれからお寺も安養院と呼ばれるようになる。


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昭和61年2月12日
坂東札所参拝初日の今日は1番・杉本寺〜4番・長谷寺〜3番・安養院・田代寺〜2番・岩殿寺〜14番・弘明寺の5ヶ寺を回る。

次の2番・岩殿寺へはバスに乗る。


2番

4番
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第三番祇園山安養院田代寺(田代観音) 浄土宗
〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町3−1−22 0467(22)0806

本尊●千手観世音菩薩  開基●田代信綱  開山●尊乗上人  創立●建久三年(一一九二)
●詠歌●枯樹にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき

武将信綱の信仰
 鎌倉の街道沿いに石垣を築き、数百株のつつじの植え込みを配した寺が安養院である。鎌倉には「花の寺」が多いが、ここも花に風情あふれる霊場である。浄土宗名越派の根本道場の石標が左側に、右側に宝永二年(一七〇五)江戸浜松町の山田喜右衞門が奉納した「田代観音板東三番」の石柱が建っている。境内に入ると名越派の開祖尊観上人お手植えの樹齢七百年の槙の巨木が仰がれる。その下に弘法大師御作と伝える日限地蔵尊が祀られており、近所の人たちが合掌している姿をよく見かけるが、何かほっとした風景である。
 正面の観音堂は新しく、昭和三年の建立であり、内陣には阿弥陀如来、そのうしろに千手観音が安置されている。「蓮肉に置いた裸足のふくらみや細くきれ長な眼尻には、人間に対する厳しい愛がある」と評されているそのお姿に、これまで幾多の巡礼者が祈りをこめてきたことであろう。
この寺の歴史はやや複准であるが、寺伝によれば源頼朝の家臣田代信綱は、入宋した「然大徳が所持しておられた観音の画像を得て深く信心していた。軍陣に向かう時には必ず鎧の中に捧持して祈念を怠らぬ有様であった。『源平盛衰記』には信綱が石橋山敗戦の折に頼朝を逃がさんと奮戦した様子など「文武一撃の達者なり」と賞されたことが記されているが、戦場でたびたびの危難を逃れ、数度の武勲をあらわすことのできたのも、すべてこの観世音のご利益と、その報恩のために建久三年(一一九二)尊乗上人を開山として比企ヵ谷に白花山田代寺を創建した。本尊の千手観音は鎌倉期制定の坂東第三番札所として尊信を集めた。
増上寺所蔵の古文書で、享保年間(一七一六〜三六)に僧常元が採訪した「浄土門末寺院」の記録の中に「相模・大町村・田代寺普門院」の項に「田代冠者信綱公室中示現之千手観音精舎建立。又、実朝公坂東三十三番札所建立之時、第三番目ノ札所卜決定」とあるが、これは坂東札所制定の歴史を知るうえできわめて貴重な資料といえる。

二寺合併の由来
 一方、嘉禄元年(一二二五)北條政子が夫、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。だがその年の七月に政子が死去し、この寺に祀られることになった。しかるに長楽寺は元弘三年(一三三三)鎌倉幕府滅亡の際、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺跡に移り、二寺は合併されて安養院となった。安養院はさらに延宝八年(一六八〇)に火災にあったが、その際に田代寺をここに移して復興されたのである。
 ともあれ北條政子との深いかかわりによって、そのつど護られてきた寺で、本堂の背後に大小二基の宝篋印塔があり、鎌倉最古のものとして重文に指定されている。大きい方が尊観上人の培、小さい方が政子の墓であると伝える。苔むした安山岩の美しい形の培には「二位政子御法号安養院殿如実妙観大禅定尼」と陰刻されている。本堂には尼僧姿の政子の木像があり、晩年の面影を偲ばせる。病弱な大姫・乙姫の母として涙し、頼朝の死、頼家の非業の最後、実朝の悲劇まさに波乱のうちに生きた人、心から神仏を頼むことが多かったにちがいない。六十九歳の生涯であった。政子がここのご本尊に祈って頼朝と結ばれた故事により「良縁」を祈る人が多い。 ここには宝暦二年(一七五二)七月吉日の銘をもつ小鐘が伝存するが、それには「江戸八丁堀・女中講」とみえており、この寺の女性信者層の厚さを知ることができる。

●主な法要行事  新年初詣 春季彼岸会 五月二日八十八夜名灸 八月十日四万六千日 秋季彼岸会
●宿泊施設  なし
●拝観料  一〇〇円
●納経時間  午前八時〜午後四時三十分

