HOME 海外紀行 日本紀行  札所紀行 温泉紀行 日曜名画座 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVES PROFILE SITE-MAP

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
(一) 日光路 (一) 日光路 (一) 日光路 (一) 日光路
元禄2年(1689年)3月27日松尾芭蕉は曾良を伴ない江戸を発ち 8月21日大垣に到達するまでの全行程 
元禄2年3月27日 千住~草加~粕壁 元禄2年4月22~28 須賀川 元禄2年5月17~26  尾花沢 元禄2年6月25~27  大山~温海
元禄2年3月28~29  間々田~宝の八島 元禄2年4月29日  郡山 元禄2年5月27~30  立石寺~大石田 元禄2年6月28~29  村上・瀬波
元禄2年4月1日  鉢石~日光 元禄2年5月1~2日  二本松~福島.飯坂 元禄2年6月1~2日 新庄 元禄2年7月1~5日 新潟~弥彦~出雲崎
元禄2年4月2日 今市~玉生 元禄2年5月3日  白石 元禄2年6月3~9  羽黒山(南谷).月山 元禄2年7月6~10  直江津~高田
元禄2年4月3日 余瀬~黒羽 元禄2年5月4~7日 笠島~国分(仙台) 元禄2年6月10~12 鶴岡 元禄2年7月11~12 能生~親不知~市振
元禄2年4月16~19  黒磯~那須湯元 元禄2年5月8日  塩竃 元禄2年6月13~24 酒田~吹浦 元禄2年7月13~14 滑川.有磯海.高岡
元禄2年4月20日 白川古関所跡 元禄2年5月9日 松島 元禄2年6月16~17 象潟~塩越 元禄2年7月15~23 俱利伽羅峠~金沢
元禄2年4月21日 矢吹 元禄2年5月10日 石巻 元禄2年6月18~24  酒田 元禄2年7月24.8-6  小松
元禄2年5月11日 登米 元禄2年7月27~8月5  山中
元禄2年5月12~16 一関~平泉~堺田 元禄2年8月9~13  大聖寺~永平寺~福井
元禄2年8月14~18 敦賀
元禄2年8月16~21  種の浜~木之元~春照
元禄2年8月21日 むすびの地・大垣
.
       『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
   『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所
元禄2年(1689年新暦)  宿泊地
おくのほそ道
全行程 伊藤洋先生監修「奥の細道」など参照
元禄2年3月27日(新暦5月16日)

千住~草加~粕壁(春日部泊) 元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。
(1)草の戸も 住替る代よぞ 雛の家  3月27日明け方、採荼庵より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。「雛の家」というように芭蕉が立ち退いた後の芭蕉庵は、女子のいる家族が移り住んだようだ。この譲受人は兵右衛門という妻子持ちであった。月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じ。船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いなのだ。かの西行法師や宗祇、杜甫や李白など、古の文人・墨客も、その多くは旅において死んだ。私もいつの頃からか、一片のちぎれ雲が風に流れていくのを見るにつけても、旅への想いが募るようになってきた。草の戸も住替る代ぞひなの家 これを発句として、初折の八句を庵の柱に掛けて置いた。矢立の初め (2)行く春や 鳥なき魚の 目は泪 この日元禄2年3月27日、芭蕉は千住で見送りの人々と別れ、草加を経て、粕壁(現埼玉県春日部市)で宿泊している。別れに当って「前途三千里」の不安と惜別が去来した。長旅にはもはや慣れ尽くした芭蕉ではあったが、今回は健康のこと、方角が初の東北であったことなど、不安材料は多かったであろう。
『おくの細道』 旅立ち 千住~草加~粕壁
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに
(1)「草の戸も 住替る代よぞ 雛の家」 面八句を庵の柱にかけ置く。
弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 
(2)行く春や 鳥なき魚の 目は泪これを矢立の初として、行く道なを進まず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境、もし生て帰らばと、定なき頼みの末をかけ、その日ようよう早加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかかれるもの、まずくるしむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、帋子(かみこ)一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨がたくて、路頭の煩となれるこそわりなけれ。
元禄2年3月28日(5月17日) 間々田 栃木県小山市間々田に泊まる。この日終日雨。
元禄2年3月29日
閏月で30日は存しない
宝の八島から
今市
3月29日 一行は、真々田を出発して、栃木県小山市から壬生町を経由して、栃木市に入った。そして、本文の室の八島を参詣して、再び二人は壬生町へ戻る。そこから北にとって、鹿沼市を通り、今市市に到着して、ここで一泊した。 この日、天気は午前中はよかったが、午後から曇。夜半から本格的な雨になった。
 なお、大神神社は、「いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは」(藤原実方)、「煙たつ 室の八嶋に あらぬ身は こがれしことぞ くやしかりける」 ( 大江匡房)、「煙かと室の八島を見しほどにやがても空の霞みぬるか も」(源 俊頼)など と詠まれた「室の八島」の歌枕として信じられていた。芭蕉らもこれを信じてこの旅の最初の歌枕探訪地としたのである。しかし、ヤシマは カマドのことであって、それを「八島」と書いて庭内に八つの島をもつ池をつくったここ大神神社はそもそも平安歌人たちが詠んだ下野の国の「ムロノヤシマ」ではない可能性が高いことに注意したい。
元禄2年4月01日 鉢石~日光 4月1日、今日は衣更えの日。曾良は、この旅の出発にあたり黒髪を落とし、すでに墨染めの僧衣に衣更えをしたのだが、今日こうして黒髪山で衣更えの日を迎えるのも因縁に違いない。曾良の句 とするが、曾良を印象的に登場させるために芭蕉が作ってここに入れたのである。剃捨て黒髪山(日光男体山)に衣更---曾良 黒髪山は霞がかかって、真っ白な雪が残っていた。日光山参拝後上鉢石町五左衛門宿へ。前夜からの雨が朝まで残り、午前中は小雨ながら降ったり止んだりの天気であった。今市の宿を出て、昼過ぎ日光に到着。ここでようやく雨が止んだ。 一行は、浅草の清水寺から預ってきた寺の書物を、養源院という寺に届ける用事をたした。養源院では、二人に案内を付けて東照宮社務所へ案内してくれたようである。当日は参拝客で混雑していたため、二人は随分待たされたが社務所の案内で東照宮を参詣することができた。そして、この夜、本文のような佛五左衛門の旅篭に一宿したという次第である。 なお、この旅では、芭蕉は事のほかに「乞食巡礼」を意識していた。それだけに佛五左衛門については 、実在の五左衛門に仮託して、彼の描く理想的な人物像を作り上げたのであろう。しかし、そのためには現実の宿の主人五左衛門から受けた好感が素材となっているのだろうから、全くの創作というわけでもないのだろう。(3)「あらたふと 青葉若葉の 日の光」 なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦々と日の光が射している。これは、弘法大師さまと東照宮さまのおかげだ。芭蕉の徳川政権への過度の賞賛がしばしば非難された句。今市の宿を出て昼過ぎ日光に到着東照宮お参り
『おくの細道』室の八島~
室の八嶋に詣す。同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習しはべるもこの謂なり」。はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記のむね世に伝ふこともはべりし。卅日(みそか)、日光山の梺に泊る。あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固の者なり。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質もっとも尊ぶべし。
日光~黒髪山
卯月朔日(ついたち)、御山に詣拝す。往昔この御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵みんの栖穏(おだやか)なり。猶憚(はばかり)多くて筆をさし置ぬ。
 (3)「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。  剃捨て 黒髪山に 衣更--曽良
曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、よが薪水の労をたすく。このたび松島・象潟の眺ともにせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立つ暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。よって黒髪山の句あり。「衣更」の二字力ありてきこゆ。廿余丁山を登つて瀧あり。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて瀧の裏より見れば、裏見の瀧ともうし伝えはべるなり。
 (4)「暫時は滝に籠るや夏の初」

