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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
新潟県.富山県.石川県.福井県.岐阜県
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
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えちごトキめき鉄道・JR東日本 直江津駅
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
『おくの細道』芭蕉の足跡を辿る旅も北陸路に入り、直江津へ。
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)六月二五日~七月十二日(新暦)8月10~26日 
 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む、遙々(ようよう)のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里(ひゃくさんじゅうり)と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国市振の関に至る。この間(かん)九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や 六日も常の 夜には似ず (ふみづきや むいかもつねの よにはにず)
荒海や 佐渡によこたふ 天河  (あらうみや さどによことう あまのがわ)
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
新潟県上越市 (32) 文月(ふみづき)や 六日も常の 夜には似ず
(意) 明日七夕は、織姫と彦星が出会う年に1度の夜、それを思うと、その前日の今日6日の夜は、いつもの夜と違いわくわくする。

2022年8月8日/東京駅⑦ 青春18切符を使って『奥の細道』辿る旅


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今日の目的地 直江津の天気予報は快晴、35度以上の猛暑になりそう。
東京駅発5:53分(上野東京ライン)高崎行きに乗車。7:49分 高崎着。


高崎発8:23分水上行きに乗車~9:31水上駅到着。水上温泉の最寄り駅だが、今日は温泉は行かないでそのまま、水上発9:44分の長岡行きに乗り換える。

水上駅で9:44発長岡行に乗換

水上~長岡へ
水上駅発9:44発の電車は、湯檜曽~土樽~越後中里~岩原スキー場前~越後湯沢~石打~大沢(新潟県)~上越国際スキー場前~塩沢~六日町~五日町~浦佐 ~八色~小出~越後堀之内~北堀之内~越後川口~小千谷~越後滝谷~宮内(新潟県) ~など数々のスキー場最寄り駅を通過して、終点長岡駅には11:48分に到着

↑長岡駅と駅前大通り↓

長岡駅からは一日目最後の乗換え、12:05分直江津行に乗車~直江津駅13:32分に到着。


えちごトキめき鉄道・JR東日本/直江津駅
直江津駅前「ホテル センチュリー イカヤ」

ホテル入口前に放浪記の碑。
長年舞台『放浪記』で、林芙美子を演じられた森光子さん自筆の「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」芙美子の詩が刻まれている。

今日の宿「ホテル センチュリー イカヤ」は、『放浪記』にも登場、彼女が直江津駅に降りたって泊まった「いかや旅館」同じ場所で今はホテルとして営業を続けている。


継続だんご

小説『放浪記』にこんな一節がある......『直江津の駅についた。港の駅なり。駅のそばで団子を買った。「この団子の名前は何と言うんですか?」「へえ継続だんごです」「継続だんご.....団子が続いているからですか?」駅の待合所に腰をかけて白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる為に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなって来た』....と直江津で、だんごを食べ生きる気力をとりもどす。
継続だんごは、閉鎖されそうになった直江津米穀取引所が、住民の反対運動で継続になったことを祝って作られた白あんの団子、現在も三野屋菓子店で売られている。


森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」
333年前、芭蕉が招かれた直江津/聴信寺

ホテルにリュックを預け、水筒と日傘だけ持って街歩きに出発。ホテル横の大通りを日本海に向かって進むと、芭蕉が元禄2年(1689年)7月6日の昼に招かれた聴信寺があり お参りしていく。


琴平神社
聴信寺から更に「三八市通り」を進んだ先に芭蕉の句碑のある琴平神社。

おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)六月二五日~七月十二日(新暦)8月10~26日 
 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む、遙々(ようよう)のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里(ひゃくさんじゅうり)と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国市振の関に至る。この間(かん)九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や 六日も常の 夜には似ず (ふみづきや むいかもつねの よにはにず)
荒海や 佐渡によこたふ 天河  (あらうみや さどによことう あまのがわ)
おくのほそ道
2022年8月8日
日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
新潟県上越市 (32) 文月(ふみづき)や 六日も常の 夜には似ず
(意) 明日七夕は、織姫と彦星が出会う年に1度の夜、それを思うと、その前日の今日6日の夜は、いつもの夜と違いわくわくする。

先には港が見える広場の琴平神社、脇に風化して、文字も読み取りにくいが『文月や 六日も常の 夜には似ず』芭蕉の句碑。芭蕉は元禄2年(1689年)7月6日たなばた前日の夜、直江津の句会で、この句を発句として詠んだ。


  琴平神社「文月や.....」碑 
近年建てられた方

古い方の芭蕉句碑
琴平神社隣の広場にある「安寿と厨子王の供養塔」

『山椒大夫』安寿と厨子王は悲劇の姉弟の物語伝説で実在はしていない。


猛暑の中、直江津街歩きを終えホテルに戻る。
日傘をさして歩くのは少し恥ずかしかったが、づっとさして歩いた。日傘は強い陽ざしを遮り日陰を歩いているようで、とてもありがたかった。


直江津-ホテルセンチュリーイカヤ

帰り道コンビニでお弁当を買って部屋で夕食。
直江津-ホテルセンチュリーイカヤ=るるぶで予約.素泊まり \5143-


2021年8月19日 晴れ 一人旅13日目 出雲崎.弥彦神社へ
今日はいろいろな町を訪ね久しぶり長く歩く予定。

おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)六月二五日~七月十二日(新暦)8月10~26日
 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む、遙々(ようよう)のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里(ひゃくさんじゅうり)と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国市振の関に至る。この間(かん)九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や 六日も常の 夜には似ず (ふみづきや むいかもつねの よにはにず)
荒海や 佐渡によこたふ 天河  (あらうみや さどによことう あまのがわ)
おくのほそ道
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


2021年8月19日
日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
新潟県三島郡出雲崎町 (33) 荒海や 佐渡に横たふ 天河(あまのがは)
(意)暗く荒れ狂う日本海のむこうには佐渡島が見える。仰ぎ見る夜空には美しい天の川が佐渡の方へ大きく横たわっている。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
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2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
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芭蕉真筆の「天河句碑-銀河の序」全文を拡大彫刻した碑 

8月19日天気は快晴。早朝5時、仕度して部屋を出る。一階レストランに寄って、朝食しない客用に用意された中から、カロリーメイトとナッツバーとジュースをもらって出発。


新潟駅前通り(西口側)
青春18切符4回目を使用
JR越後線-5:56分新潟駅発~6:47分 吉田駅で乗換 6:52分発~7:25分出雲崎に到着。
出雲崎駅下車して改札を抜ける。無人駅で殺風景な駅脇の案内板で良寛生誕地と場松園の場所を確認。あちこと回ると往復10㌔位と見当をつけ歩きはじめる。
良寛堂と芭蕉園どちらも駅を背にして真っすぐ日本海に向って行けばいいのでわかりやすい。


出雲崎駅

出雲崎は良寛生誕の地なので、歩いていく道すがら、松尾芭蕉よりも良寛さんの方が地元では愛着があるような空気を感ずる。


出雲崎駅から日本海への道

良寛記念館入口に到着。


良寛記念館

丘の上の良寛記念館から「妻入りの街並み」へ石段を降りていく。


「妻入りの街並み」
出雲崎・妻入りの街並み
江戸時代、徳川幕府の直轄地であった出雲崎は佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地で、北国街道の宿場町として栄えまた。廻船問屋街、旅館街が立ち並び、それに伴い遊廓も発展していた。様々な業種が集まり近隣の農家の二男、三男は「天秤棒1本持って出雲崎へ行け」といわれるほど働き口に不自由ないところで当時の人口はこの小高い丘と日本海に挟まれたわずかな平場に約2万人もいたと言われ、人口密度は越後一だった。多くの人が居住できるように、また、当時は間口の広さに税金を掛けられていたことから二間や三間半といった間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、約4㎞にも及ぶ「妻入りの街並」を形成した。

江戸時代出雲崎は佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地で、北国街道の宿場町として栄えた。「良寛堂」浮見堂は良寛の母の国、佐渡ヶ島を背景に日本海に浮かんで見えるように設計されている。

