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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅   日光路 (東京~埼玉~栃木~福島)

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川


2021年4月4日
1日目
 








JR越中島駅からスタート

採荼庵跡へ




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路


おくのほそ道  元禄2年(1689)3月27日〜9月6日 芭蕉(46歳)は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約2,400キロ、日数約150日にも及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらす。 『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆している。芭蕉の紀行文としては質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。書名は文中の「おくの細道の山際に十符の菅 有」の地名による。 参照--芭蕉翁顕彰会-- 

江東区深川「採荼庵」
 『おくのほそ道』を辿る
松尾芭蕉が門弟 曾良を伴ない おくの細道に旅立ったのは、今から332年前1689年5月16日(旧暦3月27日) 芭蕉46歳、五代将軍徳川綱吉「生類憐れみの令」が施行されていた時代の江戸.深川から。
芭蕉が旅した足跡の一部を辿る旅。
しっかりコロナ防疫対策をし て
2021年4月4日早朝5時出発。 最初はJR越中島駅へ、そこから歩きはじめ清澄公園を抜け20分程で芭蕉が旅立つ前滞在した『採荼庵跡』到着。 
おくのほそ道を辿る旅も芭蕉と同じここが出発点。
  ここ採荼庵で芭蕉が『おくの細道』最初に詠んだ句
2021年4月4日
東京都江東区深川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
東京都江東区深川 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家

(意)
戸口が草で覆われたこの深川の家も、私に替わって新しい人が住み、綺麗な雛人形が飾られるような華やかな家になるのだろう。



採荼庵(さいとあん)
採荼庵は江戸の俳人杉山杉風の庵室で、俳号を採荼庵と名乗った。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があり、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られている。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくここ採荼庵で過ごした。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立った。
『おくのほそ道』街歩きは「採荼庵」深川から隅田川に出て北千住までは隅田川テラス散歩コースを歩く。約12㌔⇒地図





両国橋~蔵前橋へ

隅田川テラスの句碑

隅田川テラスは新大橋~
両国橋~蔵前橋~厩橋~駒形橋~言問橋~白髭橋までいくつもの江戸の名残の橋の下を通っていく。


隅田川テラス

両国橋~蔵前橋~厩橋~駒形橋~から名物アサヒスーパードライホール下までくる。



オブジェは、仏デザイナー
フィリップ・スタルクの設計

アサヒビール本社スーパードライホール

吾妻橋から見上げると名物のアサヒビール本社スーパードライホールのオブジェ 前の吾妻橋を渡ると雷門に続く浅草への入口だが、ここは渡らず更に進んで~言問橋


こまどり姉妹の唄に出てくる言問橋
「浅草姉妹」⇒ ♪♪ なにも言うまい 言問橋の水に流した あの頃は
     鐘が鳴ります 浅草月夜 化粧なおして エー化粧なおして 流し唄 
♪♪

白髭橋
で隅田川を渡り左岸に移る。北千住まではあと少し!⇒


左岸 隅田川テラス

隅田川テラス左岸から振り返ると白髭橋の向こうに、さっき下を抜けてきたばかりの東京スカイツリー。


桜満開の都立汐入公園からもスカイスリー

東京都汐入公園を抜けると最後の千住汐入大橋を渡って北千住駅まではあと一息。
朝6時半から歩き始め3時間かかって北千住駅に到着。西口の宿場町通り見ていく。


北千住駅

  芭蕉は船を千住で船を降り、矢立初め(旅日記の始め)として詠んだ句。
2021年4月4日
足立区 千住橋戸町
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
足立区 千住橋戸町 行(ゆく)春や 鳥啼(とりなき)魚の 目は泪(なみだ)
(意)
春も過ぎ去る頃 皆と旅立つ別れを惜しんでいると、鳥も悲しそうに鳴き、魚も涙をためている。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川


北千住駅西口商店街 宿場町通り。芭蕉も『おくのほそ道』で歩き始めている。




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





北千住西口/旧日光街道 宿場町通り
2021年4月4日
1日目
 

北千住駅に戻り予定より30分早く東武浅草線10:05に乗る。
僅か10分で10:15草加駅着。


草加駅

草加駅から草加松原遊歩道(旧日光街道)に出る。硬めでぱりっとした食感の草加せんべいで有名な土地らしく煎餅屋さん多数。
芭蕉も歩いた旧日光街道の面影が残った遊歩道は、綾瀬川沿いの旧日光街道の松並木。「日本の道100選」「利根川百景」に指定されている。


札場河岸公園芭蕉像

矢立橋





札場河岸公園望楼

松原遊歩道に架かる二つの木橋、矢立橋百代橋


草加松原遊歩道/綾瀬川

百代橋

草加宿 松原遊歩道 百代橋の上から左正面にこれから行く東武線.獨協大学前駅が見える。


東武線・獨協大学前駅から乗って春日部で乗換え今日の宿泊地 久喜駅へ向かう。


久喜駅

おくのほそ道を辿る旅一日目は久喜のスーパーホテルに宿泊。駅から10分ほどで、天然温泉付きのビジネスホテル。朝食込み5100円。
15時チェクイン時に清算を済ませ、フロント前の棚から、好みの枕と部屋着を持って部屋へ。着替えて早速一階の温泉に入る。天然温泉とのふれこみだが3人も入るといっぱいになる位の小さな湯船だが25㌔歩いた後なので気持ちいい。

20時部屋から、Mに約束のテレホンコールして無事を連絡。


小さい天然温泉お風呂

久喜スーパーホテル
4月4日 歩行数 36007歩 25㌔
2021年4月5日
2日目 日光
 

4月5日 2日目の朝 久喜スーパーホテル一階レストランで朝食。
マスク、体温測定、アクリル板で仕切られた席でいただく。一人客が圧倒的に多い。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川


スーパーホテル朝食






おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路



今日 2日目は室の八島に寄って、栃木県日光杉並木街道など歩く予定。久喜から電車で栗橋乗換え野州大津駅へ。


野州大津駅は無人駅。住宅街を抜けて徒歩15分、室の八島(大神神社)前に出る。



野州大津駅

室の八島(大神神社)

大神神社の境内の池の中に石橋や、朱塗の橋がかかる島が八つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮等8つの神社が鎮座し、歌枕として知られ敷地内に芭蕉の句碑「糸遊に結ひつきたる煙哉」がある。

室の八島(大神神社)
 
室の八島(大神神社)  (参照)栃木ふるさと学習㌻⇒

室の八島(大神神社)句碑

当時 惣社村の大神神社にある八つの島と池が、歌枕「室の八島」だとされ芭蕉は「糸遊に結びつきたる煙かな」の句を残したが『おくのほそ道』に収められていない。 糸遊=かげろう。

野州大津駅へ戻って電車で新栃木駅に向かう。
新栃木駅から東武日光行きに乗車、11:37分下今市に到着。下車して杉並木街道へ。


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川


東武鉄道新今市駅

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





下今市駅国道119号を西に向かうと間もなく杉並木街道入口へ。

東照宮/日光杉並木街道

杉並木街道は、国道119号と並行して続き、日光市内に近くなると車道と合流する。ほとんどは静かな歩道が続いていた。日光駅まで杉並木街道では誰一人歩く人に出会わなかった。