元禄2年4月02日 今市~玉生 光裏見の滝から玉入へこの日は快晴であった。裏見の滝を見物の後、那須・太田原へ行く。(4)「暫時は滝に籠るや夏の初」夕刻には、雷雨強烈、塩屋町に到着してそこで一泊。ただし、あまり宿がひどかったので無理に願い出て庄屋の家に泊めてもらった。しばらくは瀧にこもるや夏の初め「夏(げ)」は、 「夏行(げぎょう)」のことで、陰暦4月16日から90日間水ごりなどをする僧侶の行のこと、夏安居とも。「裏見の滝」を見物しながら、まるでその夏行に入ったような気分になった。そういえば、もうそろそろ夏行の始まる季節だ。
元禄2年4月03日
11日~14日
余瀬 4月3日大田原経由して黒羽着 13泊、快晴。塩屋町から矢板を経て黒羽町へ至る。この夜は翠桃宅を訪ねて泊る。この日は、元禄2年4月4日である。浄法寺図書高勝を訪問し宿泊した。高勝はこの時29歳。蕉門の俳号は、芭蕉の桃青の一字をもらって「桃雪」。この日も快晴であった。
次ぎの運岩寺を訪ねたのは4月5日であったから、ここでは日付順序が違って9日になっている。9日には、昼過ぎから光明寺に招かれてよるまでそこに滞在している。4月6日より愈々梅雨のまえぶれで連日雨に降られ、この日も雨だった。
元禄2年4月5日。この日は朝のうち曇っていたが、天気はよかった。
好天もこの日までで、以後、4月6日より9日までは連日の雨天、4月10日になってようやく止み太陽が顔を出した。この間、浄法寺図書方へ投宿。4月11日は日中小雨、夕方やや強く降る。4月12日は曇、4月13日になって久しぶりに天気になったものの、4月14日は又雨。4月11日から14日まで翠挑方に宿泊。4月15日に雨上がり、再度浄法寺図書宅に移る。黒羽 光明寺 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪 雲巌寺栃木県大田原市に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ね(6)「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」
栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝す(5)「夏山に 足駄を拝む 首途哉」
元禄2年4月04日~10日
15日
黒羽

『おくの細道』那須~黒羽
室の八嶋に詣す。同行曽良がいわく、「この神は木の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習しはべるもこの謂なり」。
はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記のむね世に伝ふこともはべりし。
元禄二年四月四日
那須の黒ばねといふ所(ところ)に知人あれば、これより野越にかかりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明ればまた野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈る男の子になげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、ういういしき旅人の道ふみたがえむ、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独は小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、    かさねとは 八重撫子の 名成るべし--曽良   やがて人里にいたれば、あたひを鞍つぼに結付けて、馬を返しぬ。
黒羽の館代浄坊寺何がしの方におとずる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、その弟桃翠(とうすい)などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遙(しょうよう)して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣ず。与一扇の的を射し時「べっしては我国氏神正八」とちかひしもこの神社にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊しきりに覚えらる。
暮桃翠宅に帰る。
(修験光明寺 元禄2年4月9日)
修験光明寺といふあり。そこにまねかれて行者堂を拝す。 (5)「夏山に 足駄を拝む 首途哉(かどでかな)」 
元禄2年4月5日
当国雲巌寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。  竪横の 五尺にたらぬ 草の庵  むすぶもくやし 雨なかりせば と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。
その跡みむと雲岸寺に杖をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若き人おほく、道のほど打ちさはぎて、おぼえずかの梺(ふもと)にいたる。山はおくあるけしきにて、谷道はるかに、松杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なお寒し。十景つくる所、橋をわたつて山門に入る。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。 (6)「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」   と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。
元禄2年4月16日~17日 高久(黒磯) 4月16日、日中好天、夜に雨。16・17日は高久の高久角左衛門方に宿泊。ここで「落ち来るや高久の宿の郭公」を詠んでいる。
元禄2年4月18日 那須湯元 18日に那須湯本へ。和泉屋五左衛門方へ投宿。終日雨。この朝地震があった。
元禄2年4月19日 那須湯元 4月19日は久しぶりに五月晴の快晴。正午ごろ栃木県那須町の温泉神社に参詣。那須与一の宝物などを宮司から見せてもらう。その後、本文にある殺生石を見に行った。夜は、和泉屋五左衛門方へ投宿。
(7)「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」 元気がよいが意味不明な句ではある。ホトギスに命じているのか、口付の男に命じているのかよく分からない。勢いで読む句なのであろう。那須野は道が多く縦横に走っていたことで有名。また、犬追いものの話も出てきたから鎌倉時代の那須の軍事演習を想像しながら作ったのかもしれない
おくの細道/