良寛生誕地「良寛堂」
良寛/宝暦8年10月2日(1758年11月2日)~天保2年1月6日(1831年2月18日)
江戸時代の後期に越後出雲崎の名主橘屋山本家の長男として生まれ、幼い頃から学問に親しみました。22歳から岡山県の円通寺に赴いて仏道修行に励み、35歳頃で越後に帰りました。
そして空庵を転々とした後、五合庵に定住し、その後乙子庵に住んだ後、和島の木村家草庵に移り、74歳で示寂しました。このように、良寛は円通寺を離れてからは、生涯にわたって寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通しました。そうした中で、多くの詩や歌を詠み、それを書き遺した作品は、日本美の極致とまで絶賛されて、今に伝わっています。 又、子供達と遊んだ等の逸話から慈愛に満ちたお人柄は現代の人達にも広く親しまれています。
良寛記念館HPより参照
松尾芭蕉は寛永21年(1644年)の生まれで元禄7年(1694年)に亡くなった。
良寛は芭蕉が亡くなって64年後の生まれで、芭蕉がここ出雲崎に滞在したことは充分承知していただろう。

良寛生誕地から数分のところに「荒海や 佐渡に横たふ 天河」の句碑のある「芭蕉園」

芭蕉真筆の「天河句碑-銀河の序」全文を拡大彫刻した碑 

1689年(元禄2年)6月25日芭蕉は酒田をたち、日本海沿いの道を旅して出雲崎には7月4日に至る。沖遥かの佐渡ヶ島を眺めながらの旅だったはず、そしてこの地で生まれた名句が「荒海や佐渡によこたふ天の河」
芭蕉が一泊したといわれる大崎屋跡は、良寛生家橘屋と権力争いをした廻船問屋敦賀屋の跡地で芭蕉園の向かいにあった。


妻入りの街並み通りを海側にでた出雲崎海岸の通り。
ここから太平洋とは 風・空・色・香り 何か違う日本海。



佐渡産出の金銀は「佐州御金荷」と称し佐渡島・小木から御用船で出雲崎へ、出雲崎の御金蔵に納められた後、北国街道経由で江戸へ送られた。出雲崎の街をしっかり見て、きたときと同じ道を出雲崎駅に向かう。駅に9時少し前に到着。

街を見てから出雲崎駅に戻って、弥彦神社方面9:17分に乗るつもりだった が、時刻表を見て愕然!その電車は臨時電車で今日は運行していない、次の電車は午後4時3分までない さてどうする....


2021年8月19日 晴れ一人旅13日目 予定外の柏崎へ
出雲崎駅で次の電車は午後4時3分までない さてどうする...思案しているところに反対方向行きの電車がホームに入ってくる。9:11分柏崎行だった。ここで数時間待つよりは予定をは逆方向だがその電車に飛び乗って柏崎へ向う。急に乗った電車の中で柏崎はどんなところで帰りの電車はどうかなど調べながら行く。予定変更はこれはこれで楽しい。芭蕉は出雲崎から柏崎も通っている。出雲崎駅から僅か30分、9:46分終点の柏崎に到着。


柏崎駅・観光案内所

柏崎駅改札でると構内に観光案内所。芭蕉の足跡を聞くが全く知らない。無理もない柏崎はたんに通過しただけでこれという記録も残ってなさそうなのだから。

電車の中で調べた芭蕉の足跡のある石井神社よこに「天屋惣兵衛」宅があるので、石井神社を調べてもらうと丁寧に町の街の地図をコピーしてくれた。
まず石井神社だ、そこに行ってみることにする。
丁寧にお礼をして教えてもらった通り駅を背に駅仲通りを真っすぐ進む。


「天屋惣兵衛」宅横の石井神社

地図の通り市民プラザのある「ピッカラ通り」交差点を左折。石井神社はも真っすぐ行った右側だ。目指す石井神社に入りお参りする。「天屋惣兵衛」宅は隣にあるはず。神社を脇から出ると小さに看板が建てられたいる。何もなく、ただそれだけだった。が、間違いなく芭蕉と曾良はここで難渋していた場所だ。


「奥の細道」で芭蕉が柏崎で起こった出来事
元禄2年(1689)7月5日午前8時頃、出雲崎を出発すると途中雨が降り出す。7里半(30㌔)先の柏崎にやっと到着庄屋である「天屋惣兵衛」宅に象潟の宮部弥三郎の紹介状を持って一夜の宿を請うたがにべもなく断られ、芭蕉は憮然として惣兵衛屋敷を出る。家人があとを追ってきたが、芭蕉達は相手にせず小雨のなか、更に4里(16㌔)も先の柏崎市米山町俵屋六郎兵衛宅まで進み午後5時頃やっと到着し宿泊した。


天野屋・屋敷跡を後にしてそこからすぐに柏崎中央海水浴場に出る。波も静かできれいないい海水浴場だ。コロナの時期なので海水浴場は閉鎖され遊泳禁止になっていたが、家族連れが数組泳いていた。右方向彼方には彼の有名な「刈羽原子力発電所」が見える。近くの海では海水浴してる家族がいるのにこんな間近に原発とはちょっと意外な光景に見えてしまう。
海を眺めて休憩した後、駅に戻る。


直江津駅から又(えちごトキめき鉄道/日本海ひすいライン)9:45の電車に乗って市振駅に10:53到着。


「市振で芭蕉宿泊した桔梗屋跡」
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)七月一二日(新暦)8月26日 
今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがえ)しなどいふ北国一の難所を超えてつかれはべれば、枕引きよせて寐たるに、一間(ひとま)隔てて面の方に若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老たる男の声も交て物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男の送りて、あすは古郷にかへす文(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。
「白浪のよする汀(みぎわ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごういん)いかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しくはべれば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひはべらん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈のめぐみをたれて結縁せさせたまへ」と泪を落とす。不便のことにははべれども、「我々は所々にてとどまる方おほし。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならずつつがなかるべし」といひ捨(すて)て出でつつ、哀れさしばらくやまざりけらし。
一家に 遊女もねたり 萩と月  (ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
2022年8月9日
日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
新潟県糸魚川市市振 (34) 一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩(はぎ)と月
(意)みすぼらしい僧姿の自分と同じ宿に、遊女が偶然居合わせた。宿にわびしく咲く萩を月が照らしている。それを見ると自分が萩で遊女が月に思える。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
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2021年4月4日~9日
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2020年9月19日~
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2021年8月~2022年8月
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えちごトキめき鉄道/市振(いちぶり)駅

市振駅は売店もなにもない無人駅で降りたのは、自分ひとりだけ。
妙高高原から直江津~市振、ここまでが、えちごトキめき鉄道=トキ鉄ツアーパスのフリー乗車区間。


市振駅前を出て左折、海沿いの道を進むと、市振の昔懐かしい街並みが出現。
芭蕉が親不知海岸を難渋し乗り越えてたどり着いた宿場町。


市振は越後親不知 西の入り口の宿場
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

松尾芭蕉も奥の細道途上で通行したであろう市振関所跡

市振関所跡を過ぎると右前方に「芭蕉宿泊桔梗屋跡」
奥の細道/市振で『一家に遊女もねたり萩と月』が詠まれた場所。


「芭蕉宿泊/桔梗屋跡」

その先に「弘法の井戸」

さらに進むと、海道の松=難所として知られる親不知への出入り口の目印として、北陸道を往来する旅人たちに古くから親しまれ1974年(昭和49年)天然記念物に指定されたが2016年10月暴風の被害を受けて倒壊した。

市振/海道の松

海道の松から右海岸先が「親不知海岸」

「親不知」の名称の由来は、幾つかの説がある。一説では、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を省みることができない程に険しい道であることから、この名が付いたとされている。また、以下のような伝承もある。
壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って2歳になる子を連れて京都から越後国を目指した。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子供を波にさらわれてしまった。悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠んだ。「親不知 子はこの浦の波枕 越路の磯の 泡と消え行く」以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったとする伝説もある......by wikipedhia


親不知海岸を眺めてから市振に戻り、左へ国道8号線下をくぐり抜け石段を上がると、芭蕉の『一家に遊女もねたり萩と月』句碑のある長円寺の境内。

『一家に遊女もねたり萩と月』句碑


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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(一) 日光路
2020年9月19日~
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(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
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市振小学校横を通過して、真夏の日差しの中を市振一周して、用意した日傘をさしながら歩き市振駅に戻ってくる。
市振から富山駅間は、あいの風とやま鉄道となり、12:08分の一両編成の電車に乗り12:22分富山駅に到着する。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