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安養院五観音の意義   安養院住職 鳥居眞理

安養院には、次の五体の観音さまが祀られています。
本尊千手観音=すべての衆生を千の慈眼をもってご覧になり、千の手を差しのべて摂化されます。
馬頭観音=その鋭い三眼をもった忿怒の相は耶悪を折伏せんがためで、馬頭を戴くのは大慈悲を奔馬のように速やかに施すことを表わしています。 准胝観音=七億の仏母として惑と業と苦の三障を除くことを主眼とされています。
不空羂索観音=心念不空の羂索によって衆生をつり上げて救済し、彼岸に至らせようとの念願を表わします。
聖観音=左の手に未敷の蓮華を持ち、右手指先から生ずる微風によって開花しようとする姿を示しています。
これらの像を拝む時、蓮華が泥の中から生じて泥に染まらないように、現実苦悩の灼熱の世界から、すがすがしい解脱の世界へと高められていく思いがいたします。

出典:『坂東札所会のページ』より

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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)2月12日
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千体地蔵・水子供養や先祖供養を願って参詣者が納めたもの

昭和61年2月12日参詣。
長谷寺は小学校の修学旅行(江ノ島鎌倉)で1回、何年か前
江ノ島や鎌倉行楽の折に2度来て立ち寄り、今度で4回目。
当時は札所とは知らずにお参りしていた。
鎌倉駅からバスで10分江ノ電より早い。
観音山中腹の長谷寺は由比ヶ浜や材木座海岸を一望する景観のいい場所に建つ。
本尊の観音様は十一面観音で奈良の長谷寺のご本尊と一本の木から彫り分けられたという。
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本堂左は「授け大黒」の御堂、右手奥には弁天窟という内部に出世弁天を祀る洞窟がある。

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昭和61年2月12日
坂東札所参拝初日の今日は1番・杉本寺〜4番・長谷寺〜3番・安養院・田代寺〜2番・岩殿寺〜14番・弘明寺の5ヶ寺を回る。

3番安養院・田代寺へはバスで一度鎌倉に戻ってから歩く。

3番

5番
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第四番海光山長谷寺(長谷観音)  浄土宗
〒248-0016 神奈川県鎌倉市長谷3−11−2 0467(22)6300
本尊●十−面観世音菩薩  開基●徳道上人  創立●天平八年(七三六)  
●詠歌●長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波

長谷のかんのんさま
 鎌倉には七十余の寺があるが、大仏さまと長谷観音が最も有名で、八幡宮周辺の史蹟めぐりと共に鎌倉観光のベストコースになっている。だからここは巡礼者のほか一般参詣の者が日々群参している。
 山門をくぐり石段を左右に折れながら登る。長谷寺の魅力の一つはこの参道にあるが、最近すっかり輪奐の美を整えた観音堂の荘厳なたたずまいは実にすばらしい。眺望絶佳な境内にふさわしい見事な伽藍配置といえよう。ここのご本尊が像高一〇メートル余の木彫像で、全身を金箔でおおい、その華麗さはまさに拝者を圧倒するものがある。また、その巨像からの無辺の愛にすっぼりと包まれるような有難さもおぼえる霊像である。
同木異体
 長谷寺という名前の寺のはとんどが大和長谷寺信仰の系列に入るが、ここは特に本尊が大和の観音像と「同木」であることで知られる。『相州鎌倉海光山長谷寺事実』には天平八年(七三六)長さ三丈三寸の観音の巨像が三浦半島の長井の浜に着き、それを徳道上人を閲山と仰いで藤原房前が奉安したのが長谷寺の草創というが、『新編鎌倉志』の長谷寺の項をひもといてみると「此観音大和長谷より洪水に流され・・・和州長谷の観音と此観音とは、一木の楠にて作れり。和畑の観音は木本、此像は木末也」とあり、同木異体の信仰に重点を置いているのを見逃すことはできない。それ故に「新長谷寺」とも称していた。
 だが寺の創建年代や本尊の造立時期は不明であり、『吾妻鏡』にも何一つ記載されていない。しかし、僧忍性が極楽寺坂を切り開いた文永・弘安年間(一二六四〜八八)の頃から、この道を往来する人々の信仰を集めていったようである。弘長二年(一二六二)在銘の板碑、文永元年(一二六四)鋳造の銅鐘、嘉暦元年(一三二六)造顕の懸仏などの寺宝が、この寺がだんだんと形を整えていった経過を示している。
『風土記稿』は足利尊氏が康永元年(一三四二)に本尊を金箔で修復、義満が明徳三年(一三九二)に光背を造るなど、その後の武将たちの庇護があつかったことを伝えているが、徳川家康が慶長十二年(一六〇七)に再興した時の「棟札」に「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあり、時に消長の激しかったことを知る。がしかし、江戸時代にこの観音堂を修営した酒井忠勝の「棟札」には「当寺者観音堅坐之霊場、威力自在之功験挙世皆崇信之」とあるのによって衆庶の帰依は広範囲に及んでいたといえよう。
 右手に錫杖を持っておられるこの尊像独特のお姿は、地蔵菩薩への信仰をかねているだけに大衆の信心はあつく、遠く大和の地まで行かなくても同じご利益にあずかれる江戸時代庶民の喜びは大きかったにちがいない。また、ご本尊の左右に奉安される三十三身の木像は、巨像にあわせて造られたものだけに立派なものである。なお室町時代に流行した高僧像の形式になる開山徳道上人の木像がある。頼朝厄除祈願の阿弥陀如来、弘法大師作の出世大黒天、弁天窟など、ここは礼拝すべき場所が多い。
 山田順子さんが「私たちの観音さま」に、次のように詠っている。
  人よ来ませ慈顔たヽえて今日もまた 長谷観音はひとりおはすを