元禄2年4月20日 白川古関所跡 4月20日。朝のうち霧が発生。午前10時近く那須湯元を出発。栃木県那須町で遊行柳を見物「(8)「田一枚植て立去る柳かな」 その後福島県の白河の古関を見物して白河に一泊。夕方から小雨。 
 西行の、「しばしこそとてたちどまりつれ」 に誘われて、 芭蕉もここに立ち止まったのである。その瞬間から芭蕉は西行の時間の中に居る。その夢想の時間の間に早乙女たちは一枚の田んぼを植え終えた。田を立ち去る乙女たちに同期して芭蕉一行もこの場を立ち去ったのである。当時の田んぼの一枚がどのくらいの面積か想像できないが、田植時間もそう短いものではないだろうから、早乙女達の手際のよい作業に見とれるように芭蕉一行は夢幻の時間を過ごしたのである。それは又謡曲「西行」の幽玄な時間でもあったのだろう。 この句には古来様々な解釈が施されてきた。①早乙女たちは田を一枚植えて、その場から立ち去った、という「ああ、そうですか」解釈。②早乙女たちが田を一枚植え終えたので、芭蕉らはその場から立ち去った、という「暇つぶし」の解釈。③早乙女たちが植えている田植に芭蕉たちも手伝って、一枚植え終えたので立ち去った、という「ボランティア精神」、などである。共通して言えることはこれらは全て「柳」の存在が消えてしまった解釈であるということ。
元禄2年4月21日 矢吹 4月21日。霧雨。昼過ぎからは快晴。朝9時ごろ宿を出て、古関の明神で、住吉明神と玉島明神を一緒に祭った「二所の関」明神に参詣。行基開基といわれる関山山頂にある真言宗成就山満願寺に参詣。白河の中町左五左衛門を訪ね、その後、4里ほど離れた矢吹に午後5時過ぎ到着して一泊。
元禄2年4月22日~28日 須賀川 4月22日、矢吹から福島県須賀川市へ。相良等躬宅へ。
ここで早速
(9)「風流の初めや奥の田植歌」芭蕉.曾良.等躬の三吟歌仙
4月23日、「世をいとう僧」こと可伸を訪ねる。
4月24日等躬宅の田植え午後から可伸の庵で(10)「世の人の見付けぬ花や軒の栗」に始まる七吟歌仙。雷雨。4月25日、等躬は物忌み。 4月26日、小雨。杉風宛に書簡執筆。4月27日、くもり。三つ物。芹沢の滝見物。4月28日、朝は曇。今日、須賀川を発つ予定であったが、矢内彦三郎が来て延期となる。午後、彦三郎宅を訪問。風流の初めや奥の田植歌 等躬への挨拶吟。みちのくに入って耳にする田植歌は、俳諧風流の神髄だ。世辞を込めて須賀川をほめた句。快晴。石河の滝を見物。途中、本実坊・善法寺などに立ち寄って、夕方郡山に到着して一泊。

元禄2年4月29日 郡山 4月29日。快晴。須賀川を出発。まず、南下して石川郡玉川村の石河の滝を見物。あちこち立ち寄りながら夕方、郡山に到着してここで一泊。宿はむさ苦しかったようである。
元禄2年5月01日 二本松~福島 5月1日。快晴。日の出とともに宿を出て、郡山市日和田町で馬を求め、安積山・安積沼を見ながら、二本松へ。黒塚の鬼を埋めたという杉の木立を眺めながら、日の高いうちに福島に入る。福島に一泊。
元禄2年5月02日 飯坂 5月2日 福島を出発.阿武隈川を岡部の里を船で渡り信夫文字摺石を見物
(11)「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」稲の苗を扱う手許の風情も古代めいて見える陸奥の田植風景。信夫もじ摺りを扱う手さばきが忍ばれる
月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。佐藤庄司の館跡を訪ねて、義経の太刀や弁慶の笈などをみると、これから訪ねる平泉の悲劇が想われる。いま、薫風香る五月。笈も太刀も五月の風に吹かれてみよ。結句紙幟は座敷に飾る紙製の幟旗。
(12)「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」その後、飯坂温泉へ。ここに大島城があり、ここが佐藤元治の館跡であった。飯坂温泉泊。夕方から雨。夜更けて強雨。温泉があるので入浴してから宿を探したのだが、見つかった宿は、土間に筵を敷いただけの薄汚い貧乏家。灯火もないので、囲炉裏のそばに寝床を取って寝る。夜になって雷雨がひどく、寝ているところに雨が漏れてくる。しかも、蚤や蚊にくわれて眠られない。持病さえおこって、その心細さといったらない。
おくの細道/
元禄2年5月03日 白石 5月3日、夜来の雨。午前10時ごろに上がる。雨上がりとともに飯坂を出た、しかし、前夜の不眠がたたって気分は晴れない。馬を借りて桑折の駅まで出た。前途に遥かな旅路をひかえて、このような病気は覚束ない。だが、辺境の地に一身を捨てた旅であり、すべては諸行無常、路上に死んでもそれは天命なのだと、気力いささかふりしぼって、縦横に曲がった細道を踏みしめ踏みしめ、桑折から国見を経、伊達の大木戸を越えて、白石市に入る。この晩は、白石に一泊。 
元禄2年5月04日~7日 笠島~国分
(仙台)
5月4日。午前8時頃、白石出発。小雨もこの頃には止み、薄日も射し始めた。岩沼で竹駒神社参詣。その別当竹駒寺の後に武隈の松がある。これを見物。
(13)「笠島は いづこさ 月の ぬかり道」 (14)「桜より 松は二木を 三月越」
笠島はいささか遠いというので見ずに通過名取川を渡り、仙台市長町で若林川を渡って夕方仙台に到着。国分町大崎庄左衛門宿に泊る。以後、8日塩釜に発つまで4泊5日の日程で仙台に滞在した。
5月5日、端午の節句。この日は、江戸や旅の途中に預った書状(実は紹介状)などを届けるのに一日を要した。 特に当代4代目伊達藩主綱村のお守役であった橋本善衛門宛書状が有ったが、この紹介状を書いた人物は不明だが相当に身分の高い者でなければならない。ただし、善衛門には会えなかったが、かわりに大淀三千風門下の画工北野屋加衛門と知り合いになる。
 5月6日。天気晴朗。青葉城の追手門側から入って亀岡八幡神社参詣。その頃からにわか雨。茶室で雨宿り
5月7日北野屋加衛門の案内で東照宮参詣、仙台市榴ヶ岡参詣。国分寺跡など見物。加衛門が干し飯や草鞋などを持ってくる。
5月7日。北野屋加衛門の案内で東照宮参詣。歌枕である玉田・横野を見て、仙台市榴ヶ岡参詣。国分寺跡など見物。夜、加衛門が干し飯や草鞋などを持ってくる。夜、雨。
(15)「あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒」 あやめ草を葺く日の今日民家ではそれを軒にさしますが、旅に出ている私は加右衛門に貰った紺の染め緒を草鞋の緒に結びましょう。加右衛門に対する感謝の吟。
元禄2年5月08日 塩竃 5月8日出発前に加衛門が海苔一包持参。午前10時頃、塩釜へ向け出発。十符の菅・菅菰などを見て、午後3時過ぎ塩釜に到着。御茶漬けを食べてから、末の松山など市内の名所旧跡を見物。朝、小雨。仙台の加衛門紹介の鹽竈神社近くの法蓮寺門前の宿「治平」に投宿した。
元禄2年5月09日