約9㌔JR日光駅~東武日光駅まで約3時間かかって到着。


JR日光駅~東武日光駅を通って日光街道を東照宮向って歩く。


日光/神橋 は二荒山神社の建造物。

神橋前に到着。左折し右上の東照宮下を進むと間もなく今夜の宿「ホテル春茂登」が見えてくる。


姉妹ホテル「日光千姫物語」は「春茂登」の部屋目の前

今日の宿 春茂登は通りを挟んで目の前に姉妹ホテル「日光千姫物語」お風呂はそちらに入りに行く
2泊3日 2食付き(部屋食)で\20700-格安。


18時~夕食。部屋食なのはありがたいが、一人で食べる夕食は味気ない。
20時部屋から、Mにテレホンコールして無事を連絡


4月5日 歩行数 24803歩 17.3㌔
4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

2日目 6時半ラジオ体操、7時から春茂登の朝食。
今日は午前中、芭蕉も訪ねた「裏見の滝」を見て、午後から東照宮を見学する予定。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川



朝食

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





7時半、宿を出発「裏見の滝」は片道約4㌔の山道を歩く⇒

宿を出て国道122号線を中禅寺湖方面に歩くと直ぐの所に「日光田母沢御用邸記念公園」前を通って進む。

日光田母沢御用邸記念公園
県立の都市公園。皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された御用邸の建物と庭園を公園として整備一般公開している。明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一とし貴重

出発して一時間ほど滝の入口駐車場に着く。
そこから更に15分程山道をのぼると滝に続く良く整備された木造の道に出る。




芭蕉が歩いたころはこんなに整備された道でなくもっと難渋して登ったことと思われる。

  
   日光裏みの滝で詠んだ句
2021年4月6日
栃木県 日光裏みの滝 
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市日光 暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや 夏(げ)のはじめ
(意)
滝の裏の岩窟に身をひそめていると、僧が夏に籠って修行する気持ちになり身も引き締まる。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川

4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

日光「裏みの滝」

森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」

「裏みの滝」に到着。芭蕉が来た300年前には滝の左から登って滝の裏側に出て、名前の通り滝の裏側から見られただろう。その道も今は崩れて通行禁止になっている。



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路






「裏みの滝」はとても風情があり激しく流れ落ちる見応えのある滝。
『暫時は 滝に籠るや 夏のはじめいい句も浮かぶというもの。


裏見の滝から同じ道を下って宿に帰る。

昨日ちょっとしたトラブル「途中駅でsuicaが自動改札機に反応しなくなるがあり日光駅で再発行してもらおうと、宿から日光駅へ10:20分の送迎バスに間に合ったので乗せてもらう。駅の窓口でそれを申し出ると気持ちよく受付けてくれたが、明日以降でないと受取れないとのこと、今日来ておいてよかった。

JR日光駅天井東照宮薬師堂と
同じ「龍の龍」パネルがある

suicaカード磁気不具合再発行してもらう

JR日光駅から大通りを歩いて東照宮に向かう。コロナ禍でいつも観光客の半数は外国人と言われる日光だが、全く見かけない、日本人すら通りを歩く人は本当に少なく商店も宿もこんな時代に遭遇して気の毒で仕方ない。


  日光 元禄2年4月1日(1689年5月19日)江戸を出て3日後に詠まれた句
2021年4月6日
栃木県 日光 
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市山内 あらたふと 青葉若葉の 日の光
(意)
ここ日光の霊山の木々の青葉若葉に映る日の光は、神霊の荘厳そのもの、なんと尊くありがいことか。日光の地名を読み込み、聖地の緑と光を切り取った表現(芭蕉の徳川家への賛辞には賛否がある)

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川







輪王寺 総本堂 三仏堂







おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路







神橋したから東照宮に向って上がっていくと初めに輪王寺の社殿。
その脇を出て右の参道を進むと正面が東照宮の石の大鳥居が構えている。



日光東照宮「石の大鳥居」は1618年(元和4年)筑前 黒田長政(軍師官兵衛の長男)によって奉納された。


東照宮正面「石の大鳥居」

徳川家康が祀る日光東照宮、現在の社殿群は、ほとんどが寛永13年(1636年)3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。芭蕉がお参りしたのは1689年、家光により造営された僅か53年後で芭蕉と曾良の驚き多き想いはどんなだったろう。

 重要文化財「神厩舎」の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」 

眠り猫

東照宮の本殿の裏に左甚五郎の作と伝えられる眠り猫、下をくぐって長い石段を登った先が、奥宮(奥社)徳川家康公のお墓がある。


奥宮(奥社) 入口一対の狛犬 吽像 阿像

徳川家康公 墓
徳川家康公 東照宮HPより抜粋
家康公は元和2年(1616年)4月17日駿府城(静岡市)で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。
 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。

陽明門
 陽名門 別名「日暮の門」正面の中央に位置する白い木に彫られた「目貫きの龍と龍馬」

陽名門の天井画、狩野探幽により描かれた
「昇龍」別名「八方睨みの龍」と「降龍」別名「四方睨みの龍」

陽明門の左右に伸びる国宝「廻廊」

東照宮を出てパワースポット上新道を通って「二荒山神社」「輪王寺 大猷院」へ


上新道

石の大鳥居から右に折れた上新道を進んだ先「二荒山神社」「日光廟 大猷院」が並んで建つ。

日光二荒山神社HPより参照
御祭神 二荒山大神 ⇒親子3神を祀る
      大己貴命(おおなむちのみこと)父
      田心姫命(たごりひめのみこと)母
      味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)子
古くより、二荒山(男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。境内は、日光国立公園の中枢をなす、日光連山をはじめとて、御神域は、3,400㌶におよぶ広大な境内地です。華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財の神橋など日光市内に3社鎮座しています。  男体山山頂⇒奥宮  中禅寺湖畔⇒中宮祠  山内(市内)⇒御本社

日光廟 大猷院(たいゆういん)

日光廟 大猷院(たいゆういん)
は徳川三代将軍「家光公」の廟所。


日光東照宮見学はここで終る。

日光東照宮には何度か来たが今度ほどゆっくり見たのは初めて。一人旅の良いところかもしれない。
「二荒山神社・大猷院」の入口が西参道になっていて坂を下り終えると、宿の春茂登はすぐ前。

宿に帰ると今日も早速タオルを持って、姉妹ホテル「日光千姫物語」のお風呂に入りに行く。
広く大きくいいお風呂。内風呂、サウナ、露天風呂も入りゆっくり汗を流す


2日目の夕食は18時から今日も一人で部屋でいただく。
今夜は牛肉のしゃぶしゃぶがついた。格安なのに部屋で食べられ贅沢させてもらいありがたい。
 一人夕食も3日目になるとだいぶ慣れてきた。
20時、Mにテレホンコールして無事を連絡。

4月6日 歩行数 25080歩 17.5㌔

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川




4月7日 4日目
那須塩原

4月7日目 4日目 6時半ラジオ体操して7時から朝食。
昨夜チェックアウト手続きしておいたのでご飯食べすぐに出発。今日は那須塩原へ。


JR日光駅

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





JR日光駅で昨日頼んだsuicaカードを受取り8:10発電車で宇都宮で乗換え那須塩原9:58着。今日の宿/那須ミッドシティホテルは駅から徒歩3分の案内があったので、湯本温泉に行く前に荷物を預けていく。