市振駅から富山駅:あいの風とやま鉄道
8月9日 お昼過ぎ、富山駅に到着。富山駅から今夜の宿「ルートイン富山駅前」は歩いて数分の便利な場所にある。


富山駅

富山駅近くの「マリエとやま」に寄って、太巻きすし など夕食の食材を買ってホテルへチェックイン。


「ルートイン富山駅前」

お風呂で汗を流し、靴下と下着を洗濯してから夕食。

「ルートイン富山駅前」Bookingで予約/朝食付き\4312  今日の歩行数11040歩


8月10日、今日は高岡・放生津八幡宮へ、富山ホテルで朝食後、8:30分チェックアウト、富山駅へ。今日も猛暑が続くので、歩く距離も結構あり熱中症に十分注意しよう。


万葉線・富山駅

富山駅から「あいの風とやま鉄道」9:00分発に乗って9:18分高岡駅に到着。改札出て階段を降りると、万葉線・高岡駅。優雅な名前の万葉線/路面電車に乗換える。


万葉線

高岡駅9:30分の万葉線に乗って、東新湊駅で下車するつもりが、うっかりひとつ手前の似た名前の中新湊駅で下車してしまう。


万葉線・中新湊駅

Google.mapで確認、目指す放生津八幡宮は充分ここからも歩ける場所で15分ほどで八幡宮に到着。


放生津内川
      放生津八幡宮 由緒-------八幡宮案内から転載
嘉祥元年(848)8月に記された当宮の由緒を要約すると、「天平18年、越中国守、大伴家持が奈呉の浦を遊船中、にわかに風が強くなり、波濤高く船の舷に激しくうちつけた。家持は、掌で潮水を掬い、両手を合わせてひたすらに宇佐八幡神に祈願した。すると、たちまち順風に変わり、無事国府に帰ることができた。そこで、家持は、天平19年8月に、本殿、拝殿、七堂伽藍を建立し、宇佐八幡神を勧請した。・・・」というもの。 家持作の「あゆの風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」の歌に詠まれているように、奈呉にはすでに海人の集落があり漁業を営んでいたことが窺える。奈呉は当宮の鎮座地である。家持は、国守として海人の暮らしぶりに関心を持ち、実際に舟に乗って海人の暮らしぶりを見廻られたに違いない。そして、海人の暮らしの安寧と海幸の豊かなことを祈られたと考えられる。この由緒には、家持の強い祈願によって宇佐八幡神が勧請されたことが背景にあると考えられる。当宮は、家持によって創建され、当初は奈呉八幡宮と称されていた。 大伴家持が越中国守として赴任してきた頃、聖武天皇の発願により東大寺の大仏建立が国家的事業となっていた。宇佐八幡宮のご神託があり、宇佐八幡神みずから、天神地祇を率いて大仏建立に協力するというお告げであった。天平17年(745)には、東大寺の大仏の建立が始まった。天平18年(746)に越中に赴任した家持の重要な任務のひとつは、東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることであった。正倉院に東大寺墾田地地図(とうだいじこんでんちちず)が保管されている。24枚のうち、17枚までが越中国のものである。家持ら国府の役人達は、東大寺の墾田地の占定や開墾に奔走していたと考えられる。後に、内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)は、造東大寺司判官に任命されている。この人事は、越中国での東大寺領の占定作業に携わった実績が反映しているものと考えられる。



放生津八幡宮由緒ある社、芭蕉の句碑は境内のはずれ目立たない場所に建ち、扱いが重視されてない印象。


神社裏側一帯は富山湾の海で芭蕉が詠んだ「早稲の香や 分入右は 有磯海」で奈呉の浦と呼ばれた歌枕(名所)。町の中心を分けるように流れる放生津内川沿いは風情があり、おくの細道で芭蕉が訪れた頃の風情と変わらないと思われる。


放生津八幡宮「早稲の香や 分入右は 有磯海」芭蕉句碑
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)七月一三.一四日(新暦)8月27.28日 
黒部四十八ヶ瀬(しじゅうはちがせ)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たご)の藤浪は春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと人に尋ぬれば、「これより五里いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、加賀の国に入る。
早稲の香や 分入右は 有磯海  (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
2022年8月9日
日光路
(35)俱利伽羅峠
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
富山県/石川県境.砺波山の峠 (35) 早稲(わせ)の香や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
(意) 北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入り右側には歌枕として知られる有磯海が広がっている。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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2021年4月4日~9日
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2020年9月19日~
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2021年8月~2022年8月
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おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

新湊地区の港はかって「奈呉の浦」と呼ばれた歌枕(名所)
「奈呉の浦」から放生津内川へ、川沿いは風情のある風景


放生津内川

帰りは高岡駅よりの一つ手前の新町口駅に出て、11:45分の電車に乗って高岡駅へ戻る。


万葉線・高岡駅に11:55到着、12:00発の金沢行の電車があり急いでホームへ、発車間際でぎりぎり乗れた。


富山県から石川県へ倶利伽羅を通過。『倶利伽羅峠の戦い』のあった場所。

『倶利伽羅峠の戦い』
平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)、越中/加賀のくにざかい倶利伽羅峠で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。
源義仲はこの戦いに大勝し京へ向け進撃、念願の上洛を果たした。大軍を失った平家は安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延び平家滅亡への道をたどる。


高岡市内は効率よくまわったので、予定より早く金沢駅に12:41分到着。
混雑している路線バスを避け、ホテルまで1.5㌔あるが ゆっくり歩いて行く。


金沢駅・鼓門(つつみもん)

ホテルへの道すがら、近江町市場(すごい混雑)やデパートに寄りながら、13:15分頃 今日明日2泊する「ユニゾイン金沢百万石通り」に到着。


金沢の宿「ユニゾイン金沢百万石通り」

ホテルから近江町市場の十間町口から入り市場の中を通って鮮魚通口から出て、百万石通りを主計町に向かって歩く。



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

近江町市場・中通り

泉鏡花生家跡の記念館前にくる。


鏡花記念館裏に芭蕉十哲の一人、立花北枝旧宅

立花北枝 蕉門十哲の一人。通称.研屋源四郎元禄2年(1689年)7月『おくのほそ道』の旅で金沢を訪れた松尾芭蕉に兄牧童とともに入門。金沢より山中温泉を経て、越前国松岡まで、25日にわたり芭蕉に随行。山中温泉で催した、北枝の《馬かりて燕追ひ行く別れかな》に始まる歌仙は、山中三吟と呼ばれる。同地での芭蕉の教えを書き留めたとされるのが、『山中問答』であり、芭蕉による山中三吟の添削と評などを伝える。松岡での芭蕉との別れに際しては、芭蕉より《物書いて扇引きさく別れかな》の句を贈られた。-----by Wikipediaから転載

主計町茶街

金沢三大茶屋街の一つ主計町茶街をぶらぶら歩き浅野川大橋を渡って右側の東茶屋町へ


東茶屋町
東茶屋街は金沢を代表する茶屋街できれいな佇まい。
金沢の茶屋街 天正11年(1583年)に前田利家が金沢城に入城、加賀藩は領民にも謡(うたい)を奨励して多くの領民が謡を習い、その裾野は大きく広がった。金沢は「空から謡が降ってくる」と言われるほどの町になる。江戸時代、城下町近郊を流れる犀川・浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並んだ。文政3年(1820年)加賀藩の許可を得、犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が共に開かれ、大いに賑わった。この際、旧来の不整形な町割は改められ、整形な街区が形成された。浅野川をはさんで北西には、茶屋街の1つである主計町がある。茶屋町創設時の敷地割をよく残し、全国でも希少な茶屋様式の町屋を多く残しているとし、2001年11月14日、種別「茶屋町」で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。二番丁にある茶屋「志摩」は、歴史的価値が高いことから2003年12月25日に国の重要文化財に指定され、一般公開されている。-----by Wikipediaから転載

国指定重要文化財「志摩」

コロナ感染者数増大している時期だが凄い人出にびっくり。マスクしてなるべく密を避け裏通りを選んで歩く。


ひがし茶屋街、1909(明治42)年 創業 洋食の「自由軒」

主計町・あかり坂

2時間ほど街歩きし、帰り道にスーパーに寄り、夕食の弁当、生野菜、牛乳など買ってホテルへ戻る。お風呂に入り下着や靴下を洗濯して夕食にする。
今日の歩行数17533歩 12.3㌔
(ユニゾイン金沢百万石通り/Agoda予約素泊り2泊/\5995)
おくのほそ道
 おくのほそ道   一六八九年(元禄二年)七月一五日~二三日(新暦)8月29~9月6日 
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人(しるひと)もはべりしに、去年の冬早世(そうせい)したりとて、その兄追善(ついぜん)をもよおすに、 
   塚も動け我泣声は秋の風 (つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)ある草庵にいざなはれて
   秋涼し手毎にむけや瓜茄子(あきすずし てごとにむけや うりなすび) 途中吟(とちゅうぎん)
   あかあかと日は難面もあきの風(あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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「ユニゾイン金沢百万石通り」ロビー