松島 5月9日。五月晴れの快晴。早朝、鹽竈神社などを拝観した後、正午には塩釜から船に乗って、昼に松島海岸に到着した。まず瑞巌寺に詣で、じっくりとこの寺を拝観した。雄島に渡り雲居上人の修業跡を見てから八幡神社・五大堂を見物した。ここも仙台の加衛門の紹介による宿「久之助」宅に投宿した。
そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々をここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また、松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。
「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」曾良 私は句作を断念して、眠ろうとするが眠られない。江戸の旧庵を出るとき、友人素堂は「松島の詩」をくれた。原安適は「松がうらしま」の和歌を贈ってくれた。これらを袋から取り出して、今夜の友とする。また、門弟の杉風や濁子の発句もあった。
元禄2年5月10日
(陽暦6月26日)
石巻 5月10日(陽暦6月26日)。快晴。宮城郡松島町高城、東松島市小野・矢本を経由して石巻市に行く。途中後述のような、白湯が飲めないというような事件があったが、無事石巻には着いた。ここで小雨が降る。すぐに止んだので日和山に登り、ここから石巻中を眺めることができた。渡波、遠島、牧山などを見渡し、また真野の萱原も少し見えた。山から下って北上川近くの住吉神社に参詣。住吉神社の鳥居の前が 「袖の渡り」である。 
元禄2年5月11日 登米 5月11日。天気晴。 旅宿「四兵へ」を出発して、石巻市新田町鹿又で旧北上川を舟で渡り、追波川おっぱがわ=心細き長沼)に沿って石巻市飯野川町へ。北上川に沿って登米市津山町柳津 を経由して登米市登米町<とめしとよまちょう>の権断庄左衛門(権断屋敷)に宿泊。
元禄2年5月12日~13日 一ノ関~平泉 5月12日馬に乗り花泉町金沢を通って一関市に宿泊。13日一関を発つ。平泉 藤原3代の跡を訪ね「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。
(16)「夏草やつはものどもが夢のあと」(17)「五月雨の 降り残してや 光堂」光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂は見ていないとされる。
おくの細道/
元禄2年5月14日 岩手山 一関を出発して宮城県栗原市内(三迫・栗駒・一迫・金成)を経て 宮城県大崎市岩出山町へ。
元禄2年5月15日~16日 堺田(尿前) 5月15日宮城県鳴子町を通過し、中山を経て堺田に到着。堺田の庄屋有路家新右衛門兄宅に一泊。堺田に足止め。有路家に2泊目尿前の関(18)「蚤虱 馬の尿する 枕もと」
元禄2年5月17日~26日 尾花沢 5月17日堺田出発。天下の難所山刀伐峠を越え尾花沢.鈴木清風宅に一泊。18日弘誓山養泉寺に移る。19日.20日.5月21日東水宅へ招かれ、夜は沼沢所左衛門宅に招待される。清風宅宿泊。22日。素英宅に招待される。23日。夜歌川仁左衛門宅に招待される。清風宅に宿泊。24日大石田 一栄、高野平右衛門宅で歌仙。25日俳諧の予定洪水騒ぎで中止。26日尾花沢の豪商、鈴木清風を訪ね
(19)「涼しさを 我宿にして ねまる也」
(20)
「這出よ かひやが下の ひきの声」
(21)
「まゆはきを おもかげにして べにの花」
おくの細道/
元禄2年5月27日 立石寺 5月27日 尾花沢を出発東根市を通過し天童市内に入る。夕方山寺に到着。山内を拝観し宿坊に泊。(22)「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
おくの細道/
元禄2年5月28日~30日 大石田 5月28日 天童に出て午後3時大石田 高野一栄宅に到着。疲労のため句会を中止した。 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。(23)「五月雨を あつめて早し 最上川」 
元禄2年6月01日~02日 新庄 大石田を出発。途中まで一栄と川水が送ってくる。新庄の「風流」宅に宿泊。「水の奥氷室尋ぬる柳哉」と詠んだ。2日新庄に滞在盛信宅に招かれ「風の香も南に近し最上川」を詠む。
元禄2年6月03日
(7月19日)
~05日~7日~9日
羽黒山(南谷)
月山
6月3日新庄を出発。川舟にて東田川郡立川町を経由し羽黒町へ。この川舟の上で「集めて早し」となったという。羽黒山に登る。午後5時ごろ近藤左吉宅へ到着。暮方、南谷別院を宿舎として与えられる。
6月4日昼会覚阿闍梨に本坊に招かれ蕎麦切りをふるまわれる。
午後
 (24)「有難や雪をかをらす南谷」発句で始まる八吟歌仙。
6月5日朝のうち小雨。昼より晴。早夕飯を食べてから羽黒権現に参詣。帰って句会。
(25)「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」 羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山と言う。この寺は、江戸の東叡山寛永寺に属し、天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし、円満にして偏らず、速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し、僧坊は軒を並べて林立。修行が盛んで、霊場としての霊験はあらたか。よって人々の畏れと尊崇を集めている。
6月6日晴。月山へ登山。午後5時ごろ頂上の月山権現に着く月山
(26)
「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」