ホテルに荷物を預け、駅に戻って、10:40分発の那須湯本温泉行きバスに乗る。
約一時間で温泉バスターミナルに到着 \1020。那須湯本温泉は温泉らしい賑わいや情緒がまったくなく拍子抜け。バスの進行方向向こうに温泉神社の鳥居が見え上がっていく。

那須 温泉神社と那須与一 Wikipediaより
那須余一は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れた。十一番、十あまり一で余一と命名され、(後に与一に改名)源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦った。屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わる。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されている。『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』凱旋の後その神恩の深いことを謝し、大社殿を寄進その誠を表わした。他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納、三番目の鳥居も余一が奉納したもの。

『平家物語絵巻』巻十一 扇の的
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島の岸に寄せ激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなる。夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がり、春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。 怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

温泉神社は屋島の闘いで名を馳せた那須与一と関わりがある。しかし芭蕉の時代、与一がその折 願いを込めたのはこの神社ではなく、那須神社(栃木県大田原市)八幡宮であると伝えられていた。つまり芭蕉は殺生石を訪れた時 那須与一に触れていない。



殺生石は溶岩、付近は火山ガスが噴出し硫黄の匂いがただよっている。芭蕉も目にした光景は当時も同じ。



2021年4月7日
那須温泉神社 殺生石
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須郡那須町湯本 野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす
(意)
馬に乗り那須野を進んでいると、ホトトギスが鳴いている。馬方さん鳴き声のする方に向きを変えて下さい、と芭蕉は詠んだ。


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川



那須 殺生石

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路




殺生石 横芭蕉句碑『石の香や 夏草赤く 露暑し』

殺生石から下った先に名湯「鹿の湯」がある。建物は明治時代、玄関は大正時代に建造現在もその姿を受け継いる。このお湯に浸かるのを、この旅行の楽しみにしていた ひとつ、ゆっくり いい湯をいただいていく。

『鹿の湯』HPより参照

那須温泉元湯・鹿の湯は、七世紀前半、約千三百年前の舒明天皇の御世に開湯されたと伝わり、狩野三郎行広という者が山狩の際に、射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿は傷ついた体を温泉で癒していた。そこで鹿により発見された「鹿の湯」と名づけた。公式には、聖武天皇の御世、天平10年(738年)正倉院文書のなかに那須温泉の記録が残されている。
江戸時代には、在府の大名はしばしば那須温泉に湯治に出かけ、正保2年(1645年)盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された湯治願も残されている。


那須湯本温泉・名湯「鹿の湯」

「鹿の湯」

入口で入浴料500円を支払い下足を預け、きれいに手入れされた廊下を進むと、左が女湯、右が男湯、脱衣場からすぐにお風呂場、洗い場はない、打たせ湯下の桶で軽く流して湯船に進む。 湯船は6つそれぞれ湯温が表示され、手前から41℃/42℃/43℃/44℃/46℃/48℃の6つの浴槽。奥の46℃48℃は遠慮する。 


湯本温泉バスターミナル

鹿の湯で入浴後一休みしてから、坂道を上がってすぐの湯本温泉バスターミナルに戻り、12:45発那須塩原駅行き~13:45分 那須塩原駅に帰ってくる。
反対側の東口にまわって、明後日雲巌寺に行くコミュニティバス時間をチェックしホテルへ。


那須ミッドシティホテル 部屋の正面 那須塩原駅が見える

飲食店はコロナ禍の中敬遠して、途中でコンビニにより、弁当+サラダ+スープなど買ってホテルの部屋で一人夕食。そしてお風呂で洗濯。
20時、今夜も部屋から、Mに約束のテレホンコールして無事の連絡。
4月7日 歩行数 13559歩 9.5㌔
 4月8日 5日目 遊行柳から白河の関跡をまわり須賀川へ
那須ミッドシティホテルの朝食はコロナ対策の為バイキングでなく、和食&洋食お弁当。洋食弁当を選択、部屋で食べる。

東北線:黒田原駅

7時半 ホテルをチェックアウトし那須塩原駅へ。
東北線7:44分発電車に乗り~7:49分黒磯着 乗換7:54発~8:03分 黒田原駅着。通学の高校生多数一緒に下車。駅前に停車中の8:10分芦野市役所行きバスに乗車。運転手さんに10分位で遊行柳最寄りの芦野支所バス停に到着 下車する。


2021年4月8日
栃木県 遊行柳
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須郡那須町芦野 田一枚 植(うゑ)てたち去る 柳かな
(意)
西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたったが、私はこの木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに田一枚が植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川




4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路







芦野支所バス停。四方八方畑ばかり。こんなに全く何もない場所にぽつんと放り出された感じがすごく新鮮な感覚。ずっと向こうの畑の真ん中に大きな木が茂ってるのが見える「あれが遊行柳だ!」いっぱいの青空の下のどかな田園をそこに向かってゆっくり歩いていく。





遊行柳

田一枚 植てたち去る 柳かな

芦野・遊行柳は、芭蕉の心を捉えた西行が「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだと伝えられる場所。「清水流るる柳」を見たいという願いがかなった、と芭蕉は感動し詠んだ句が「田一枚 .......」西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたったが、私はこの木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに一枚を植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。
(おくの細道に旅立ったのは西行の五百回忌に当たる年)


今日はこの旅行で最大の..歩行距離を覚悟して出発して来たが、抜けるような青空でこんなに気持ちいい場所からでラッキー...と 思えたのはここまで。


遊行柳から白河の関跡へは約11.7㌔、先を目指して歩き始める。


現在はどこもかしこも車が騒々しく排気ガスも多く、江戸前期芭蕉が歩いた頃と同じなのは空の青さと山の緑かなと思いながら歩く。


遊行柳から白河の関跡は栃木県境を越え福島県に入って約4時間かけ到着。

白河の関は、鼠ヶ関・勿来関とともに、奥州三関の一つに数えられた関所。
西行もここでも「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」と詠んでいる。


白河神社

白河の関跡 白河神社境内に、源義経が兄頼朝の決起に呼応し、東国に馳せ参じようとした時、戦勝を祈願し桜に旗印を立てたとされる「旗立の桜」や、戦勝祈願で弓矢を射立てたとされる「矢立の松」の碑が残っている。芭蕉もここにたち寄った時に、義経と芭蕉の尊敬する西行は同じ時代を生きた人、きっと西行や義経に想いを馳せたことだろうと想像できる。

4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡

白河の関跡はバスが一日1~2本しか走ってない、想定した通りで最寄の白坂駅までは歩くしかない。



源義経と佐藤継信⇒
源義経家臣 由来の「庄司戻しの桜」今年も満開

白河の関跡出てすぐ、白坂へ向かう途中に見事な桜。説明板を見るとなるほど ここも義経由来の話で、この見事な桜の木は、義経四天王の一人佐藤継の父基治.植栽の木(庄司戻しの桜)で芭蕉と曾良もおくの細道 道中立寄っている。
朝8時半芦野からから歩き始め白河の関跡へ12㌔歩いた後、そこからJR東北本線白坂駅まで8㌔きつい道のりだったが、午後2時半にやっと白坂駅 到着。