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

石川・金沢 二日目。昨夜早く寝たので深夜2時位から目が覚めてベッドの中でラジオ深夜便を聞く。途中で北海道中川町で震度5強の地震のニュース、連日の大雨の後なので地盤が緩くなっていると、解説する専門家が心配のコメント。こんな深夜に何度も地震が繰り返されて本当に気の毒。


前田家菩提寺「尾山神社」

今日も日中は35度超えの危険な暑さ予報。涼しいうちに歩こうと思い、4時に起き着替える。朝食をとって、日の出の時刻の5時、水筒と日傘を持って、芭蕉の金沢の足跡 街歩きに出発。芭蕉は奥の細道、途中金沢には9泊もした。ホテルを出て百万石通りを犀川に向かって歩く。前田家菩提寺「尾山神社」に寄ってお参りしていく。この神社は2020年の正月金沢に滞在した時に初詣したのが思い出される。


犀川大橋
さらに進み、北國銀行前の交差点わきに「芭蕉の辻」の小さな碑を見つける。芭蕉が8泊宿泊した宮竹屋喜左衛門宅はここから100㍍程先の犀川大橋よりだったようだ。

おくのほそ道
 おくのほそ道   一六八九年(元禄二年)七月一五日~二三日(新暦)8月29~9月6日
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人(しるひと)もはべりしに、去年の冬早世(そうせい)したりとて、その兄追善(ついぜん)をもよおすに、 
   塚も動け我泣声は秋の風 (つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)ある草庵にいざなはれて
   秋涼し手毎にむけや瓜茄子(あきすずし てごとにむけや うりなすび) 途中吟(とちゅうぎん)
   あかあかと日は難面もあきの風(あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)
2022年8月10日
日光路
(37)金沢
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石川県金沢市 (37) 秋涼し 手毎(てごと)にむけや 瓜茄子(うりなすび)
(意)秋野菜のもてなしを受ける。みなそれぞれの手に瓜や茄子をむき、秋の涼しさを感じます。
2022年8月10日
日光路
(38)金沢~小松
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石川県金沢市.小松市 (38) あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風
(意)季節は秋というのに、陽の光は関係くあかあか照らしているが風は秋の涼しさを帯びている。

犀川大橋を渡り左折して寺町台寺院群のある蛤坂の小路をのぼり進むと成学寺、境内に「一笑塚」「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」芭蕉句碑が立つ。


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





成学寺
↑「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」成学寺の芭蕉句碑

↓「民家の庭の芭蕉句碑「春もやや 気色ととのふ 月と梅」

成学寺からさらに進むと、忍者寺とも呼ばれる 妙立寺(日蓮宗)


忍者寺・妙立寺(日蓮宗)
「忍者寺」と呼ばれ、落とし穴になる賽銭箱、床板をまくると出現する隠し階段、金沢城への抜け道が整備されていたとされる井戸などの仕掛けが、寺のあちこちで見られます。創建当時、徳川幕府と緊張状態にあったため、襲撃に備えて出城・砦の役目を果たしていました。外観は2階建てですが、実際は7層になっていて、23部屋と29階段もあると言われています。迷路のような内部をガイドが案内してくれます。事前の予約が必要です。-----「金沢旅物語」参照

忍者寺・妙立寺の左細い路地を進むと、今日の目的地の一つ、芭蕉の弟子小杉一笑の菩提寺願念寺がひっそりとたっている。



弟子一笑の死をとても悲しみ詠んだ句が、「塚も動け 我泣声 は秋の風」
境内にはその小杉一笑塚。境内に入ると、寺の住人らしき老人に声をかけられ、それぞれの由来の説明を丁寧に説明してくれた。

おくのほそ道
 おくのほそ道   一六八九年(元禄二年)七月一五日~二三日(新暦)8月29~9月6日
卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人(しるひと)もはべりしに、去年の冬早世(そうせい)したりとて、その兄追善(ついぜん)をもよおすに、 
   塚も動け我泣声は秋の風 (つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)ある草庵にいざなはれて
   秋涼し手毎にむけや瓜茄子(あきすずし てごとにむけや うりなすび) 途中吟(とちゅうぎん)
   あかあかと日は難面もあきの風(あかかと ひはつれなくも あきのかぜ)
2022年8月10日
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石川県金沢市 (36) 塚も動け 我泣声(わがなくこゑ)は 秋の風
(意)一笑の塚(墓)を前にし生前の君を思い泣いている。辺りを吹き抜ける秋風のように激しくわびしい涙だ。一笑よ私の呼びかけに答えてくれ

小杉家の菩提寺一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」の句碑。


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「塚も動け 我泣声 は秋の風」句碑

おくの細道の旅の途中、弟子・小杉一笑の死を知り、とても悲しみ詠んだ句が、
「塚も動け 我泣声 は秋の風」


願念寺を出て大通りを反対側に超えた先の、にし茶屋街へ。ひがし茶屋街に比べ規模は小さな茶屋街で早朝かもしれないが歩く人も少なく活気がない。



にし茶屋街


にし茶屋街から犀川沿いに戻ってくる。

犀川の遊歩道は早朝散歩やジョギングの人達が多数。
犀川大橋を眺める遊歩道脇に「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」芭蕉句碑。


金沢・犀川遊歩道

犀川大橋を渡って香林坊を通りホテルに戻る。
今日の歩行数9581歩


8月10日11日金沢で2泊したホテル
(ユニゾイン金沢百万石通り/Agoda予約素泊り2泊/\5995)




金沢駅・鼓門(つづみもん)
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

金沢ホテルを予定より早く8:00にチェックアウトして金沢駅へ。


金沢駅発 8:29分 福井行の電車に乗り、小松駅に9:00分着。小松市内の2か所の芭蕉ゆかりの神社をまわる。真夏の陽射しの下、日傘(すっかり慣れてきた)をさし、最初の目的地は本居日吉神社。


JR小松駅(石川県)

駅から三の市朱門通りのアーケード通りを通って15分ほどで本居日吉神社石の鳥居前に出る。

本居日吉神社
おくのほそ道
 小松と云所にて一六八九年(元禄二年)七月二十四日~二十六日(新暦)9月7~9日
しほらしき名や小松吹萩すゝき (しおらしきなや こまつふく はぎすすき)
この所(ところ)太田の神社に詣ず。真盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦の切あり。往昔(そのむかし)源氏に属せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返えしまで、菊唐草のほりもの金をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形打ったり。真盛討死の後、木曽義仲願状(がんじょう)にそへてこの社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす (むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)
2022年8月12日
日光路
石川県小松市 (39) しをらしき 名や小松吹 萩すゝき
(意)「小松」というしおらしい名前の地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。

元禄2年(1689年)7月24日、『奥の細道』途上、松尾芭蕉は、小松の近江屋という旅宿に泊まった。翌25日本折日吉神社で芭蕉はじめ曾良、北枝、ら十人が山王句会を催した。その時の芭蕉の発句が「しほらしき 名や小松吹く 萩すゝき」その後芭蕉は小松を立って山中温泉に行くが、ふたたび小松を訪れている。『奥の細道』の旅で同じ土地を2度も訪れたのは小松のほかにない。


