セカンドライフ シニアの旅 団塊世代KenとMaryのNO-SIDE 

2018年10~11月 東欧/中東8ヶ国周遊

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2018年10月29日 クロアチア/ドブロブニク
飛行機 列車・電車 バス.タクシー フェリー船 徒歩 ホテル
10月29日
Croatia/Split
クロアチア/ドブロブニク
長距離バスターミナル
(LIBERTAS DUBROVNIK)
バス終点ピレ門前へ
Dubrovnik Hotel
Hilton Imperial
ドブロブニク旧市街

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「アドリア海の真珠/ドブロブニク」旧市街「プラツァ大通り」

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アドリア海の真珠「ドブロブニク」へ4時間のバス旅
Split発8:00~12:00Dubrovnik到着予定 
Splitバスターミナルからドブロブニクへ。バス料金は二人で240kn(4160円)ネット予約済
途中クロアチアの一部にせり出しているボスニアヘルツェゴビナのネウムという町を通過する為、入国&出国パスポートコントロールを受ける。車内でパスポートを集めに来て座ったまま待つ。所要20~30分で完了。

ボスニアヘルツェゴビナ国境でパスポートコントロール(入国&出国審査)
スプリットを出て5時間、国境通過の渋滞があって予定より1時間遅れ
13;00にドブロブニク郊外の長距離バスターミナルに到着。スプリットを一緒に出た中国&韓国カップルも下車。
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busチケット
市内へ路線バスに乗っていくので、バスチケット1回券を購入する。12knクーナ(\200)、車内で買うと15kn(\260)。
旧市街ピレ門行き路線はA1番バス。
ちょっと待って市内行きの10番バスが来て乗車。乗車時チケットを運転席横のカードリーダーに差込んで打刻し乗車する。途中から乗客が増えてきて満員になって所要約20分ほどで旧市街入口のピレ門前に到着した。
旧市街ピレ門バス停で下車すると、左前方に今日の宿「 Dubrovnik Hotel Hilton Imperial」の建物が見える。

Dubrovnik Hotel Hilton Imperial 
チェックイン時間は午後2時~それよりだいぶ前に着いたがフロントへ。
気持ちよく早めのチェックインをしてくれた。パスポート&カードを提示、ホテルの説明を受ける。途中「アップグレードいたしました」と言っていた、予約したよりいい部屋にしてくれたのだろうか。
只今部屋を準備しておりますので少しお待ちくださいと言われソファに座って待つ。
10分ほど待って、チェックイン受付してくれた女性から部屋の用意ができましたと声をかけられる。

アップグレードされた部屋
ベルパーソン(客室係)に案内された部屋は3階角部屋のジュニアスイートルーム!
部屋は3つに分かれ、入るとクローゼットのある着替え部屋があり、その先にアドリア海が一望の大窓付きバスルームとトイレ、奥の寝室は三方が窓で一つは専用テラスに出られるドアー窓、ツインベッドルームにソファと机がついた広い寝室で、テラスに出るとドブロブニク旧市街~アドリア海が一望できる。
専用テラスは両端の角部屋だけについている。 
EXラウンジが利用できる中で最安プランを予約したのにありがたい。

正面入口上に残された『Grandh Hotel Imperia』ロゴl
Dubrovnik Hilton Imperialは創業120年を誇る「旧グランドホテルインペリアル」を買収改装した。歴史ある旧ホテルに敬意を表したものか正面には旧ホテル名がそのまま表示されている。ドブロブニクは1991年~ユーゴスラビア崩壊に伴う民族紛争で戦場と化し、ヒルトン前進のGrandhHotelも砲撃により甚大な被害を受けた。
1999年Ground Hotel Imperialの頃民族紛争ホテルも被災
荷物を整理してドブロブニク街歩きへ出発。
ホテル内の庭園通路を抜けると旧市街へのメインゲートのピレ門前に出られる。