切符の代わりの
乗車証明書発行

白坂駅は無人駅、suicaは使えず乗車証明書をとってホームへ。
白坂13:49~新白河13:53着 乗換え13:57分発~14:24分福島県中通り 須賀川駅へ到着。



4月9日 6日目
黒羽雲巌寺





(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川





4月9日 旅行最終日

今日は那須塩原に戻って黒羽雲巌寺を参拝し帰路につく予定。

6時半ラジオ体操してウィング・インターナショナル・ホテル一階レストランで朝食。アルコール消毒体温測定ビニール手袋着用と何処も同じコロナ対策。


那賀川・松明通り
須賀川市 HP市の案内
ウルトラマンの生みの親“特撮の神様”と称される円谷英二監督は須賀川市出身です。須賀川市は2013年5月、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市提携を結びました。
「すかがわ市 M78 光の町」は、須賀川市と「M78星雲 光の国」が姉妹都市を提携して誕生した仮想の都市です。町長には宇宙警備隊 大隊長 ウルトラの父が就任。仮想都市の住民登録や、町の名所紹介などを行なっています。
須賀川中心・松明通り(たいまつどおり)にはウルトラヒーローや怪獣のモニュメントが立ち並んでいます。今にも動き出しそうな迫力ある姿は必見です。また、通りの街路灯にはウルトラヒーローや怪獣などのシルエットが描かれています。

ウィング・インターナショナル・ホテル8時半チェックアウト、ウルトラマンモニュメント並んだ松明通りを須賀川駅へ歩く。
朝から青空いっぱい気持ちいい。今日は黒羽のお寺を訪ね帰路につく予定。


須賀川駅






おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路








雲巌寺行き大田原市コミュニティ バス

9:15の電車で須賀川駅から那須塩原駅へ移動。駅東口から10:40発のコミュニティバスで雲巌寺へ約一時間で到着。途中の乗客は”0” バス停前から正面に参道が続いている。

2021年4月9日
栃木県 黒羽光明寺  
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県大田原市余瀬 夏山に あしだを拝む 首途哉 (かどでかな)
(意)
光明寺に安置された役の行者の下駄を拝み、これから向かうみちのくの長旅の無事を祈った。

2021年4月9日
栃木県 黒羽雲巌寺  
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県大田原市雲岩寺 木啄(きつつきも)庵 (いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち)
(意)
雲巌寺で寺をつつきこわす鳥とされているきつつきも、この庵だけは破らなかった。今、夏木立に囲まれ昔のままの別天地のような感じのする場所と詠んだ。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
4月4日 (1)江戸深川
4月4日 (2)江戸千住
4月5日 (3)日光
4月6日 (4)裏みの滝
4月9日 (5)黒羽光明寺
4月9日 (6)黒羽雲巌寺
4月7日 (7)那須殺生石
4月8日 (8)芦野遊行柳
(一) 日光路終
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川


4月9日 6日目
黒羽雲巌寺



黒羽・雲巌寺

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路








雲巌寺・芭蕉『木啄も 庵はやぶらず 夏木立』句碑 

1689年芭蕉は雲巌寺を訪れた

境内にあった樹齢408年のスギ、2018年倒木の恐れあり伐採された。
芭蕉が来訪の頃すでにこの木はあった


雲巌寺から大田原市庁舎へ樹齢408年スギの一部を「年輪盤」として寄贈

大田原市庁舎

臨済宗の名刹雲巌寺の原宗明老師は2日、大田原市庁舎を訪れ、同寺で伐採された樹齢408年のスギの一部を「年輪盤」として寄贈した。1階エントランスに設置された。同寺前を流れる武茂川沿い「千丈の瀧」上部の崖に立っていた老大杉。根元の土砂が崩壊し倒木の危険があったため、昨年8月に伐採された。1610年の誕生から63年の徳川光圀(水戸黄門)の同寺参詣、89年の松尾芭蕉の同寺滞在などが記載され.......2019年10月3日下野新聞記事より

雲巌寺バス停
大田原市コミュニティ バス


那須塩原駅~雲巌時 所要1時間 片道運賃200円のコミュニティバスは行きも帰りも乗客は自分ひとりだけ、採算度外視でいつまで続けられのだろう、少し心配。

雲巌寺12:30発のバスで那須塩原駅に戻り13:53分発電車に乗り宇都宮・古河などで乗換え帰る。

4月9日 歩行数 10403歩 7.3㌔

『おくのほそ道』を辿る旅 (一) 日光路 終
(一) 日光路終
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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅    日光路 (福島県~宮城県~岩手県)






おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





(一) 日光路
2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

2021年4月8日
福島県 須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた
(意)
白河の関を超え奥州路に入ると、田植えの真っ盛り農民たちが田植え歌を歌っていた。ひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった


JR東北本線・須賀川駅 福島県中通り

白坂駅で取りだした乗車証明書で須賀川駅で清算、今夜の宿ウィング・インターナショナル・ホテルへ向かう
駅からホテルへまでは20分程松明通り(たいまつとおり)を歩いていく。
通りは広くきれいに整備された大通り。


『風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた』の句碑

須賀川ウィング
インターナショナルホテル

ホテルに入る前、芭蕉ゆかりの寺・十念寺に寄る。
境内に芭蕉が須賀川で詠んだ『風流の 初や奥の 田植うた』の句碑



十念寺

ホテルにチェックイン。荷物を置いて街に出る。須賀川で芭蕉もう一つの地「可伸庵跡」へ。

2021年4月8日
福島県 須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗
(意)
栗の花は地味であまり世間の人に注目されない、そんな栗の花さながら庵の軒で閑寂な生活するご主人の人柄をあらわしておもむき深い。


(一) 日光路
2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路






可伸庵跡について
芭蕉と交友のあった俳人・相楽等躬(さがらとうきゅう)の屋敷の一隅に住んでいた僧・可伸の庵跡。芭蕉は「おくのほそ道」旅で等躬の屋敷に8日間滞在した。栗の木の下にある可伸の庵で等躬らと歌仙を巻いた。「世の人乃みつけぬ花や軒の栗」句碑は芭蕉が可伸のひっそりと暮らす様子に感じ入って詠んだ句である。

可伸庵『世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗』句碑

今夜もコロナ禍の中飲食店は敬遠、コンビニで夕食を調達。カツカレー&サラダ&あんぱん 最後の夕食も部屋で。


 
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お風呂に入り、20時、今夜も部屋から、Mに旅行最後のテレホンコールして無事を連絡。
4月8日 歩行数 39574歩 27.7㌔

日光路 終
おくのほそ道  日光路終

2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
 (一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



福島駅前広場.芭蕉&曾良像


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路






2021年9月15日
信夫・文知摺観音堂
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島市山口文知摺前 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)
【意】おくの細道で芭蕉は、文知摺観音堂文知摺石(もちずりいし)を眺めてこう詠んだ。
五月女(田植えする五月頃のおとめ)たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺(シノブの茎や葉の色素を布にすりつけねじれ模様)を摺っていたかと しのばれる。