芭蕉留杖の地碑

芭蕉留杖の地碑

本殿の左手の奥に芭蕉留杖の地碑と円筒状の『しおらしき 名や小松吹く 萩すすき』の歌が刻まれた碑がある。




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

本居日吉神社からさらに10分ほど歩き、503年創建されたと伝えられている歴史ある多太神社へ。「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」芭蕉の句碑。
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)七月二十四日~二十六日(新暦)9月7~9日
しほらしき名や小松吹萩すゝき (しおらしきなや こまつふく はぎすすき)
この所(ところ)太田の神社に詣ず。真盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦の切あり。往昔(そのむかし)源氏に属せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返えしまで、菊唐草のほりもの金をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形打ったり。真盛討死の後、木曽義仲願状(がんじょう)にそへてこの社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす (むざんやな かぶとのしたの きりぎりす)
2022年8月12日
日光路
(40)小松多太神社
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
石川県小松市上本折町 (40) むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす
(意)痛ましいことだが、勇ましく散った実盛の名残はここには無く、かぶとの下にはただ コオロギが鳴いている。
芭蕉も感激した「実盛の兜」 
多太神社には伝説の兜が奉納されている。国指定重要文化財、斎藤実盛の兜である。 時代は平安末期斎藤実盛は、平家の武将として戦って倶利伽羅峠の合戦で木曾義仲軍の前に総崩れとなった。そんな中、実盛は老体であったが踏みとどまって奮闘し討ち死にした。その後、義仲がその首を池で洗わせると、墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だとわかった。義仲は人目もはばからず涙したという。実盛は出陣前からここを最期の地と覚悟を決めており、老いを侮られないようにと白髪を黒く染めて出陣したのだ。時に実盛73歳の老齢だったという。後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納したのである。この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られている。それから後の元禄2年(1689年)松尾芭蕉が「奥の細道」の途中にこの地を訪れ、兜を見た芭蕉は実盛を偲び「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と詠んだ---まるごと・こまつ・旅ナビ から転載

多田神社をお参りしたあと、小松駅に戻る。
小松駅から10:15分の電車に乗って~10:27分加賀温泉駅へ。
加賀温泉駅の改札出たところの観光案内所に寄り、明日利用するキャンパス一日券\1000を購入する。

おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)七月二七日~八月五日(新暦)9月10~18日 
山中の温泉に行くほど、白根が嶽(しらねがだけ)跡にみなしてあゆむ。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付給ふと也。 那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地なり。
石山の 石より白し 秋の風 (いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)  
温泉に浴す。その功(こう)有明(ありあけ)につぐといふ。
山中や 菊はたおらぬ 湯の匂 (やまなかや きくはたおらぬ ゆのにおい)
あるじとする物は、久米之助(くめのすけ)とていまだ小童なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室若輩のむかしここに来たりしころ、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村判詞(はんじ)の料を請ずといふ。今更むかし語とはなりぬ。
2022年8月12日
日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
石川県加賀市山中温泉東町 (42) 山中(やまなか)や 菊はたをらぬ 湯の匂(にほひ)
(意) 山中温泉の湧き出る湯の匂いは、寿命が延びるという菊の香も及ばないほどで菊を折るにも及ばない。


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


加賀温泉駅前から、路線バスに乗り山代温泉へ向かうバスは途中、山中温泉を通過、明日行く予定だったので山中温泉街を見ていくことにして、芭蕉も逗留した由緒ある、山中温泉共同浴場「菊の湯」前でバスを降りる。


高浜虚子句碑

菊の湯玄関の前の高浜虚子「秋水の 音高まりて 人を想ふ」句碑
昭和27年9月 孫弟子/森田愛子と芭蕉翁を想って山中温泉で詠んだ句。

近くの芭蕉の館で、芭蕉が宿泊した泉屋の跡地に建てられた。

芭蕉 曾良との別れの像

弟子の曾良との別れは、山中から先の全昌寺でこう残している。
『曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋といふ所にゆかりあれば、先立て行くに、「行行(ゆきゆき)て たふれ伏とも 萩の原」 曽良....と書置たり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。よもまた、「今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露」大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。なお加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、終宵(よもすがら) 秋風(あきかぜ)聞くや うらの山....と残す』

2022年8月12日
日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
石川県加賀市山中温泉東町 (43) 今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露
(意) ともに旅を続けてきた曾良とここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の文字も、秋の露と私の涙で消すことにしよう。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

元禄2年(1689年)3月27日から4か月供に旅してきた弟子の曾良が病で別れることなった時の師弟の苦渋の姿を描いた像。

山中温泉街を歩いて、大聖寺川を渡って 温泉宿・花紫の中を抜け鶴仙渓の遊歩道へおりる。

大聖寺川・鶴仙渓

芭蕉堂
山中温泉・鶴仙渓遊歩道

大聖寺川・黒谷橋のたもとの碑
『此の川の くろ谷橋は 絶景の地や 行脚のたのしみ 奚にあり』芭蕉


山中温泉バスターミナル

バスターミナルに戻って、12:15分の加賀温泉駅行きのバスに乗り、山代温泉西口バス停で下車し、今日の宿サンシティホテル山代まで歩き13時頃に到着。

荷物を預けて山代温泉散策にでかける。山代温泉は情緒がいま一つないが、泉質はいい温泉らしい。北大路魯山人が半年あまり滞在した旧居いろは草庵を通って温泉寺へ。

山代温泉街中央に「総湯」の建物。
ここだけは風情ある木造建物が際立ち、松山・道後温泉本館が連想される。


山代温泉「総湯」

見事な建物に惹かれて、気温36℃越す猛烈な暑さの中、500円チケット買って入浴することにする。入口で靴を脱いで、湯船のある浴場内へ。更衣室はなく湯船の脇に木造のボックスへ衣類を脱いで入れ、かけ湯して湯舟にはいるという珍しいお風呂。全員がかけ湯しただけで浸かるのでちょっ衛生上問題がある気もする。ただ湯につかるだけのお風呂。こんなお湯も初めてだが、お湯は濁り湯でいい泉質。


気温が体温に近い36℃超える街を歩いてきたので、熱い湯につかる物好きもいないらしく、客は自分だけ、ゆっかり入浴したあとは、下着だけつけて二階の休憩室に上がる。風通しのいい座敷で自然の風が心地よい。火照った身体の熱が冷めるまでしばらく休憩していく。


猛暑の中14時半過ぎホテルに帰ってくる。すぐ部屋に入れると思いフロントへ。すると、チェックインは15時からという、14時からinと記載の予約表を提示すると「以前はそうだったけど今は3時からにしてる」...そして支払を求められカードを差し出すと予約金額より600円多い金額を請求されたので、また予約表を提示すると、また「以前はそうだったけど今は...円にしてる」もうまったく!である。「そういうことは客にいうのでなく旅行会社に情報を訂正させるべきでは」というとしぶしぶ金額を訂正、ルームキーを差し出す。年配の女将らしいが客商売の基本が出来ていない。こんなにひどい接客初めての経験。もう二度と利用しないにしても腹の虫がおさまらない。帰ったら予約サイトで最低評価投稿だ。


「ホテル山代」安かろう悪かろうの典型

いつまでも腹立てても仕方がない、503号部屋に入って気分を変えて、下着靴下&上シャツを洗濯する。ところが悪い日は悪いことが重なるもの、明日の準備してると、キャンバス一日乗車券が見当たらない。どこかで落としてしまったのか。チケットを購入した観光案内所に電話すると、なんと拾って預かっていてくれていた「明日乗車する山代温泉桔梗ヶ丘でチケットの件はガイドに伝えておきます」と親切な対応にホテルのひどい接客の後の鬱積した気分もすっかり消え、すがすがしくうれしい気持ちにかわった。台風8号が明日は近畿から関東に上陸する予報だが、今のところ北陸は全く影響もなく快晴の毎日。明日の予定を確認して9時頃に寝る。

今日の歩行数13080歩  (ホテル山代/楽天予約/\6000)


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


ホテル山代の無神経な接客に残念な滞在になったが、朝7時 2階レストランで朝食。これもひどい。いやな気分を切替えて8 :30チェックアウト。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道




加賀周遊バス
「キャン・バス」

加賀周遊バス「キャン・バス」山代温泉/桔梗ヶ丘停留所

バス停まで500㍍くらい歩いて、キャンバス山代温泉桔梗ヶ丘停留所でバスを待つ。8:55分頃にキャンバスが到着、すぐガイドさんから紛失チケットの件説明され無事一日乗車券をもらって出発。


キャンバスは山代温泉から昨日歩いた山中温泉も説明しながら周る。
菊の湯前もキャンバス停留所になっているが、誰も乗る人はいない。乗客は自分ともう一人老齢の方だけ乗せて、9:32分那谷寺に到着 下車する。


那谷寺

帰りのバスは11:27分なので、それまで約2時間あまり、ゆっくり見学する。
停留所前の土産物店でリュックを預かってもらい那谷寺に入る。500円

芭蕉も訪ねた那谷寺 
石川県小松市にある仏教寺院。高野山真言宗別格本山。寺伝によれば、寛和2年(986年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、求むる観音霊場三十三カ所はすべてこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名。近世に入って加賀藩藩主前田利常が再建。元禄2年(新暦1689年)奥の細道の松尾芭蕉は弟子の河合曾良と山中温泉で別れ、数日前滞在した小松へ戻る道中参詣し、奇岩霊石がそそりたつ遊仙境の岩肌を臨み句を詠んでいる。----Wikipedia から転載