6月7日湯殿山へ。昼には月山に戻る。夕方南谷に戻る。
湯殿山(27)「語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな」
6月8日朝のうち小雨。昼過より晴れ。月山に登った。山中の仔細は、行者の法として語ってはならないとされているので記さない。坊に帰って、阿闍梨の求めに応じて出羽三山順礼の句など短冊に書きとめた。 
涼しさや ほの三か月の 羽黒山」「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」「語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな」
6月9日晴時々曇。断食。
おくの細道/
元禄2年6月10日~12日 鶴岡 6月10日午前中句会。昼、本坊にて蕎麦切り・茶・酒などふるまわれる。午後2時ごろまでつづく。左吉宅に帰り、午後5時ごろ近藤左吉を同道、鶴岡の長山五良衛門宅に行き、仮眠して夜俳会。
6月11日通り雨しばしば。俳会を開いたが芭蕉の体調あしく中途で止める。
6月12日通り雨。昼過には晴。歌仙完成。
元禄2年6月13日~14日 18日~24日


酒田 6月13日川舟に乗って酒田へ。船中で雨。暮ごろ坂田着。
6月14日酒田の豪商寺島彦助亭に招かれ俳会(29)「暑き日を 海にいれたり 最上川」いままさに真っ赤な太陽が日本海に沈んで行く。この暑い日を海に納めた最上川は再び涼しさを招いてくれることだ。急流最上川が大量の水を海に入れて、その水量に流されて暑い太陽は沈んで行くのである。
(28)「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」吹浦は酒田海岸の地名、あつみ山は山形県西田川郡温海町にある温海岳。雄大な景色の中で温海山が夕涼みをしているという擬人化。酒田の門人たちへの挨拶吟でもある。この句は象潟からの帰路に詠んだもので紀行文として順序が変更されている。 
おくの細道/
元禄2年6月15日 吹浦  酒田より象潟に向けて出立。朝より小雨。昼過ぎ遊佐町(吹浦は酒田海岸の地名)に到着。強雨のためここに宿泊。
元禄2年6月16日~17日 象潟~塩越 6月16日吹浦を出発。降雨の中をうやむやの関に至る。ここで雨甚だ強く船小屋で休憩。昼過ぎ、塩越、佐々木孫左衛門次郎宅に入る。ここで濡れた着物の着替えを調達し雨の中を象潟に行き暮色を眺める。
6月17日朝の中小雨が残る。昼には晴天。神宮皇后の御陵と称する寺に参詣。夕食後船で湾内に出る。加兵衛は、酒や茶菓子を持参
象潟きさがたは松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象泻は憾むうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり」と形容した。
(30)「象潟や 雨に西施が ねぶの花」西施は中国春秋時代の美女の名。(31)「汐越 鶴はぎぬれて 海涼し」
おくの細道/
元禄2年18日~24日 酒田 6月18日快晴。酒田へ取って返す。
6月19日快晴  (28)「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」を発句とする三吟歌仙。芭蕉、杉風宛・知足宛・越
6月20日:快晴。三吟歌仙。6月21日:快晴。夕方から曇、夜になって雨。三吟歌仙を終える。
6月22日:曇、夕方晴。6月23日:晴。酒田の富豪近江屋三郎兵衛宅に招かれる。芭蕉即興吟「初真桑四つにや断ン輪に切ン」あり。6月24日:朝の中晴。夕方から夜半にかけて雨。
元禄2年6月25日 大山 6月25日酒田を出発。門人達(不玉父子・徳左・四良右・不白・近江屋三郎兵・加賀屋藤右衛門・低耳等)が船橋迄見送り。3時頃鶴岡に到着。丸や儀左衛門宅に投宿。
元禄2年6月26日 温海 6月26日晴。鶴岡を出発。午後3時頃、温海町に到着。鈴木左衛門宅に投宿。
元禄2年6月27日 中村 6月27日夜来の雨は止む。芭蕉は馬に乗って鼠ヶ関経由で旅を続け新潟県岩船郡山北町にて一泊。
元禄2年6月28日~29日  村上・瀬波 6月28日朝のうち晴。やがて雨。午後4時頃、村上市に到着。菱田喜兵衛に城内で会う。久左衛門 (伊勢長島時代の曾良の知人。吉兼に着いてきた伊勢長島の商人という宅に宿泊。
6月29日天気快晴。村上藩筆頭家老榊原帯刀より百疋 (1/4両=現代の貨幣価値では約3万円程度か)与えられる。帯刀の父榊原一燈(一燈は俳号、曾良 が伊勢長島で遣えた伊勢長島藩主の三男で松平良兼。村上は筆頭家老榊原家に婿入りしていたが、貞亨4年7月29日に没 。曾良が、この旅に芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われている。)の墓参り。宿に帰って冷麦を食べる。午後2時過、久左衛門と瀬波へ観光。帰ると喜兵衛・山野から届け物。友右から瓜、喜兵衛夫人から干菓子の贈答あり。 
元禄2年7月01日 築地 7月1日時々小雨。朝門人ら尋ねてきて、皆で榊原帯刀の菩提寺泰叟院参詣。午前11時頃、村上を立つ。午後1時頃、中条町に到着。次作を尋ねる。大変もてなされる。次市良宅へ泊る。時々雨強く降る。夜強雨。
元禄2年7月02日 新潟 7月2日8時頃中条町を出発。村上市の菱田喜兵衛方から七郎兵衛宛の書状は不通。昼より晴。午後5時頃新潟着。ここに宿泊しようとするが追込宿という下級の宿しか空いていないという。
元禄2年7月03日 弥彦 7月3日快晴。新潟を出発。馬代が高いというので徒歩。4時頃、弥彦に到着。宿を取って後、弥彦神社に参詣。
元禄2年7月04日 出雲崎 7月4日快晴。午前8時頃、弥彦を出発。午後4時頃出雲崎に到着。夜中強雨。越後 出雲崎での句。(33)「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
おくの細道/
元禄2年7月05日 鉢崎 7月5日夜来の雨朝まで降る。午前8時頃、出雲崎を出発。途中雨が降り出す。柏崎に行き大庄屋である天屋彌惣兵衛宅では宿泊を渋られたかして不快ゆえ取って返す。家人はあとを追ってきたが、相手にせず出て行く。小雨のなか、午後5時頃、柏崎市米山町俵屋六郎兵衛宅に宿泊。
元禄2年7月06日~7日
今町(直江津) 7月6日:雨上がる。昼に直江津へ到着。聴信寺に予め書状をやっておいたのに忌中といっていい顔をしない。取って返すと、石井善次郎が追ってきたが戻らずにいた。が再三再四呼びに来るし、雨は強くなるので一旦戻る。宿は、古川市左衛門宅にする。
夜、(32)文月や六日も常の夜には似ず」を発句に句会。
7月7日:雨降り続く。出発を見合わせていると、聴信寺から再三に亘って迎えが来る。夜、佐藤元仙宅にて「星今宵師に駒ひいてとどめたし」を発句として句会。ここに一泊。昼の内少し止んだ雨が夜中には強雨になる。
(33)「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」これも最も人口に膾炙した芭蕉の代表的な句の一つ。
7月7日新潟県直江津での 佐藤元仙宅での句会での発句として掲出されたもの。ただし、この夜、芭蕉が滞在していた直江津界隈は朝から雨で、夜になっても降り止まなかったらしいから、芭蕉は天の川を見ていない。とすればそれより以前に作ったものを この夜発表したということであろう。そこでこの近日の天候を見ると連日雨で、7月4日の夜に少し星が見えた。だから、この夜出雲崎でこの句は構想されたものであろう。
 夏の日本海は波も静かで「荒海」ではない。また、天の川は対岸から見て佐渡島には「横たわらない」。佐渡と本土に横たわる日本海は、芭蕉の心象風景の中では「荒海」であったらしい。それは、 順徳上皇(1221年)、日蓮(1271年)、日野資朝(1332年)、世阿弥(1434年)など実に多くの流人が佐渡に幽閉されたことによるのかもしれない。そこに「横とう」天の川は、これら流人と芭蕉とのコミュニケーションパスでなくてはならなかったのであろう。 
7月8日雨止む。出発したかったが、左栗<さりつ>が熱心に乞うのでごちそうになる。午後3時過ぎ、上越市高田に至る。池田六左衛門を尋ねるが来客中なので、寺を借りて休む。細川春庵より招待状が来たので、そこで句会。六左衛門宅に投宿。 7月9日小雨時々。歌仙あり。