福島市の文知摺観音堂にある文知摺石を眺めて詠んだ。


1971年2月12日当時は飯坂温泉に一泊し福島に戻って松島に向かったが、今日は東京駅から福島に到着して、芭蕉が 「おくの細道」で歩いた福島郊外の文知摺観音(もちずり観音)へ寄って行く。往きはバスに乗って、帰りは歩いて福島駅に戻る予定。


文知摺石

福島駅から20分ほどバスにのり文知摺観音前で下車、迷いながら道を尋ね尋ねやっと見つけ境内へ。芭蕉も眺めた文知摺石は参道正面にどんと置かれていた。置かれていたというより、もともとそこにあった大きな石(岩)にいろいろな言い伝えが残されたものなのだ。


文知摺石(もぢずり)

文知摺観音.芭蕉像

平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺」もしくは「しのぶ文知摺」を詠んだ句のゆかりの文知摺観音である。
 甘く切ない恋歌  芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れたのか、私のせいではないのに、あなたのせい」という、甘く切ない恋の歌だ。さらに、源融と地元の長者の娘 虎女との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、観光地として知られていた。この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだ。芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。地元の子どもの言葉を借り「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。芭蕉はそんなことがあってよいものだろうかと落胆し気を取り直して詠んだ句が「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」


おくのほそ道 まわり道...から参照
平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺(ずり)」もしくは「しのぶ文知摺(もぢずり)」を詠んだ句のゆかりの地が、山口地区の文知摺観音である。
 甘く切ない恋歌  芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。 「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 「『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れ始めたのか、私のせいではないのに(あなたのせいです)」という、甘く切ない恋の歌である。「しのぶもぢ摺」が、千々に乱れた恋心、「しのぶ」が「密やかな恋」を思わせる強力な枕詞だ。 さらにこの地に、源融と地元の長者の娘虎女(とらじょ)との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、文人や参詣者が訪れる観光地として知られていた。では、芭蕉もついでに立ち寄ったのかというと、そうでもない。 「この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだろう。悲恋も経験したのだし」と文知摺観音(曹洞宗普門院)の横山俊邦住職は言う。そんな色っぽい話を振る一方で横山住職は「この歌枕と伝説の地を、芭蕉は自分の目で確かめに来たのに、がっかりして帰った」と現実をドライに語る。 芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。「ほそ道」では、地元の子どもの言葉を借りて「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。芭蕉いわく「そんなことがあってよいものだろうか」芭蕉の激しい落胆が伝わってくる。 それでも、芭蕉が気を取り直すように詠んだ句が
早苗とる手もとや昔しのぶ摺〉ここ信夫の地で忍ぶ摺が行われていたのは昔のこと、せめて早苗を取る早乙女の手元に往事の所作を偲ぶとしよう、の意。ロマンの消失にがくぜんとしつつ、現在の田植えに視点を移し、昔をしのぶ感慨を詠んだのだ。この転換、さすがである。 

文知摺観音(もちずり観音)から福島駅までは約7㌔。帰りはゆっくり歩いて福島駅へ向かう。



2021年9月15日
飯坂医王寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県飯坂町平野寺前 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)

2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
 (一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



【意】節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。

福島駅から飯坂線に乗って飯坂温泉へ向かう。
1971年新婚旅行ではこの電車に乗ったのはすっかり日の暮れた夜。割合混雑していた電車の最前列に立ち、ヘッドライトに照らされ真っ暗闇に浮かび上がって夜空に続く二本の線路、それからの二人の人生を暗示しているかのような情景は今でも昨日のことのようにまぶたに浮かぶ。


飯坂線(福島⇔飯坂温泉)

飯坂線車内”ゆ”中吊り

今日は飯坂線に乗って、飯坂温泉2つ手前の「 医王寺前駅」 で下車して、芭蕉も参拝した医王寺へ寄っていく。


飯坂線「 医王寺前駅」は無人駅

医王寺前駅は無人駅で、ホームから下りて線路を渡ると道路に「おくの細道・芭蕉路」案内板が建つ。それに従って住宅街を進むと約15分で医王寺に到着した。
1685(元禄2年)芭蕉は「おくの細道」途中医王寺を訪れている。


瑠璃光山「医王寺」
瑠璃光山 医王寺(弁慶の笈や太刀)〒960-0231 福島県福島市飯坂町平野寺前45

この寺は、奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。そして城主.佐藤基治の息子二人の継信、忠信兄弟は義経の忠臣で義経四天王と呼ばれている。


医王寺・芭蕉句碑「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」


2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
 (一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺


草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県飯坂町平野寺前 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路

【意】節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。


医王寺境内この先に 義経 佐藤兄弟像 

医王寺は奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。
源平合戦において、城主.佐藤基治は、藤原秀衡の命を受け、息子二人、継信、忠信兄弟を源義経に付き従わせた。兄の継信は屋島の合戦で平家の放った矢を義経の身代わりとなって受け戦死、弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身になり、僧兵に攻められた危機に機転を聞かせ自分が義経と名乗り僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させたが、後に潜伏しているところを襲われ壮絶な死を遂げた。息子二人の死を知り嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前の様子を見て、継信と忠信の妻二人、気丈に自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を着装。若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、武将の姿になり乙和の前に現れ「継信・忠信ただいま凱旋しました」と言い、乙和元気づけた。1685(元禄2年)「奥の細道」の途中医王寺を訪れた芭蕉は、佐藤兄弟を偲び「笈も太刀も五月に飾れ紙のぼり」と詠んだ。その弁慶の笈はこの寺の宝物殿に安置されている。


医王寺境内にある、左・佐藤忠信 中央・源義経 右・佐藤継信 の像

飯坂線・小川橋

医王寺を出て左に「奥の細道標識」脇の 山道を下り田園風景の畑の道を通って飯坂線の線路つたいに飯坂温泉へ向かう。芭蕉の歩いた江戸時代には電車などあるはずもなく のどかな田舎道だったろうが、はるかかなたの山の稜線は昔も今も変わらない。当時を偲びながら青空と野山を見ながら歩く。


飯坂温泉駅前の芭蕉像

穴原温泉は奥飯坂温泉とも呼ばれ飯坂温泉駅からは僅か5分程でついて14時少し過ぎ早めのチェックイン。フロントは3階で部屋は6階。
着替えて早速お風呂。お風呂は一階。眺めもいいお風呂で早いチェックインだったので貸切風呂のように一人占め。


「月之瀬」宿のHP写真

ゆっくり休憩しながら大相撲などみて、18時から夕食は3階大広間で。
コロナ対策で幾つかに部屋を仕切りしてグループ毎に分けられている。


畳廊下の夕食会場

今日は東北線岩沼~名取~仙台へ移動する予定。
9:30チェックアウト送迎バスで飯坂温泉駅まで送ってもらう。



2021年9月16日
岩沼武隈の松
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県岩沼市二木 桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきごし)
(意)桜の咲く弥生の三月江戸を旅立った頃からこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にすると 言い伝え通り、根元から二木に分かれた見事な松だ

(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路


飯坂温泉駅発10:00~10:23福島駅着でJR東北本線10:40に乗り~11:45岩沼駅着。
東北本線岩沼駅から900㍍1大通りを約10分歩き今日最初の目的地「二木の松史跡公園」へ。
 