旧市街入口 ピレ門
城壁に囲まれたドブロブニク旧市街は3ヵ所の入り口がある。
メインゲート「ピレ門」が最寄りの入り口。門の上にはドブロブニクの守護神「聖ブラホ」像が出迎えている。門をくぐると旧市街のメインロード「プラツァ通り」

メインストリート「プラツァ通り」
門から旧市街に入ってすぐ左にフランシスコ会修道院、右には1438年イタリア人職人により建造された「オノフリオの大噴水」がある。12㌔離れた水源からもたらされる貴重な水は今でも飲料水として利用されていて観光客もペットボトルに汲む姿が見られる。

「オノフリオの大噴水」
噴水前からまっすぐ伸びるメインストリート「プラツァ通り」の突き当り左にスポンザ宮殿、
宮殿1667年度ドブロブニク大地震では壊滅的な被害の中、倒壊を免れ当時の姿を留めている。
「プラツァ通り」は、お土産物、レストラン、カフェ、ブティックが並び、大通りの左手側は急傾斜の細い路地が迷路となって城壁に向かって上っている。
「プラツァ通り」の突き当りルジャ広場を右に折れるとすぐ左が旧総督邸(現歴史博物館)正面はドブロヴニク聖母被昇天大聖堂。

総督邸前の劇作家
マリン・ドルジッチ像

グンドリッチ広場/青空市場が開かれる

聖ヴラホ教会
散歩から帰って、ホテルのエグゼクティブラウンジが利用できるので、お昼の休憩。
昼過ぎで誰もいないEXルームで、用意されているケーキ・チョコレート・クッキー・果物と飲物をいただきゆっくり休憩する。
部屋にもどりに戻りお風呂に入る。少し昼寝して、夕方もう一度クラブルームへ。
夜は世界各地のアルコール、ワイン、ビールが飲み放題で、軽食も用意されて、生ハムにワインが美味しかった。
Hilton Ex/Lounge Menu
部屋に戻ると夕方使ったバスタオルやアメニティが新しくなっていて、ベッドの上にクロアチアの銘菓クラッシュ(KRAS)のチョコレートが置かれていた。気遣いはありがたいが無断で部屋に入られるのはどうかなと思う。

ドブロブニクの一日目は終わる
 今日一日の歩行数は4648歩。
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10月30日
Dubrovnik
2日目
Dubrovnik Hotel
Hilton Imperial
終日ドブロブニク散策

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  クロアチア/ドブロブニク2日目

テラスから旧市街と逆側の眺め
朝食は一階レストランで。ごはんみそ汁(もどき)が用意されていた。
10月30日 ドブロブニク二日目は朝から快晴。今日は一日中ドブロブニク市街を歩き周る予定。
出発はホテルを出て旧市街へはピレ門から入って。
城壁の中に入るとすぐの「オノフリオの大噴水」前にでて、昨日と同じメインストリート「プラツァ通り」を進む。
今日は大通りから左側の丘の上に石段を上がって行ってみようと思う。

城壁内側の古い家並み
大通りから左にそれると急な石段が上に向かって続いている。
石段途中にも間貸しのアパート民宿がいっぱい。
こんなところに泊まると荷物を持って宿に着くまでには相当苦労しそう。

急な石段の両側にはB&Bがいっぱい
石段を進み上がって行くとドブロブニク旧市街を囲む城壁にぶつかる。
城壁を右に折れて壁に沿って古い家並みの道をを抜けて歩くとプレチェ門の上に出る。
城壁に囲まれた旧市街の東側の入口、レベリン要塞に隣接するプロチェ門
プロチェ門から レベリン要塞の橋
ケーブルカー乗り場には行列が出来ていた。うちは乗らずに歩いて山頂を目指す。
スルジ山、中腹からの眺め。沖合の島はドブロブニクのリゾート/ロクロム島
ケーブルカーに乗らず歩く人も結構いた。この辺りの住宅街は下から車道があってS字に登り坂を車がたくさん走っている。
スルジ山頂上が先に見えた8合目くらいだろうか、景色は充分堪能したので、この辺で大きく迂回して帰ることにする。石段を下り途中のお店を覗きながら「プラツァ通り」に戻ってくる。