那谷寺
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)七月二七日~八月五日(新暦)9月10~18日 
山中の温泉に行くほど、白根が嶽(しらねがだけ)跡にみなしてあゆむ。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付給ふと也。 那智、谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地なり。
石山の 石より白し 秋の風 (いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)  
2022年8月13日
日光路
(41)小松那谷寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
石川県小松市那谷町 (41) 石山の 石より白し 秋の風
(意) 那谷寺は奇石の重なる石山で白くさらされているが、いま吹き過ぎる秋風は那谷寺の白い石山よりさらに白く感じられる。

松尾芭蕉はおくの細道で、山中温泉には九日間滞在し、その間にここ那谷寺を参拝している。

「石山の石より白し秋の風」芭蕉句碑


那谷寺門前の「花山亭」

1時間程寺を見学して荷物を預けた「花山亭」でこの旅で初めてお昼を食べる。那谷寺うどんとみたらし団子を注文。どちらもとても美味しい。


那谷寺うどん

加賀周遊バス「キャン・バス」那谷寺門前を11:27分に乗って、12:02分加賀温泉駅に到着。加賀温泉駅から12:19分の電車に乗って隣の駅、大聖寺駅へ。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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草の戸も住替る代ぞひなの家


庭掃いて 出でばや寺に 散る柳...芭蕉

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 (曾良との別れ)一六八九年(元禄二年)八月五.六日(新暦)9月20.21日 
曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に 、
行行てたふれ伏とも萩の原 (ゆきゆきて たおれふすとも はぎのはら) 曾良
と書置(かきおき)たり。 
行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又 、
今日よりや書付消さん笠の露 (きょうよりや かきつけけさん かさのつゆ)
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曽良(そら)も前の夜この寺に泊(とまり)て、
終宵秋風聞やうらの山 (よもすがら あきかぜきくや うらのやま) と残す。
 一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮(しゅりょう)にふせば、明ぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板(しょうばん)鳴て食堂に入る。今日は越前の国へと、心早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若き僧ども紙・硯をかかえ、階(きざはし)のもとまで追来たる。折節(おりふし)庭中の柳散れば、
庭掃て出ばや寺に散柳  (にわはきて いでばやてらに ちるやなぎ)
とりあへぬさまして草鞋ながら書(かき)捨つ。
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
石川県加賀市大聖寺神明町 (44) 庭掃(はき)て 出(いで)ばや寺に 散(ちる)柳
(意) 今朝は庭に柳の葉が散り落ちている。一宿のご恩に落葉を一掃き掃き清めてゆくことにしよう
2022年8月13日
日光路
(44)大聖寺全昌寺
汐越の松 一六八九年(元禄二年)八月十日(新暦)9月23日 
越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さおさ)して汐越の松を尋ぬ。終宵嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越の松  西行   この一首(いっしゅ)にて数景尽たり。
もし一辧(いちべん)を加るものは、無用の指を立るがごとし。
おくのほそ道

加賀温泉駅から大聖寺駅着
 
大聖寺駅から全昌寺まで道は普通の車道を15分ほど歩く。


全昌寺

おくの細道で芭蕉は全昌寺をこう書いている。
曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋といふ所にゆかりあれば、先立て行くに、「行行(ゆきゆき)て たふれ伏とも 萩の原」 曽良....と書置たり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。よもまた、「今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露」大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。なお加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、終宵(よもすがら) 秋風(あきかぜ)聞くや うらの山....と残す。一夜の隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮にふせば、明ぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板鳴て食堂に入る。


おくの細道で芭蕉と曾良の辛い別れの情景は、山中温泉の芭蕉の館まえに像が建てられていた。

終宵(よもすがら) 秋風聞くや うらの山...曾良

大聖寺駅に戻り、涼しい待合室がありがたい、電車の時間まで休ませてもらう。


大聖寺駅発 13:28分の福井行きに乗車14:01分福井駅到着。


ホテルは駅前の東横イン福井。着いたときはこの真っ青な空が、その後一転暗くなりものすごい雨がになる。が、直ぐに止んで元の青空に不思議な天気。


東横イン福井一階レストラン

福井駅構内スーパーで夕食のお弁当買って駅前のホテルへ。しかしチェックインは16時からという。遅い! 待つ間に、ロビーのレストランで早めの夕食のお弁当を食べる。


すぐにお風呂に入り、明日の旅程の確認する。台風の行方が気になる。
(東横イン/Agoda予約素泊り/\5915)  今日の歩行数12008歩


 
8月14日 月遅れ盆 2日目、今日は福井近郊の松岡・天龍寺を参拝して、敦賀を歩き奈良へ向かう予定。ホテルを6:30分にチェックアウトしてすぐ前のJR福井駅へ。

 
昨夜は福井県は地域によっては大荒れの天気だったようだが、福井駅周辺は曇りの天気、特に変わったことはない。


JR福井駅から連絡通路の先にある、えちぜん鉄道.福井駅へ。
7:35発の電車に乗る。7:56松岡駅に到着 (\400) 


福井市郊外の、えちぜん鉄道.松岡駅は無人駅。なんとも風情のある駅舎。大切に残してほしい建物。

踏切を渡って線路沿いの道をすすみ10分ほどで「松岡・天龍寺」あの曹洞宗大本山・永平寺の末寺

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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(一) 日光路
2020年9月19日~
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(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
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おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)八月十二~十四日(新暦)9月25~27日
丸岡天龍寺(てんりゅうじ)の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。 また金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送りて、このところまでしたひ来たる。ところどころの風景過さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞こゆ。今すでに別(わかれ)に望みて、
物書て扇引さく余波哉 (ものかきて おうぎひきさく なごりかな)
五十丁(ごじっちょう)山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。
邦機(ほうき)千里(せんり)を避て、かかる山陰に跡をのこしたまふも、貴きゆへありとかや。
福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯したためて出づるに、たそがれの道たどたどし。ここに等栽(とうさい)といふ古き隠士あり。いづれの年にか江戸に来たりてよを尋ぬ。遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有るにや、はた死けるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命(ぞんめい)してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕顔・へちまのはえかかりて、鶏頭はは木々(ははきぎ)に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心(どうしん)の御坊にや。あるじはこのあたり何がしといふものの方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。
かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそ、かかる風情ははべれと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立つ。等栽(とうさい)もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とうかれ立つ。
おくのほそ道


草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福井県永平寺町松岡春日 (45) 物書(かき)て 扇引(ひき)さく 余波哉(なごりなり)
(意)夏の間使い慣れた扇も捨てる季節になったが、あなたとも別れの時が来た。離別の形見に何か書き付けて、扇を二つに引き裂き、名残を惜しもう


2022年8月14日
日光路
(45)松岡天龍寺

天龍寺参道の芭蕉の句が刻まれた記念碑、芭蕉塚。
芭蕉は、おくの細道の途中、1689年(元禄2年)8月天龍寺の大夢和尚を訪ね、寺に宿泊した。


芭蕉は、金沢で門下となり同行してきた立花北枝と共に天龍寺を旅立ち、町はずれの茶屋で北枝との別れに臨み、別れ難い思いを「物書きて扇引きさく余波哉(なごりかな」と詠んだ。



余波の碑

天龍寺の庭に建つ、別れを惜しむ北枝と芭蕉の姿の、余波の碑。
天龍寺は世界中から多くの人が訪れる坐禅の道場となっていて、参拝していると向こうから青い目の修行僧に出会った。


天龍寺参拝を終えてえちぜん鉄道・松岡駅に戻りしばらく待って福井駅に戻ってくる。それから敦賀へ行く予定だったが、敦賀方面は台風8号の昨夜の豪雨で電車がストップして運行再開のメドがたたないらしい。今日は青春18きっぷの2回目利用して敦賀~奈良と行く予定だったが、敦賀も奈良も今日中に着けるかどうか解らない状態。上下線ともストップしたまま、全く先に進めない状況で、福井にもう一泊するかバスの夜行便で大阪経由で奈良へ行くか、難しい判断が迫られる。