JR東北本線・岩沼駅前の芭蕉像はマスクを付けさせられている

二木の松史跡公園 現在の武隈の松は8代目

東北本線岩沼駅から900㍍10分「二木の松史跡公園」
奥の細道、道中で芭蕉は、桜の頃の江戸を立って3か月あまり、二木の松に出会った感動を「桜より 松は二木を 三月越」と詠んでいる。


「桜より 松は二木を 三月越」芭蕉句碑

(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺





草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県岩沼市二木 桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきごし)

-----岩沼市HPより抜粋-----
「武隈(たけくま)の松」
は、10世紀前半に詠まれた藤原元善の歌に登場します。元善は陸奥守として多賀城に向かう際、「武隈の松」が枯れていたのを見つけて小松を植え継ぎました。後にもう一度赴任した時に、この「松」に再会できた感動を和歌に詠んでいます。 元善が植えた松を2代目とすると、この後「松」は野火で焼けたり、枯れたり、橋の建材にするために切られたりして何度か姿を消したため、その都度、当時の陸奥守が植え継ぎました。芭蕉が見た5代目については、誰が植えたか記録がありません。現在一本の樹の根元近くから二股に分かれる「一株二股」の松ですが、元々は二本であり、11世紀初め紫式部の『源氏物語』に「武隈の松」は登場します。光源氏が歌に詠んだ「松」は二本であったといわれています。



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路



ここで芭蕉は「桜より 松は二木を 三月越」と詠んだ



2021年9月16日
白石~岩沼 
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
【意】実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺






あれほど歌枕に執着している芭蕉がなぜ雨ぐらいで実方中将の墓(墓は名取市愛島塩手北野にある)を素通りなのか?疑問が残る---
鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路



岩沼駅に戻り、岩沼12:20の電車で12:26名取駅着。今日2つ目の目的地、源氏物語の主人公 光源氏のモデルといわれる中将・藤原朝臣実方の墓をお参りする。


芭蕉も奥の細道で近くまで来たが正確に見つけられず「笠島は いづこさ 月の ぬかり道」の句だけ残している。


芭蕉も難渋した名取の山村らしく畦道やら ぬか道を約1時間程歩く。道を尋ねるにも人の気配がないので5軒の農家に飛び込み2軒は留守、3軒の農家に入ってやっと辿りついた。


平安時代中期の公家・中将藤原朝臣実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の1人。また源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれる。 藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下っていた。 ある日、笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきと村人から言われたがそのまま通りすぎ、神罰が下ったか落馬、亡くなった。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規などがこの地を訪れ、実方を偲んでいる。


中将・藤原朝臣実方の墓




(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺





草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
【意】実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った
中将・藤原朝臣実方  -------日本伝承大鑑より抜粋-------
藤原実方は中古三十六歌仙の一人で、歌道に秀で美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人)後世において『源氏物語』のモデルの一人とされている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。
長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出た。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と陸奥守に左遷したのである。
本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。
長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない。
この返答に対し実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎた。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけ、実方は落馬し打ち所が悪く死んでしまった。
実方中将の墓は伝承通り、笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考える。
この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路







帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。



芭蕉は 仙台・亀岡八幡宮参詣の折、仙台城(青葉城)を訪れ 通常上級武士ですら 通行できない、大手門から入城し二の丸三の丸を訪れている(芭蕉隠密説)
2021年9月16日
仙台
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県仙台市宮城野区     あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒


(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺





おくのほそ道 まわり道...から参照
(意)
染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」
私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの含意である。



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路






 雨の中を北上した芭蕉たちは、白石城下で1泊。翌日1689(元禄2)年5月4日(陽暦6月20日)、岩沼経由で仙台を目指した。飯坂―仙台間は90キロ余り。これを2日で歩くのだから、急ぎ足だったろう。
 芭蕉は「おくのほそ道」で、藤原実方の墓があるという「笠島」を遠く眺め〈笠島はいづこさ月(つき)のぬかり道〉、岩沼では能因らが歌を詠んだ歌枕「武隈の松」を訪れ〈桜より松は二木(ふたき)を三月越(みつきごし)〉と詠んだ。急ぎながらも芭蕉はご満悦である。
、岩沼から先、名取川を渡り、芭蕉たちが仙台の城下に着いたのは4日の夕方。ちょうど、家の軒にショウブをふき、邪気を払う端午の節句の日だった。
 芭蕉たちは仙台に8日まで4泊したが、初めは宿探しに歩き回った。曽良の「日記」によると、まず国分町の旅籠大崎屋に投宿、当時仙台を中心に活動中の談林派の俳諧師、大淀三千風を人に尋ねるが消息不明。どうにも、あてにしていた人々がつかまらない。
 そこへ三千風の高弟で木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門。芭蕉たちは、彼を訪ね三千風が旅に出て不在と知るが、この出会いが芭蕉たちを、ある意味、救ったのだ。
 、二人は大崎屋に泊まり翌6日は、好天の下、大手門内の亀岡八幡宮を参拝。7日は、加右衛門が「和歌に詠まれながら不明になっている名所を調べている」と言い、玉田、横野、榴ケ岡、木下などを訪れ、薬師堂、天神社なども巡った。 さらに、その夜これから行く松島などの絵地図を描き、(マムシなどを防ぐといわれる)染緒を紺にした草鞋2足まで添えて餞別にくれたのだ。そして〈あやめ草 足に結むすばん 草鞋の緒〉旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしようと紺の染緒をアヤメ草に詠み代えたのだ。 そして芭蕉は「風流の道の痴(し)れ者は、この心遣いで、その本領を発揮したというべきだ」と、最大の賛辞を贈った。芭蕉が、ここまで人間を描いたのも珍しい。
芭蕉と曽良、仙台での3日目、亀岡八幡宮をお参りし、城の大手門をくぐり二の丸、三の丸を通り訪れている。
「ほそ道」に従い、塩釜港から遊覧船で松島「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに芭蕉の企みがありそうだ。「ほそ道」は創作だ。技巧的に黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である。

2021年9月16日
名取駅への帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。


アルモンテホテル仙台

西口近くのアルモンテホテル仙台へチェックイン、部屋に荷物を置いて、今日3つ目の目的地 仙台市薬師堂へ向かう。 仙台駅から地下鉄東西線で3つ目の薬師堂駅下車歩いて数分で「陸奥国分寺薬師堂 」


下鉄東西線・薬師堂駅

陸奥国分寺は、仙台市内に現存する中で最古の歴史を持つ寺。
1270年前の奈良時代、聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺のうち最北に置かれた寺だった。
薬師堂を中心とする現在の伽藍は、400年前の江戸時代初頭、仙台藩の祖 伊達政宗公によって再建されたもの。現在は信者さんの祈祷を行う「薬師堂」と、檀家さんの法事を行う「本坊」の2つに役割分担して活動している。

陸奥国分寺

芭蕉は,奥の細道の旅の途中,元禄2年(1689)5月5日から7日までの3日間仙台に滞在。この句は,その時芭蕉を案内した後わらじ二足などせんべつを贈った俳人・北野加之への感謝の気持ちを詠んだもの。