今日10月30日の「プラツァ大通り」↑

1991年紛争当時の「プラツァ大通り」↑
1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」ともいわれる美しい町並みを誇り、それまで観光客で賑わっていたドブロヴニクも、1991年から1992年にかけて続いた、ユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲され、砲撃により多大な損害をこうむっている。

奥からピレ門方向の「プラツァ大通り」↑
10月30日、ドブロブニク街歩きも二日間でしっかり満喫して終わった。
下から見上げるともみの木の先端にマイルーム223号室が見える。
散歩かえりに今日も1F奥のクラブルームで休憩。
少し疲れたので部屋に戻ってシャワーを浴び昼寝。  
夕方起き急にドブロブニク夜の街の景色が見たくなって最後の夜の街にでる。 

ピレ門から入る
石造りのオールドタウンの夜は昼と全く違う風情。
「プラツァ大通り」は昼と違って静かで落ち着いていい。
突き当りのルジェ広場

総督邸前

ルジェ広場「オノフリオの小噴水」
総督邸と大聖堂

グンドリッチ広場

ピレ門から城外へ

旧市街バス乗り場ロータリー

ロビーを上がって一階左がエレベーターホール、右がcafe その先にEXLounge
ホテルに戻って今夜もEXラウンジへ。今夜は沢山の客で賑やかに満席だった。
昨夜会った日本人の奥さんご夫婦と今夜も一緒になり、挨拶を交わして席に着く。

オリーブオイルをかけたこんがり焦げ目のトーストに生ハムを乗せて食べる。
クロアチアワインと相まってとても美味しい。
たこやマグロの海鮮サラダもあった。 夕食替わりに充分利用させてもらった。
ドブロブニクの滞在も今夜で終わり。部屋にもどりテラスに座って眺めにゆっくり浸る。
明日10月31日
Dubrovnikから

ボスニアヘルツェゴビナMostarへ

テラスでドブロブニク最後の夜
今日一日の歩行数は12198歩。
明日はクロアチア国境を越え、ユーゴスラビアから独立した1992年から1995年まで続いた激しい内戦の傷跡の残る、ボスニアヘルツェゴビナの地方都市
明日は「モスタル」へ
クロアチア/スプリット ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル
セカンドライフ シニアの旅 団塊世代KenとMaryのNO-SIDE 

2018年10~11月 東欧/中東8ヶ国周遊

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アラブ首長国連邦 クロアチア ボスニアヘルツェゴビナ ハンガリー マケドニア ブルガリア トルコ
2018年10月31日 ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル
飛行機 列車・電車 バス.タクシー フェリー船 徒歩 ホテル
10月31日
Dubrovnikから
ボスニアヘルツェゴビナMostarへ
モスタル
BusTerminal
モスタル/ホテル
Villa Hum
モスタル
オールドタウン散策
Hotel Villa Hum

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ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル『古い橋/スタリモスト』

16世紀に造られた橋も1993年の紛争でクロアチア兵に破壊された


戦禍で被災したモスタルのランドマーク/『古い橋.スタリモスト』市内の書店にて

Dubrovnik
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10月31日 8日目 ドブロブニクから4か国目
ボスニアヘルツェゴビナ/モスタルへ
10月31日
DubrovnikからMostarへ
ボスニアヘルツェゴビナ
モスタルへ
10月31日朝7:30 Dubrovnik Hotel Hilton Imperial 朝食
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朝食後 ドブロブニクホテルを9時チェックアウト。
ホテル前のピレ門バス停から10番バスに乗ってドブロブニク・バスターミナルへ。
ドブロブニク市街は朝の渋滞、30分以上もかかってやっとバスターミナルに着く。
予約したバスは先日滞在したクロアチア/ザグレブ行で、途中のオプセンという所で下車して、モスタル行に乗換える予定。
出発してまもなくフランジョ・トゥジマン大橋を渡り、30分程でクロアチアとボスニアヘルツェゴビナの国境に到着、クロアチア出国、ボスニアヘルツェゴビナ入国のパスポートコントロール(出入国審査)を受ける。
ここではバスに乗ったままドライバーが全員のパスポートを集めボスニア側で返却された。
クロアチアとボスニアヘルツェゴビナの国境
クロアチア出国、ボスニアヘルツェゴビナ入国のパスポートコントロール(出入国審査)
クロアチアとボスニアヘルツェゴビナ
国境の村オプゼンで路頭に迷う!