●主な法要行事  除夜鐘撞会 節分会 春の彼岸会・地蔵会 四月八日灌仏会 五月十一日弁天会 六月一日阿弥陀会 七月十八日信徒施餓鬼会 八月十日四万六千日大功徳会 八月十二日檀徒施餓鬼会 秋の彼岸会・地蔵会  九月二十六日大黒会 一二月一八日歳の市 毎月十八日観音会 
●付近の名所旧跡  高徳院(長谷大仏) 光則寺 極楽寺 稲村ケ崎 由比ケ浜
●宿泊施設  なし
●拝観料  大人300円、小人100円 (宝物館は現在無料)        30人以上団体割引あり
●拝観(納経)時間  三月〜九月(夏)午前八時〜午後五時三十分  十月〜二月(冬)午前八時〜午後四時三十分。

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観音さまは男か女か  長谷寺住職竹石耕美

 参拝の方から、観音さまは男か女かとの問いかけが案外多くあります。ある雑誌のクイズで「観音さまは男」とひと文字の解答が目にとまりました。いかにも自信に満ちた解答です。しかし、これで質問者は納得するでしょうか。面白くもなんともないでしょう。
 観音さまには、男性的なお顔が多くありますが、光明皇后、檀林皇后をモデルにしたといわれる豊かな官能の匂いを発するお像、親鸞聖人が出会った観音さまも女であったにちがいないでしょぅ。たびたび経文に登場する観音さまは男だと、考えもせず決めてしまっています。しかし女であってもよいのではないでしょうか。すべて女だといいたいのではなく、男女は平等だし、服装も動作も区別のない時代です。仏さまの世界では、昔から男女の区別はないのだと考えたいのです。
 それにしても、仏教を理解することも、わからせることも、とても大変なことだと痛感いたします。精進したいものです。

出典:『坂東札所会のページ』より

3番

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坂東三十三ヶ所巡拝日
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3回 昭和61年05月14日 8-6-7-5 9回 昭和63年06月08日 17-18 4回 昭和61年06月11日 28-27 10回昭和63年10月12日 31-32
5回 昭和61年08月16日 9-11-10 11回 平成元年08月15日 26-25-24 6回 昭和61年12月10日 23-20-19 12 回平成17年09月20日 21-22-33-30
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坂東三三ヶ所 壱番・妙音寺(四万部寺)
1986年(昭和61年)昭和61年5月14日
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金堂に向かい合掌する二宮金次郎像。

1986年(昭和61年)5月14日3回目の坂東札所巡り
8番・星谷寺〜6番・長谷寺〜7番・光明寺〜5番・勝福寺4ヶ寺を巡り今日最後の5番勝福寺(飯泉観音)は平塚の7番・光明寺から小田原に戻り下曽我行きバスで15分酒匂川を渡った飯泉観音停留所で下車。

幼い頃の二宮金次郎が参詣して観音信仰に入ったきっかけとなったという由来のあるお寺。

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5番勝福寺(飯泉観音)
境内には土俵が設けられ昔は相撲巡業も行われたらしい。

5番勝福寺(飯泉観音)
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1986年(昭和61年)5月14日
3回目の坂東札所巡りは8番・星谷寺〜6番・長谷寺〜7番・光明寺〜ここ5番・勝福寺とまわって終了、バスで小田原駅に戻り帰路につく。


4番

6番
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第五番飯泉山勝福寺(飯泉観音) 古義真言宗   〒250-0863 神奈川県小田原市飯泉一一六一 0465(47)3413
本尊●十一面観世音菩薩  開基●弓削道境法師  創立●天平勝宝五年(七五三) 詠歌●かなはねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ

天平の古刹
 飯泉山勝福寺は小田原市の東北部、酒匂川東方の一区域に境内を構える。宝永三年(一七〇六)再建の地方色豊かな宝形造りの観音堂を中心に、曽我兄弟が仇討の成功を祈り、怪力を授かった仁王尊を祀る仁王門、宝永元年鋳造の龍頭の手水鉢、室町期の手法を伝えるという寛永六年(一六二九)在銘の梵鐘などが境内を荘厳している。
 その奥は弓削六坊の一つ、かつて弥勒院の山門であったという四脚門で境をして庫裡が建つ。左手には神仏習合の名残りを留める八幡社があるなど、由緒深いたたずまいである。それに本堂前に樹齢数百年という銀杏がこの境内に一層の森厳さを加えている。
 もとこの寺は現在地から二キロほど離れた千代村にあった。そこは今「観音屋敷」といわれ、優秀な天平瓦が出土している。『縁起』は天平勝宝五年(七五三)唐僧鑑真和上が将来した十一面観音像が孝謙天皇に献上され、のちに僧道鏡に下賜されたが、道鏡が下野国薬師寺戒壇院再興のため下る途次、千代村に一宇を建てて奉安したのに始まると伝える。はじめは普陀落山弓削寺と称し弓削氏の氏寺であったらしい。
『坂東霊場記』には、「当国足柄郡千代の里に至り笈仏急に重くなり押居らるる如にして一歩も進むことを得ず」と記されている。この話はこの地の人たちが笈によって運ばれてきた観音へ深い信仰を捧げたことを語るもので、関東の地に観音信仰が中央から伝播してくるさまが想像できて興味深い。この伝承は天下の嶮とうたわれた足柄、箱根連山を越えて酒匂の平野におりた文化が、ここを足溜りとして花を咲かせたものとみてよいだろう。村の老若集まりて手に手に竹本を運んで堂舎を営んだと語られている。

小田原城の鬼門除け
 金堂、講堂、東院(観音堂)、東培、西塔、南大門などが千代の里に宏壮な構えを見せていたが、室町期に今の所に移され、応永二十五年(一四一八)には小田原城の鬼門鎮護の道場となり、勝福寺の勅号さえ賜わり、歴代城主の保護もあつく栄えた。本堂内陣の春日造りの厨子に納められた像高二尺八寸、素木造りのご本尊は三十三年目ごとに開扉される。お眼や唇以外には彩色を施していないこのお像は「関東における十二世紀頃の制作」で「中央の定朝様式」の忠実な模倣のあとがうかがえるという。
 文化元年(一八〇四)二宮金次郎、のちの尊徳翁が十八歳の時である。この勝福寺で旅僧が「観音経」を訓読するのを聞いて深く感ずるところがあったという。尊徳翁はこのようにして若き日より「利他」に生きる崇高な精神を観世音菩薩から授けられたのである。本堂前に少年二宮金次郎の本尊礼拝の像が建てられている。
 酒匂川を渡る手前に国府津があり、ここから勝福寺までの道を「巡礼街道」と呼んでいる。古地図を見ると相模国には「巡礼坂、巡礼峠、巡礼道」などの地名が多く、それだけに坂東札所巡礼が盛んであったことが知られる。『風土記稿』には「江戸より行程二十里、民戸八十一、多く観音門前に連住す」とあり、六軒の巡礼宿で、それぞれ巡礼は豆腐の石焼に舌鼓をうったことだろう。なお、ここの境内で名力士の雷電が土地の無法な力持ち岩五却を投げとばした話は有名。境内の樹齢数百年といわれる大公孫樹は、遠くからでも寺の所在を知らせる目標となっている。
 十二月十七、十八日両日の「ダルマ市」は有名で、その歴史も古く永禄年間(一五五八〜七〇)からという。


 ここ勝福寺は千二百年の歴史をもつ寺です。その間、栄枯盛衰はあったでしょうが、この寺は巡礼参拝の方々の外護を、たくさん受けてきたものと思います。
 私もお寺でお参りを受けるだけでなく、いつか一遍、自分で巡礼に出てみたいという悲願が三年前に実り、檀信徒と一緒に坂東・西国・秩父百観音を巡礼して参りました。自分で巡礼をしてみてわかったことですが、それぞれのお寺さんを印象深く参拝するということは、一回ではなかなかできないものだ、ということでした。常日頃お寺でお参りを受けておりますと、二度三度はもちろん、何十遍もお出でになる方がいらっしやいますが、さこそと思いあたった次第です。
 数ある札所の中でもいわゆる難所といわれる所は、お寺に着くまでが大変なので印象に残りますが、やはり一番深く心に残るのは、お参りをしたときのご住職や寺務の方々の「よくお参りです」という優しい言葉と、笑顔で迎えてくださる応接の態度でした。仏教には「和顔愛語」という言葉がありますが、これこそがお参りを受ける側の真の接待ではないか、と深く心に刻んで帰って参りました。以後、自坊に戻って自分自身に注意を促しております。ここは五番とはいいながら西から来られると坂東の第一印象のお寺ですので、坂東の顔として和顔愛語をもって巡礼に接する心としたいと念じております。

出典:『坂東札所会のページ』より

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