「陸奥国分寺薬師堂 」芭蕉句碑
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺





草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県仙台市宮城野区     あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの含意である。


アルモンテホテルの大浴場---ホテルHPより

国分寺・薬師堂お参りして地下鉄で仙台へ、駅ビルで夕食の食材を買ってホテル戻る。アルモンテホテル仙台はビジネスホテルにしては大きなお風呂がありゆっくり入って疲れをとる。
夕食は買ってきた神戸コロッケなどで部屋で済ませる。


9月17日 7時~アルモンテホテル1階レストランで朝食。ビジネスホテルとは思えないくらい料理が美味しく種類も豊富、器も綺麗で大満足。次もこのホテルチェーンを探して是非泊まりたいと思っている。




2021年月日
平泉高館
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡


(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺





(意)
夏草の茂るこの地は兵士たちが功名を夢見て戦った跡。私も夢にその面影を感じたことだ




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路







金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。
 

月見坂

中尊寺はもっと大きな建物を想像していたが思ったより控え目な簡素な寺院だった。
 
中尊寺

 
中尊寺由来....中尊寺HPより参照
中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。 鎌倉時代以降、次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。
ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。


中尊寺 金色堂
2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
 (一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路



すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている


中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像

中尊寺・金色堂

最後に能楽殿を見学。
能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。


能楽殿・能舞台

草の戸も住替る代ぞひなの家   草の戸も住替る代ぞひなの家


2021年月日
平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
  (意) 武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂
  (意) すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている
2021年4月8日
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
 (一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺




朝ごはんを皆で食べ、Yちゃんは出勤時間、玄関で「じじ ばば は今日、中尊寺を見学して夕方帰るので夕食支度して待ってるよ」言うと笑顔で出かけた。学校は歩いても10分位だが自転車通勤してる。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路






一ノ関駅まで歩き8:56発の電車に乗り中尊寺最寄り駅の平泉駅へ9:03着。
歩いて最初は芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ高館・義経堂へ向かう。 


平泉駅から線路を渡って中尊寺通りを歩きはじめる。間もなく右にそれて義経終焉の地、高館(衣川館)・義経堂がある。芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだと思われ場所だ。


義経が始めて平泉を訪れてのは1174年、義経16歳の時で その頃の平泉は京都の文化にも引けを取らない平泉文化の成熟期を迎えていた。頼朝挙兵までの6年間義経は22歳までここ平泉で過ごした。平氏討伐後、義経の力を恐れた兄 源頼朝に追われるが、藤原氏三代 秀衡の庇護を受け、高館に居館を与えられた。ところが秀衡 病没のち、四代泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、1189年、父の遺言に背き衣川館を急襲して義経に付き従ってきた武蔵坊弁慶など忠臣が応戦するも、圧倒的な数の差に敗れ、義経は妻子と共にここで自害したと伝えられている。


高舘義経堂前からの眺め..芭蕉も同じ山川の景観を眺めただろう

義経終焉の地 高館(衣川館)・義経堂の「夏草や 兵どもが 夢の跡」芭蕉句碑

芭蕉句碑
2021年月日
平泉高館
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
  【意】武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
(一) 日光路
2021年4月8日~
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)岩沼武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺




高舘義経供養塔

源義経主従終焉の地高舘義経堂を出て中尊寺駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。
伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだ。有名な“弁慶の立ち往生”である。が、あくまで伝承で弁慶が実在したかどうか定かでない。 


弁慶の墓

弁慶の墓

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路

金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。
 

月見坂

中尊寺はもっと大きな建物を想像していたが思ったより控え目な簡素な寺院だった。
 
中尊寺
中尊寺由来....中尊寺HPより参照
中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。 鎌倉時代以降、次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。
ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。


草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂

すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている



中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像
中尊寺・金色堂について....中尊寺HPより参照
金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。
内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。 この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。
仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。

中尊寺・金色堂

最後に能楽殿を見学。
能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。


能楽殿・能舞台

レストハウス横の中尊寺バス停から一ノ関駅行き11:58分に乗りYちゃん家近くの竹山バス停で下車、途中のフードパワーセンターというスーパーで今夜の総菜を買って帰る。 


中尊寺に行っている間にK君は明日から仕事なので先に帰っていた。新幹線の中からLineで鳴子~一ノ関の写真をアルバムにして送ってくれた。18時Yちゃん仕事から帰り一緒に夕食。

 日光路終
おくのほそ道  日光路終
おくのほそ道
2021年 (一) 日光路
2021年04月04日
2021年04月04日
2021年04月05日
2021年04月06日
2021年04月09日
2021年04月09日
2021年04月07日
2021年04月08日
(1)草の戸も 住替る代ぞ 雛の家
(2)行春や 鳥啼魚の 目は泪
(3)あらたふと 青葉若葉の 日の光
(4)暫時は 滝に籠るや 夏の初
(5)夏山に 足駄を拝む 首途哉
(6)木啄も 庵は破らず 夏木立
(7)野を横に 馬牽むけよ ほとゝぎす
(8)田一枚 植て立ち去る 柳かな
(1)深川
(2)千住
(3)日光
(4)日光裏みの滝
(5)黒羽光明寺
(6)黒羽雲巌寺
(7)那須野
(8)遊行柳
2021年 (一) 日光路
2021年04月08日
2021年04月08日
2021年09月15日

2021年09月15日

2021年09月16日

2021年09月16日

2021年09月16日

2021年09月21日

2021年09月20日

(9)風流の 初や奥の 田植うた
(10)世の人の 見付ぬ 花や軒の栗
(11)早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
(12)笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟
(13)笠島は いづこ五月の ぬかり道
(14)桜より 松は二木を 三月越し
(15)あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒
(16)夏草や 兵どもが 夢の跡
(17)五月雨の 降り残してや 光堂
(9)須賀川
(10)須賀川
(11)信夫
(12)飯坂医王寺
(13)白石~岩沼
(14)岩沼武隈の松
(15)仙台
(16)平泉高館
(17)平泉中尊寺
2020年~2021年 (一) 日光路
2021年09月19日
2年0月日
2年0月日

2年0月日

2020年09月17日

2020年09月16日
2020年08月12日
2020年08月12日
2020年08月12日
2020年08月12日
2021年08月14日
2021年08月14日
2021年08月15日

2021年08月15日
(18)蚤虱 馬の尿する 枕もと
(19)涼しさを 我宿にして ねまる也
(20)這出よ 飼ひ屋が下の ひきの声
(21)眉掃きを 俤にして 紅粉の花
(22)閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
(23)五月雨を 集めて早し 最上川
(24)有難や 雪をかをらす 南谷
(25)涼しさや ほの三日月の 羽黒山
(26)雲の峰 幾つ崩れて 月の山
(27)語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
(28)あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み
(29)暑き日を 海に入れたり 最上川
(30)象潟や 雨に西施が 合歓の花
(31)汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し
(18)堺田
(19)尾花沢
(20)尾花沢
(21)尾花沢
(22)立石寺
(23)大石田
(24)羽黒南谷本坊

(25)南谷別院羽黒山
(26)南谷別院月山
(27)南谷別院湯殿山
(28)酒田
(29)酒田
(30)象潟
(31)象潟

(一) 日光路
2年0月0日
2021年08月19日
2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日
2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日
2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日
2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日
2年0月0日