11:40モスタル行きに乗換る予定のオプゼンという町に到着した。何もない広い野原の真ん中、こんな所で降りて乗り換えるのかと不安な気持ちで下車する。そのバスのドライバーにモスタルまでのチケットを見せて、モスタル行のバスはこのバス停に来るのか聞くと「I don't know」とにべもい返事を残して走り去ってしまった。乗ってきたバスの小さく遠ざかる後姿を見送りながら、本当にモスタル行のバスはここにくるのだろうか?不安がよぎる。その不安は的中した。道端で果物を売るおじさんに聞くと遠くを指さしてあっちというジェスチャー、モスタル行のバスはオプゼンでも他のバス停らしい。
Opuzen mag バス停
↓乗換
Opuzen バス停

Opuzen mag bus stop  近くのHotel Merlot
近くに食料品店があったので、もう一つの方のバス停の場所を聞いてみたが言葉が全く通じない。ニコニコ手を振るばかり、お店の横のホテルでトイレを借り、出てくるとカフェでお茶してるカップルが...二人にバス停の地図を見せて聞いてみると男性が判ったらしく地図に場所を印してくれた。歩いて行ける距離でないらしい、少し考えていると男性が「車で送ってあげるついてきなさい」と下の駐車場へ向かって歩き始める。信じられないことに驚いたが後をついていき、急いでMを呼んで車に乗りこみ、車は走りだして5分くらいでもう一つのOpuzenバス停まで着いた。急なことでお礼をと失礼と思ったがポッケのお札を渡そうとするが固辞したまま走り去ってしまった。車を見送りながら心の中で深く感謝する。
2のバス停地図  Opuzenmag停とOpuzen停

車に乗せてもらって着いたOpuzen村のもう一つの停留所
12:30予定のバスは13時近くなっても来ない。

途方に暮れた表情でひたすら立って待つ.....  
すると一台の車が急ブレーキを踏んですぐ前に停車する。運転席を見ると高齢のおじさんで、窓から顔を出してどこへ行くのか風に聞いている。モスタル行くと言うとが乗りなさいと手招き。えっと思ったが人相が悪い人に見えないし、え~いっと、狭い座席に荷物を押し込めて二人で乗りこむとすぐに走り始めた。運転しながらなにやら喋っているのだがクロアチア語で全くが解らない、ただ、自分たちが これからモスタルに行く事だけは分かったようで、10~15分くらい走って賑やかな町の交差点に着くと停車して、モスタルはここを真っ直ぐで自分は左に行くので降りなさいと、言っているようだ! えっと思ったがしょうがない、お礼を言って車を降りる。降りた町はメトコヴィチ(Metkovic)という所だった。モスタルまで乗せてくれるもの思ってあまりの親切に感激していたのだが、そうではなかった。 
オプゼン(opuzen)~メトコヴィチ(Metkovic)地図
メトコヴィチ(Metkovic)
メトコヴィチ(Metkovic)バスターミナル
車を降ろされて通りすがりの女性にモスタル行のバス乗り場を尋ねる、向こうを指さし自分もそこに行くのでついて来てと言ってるみたいだ。半信半疑だったがどうもバス停は近くにあるらしい。微かな希望を感じながらついて行くと立派なバスターナミルだった。
バスターミナルのチケット売り場で予約票を見せると13:40発のモスタル行きが間もなく来るのこのチケットでOKですと嬉しい言葉。メトコヴィチ(Metkovic)というこの町は、クロアチア南部ネレトヴァ川沿いにあってクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境の町だった。
親切なチケット売り場のおじさんが教えてくれた、1番 乗り場のベンチでバスを待つ。間もなくモスタル行のバスが到着。このバスだよとおじさんの笑顔に促されて乗車する。