 7月10日時々小雨。中桐甚四良宅へ招かれ歌仙。夜になって帰る。
元禄2年7月08日~10日 高田
おくの細道/
元禄2年7月11日 能生 7月11日:快晴。猛暑。午前11時頃、高田を出立。名立町には書状が不通であったので、そのまま能生町。夕刻能生町着。玉屋五郎左衛門宅に一泊。月が出る。
元禄2年7月12日 親不知~市振 親不知の難所を越えて市振の宿に泊まる。(34)「ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」
7月12日。天気快晴。新潟県西頸城郡能生町を出発。糸魚川の早川という川で芭蕉は足を滑らせて衣類を濡らしてしまった。河原で乾燥させてから、再出発。昼、糸魚川の新屋町左五右衛門宅で休憩。夕刻5時、市振に到着。「桔梗屋」という旅籠に宿泊したと当地では言っているが不明。
 市振は、新潟県西頚城郡青海町の親不知(親しらず・子 しらず・犬もどり・駒返し新潟糸魚川市北国街道最大の難所。親子といえども顧みる間も無く犬も馬も渡りかねる難所)南2.5km、北陸線市振駅周辺。寛延年間に関所が置かれ、北陸道のチェックポイントとなった。
 宿舎の記述が曾良にも無いので不明だが、本文のような事実は曾良の随行記には無いので、この遊女の一件は虚構であろうと思われる。いまは、トンネル道路が出来、北陸道の最大の難所も、難なく通過することが出来るが、芭蕉の時代は、浪静かな時に、波打ち際をそっと旅したのかと思うと、当時の苦労が偲ばれる。市振の宿は、今も、昔も「何も無い場所」だ、地元のオバサン達は、親切に長円寺や桔梗屋跡の案内をしてくれた。
おくの細道/
元禄2年7月13日 滑川・有磯海 7月13日早朝、市振を出発。新潟県 糸魚川市市振から富山県朝日町をへて、入善町に入った。ここでは馬の便が無く、人足を求めて荷物を運ばせたようだ。黒部川をはじめ黒部四十八が瀬の多くの川を越え、夕方、滑川に到着してそこに一泊した。この日は雨後晴、猛暑であった。
元禄2年7月14日 高岡
~俱利伽羅峠
越中 那古の浦 数しらぬ川を渡り終えて。(35)「早稲の香や分け入る右は有磯海」 
7月14日は快晴、猛暑。朝、滑川市を出発して、富山には行かず、常願寺川・神通川・庄川を渡り、高岡市へと旅を続けた。猛暑のなかの強行軍であったため二人は疲労困ぱいした。この夜は、高岡に宿を取った。
 有磯海は富山湾。旧暦7月中旬ともなれば既にここ早場米地帯の米は穂が出て豊作を報せていたはず。その野面の先に有磯海が広がる。有磯海は荒磯海で富山湾の海で歌枕。ただし、芭蕉一行はこれを右に見る道を一路金沢目指して歩いていく。 ここで芭蕉が「早稲」を主題としたのは必ずしも嘱目だけではなかったのかもしれない。俳諧の起源と言われる連歌の最も原初のものと言われるのは、万葉集の「佐保川の水を堰上げて植し田を」(尼つくる) 「刈る早稲飯はひとりなるべし」(家持つぐ)である。大友家持は、天平18年(746年)7月に越中国国守となってこの地に赴任し、天平勝宝3年(751年)まで滞在した。芭蕉は、家持の「早稲飯」を思い出すことで、担籠の藤波へと連想がつながっていったのかもしれない。
おくの細道/
元禄2年7月15日~23日 金沢 金沢(陽暦で8月29日)から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。江戸を発って四ヶ月曾良は体調勝れず。急遽、立花北枝が供となる。
(36)「塚も動け 我泣聲は 秋の風」(37)「秋すゝし 手毎にむけや 瓜天茄」当地を後にしつつ途中の吟 (38)「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
おくの細道/
元禄2年7月24日~26日 
8月06日~08日
小松 小松. 山中温泉から戻り8月6日~7日懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。(39)「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」加賀.片山津『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。
(40)「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
8月5日 那谷寺、小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。
(41)「石山の 石より白し 秋の風」
元禄2年7月27日~8月05日 山中 山中温泉 大垣を目前に安堵したか八泊、和泉屋に宿(42)「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」
芭蕉が山中温泉で9泊した「和泉屋」はかって総湯と呼ばれ現在の「菊の湯」の向かいであった。
「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に」「行行て たふれ伏ふすとも 萩の原」曾良と書き置たり。(43)「今日よりや 書付消さん 笠の露」
おくの細道/
元禄2年8月09日 大聖寺 大聖寺 熊谷山全昌寺 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。(44)「庭掃て出でばや寺にちるやなぎ」「終宵よもすがら秋風聞やうらの山」曾良
元禄2年8月10日~8月11日 松岡(永平寺) 越前「この一首にて数景尽たり」蓮如ゆかり吉崎御坊の地。「終宵 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」丸岡 天龍寺 金沢から供とした立花北枝とここで別れる。(芦原ゴルフクラブ9番ホールの中間には『奥の細道』にでてくる、汐越の松と碑がある)(45)「物書て 扇引さく 余波哉」
元禄2年8月12日~8月13日 福井
おくの細道/
元禄2年
8月14日~8月15日 17日~18日