敦賀方面は電車がストップ運行再開のメドがたたない

列車の乱れを伝える地元NHK放送
福井駅構内は金沢方面行く人と京都方面行く人が右往左往している。皆考えは同じで今日このまま列車が止まった場合今日どうするかだ。やきもきした気持ちで小一時間経過したころ意外と早く、福井駅10:28分に敦賀方面電車が動く場内アナウンス、みんなホームに殺到、混雑の中やっと乗車した電車は11:10頃やっと敦賀に到着。

今日は計画では、敦賀駅から歩1㌔15分.気比神宮~気比松原から左上方向の色ヶ浜を 2:20分周遊して 敦賀駅に戻る予定だったが全て中止、それどころではない。
敦賀に、やっと着いたがその先へ進む電車が、動く気配もなく止まったままの電車内で運転再開するのをじっと待つ。しばらくして11:30頃になり、やっと動き始めたが今度は近江今津駅で又ストップ.....そして、13:10分にやっと動き始め 13:55 なんとか京都駅に辿り着いた。


ここまでくればもう安心、京都~奈良間は何事もなかったごとく普通に運行していて 京都発 14:03分の電車に乗り14:49 奈良駅に無事到着。福井駅での状況を考えるとこんなに早く着けるとはとても予想できなく本当によかった。


今夜から3泊する「スーパーホテルロハスJR奈良駅」は奈良駅の改札を出てすぐ右の建物なので駅から0分、4階のフロントでチェックイン。
「スーパーホテルロハスJR奈良駅」3泊2名で\23650 \18000分の「いまなら地域クーポン」付き  今日の歩行数9438歩
14.15.16日3泊=「スーパーホテルロハスJR奈良駅」
17.18.19日3泊=「大阪逸の彩(ひので)ホテル」Bookingで予約/3泊-朝食込み\15921


「大阪逸の彩(ひので)ホテル」

8月19日大阪最後の一日は、大津市・膳所に寄ってから、8月14日に大雨の福井で電車の運行が乱れて行けなかった、福井県敦賀の町へ青春18切符を使って出かける。

7:30「大阪逸の彩(ひので)ホテル」Y君と二人で朝食。今日は自由行動。

快晴、猛暑の一日になりそう。ホテルを出発してすぐ前の信号渡り、新今宮駅へ新世界通りを通天閣に寄っていく。朝の通天閣は夜の風景とうって変わって人通りが少ない。

JR新今宮駅から9:15分の電車に乗る、9:32分大阪駅に着いて、9:40の電車に乗換、芭蕉の墓地のある滋賀県大津市/膳所駅に10:33分到着。

滋賀県大津市膳所「義仲寺」松尾芭蕉のお墓参り
駅前広場にある「芭蕉・義仲顕彰の街」碑。

青春18切符を提示し、膳所駅を出て駅前からゆるい坂道を下って「義仲寺」へ向かう。途中で「よしなかでら」と道を尋ねると一瞬首をひねって、あ!「ぎちゅうじ」ですねという。「義仲寺(ぎちゅうじ)」と読むんだ。言われた通りに進んで、駅からは10分ほどで義仲寺の門前に着く。


「義仲寺(ぎちゅうじ)」木曽義仲は、平家討伐の兵を挙げ都に入った帰り、源頼朝が送った源範頼・義経の軍に追われて粟津で壮烈な最期を遂げここに葬られた。

↑木曽義仲の墓 

義仲を支えた側室.巴御前の塚

松尾芭蕉は寺と湖南の人びとを愛し、たびたび滞在、境内にある無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉が「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言により元禄7年(1694年)10月、義仲の墓の横に葬られた。
草の戸も住替る代ぞひなの家
命日 1694年10月12日
終焉地 大阪市中央区久太郎町
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大阪市中央区久太郎町 (芭蕉辞世の句) たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる
(意) 旅先で死の床に臥しながらも、見る夢はただ、あの野この野と知らぬ枯野を駆け回る夢
1694年(元禄7年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。
大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日「病中吟」と称して
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る(たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)
を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)芭蕉は息を引き取った。享年50。
遺骸は去来、其角、正秀ら門人が舟に乗せて淀川を上り、13日の午後に近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれた。翌14日葬儀、深夜遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。其角の「芭蕉翁終焉期」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。なお、墓石の「芭蕉翁」の字は、丈艸(じょうそう)の筆といわれる。

義仲寺:芭蕉の墓↑

義仲寺・本堂
義仲寺/入場券   
義仲寺お参り終え、膳所駅に戻りる。11:26分発で11:32分山科乗換11:50発の電車に乗る。



JR湖西線は琵琶湖左岸を走り抜け13:15分敦賀駅に到着。




敦賀駅

敦賀駅前「心の旅-敦賀への道-」像

歩くつもりだったが、命の危険もあるくらいの猛暑なので、敦賀駅前から気比の松原へ13:20分発のコミュニティバスに乗って行く。


13:30に気比の松原バス停で下車。バスを降りると目の前が名所・気比の松原


気比の松原を抜けた先に「気比の松原海水浴場」
芭蕉はここから北上して10㌔さきの「色ヶ浜」まで歩いて『寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋』を詠んでいる。「色ヶ浜」から3㌔先には敦賀原子力発電所。それを知ったら芭蕉もびっくりだろう。

気比の松原海水浴場から左先には原発がある

気比の松原遊歩道

気比の松原海水浴場から、敦賀の町中へ猛暑のなか日傘をさし歩く。


敦賀城跡近く
おくのほそ道
 おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)八月十四.十五日(新暦)9月27.28日 
漸(ようよう)白根が嶽かくれて、比那が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆(あし)は穂に出でにけり。鴬(うぐいす)の関を過て湯尾峠を越れば、燧(ひうち)が城、かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月ことに晴れたり。
「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ、なお明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭(しゃとう)神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人、大願発起のことありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来の煩(わずらい)なし。古例(これい)今にたえず。神前に真砂を荷ひたまふ。これを遊行の砂持(すなもち)ともうしはべる」と、亭主のかたりける。
 月清し 遊行のもてる 砂の上 (つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
名月や 北国日和 定なき  (めいげつや ほっこびより さだめなき)
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

気比の松原から敦賀城跡地横を通って30分ほど、芭蕉が敦賀で逗留した出雲屋跡のあるヨーロッパ軒前に出る。この店のソースカツ丼は福井では有名な店。


ソースカツ丼のヨーロッパ軒

敦賀で芭蕉が詠んだ「名月や 北国日和 定めなき」
敦賀で滞在した、ヨーロッパ軒近くの出雲屋跡の碑


おくのほそ道
 おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)八月十四.十五日(新暦)9月27.28日 
漸(ようよう)白根が嶽かくれて、比那が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆(あし)は穂に出でにけり。鴬(うぐいす)の関を過て湯尾峠を越れば、燧(ひうち)が城、かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月ことに晴れたり。
「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ、なお明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭(しゃとう)神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人、大願発起のことありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来の煩(わずらい)なし。古例(これい)今にたえず。神前に真砂を荷ひたまふ。これを遊行の砂持(すなもち)ともうしはべる」と、亭主のかたりける。
 月清し 遊行のもてる 砂の上 (つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
名月や 北国日和 定なき  (めいげつや ほっこびより さだめなき)
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
2022年8月19日
日光路
(46)敦賀気比神宮
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福井県敦賀市曙町 (46) 月清し 遊行(ゆぎやう)の持てる 砂の上
(意)その昔、遊行上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。その白砂の表に月が反射し清らかな眺めだ。


芭蕉逗留出雲屋跡から10分ほど歩くと敦賀の“北陸道総鎮守”と称される『気比神宮』

気比神宮

元禄2年旧暦8月14日の夜に松尾芭蕉は気比神宮を参拝、月明かりに照らされた神前の白砂とその云われに感動し「月清し遊行の持てる砂の上」と詠んだ。

2022年8月19日
日光路 (48)敦賀色ヶ浜
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福井県敦賀市色浜 (48) 寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋
(意)この色ヶ浜の夕暮れは何と寂しいことか、源氏物語で有名な「須磨の浦の秋」のそれよりも勝っている
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)八月十六日(新暦)9月29日 
十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す。海上七里あり。
天屋何某(なにがし)といふもの、破籠(わりご)・小竹筒などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪(たえ)たり。
 寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋 (さみしさや すまにかちたる はまのあき)
 波の間や 小貝にまじる 萩の塵  (なみのまや こがいにまじる はぎのちり)
その日のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
敦賀・色ヶ浜
2022年8月19日
日光路 (49)敦賀色ヶ浜
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福井県敦賀市色浜 (49) 浪の間(ま)や 小貝(こがひ)にまじる 萩の塵(ちり)
(意)波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている
元禄2年旧暦8月16日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと色ヶ浜へ海の上を7里ほど舟を走らせた。天屋五郎右衛門という者が弁当や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ、多くの下人を舟に乗せて賑やかに出発し、追い風ですぐに色ヶ浜に着いた。着いた浜はわずかに漁師の小家があるだけの静かな場所で、侘しげな法華宗の寺(本隆寺)があった。そこで茶を飲んだり酒を温めたりして過ごしたが、夕暮れの寂しさは格別心に迫るものがあった。