この移動では、バス停まで乗せてくれた青年&そこからここまで乗せ照れた老人&バスターミナルに案内してくれたご婦人&そしてここのチケット売り場のおじさんなど、
地獄に仏のような人達に救われた思い。

クロアチア国境近くのメトコヴィチ(Metkovic)バスターミナル
モスタルへ行くバスの中で白髪の奥さんからいろいろ話しかけられる。奥さんの家はモスタルにあって、スマホで家や家族の写真を見せてくれたり、家の場所はどの辺と地図を出して教えてくれたりした。今夜の宿を聞かれたのでモスタルの「Villa Hum」というと地図で探してバスターミナルからの道順を教えてくれた。奥さんは終点の少し前で下車していった。

バスで出会った親切な奥さん
無事ボスニアヘルツェゴビナのモスタルに到着。
ドブロブニクを出てから途中の村ではバスの乗換に苦労したが無事モスタルに到着。
予定では14:00の到着だったが15:30に到着した。だいぶ遠回りしたようだったが、思ったほどは時間にロスもなく到着した。

Mostar BusTerminal
地図を確認しながら、ホテルへの道は大通りでなく旧市街を抜け『古い橋.スタリ・モスト』を渡る道を選び歩き始める。

バスターミナル前の大通りからホテルに歩く
ローカル色豊かな商店街を進んで『古い橋.スタリ・モスト』に向かって行く。古い橋を渡りまっすぐ進むとホテル前の通りに出るのを地図で確認しながら商店街を進む。
途中の書店には、焼け落ちた『古い橋.スタリ・モスト』の戦災当時の写真が掲示されていた。
ひどい内戦があったんだと改めて思う。
10月31日モスタル
BusTerminal
モスタル/ホテル
Villa Hum
モスタル
オールドタウン散策
Hotel Villa Hum
旧市街に入ると石畳というより石ころを並べたような道でトランクを引くのが大変だった。地図では道の状態まではわからないかったが、車道を歩けばよかったのだが進むしかない。
大きなトランクをガラガラゴロゴロ引いて歩く。
周りの人達から同情なのか軽蔑なのかジロジロ見られながら『古い橋.スタリ・モスト』をやっと超える。

『古い橋.スタリ・モスト』上からの眺め
オールドタウンを抜けてやっと車の走る大通りに出た。
今夜の宿は「B&B Villa Hum」に到着 
気さくなご主人が出迎えてくれる。一泊33.3€(4300円)とにかく安いがBookingの評価は9.7と最高の評価を受けている。チェックインの際 支払いはクロアチア通貨でも受けてくれて、クロアチア通貨全額と残りはユーロで支払う。

ツインルームを予約していたが広いファミリールームに入れてくれた
モスタルは今日一日だけなので荷物を置いてさっそく街に出る。

ホテル近くの聖ペトロ教会
宿のご主人からおすすめレストランや観光名所をメモしてもらった地図をいただき、さっきスーツケースを引きながら歩いたばかりのオールドタウンへ向かう。
Mosutarオールドタウン
世界遺産『古い橋.スタリ・モスト』
オールドタウンの中心に架かる街の象徴『古い橋.スタリ・モスト』は16世紀の橋で市内を分けて流れるネレトヴァ川に架かっている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中1993年11月9日午前3時にクロアチア系の民兵によって破壊された。その後の復興計画で2004年6月23日に復興工事が完了した。2005年にボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録された。

町の書店にかかっていた当時の写真⇧    
今から僅か25年前、1990年代のこの町は悲惨な戦争真っただ中で、それほど前の時代にあったことと思えない、今は嘘のように平和な夜の街である。
ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル・オールドタウン
モスタルのレストランS'ADRVANへ。
トリップアドバイザーの評価の高かった店で、偶然宿のご主人もチェックイン後に地図で市内を説明しながらこのレストランをメモしてくれていた。