敦賀 夕方、敦賀に到着。仲哀天皇の御廟である氣比神宮に夜参する。美しい月夜であった。遊行二世上人のお砂持ちの故事にちなんで。(46)「月清し 遊行のもてる 砂の上」
15日 北国の日和はあいにく雨が降り十五夜の名月は見れず。(47)「名月や 北国日和 定めなき」14日の夜の一夜に芭蕉は15句詠んだと伝えられている。その14句を集めたのが
「芭蕉翁月一夜十五句」である。大垣門人宮崎荊口の『荊口句帳』を介して伝えられたが、15句ではなく14句しか掲載されていない。
芭蕉翁月一夜十五句
名月の見所問はん旅寝せん あさむつを月見の旅の明け離れ
月見せよ玉江の芦を刈らぬ先 明日の月雨占なはん比那が嶽
月に名を包みかねてや痘瘡の神 義仲の寝覚めの山か月悲し
中山や越路も月はまた命 国々の八景さらに気比の月
月清し遊行の持てる砂の上 名月や北国日和定めなき
月いづく鐘は沈める海の底 月のみか雨に相撲もなかりけり
古き名の角鹿や恋し秋の月 衣着て小貝拾はん種の月
元禄2年8月16日 種の浜 8月16日種の浜、十六日、空は晴れたので、「汐そむるますうの小貝ひろふとて色の浜とはいふにや有らん」と西行法師によって詠まれたますほの小貝を拾おうと、種の浜に舟を出す。そこまで海上を二十八キロ。天屋何某という人、わりご・ささえなどこまごまと用意して、下僕を大勢舟に乗せてきてくれた。追い風に押されてあっという間に種の浜に着いた。浜は海人の家などもわずかにあるばかりで、侘しい法華寺が一軒あるのみ。ここで茶を飲み、酒を温めて、秋の夕暮れの浜の寂しさを心行くまで堪能した。
(48)「寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋」 (49)「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」その日のあらましは、等栽に記録させて寺に残しておいた。
おくの細道/
元禄2年8月19日 木之元
元禄2年8月20日 春照
元禄2年8月21日~9月05日 大垣  8月21日(またはそれ以前)露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて、美濃の国へと同行する。馬の背に乗せられて、大垣の庄に入れば、曾良は伊勢より来、越人も馬を飛ばせて、如行の家に集まっている。前川、荊口父子、その他親しい人々が日夜見舞ってくれて、まるで生き返った人に再会するかのように、門人たちが喜んだり、労わってくれたり。
ただし、敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない 。
元禄2年(西暦1689年)
       9月6日
9月13日~
式年遷宮の
伊勢神宮へ
9月6日 芭蕉は旅の疲れはまだ残っているものの、九月六日、伊勢神宮遷宮に参ろうと、ふたたび舟に乗って、「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句(50)「蛤のふたみに別れ行秋ぞ」 ハマグリの殻と身とを引き剥がすように、又再び悲しい別れの時が来たことだ。千住出発の折りの歌「行く春や鳥なき魚の目は泪」と対をなす。「ふたみ」は、「双身」とこれから行く「二見ヶ浦」にかけている。
おくの細道/
「現代に甦る松尾芭蕉」伊藤洋先生(話)⇒
松尾芭蕉略年譜
江戸.西暦元号 年齢 事柄
1644(正保元) 1 伊賀国の松尾与左衛門の二男として生まれる。
1656(明暦2) 13 父与左衛門が亡くなる。
1662(寛文2) 19 藤堂新七郎家の若殿良忠、俳号蝉吟に仕える。
京都の北村季吟に俳諧を学ぶ。宗房を俳号として使う「春やこし年や行けん小晦日」
1666(寛文6) 23 良忠が25歳で亡くなり、奉公をやめる。
1672(寛文12) 29 『貝おほひ』を上野天満宮(上野天神宮)に奉納する。
このころ、江戸へ行く「きてもみよ甚兵が羽織花衣」
1674(延宝2) 31 季吟から名前の入った『埋木』を授けられる。
1675(延宝3) 32 西山宗因を歓迎する句会に出席。このころから俳号「桃青」を使い始める。
1677(延宝5) 34 俳諧の宗匠となる。
1680(延宝8) 37 宗匠をやめて、深川の庵にうつる。
1682(天和2) 39 江戸の大火で庵が焼け、甲斐国の高山糜塒を頼る。
1683(天和3) 40 母が故郷で亡くなる。新しい芭蕉庵へ入る。
1684(貞享元) 41 「野ざらし紀行」の旅にでる「野ざらしを心に風のしむ身かな」母の墓参りで伊賀へ帰る。名古屋の連衆と「冬の日」の歌仙の句会「狂句木枯しの身は竹斎に似たるかな」
1685(貞享2) 42 伊賀から奈良・京都、大津・名古屋・木曾路を通って江戸へ帰る。
1686(貞享3) 43 「古池や蛙飛び込む水の音」の句ができる。
1687(貞享4) 44 曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる「鹿島紀行」の旅
「笈の小文」の旅へ出立し、名古屋を経て伊賀へ到着。「旧里や臍の緒に泣く年の暮」
1688(元禄元) 45 藤堂良忠の子良長に招かれる「様々のこと思ひ出す桜かな」
伊勢神宮へ参詣、万菊丸(杜国)と吉野へ向かう。
越人と一緒に名古屋から信州更科へ「更科紀行」の旅に出る。
1689(元禄2) 46 3月、曾良を伴い「おくのほそ道」旅立ち、8月、大垣に到着 奥の細道全行程⇒
1690(元禄3) 47 大津の幻住庵に入る。
1691(元禄4) 48 伊賀での句「山里は万歳おそし梅の花」が詠まれる。
『猿蓑』(初しぐれ猿も小蓑をほしげなり)が刊行される。
1692(元禄5) 49 三度目の芭蕉庵へ入る。
1694(元禄7) 51 『おくのほそ道』清書本が完成。伊賀に帰郷、奈良を経て大阪の地で病気、亡くなる。
おくのほそ道 出典: Wikipedia
概要
おくのほそ道は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵出発し....行く春や鳥啼魚の目は泪.....船に乗り千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となった。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。 ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残す。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。
4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所については現在でも論が分かれている。その後に芭蕉の弟子素龍清書した柿衞本・西村本がある。
出版経緯
西村本の外題「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。 この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増刷され広まったため版本は多く残る。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。1938年(昭和13年)に曾良本が発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本の存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本の発見とされた中尾本の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。


おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅

(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家

(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」
芭蕉の足跡/行程全体図
笈の小文(53句) 貞享4年(1687)10月25日〜貞享5年(1688)4月23日 芭蕉44歳〜45歳
貞享4年(1687)10月25日、芭蕉は江戸を発ち、東海道を上り尾張の鳴海・熱田へ。門人越人を伴い、伊良湖岬で杜国を見舞う。再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて連日句会に出席。歳末に伊賀上野へ帰郷して越年。伊勢で杜国に会い、再度伊賀上野へ帰郷し父の33回忌を営む。春、杜国と連れ立ち、花の吉野へと向かう。和歌の浦・奈良・大坂・須磨に至り、4月23日に京都に入るまでの6か月の旅。 芭蕉は旅から数年を経た頃に、この紀行文の成立に向け力を注いだが、未定稿のまま門人乙州に預けて江戸に戻る。芭蕉没後15年を経た宝永6年(1709)に乙州が刊行する。『笈の小文』や、卯年(貞享4年)から辰年(同5年)に至るので『卯辰紀行』とも称する。序文で、芭蕉の「道すがらの小記を集め」たものと述べているように、風雅論、紀行論、旅論等が収載されており、必ずしもまとまった紀行文ではないが、長編よりも短編紀行文的な発想や、発句を一まとめにして作品に発表されたことが注目される。
更科紀行(11句)貞享5年(1688)8月11日〜8月下旬 芭蕉45歳
 貞享5年(1688)8月11日、芭蕉は門人越人を伴い岐阜を発ち、信州更科へ名月を見る旅に出る。木曾街道を寝覚の床・木曾の棧橋(かけはし)・立峠(たちとうげ)・猿が馬場を経て、8月15日夜、更科に到着。姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へ帰る。それまでの旅とは違い、門人知己を頼らない旅で、それだけに旅情も深いものがあった。紀行文『更科紀行』は作者の人生観や、旅中の僧の挿話を織り交ぜ興趣があり、また発句より散文を優位にした短編で整った作品である。芭蕉自筆の『更科紀行』(沖森文庫本)は、伊賀市所蔵の重要文化財になっている。
野ざらし紀行(43句)貞享元年(1684)8月〜貞享2年4月末 芭蕉41歳
 貞享元年(1684)8月、芭蕉は門人千里を伴い、初めての文学的な旅に出る。東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都・大津・名古屋を訪ね、江戸へ帰るまでの9か月にも及ぶ旅。「野ざらし」を心に決意しての旅であっただけに収穫も多く、尾張連衆と巻いた『冬の日』は風狂精神を基調として、新風の萌芽がみられる。
 紀行文の名称は、『草枕』『芭蕉翁道の記』『甲子吟行』など多数みられるが、今日では『野ざらし紀行』が広く用いられている。「漢詩文調」からの脱却と蕉風樹立の第一歩となる。芭蕉自筆の画巻や元禄11年(1689)刊の『泊船集』などの刊本の形で伝わっている。
鹿島紀行(7句)   貞享4年(1687)8月 芭蕉44歳
 貞享4年(1687)8月14日、芭蕉が名月を見るため、門人曾良・宗波を伴い鹿島、潮来方面へでかけた旅。深川芭蕉庵から舟で行徳へ。陸路で八幡・釜ヶ井(谷)・布佐。夜舟で鹿島根本寺に至る。翌日、鹿島神宮に参詣し、芭蕉参禅の師といわれる仏頂和尚を訪ねて1泊し、雨間の月見をする。 紀行文『鹿島詣』は、短編であるが風月の趣に溢れている。前半は〈月見の記〉でありながら、紀行文に重きを置く。後半は発句を一括し、月見の句と旅の句を分離する。芭蕉が本格的な紀行文を執筆するための出発となった重要な作品である。芭蕉の真蹟を元にして出版された二系統の刊本がある。

蕪村画 逸翁美術館 大きい画像⇒
HOME 海外紀行 日本紀行  札所紀行 温泉紀行 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVES PROFILE SITE-MAP



Home Ken & Mary's Second Life
NO-SIDE  It aims at a happy retirement E-mail: no-side@no-side.us
Copyright c1998-2007 Ken & Mary. All rights reserved.