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3回目の東京街歩き。日本橋から両国〜東京スカイツリー〜向島・四つ木方面を歩く。
最初は江戸三十三ヶ所札所めぐりをかねて日本橋・馬喰町駅からスタート。


(江戸名所図絵/馬喰町)

     小伝馬町・大安楽寺             十思公園 吉田松陰終焉の地       



江戸通りを小伝馬町へ。小伝馬町交差点を右折してすぐ、左側に五番札所・大安楽寺がある。 大安楽寺は地下鉄小伝馬町の真上にあり、時代劇などでたびたび登場する伝馬町牢屋敷処刑場跡に建てられた。そこはかの松下村塾を開設した吉田松陰もかってそこに投獄され前の十思公園あたりの場所で処刑され終焉の地碑が建っている。

境内の小伝馬町牢獄跡石碑
伝馬町牢屋敷
出典:Wikipedia
江戸時代の刑法には現在の懲役や禁固に類する処罰が原則として存在せず、伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設である。
所在地は日本橋小伝馬町(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)一帯に設置され、2618坪(約8639平方メートル)の広さがあった。常盤橋外に牢屋敷にあたる施設が設けられたのは天正年間。それが慶長年間に小伝馬町に移って来たようである。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用された。周辺は土手で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。高野長英や吉田松陰らも収容されていた。
伝馬町牢屋敷跡である十思公園内の時の鐘。日本橋石町に設置されていたこの鐘が鳴ると共に処刑が執行された。
牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人〜80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。囚人を収容する牢獄は東牢と西牢で分けられ、また身分によって収容される牢獄が区別されており、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、医師、山伏が収容されていた。また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容するため、ほかの牢より設備は良かったようである。大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者による有宿者(人別帳に記載されている者)への悪影響を避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者、西牢には無宿者を収容し、安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。女性は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。収容者の総数は大体300〜400人程度だったようである。

小伝馬町交差点に戻り人形町通りを水天宮方面に向かう。
堀留町を過ぎ10分程で人形町交差点。その先の甘酒横町手前に人形町大観音寺がひっそり建っている。お百度石よこの石段を上がりお参りする。



大観音先が甘酒横町交差点でその少し先に、初産の娘に腹帯を送った水天宮がある。


甘酒横町交差点を左に折れて浜町公園に向かう。 人形町からこの一帯はTBSドラマ『新参者』が撮影された場所であっちこっちに登場した店や旧跡があり、撮影に使われた『ゆうま』という雑貨店の前を通り写真に収める。



TBSドラマ≪新参者≫に登場した『からくり櫓』と雑貨店『ゆうま』 

明治座横を通って浜町公園へ。 l公園でゆっくりお昼を食べ一休み。
ここはあの唄の浜町河岸辺りだ。

『明治一代女』

♪浮いた浮いたと 浜町河岸に浮かれ柳の 恥かしや人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする♪   




浜町公園から新大橋通りに出て、新大橋から両国橋へ向かって隅田川テラスを歩いてみる。
隅田川花火はここの少し上流のようだがウオーキングやジョギングする人が行きかっていた。 



時々行き交う観光船はすずなりの乗客。 震災後は暗いニュースばかりの昨今、東京スカイツリー見物を兼ねた一躍人気観光地になり東京下町が活気づいて嬉しい。


下総と武蔵(千葉と東京)の二つの国に架かったから両国橋、両国花火が見てとれる。


このあたりから見る隅田川花火はどんな感じだろう?
すぐ近くだからさぞすごい人だろうなと思う。


遊歩道を進み、首都高速道路の下で隅田川テラスも終わりになっている。
コンクリートの土手を上がって直ぐ左一の橋を渡り両国に入る。
まもなく右手に折れると回向院の裏に出た。 おそらく東京スカイツリーや開催中の大相撲五月場所見物を兼ねた観光客で境内は沢山の参詣客でにぎわっていた。


 回向院について
  
日本一の無縁寺の誕生
 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
 無縁寺・回向院は一方、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。

 回向院の歴史はこのように見ると一見隆盛一途をたどったかのように受け取られがちですが、当院自体も度重なる大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、大正の大震災、更には第二次大戦下の大空襲などによって、幾度か存亡の危機に立たされたのです。しかし、その時その時の歴代住職は檀信徒の浄信にささえられ、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切ることが出来ました。その根本は、申すまでもなく、御仏の御加護、万霊のお力によるのであり、開祖法然上人、また開山上人に対する報恩の念のひとしお深くされる由縁です

時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。
     ねずみ小僧の墓↓
                                     『力塚』↑
回向院境内で勧進相撲が初めて行われたのは明和5年(1768)。
やがて天保4年(1833)より春秋2回の興行の定場所となり、明治42年の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続いた。力塚の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したもので、新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、大相撲と回向院のつながりを示す象徴になっている。


嘉永2年(1849)11月  回向院で開催された本場所 錦絵

立派な仏像のある回向院本堂をお参り。

回向院正面を出て裏手近く、かの本所松坂町『吉良邸跡』に行く。
途中、本場所開催中で国技館に向かうお相撲さんに出くわす。
(帰って調べると時津風部屋の時天空関だった)「頑張ってください」と声を掛けると微笑んで通り過ぎて行った。

元禄赤穂事件
江戸時代中期に発生した赤穂浪士による吉良上野介及びその家人の殺害事件。
元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播磨赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家旗本・吉良上野介に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶ。浅野長矩は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となった。遺臣である大石内蔵助以下、赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日(1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した一連の事件。

吉良邸討ち入り。葛飾北斎画

吉良邸は往時は2550坪の広さだったが、現在は小さな公園となっていて、団体さんが入ってくると狭い境内は人でいっぱいになった。


吉良邸から回向院前を両国国技館へ。 東京街歩き(3)後編へ⇒

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