1880年(明治13)春季、日本レースクラブによる記念すべき初開催が根岸競馬場で施行されました。同開催には「The Mikado’s Vase
Race」治政府の外交政策と密接な関係にありました。政財界要人は欧米の慣習である競馬と親睦を図ることで、競馬場は社交場としての役割を果たしました。さらに明治天皇の行幸は、根岸や上野(不忍池)をはじめ、全国各地の競馬施設や馬産地など50回以上を数え、天皇自ら日本の近代化を積極的にアピールしました。一方、根岸競馬場は居留地内という治外法権が適用されたため、日本の刑法で禁止されている賭けが当初から公然と行われ、1888年(明治21)秋季には現在のような主催者による馬券の発売を開始しました。この売上げが、それまで経済力のある内外の会員と明治政府の援助にすがっていた同クラブに貯蓄をもたらしました。この財政基盤の確立は、他の競馬場が解散するなか、オーストラリアから洋種馬を輸入するなど、独自の発展を遂げ永く続く日本競馬界のリーダーとしての地位を保証することになりました。1906年(明治39)12月になると馬券発売が黙許され、翌年から全国に競馬ブームがおとずれました。
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