色ヶ浜バス停から坂道を下った集落の蛭子神社前を通って、本隆寺・開山堂境内に入る。奥の細道の48首目の句・ 寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋、の句碑が建つ。

色ヶ浜・蛭子神社

一日に3本づつしか走らない

2023年8月
色ヶ浜バス停から11:04分の(夏季臨時バス)コミュニティバスに乗って敦賀駅へ。

2022年8月19日『気比神宮』お参り終えて敦賀駅へ20分歩いて戻る。

敦賀市清水町1丁目~2丁目のよく整備された通り

敦賀駅の待合室で休憩して、15:23分発の姫路行に乗車、17:27分大阪駅に到着。
阪急大阪梅田本店前コンコースを歩く。きれいになった大阪駅地下街にびっくり。


阪急大阪梅田駅コンコース
大阪駅周辺をあちこち歩いてから、大阪駅18:12分の大阪環状線内回り快速電車で18:30分新今宮駅から「大阪逸の彩(ひので)ホテル」戻る。今日の歩行数 28285歩 19.8㌔
ホテル18階屋上大阪の夜景を見る。
「あべのハルカス」と「通天閣」が夜空にそびえている。

屋上から あべのハルカスと通天閣
明日は『おくの細道』を辿る旅もいよいよ最終日。


Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
新潟県.富山県.石川県.福井県.岐阜県

2021年8月20日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家

2021年8月20日「大阪逸の彩(ひので)ホテル」
8:30分、チェックアウト。
『おくの細道』を辿る旅も最終日。

9:32分大阪駅から9:30分の電車で10:54分米原駅、11:00分の大垣行に乗換、11:32分大垣着。岐阜県・大垣市は、松尾芭蕉『おくの細道』むすびの地(終着地)
 
芭蕉(左)を迎える友人.谷木因(右)

『蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ』(意)
蛤が蓋と身に分けられるように、私も同じ辛い思いで皆と別れ、秋にも別れを告げ二見(伊勢.二見浦)に向かい旅立つ。


『蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ』句碑の後脇に、『惜むひひげ 剃たり窓に 夏木立』 谷木因の句碑

松尾芭蕉と谷木因
谷木因 美濃国(岐阜県)大垣の俳人。船問屋を業とする富裕な商人で尾芭蕉とは早くから親交を結び,現存の芭蕉の書簡の中では,延宝9(1681)年の木因宛のものが最も古く,ふたりが心を許し合った友人関係にあったことは当時の書簡からうかがえる。貞享1(1684)年には旅中の芭蕉を自宅に迎え,桑名まで芭蕉に同道した。ただし,芭蕉が交わろうとしなかった井原西鶴やその弟子北条団水とも交わり,菅野谷高政,大淀三千風を迎えるなど,交際の範囲は蕉門に限らなかった。
参照:朝日日本歴史人物事典


芭蕉が船に乗り伊勢へ旅立った船町港は、大垣城下を巡る水門川に設けられた川港。水門川は揖斐川と合流し、大垣と桑名の間を船が行き交った。


おくの細道むすびの地、住吉燈台・船町港

芭蕉の足跡を辿って東京・千住から何度か旅を重ねて、この地まで足を運び、むすびの地(終着地)を目にすることに感慨を覚える。

おくのほそ道
 草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)八月二一日~九月五日(新暦)10月4日~17日 
露通(ろつう)もこのみなとまで出でむかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合い、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、そのほかしたしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものに会ふがごとく、かつ悦び、かついたはる。旅のものうさも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、また舟にのりて、
蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ (はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
年月日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岐阜県大垣市船町 (50) 蛤(はまぐり)の ふたみに別れ 行く秋ぞ
(意)蛤がふたと身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋にも別れを告げ、二見(伊勢の二見浦)に向かって旅立っていく
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
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2021年4月4日~9日
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2020年9月19日~
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草の戸も住替る代ぞひなの家
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おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
船町港

一六八九年(元禄二)年八月二十一日、芭蕉は5ヶ月にわたる『おくの細道』の旅を大垣で終え、旅の疲れは残っているものの、九月六日『伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗りて』水門川の船町港から揖斐川を下っていった。
結びの句『蛤のふたみに別れ行秋ぞ』は、殻と身を引き剥がすように、又再び悲しい別れの時が来た詠んだ。千住出発の折りの「行く春や鳥なき魚の目は泪」と対をなす。「貝のふたみ」とこれから行く「二見ヶ浦」にかけている。


住吉燈台

船着き場から大垣駅までは大垣ミニおくの細道という小道があり、芭蕉がおくの細道で詠んだ代表的な22句の句碑が並んでいる。
2021年4月4日、芭蕉にならって深川「採荼庵」を出発した『おくの細道』を辿る旅は終わった。ところどころ足りない部分もあり、もう少し掘り下げながらこれからも「おくの細道」を辿る旅は続けたい。

「おくのほそ道」最後の地、大垣は福井県.敦賀から約60キロ。松尾芭蕉の記述は、この距離を一気に飛ぶ。1689(元禄2)年8月21日(陽暦10月4日)ごろ、芭蕉は敦賀まで迎えに来た門人の露通と「駒にたすけられ」美濃国「大垣の庄」に入り、如行(元大垣藩士の門人)や河合曽良ら親しい人々にいたわられ、旅の疲れを癒やした。芭蕉の時代、大垣は戸田家10万石の城下町で、東海道と中山道をつなぐ美濃街道の宿場町、三重.桑名宿との間を揖斐川経由で船が往来した港町であった。現在は人口16万の岐阜県第2の都市。東海道線の大垣駅を降りると、駅ビルの通路に「奥の細道紀行330年記念」の横断幕が掲げられ、ベンチに「奥の細道むすびの地.大垣」の文字があった。 大垣では、地元を「奥の細道最後の地」とは言わない。「むすびの地」と言う。物語の締めくくりの地という意味だ。 大垣の手前、敦賀の人によれば「ほそ道」の「旅の舞台」の最後は、敦賀だ。大垣は「旅の舞台」ではない。では大垣は、と言うと、旅という非現実的な世界を体験してきた芭蕉が、そこから帰還し、やっと戻ってきた「現実の地」なのである。 「ほそ道」の大垣の場面「多くの親しい人たちが日夜会いに来て、まるで生き返った人に会ったように、喜び、いたわってくれる」と、芭蕉自身も、あの世からの帰還を連想させる言い回しをしている。 芭蕉が大垣を初めて訪れたのは1684(貞享元)年、「のざらし紀行」の旅の折。同地の中心的俳人で船問屋の主人、谷木因(ぼくいん)の招きで訪れた。芭蕉は、その後も何度か大垣を訪れ、友人や門人も多くいた。大垣は、俳聖に愛された町であり、この時、芭蕉は約2週間滞在した。その間の朗らかさは「ほそ道」からひしひし伝わってくる。途中別れた曽良が駆け付け、名古屋の門人、越人も馬を飛ばして来た。地元の門人、前川子と荊口親子と、芭蕉の元に集まった親しい人々の名が次々と上がる。そして、船町港から『蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ』の句を残し、遷宮が行われている伊勢神宮を目指す。 大垣.船町港で船に乗り、遷宮が行われている伊勢神宮を目指して。そして「終」マークの代わりに〈蛤の ふたみにわかれ行ゆく 秋ぞ~ 蛤が蓋ふたと身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋にも別れを告げ、伊勢の二見浦に向かって旅立つの意―の句。 物語は終わっても旅は続く。人生は簡単には終わらない...そんなことを芭蕉も考えたのだろう。 
福島民友新聞「おくのほそ道まわり道」より転載


おくのほそ道
終
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