2年0月0日

2年0月0日
(32)文月や 六日も常の 夜には似ず
(33)荒海や 佐渡に横たふ 天の河
(34)一家に 遊女も寝たり 萩と月
(35)早稲の香や 分入右は 有磯海
(36)塚も動け 我泣声は 秋の風
(37)秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
(38)あかあかと 日はつれなくも 秋の風
(39)しをらしき 名や小松吹く 萩すゝき
(40)むざんやな 甲の下の きりぎりす
(41)石山の 石より白し 秋の風
(42)山中や 菊はたをらぬ 湯の匂
(43)今日よりや 書付消さん 笠の露
(44)庭掃て 出ばや寺に 散ちる柳
(45)物書て 扇引さく 余波哉
(46)月清し 遊行の持てる 砂の上
(47)名月や 北国日和 定なき
(48)寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋
(49)浪の間や 小貝にまじる 萩の塵
(50)蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ
(32)直江津
(33)出雲崎
(34)市振
(35)俱利伽羅峠付近
(36)金沢
(37)金沢
(38)金沢~小松
(39)小松
(40)小松多太神社
(41)小松那谷寺
(42)山中温泉
(43)山中温泉
(44)大聖寺全昌寺
(45)松岡天龍寺
(46)敦賀気比神宮
(47)敦賀
(48)敦賀色ヶ浜
(49)敦賀色ヶ浜
(50)大垣


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路





日光路
(1)江戸深川
(2)江戸千住
(3)日光
(4)裏みの滝
(5)黒羽光明寺
(6)黒羽雲巌寺
(7)那須殺生石
(8)芦野遊行柳
(9)須賀川
(10)須賀川

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路

日光路
(9)須賀川
(10)須賀川
(11)信夫.文知摺
(12)飯坂医王寺
(13)白石~岩沼
(14)岩沼武隈の松
(15)仙台
(16)平泉高館
(17)平泉中尊寺

森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」
日光路
 18)堺田
 19)尾花沢
 20)尾花沢
 21)尾花沢
 22)立石寺
 23)大石田
 24)羽黒 南谷本坊
 25)南谷別院 羽黒山
 26)南谷別院 月山
 27)南谷別院 湯殿山
 28)酒田
 29)酒田
 30)象潟
 31)象潟


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路


日光路
  32)直江津
  33)出雲崎
  34)市振
  35)俱利伽羅峠付近
  36)金沢
  37)金沢
  38)金沢~小松
  39)小松
  40)小松 多太神社
  41)小松 那谷寺
  42)山中温泉
  43)山中温泉
  44)大聖寺 全昌寺
  45)松岡 天龍寺
  46)敦賀 気比神宮
  47)敦賀
  48)敦賀 色ヶ浜
  49)敦賀色ヶ浜
  50)大垣

森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」
おくのほそ道    出典: Wikipedia

概要
元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。
おくのほそ道は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵出発し....行く春や鳥啼魚の目は泪.....船に乗り千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となった。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。 ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残す。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。
4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所については現在でも論が分かれている。その後に芭蕉の弟子素龍清書した柿衞本・西村本がある。
出版経緯
西村本の外題「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。 この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増刷され広まったため版本は多く残る。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。1938年(昭和13年)に曾良本が発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本の存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本の発見とされた中尾本の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。
江戸旅立ち
3月  元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」
3月27日
旅たち 明け方、採荼庵より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。矢立の初め「行く春や 鳥なき魚の 目は泪」
4月  4月1日 日光「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
4月4日 黒羽 光明寺 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪
4月5日 雲巌寺栃木県大田原市に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」
4月9日 栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。「夏山に 足駄を拝む 首途哉」
4月19日 那須温泉神社 殺生石 栃木県那須町の温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」
4月20日 白河の関「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」
5月  5月4日 多賀城 壺の碑を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。
5月9日 松島 芭蕉は美観に感動したあまり「いづれの人か筆をふるひ詞ことばを尽くさむ」と自ら句作せず、曾良の句を文末に置いた「松嶋や 鶴に身をかれほとゝぎす」曾良
5月13日 平泉 藤原3代の跡を訪ね「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。「夏草やつはものどもが夢のあと」「五月雨の 降り残してや 光堂」光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂は見ていないとされる。
5月14日 尿前の関 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」
5月17日 尾花沢 旧知の豪商、鈴木清風を訪ねる。「涼しさを 我宿にして ねまる也」「這出よ かひやが下の ひきの声」「まゆはきを おもかげにして べにの花」
5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
5月29日 新庄 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。五月雨を あつめて早し 最上川
6月  6月5日 出羽三山 羽黒山「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」 6月6日 月山「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」 6月7日 湯殿山「語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな」
6月10日 鶴岡にて。「珍しや 山をいで羽の 初茄子び」
6月14日 酒田にて。「暑き日を 海にいれたり 最上川」「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」
6月16日 象潟きさがたは松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象泻は憾むうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり」と形容した。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」西施は中国春秋時代の美女の名。「汐越 鶴はぎぬれて 海涼し」
7月  7月4日 越後 出雲崎 いずもざきでの句。「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
7月13日 市振の関 親不知おやしらずの難所を越えて市振いちぶりの宿に泊まる。「ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」
7月14日 越中 那古の浦 数しらぬ川を渡り終えて。「わせの香や 分入右は 有磯海ありそうみ」
7月15日 金沢(陽暦では8月29日)から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。江戸を発って以来、ほぼ四ヶ月。曾良は体調勝れず。急遽、立花北枝が供となる。「塚も動け 我泣聲わがなくこえは 秋の風」「秋すゝし 手毎にむけや 瓜天茄うりなすび」当地を後にしつつ途中の吟 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
7月25日~27日小松. 山中温泉から戻り8月6日~7日懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」
7月26日 加賀 片山津 『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
7月27日から8月5日 山中温泉 大垣を目前に安堵したか八泊和泉屋に宿「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に」
「行行ゆきゆきて たふれ伏ふすとも 萩の原」曾良と書き置たり。「今日よりや 書付消さん 笠の露」
8月  8月5日 小松 那谷寺 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。「石山の 石より白し 秋の風」
8月7日 大聖寺 熊谷山全昌寺 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。「庭掃て出でばや寺にちるやなぎ」「終宵よもすがら秋風聞やうらの山」曾良
8月9日 越前 吉崎「この一首にて数景尽たり」蓮如ゆかり吉崎御坊の地。「終宵よもすがら 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」8月10日 丸岡 天龍寺 金沢から供とした立花北枝とここで別れる。  「物書て 扇引さく 余波哉」
8月14日、夕方、敦賀に到着。仲哀天皇の御廟である氣比神宮に夜参する。美しい月夜であった。遊行二世上人のお砂持ちの故事にちなんで。「月清し 遊行のもてる 砂の上」
8月15日、北国の日和はあいにくで、雨が降り、十五夜の名月は見れず。「名月や ほっこく日和 定めなき」
8月16日、西行の歌にもある「ますほの小貝」を拾おうと、船で色ヶ浜へ向かう。「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月  9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句「はまぐりの ふたみにわかれ 行く秋ぞ」
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