レストランS'ADRVAN

入口で、外の席か室内の席か聞かれたので、インドアを希望  店内一番奥の席に着く。
メニューは写真入りで肉料理2品とグラスワイン赤と白を注文

料理2品とワイン2杯で35BAM(2300円)
ゆっくり食事をして店を出る。
ホテルへ帰る道すがら暗闇から子供二人がまつわりついてくる。みすぼらしい服装で物乞いらしい、無視すればいいのだが、少しでもと思ったが小銭の持ち合わせがなく、Mがバッグの中に入れていたおやつの醤油味せんべいを上げると去っていった。後であの子たちは日本のせんべいを食べたら経験のない味にびっくりしたに違いない。
レストランで会計の際レシートに添えられていた絵葉書
10月31日モスタルはほんのひと時の短い滞在だった。
ホテルに帰り明日のサラエボ移動の準備をして寝る。   
今日一日の歩行数は12978歩。
11月01日
Mostarから
ボスニアヘルツェゴビナ
2都市目サラエボへ
モスタル
BusTerminal
サラエボ
BusTerminal

11月1日 ボスニアヘルツェゴビナ2都市目サラエボへ

11月1日朝 モスタル/ホテルVilla Hum
11月1日朝 7時に起き8時バスターミナルへ歩くつもりで、下に降りていくとご夫婦二人が起きて朝食を準備してくれていた。朝食はしないつもりでいたがご厚意を無にしてはと席に着急いでいただく。パンがとても美味しかったのでMがハムチーズ野菜でサンドイッチを二つ作って持っていく。

戦争の傷跡が残る建物があちこちに残ったまま。
ご主人がBulevar大通りをまっすぐ行って、ERホテルが見えたらそこを右折し橋を渡った所がバスターミナルだと教えてくれ、その通りに歩く。
砲撃や銃痕も生々しいまま
モスタル市内を左右に分けて流れるネレトバ川。
橋を渡った先がモスタル/バスターミナルだ。
昨日ドブロブニクから苦労の末に着いたモスタルバスターミナル。
今日はここから首都/サラエボに向かう。ボスニアヘルツェゴビナの国内移動。
モスタルは子供の物乞いが多いまちで、このバスターミナルでも少年が寄ってきて小銭をたかられたが今日は無視。

バスは渓流の際を進む
9時発サラエボ行のバスは定刻に出発した。すぐに渓谷沿いの道路に出てきれいな眺めを見ながら進む。サラエボ着は11:35分予定。2時間半ほどのバス移動。
ここもネット予約していて料金は二人で21€(2700円ほど)
クロアチア/ドゥブロブニク ボスニアヘルツェゴビナ/サラエボ
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2018年10~11月 東欧/中東8ヶ国周遊

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サラエボ
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2018年11月01日 ボスニアヘルツェゴビナ/サラエボ
飛行機 列車・電車 バス.タクシー フェリー船 徒歩 ホテル
11月01日
ボスニアヘルツェゴビナ
サラエボへ移動
モスタル
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サラエボ
BusTerminal
Sarajevo
Hotel VIP

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サラエボのトラムは外観もカラーも多彩で面白い

Mostar
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オシム元サッカー
日本代表監督
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の街サラエボ
1992年4月5日から1996年2月29日まで続いた、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエボ包囲は、現代の戦争の中で最も長期にわたる都市包囲戦でその過程で12000人以上が殺害され、50000人以上が負傷したものと推測されそのほとんどは一般市民だった。

オシムさん(元日本代表監督)1941年5月6日~は、ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボ出身のサッカー選手、旧ユーゴスラビア代表の最後の監督で、日本でもジェフユナイテッド市原、日本代表で監督を歴任するなど、世界各国で豊富な指導歴を持つサッカー指導者。

サラエボ/バスターミナル

サラエボ/バスターミナル、トイレは1KM(65円)どこも同じ形
モスタルを出て2時間半ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボのバスターミナルに到着。ここは治安があまりよくないと聞いていたがお昼前でなにも問題なかった。
天気が下り坂なのでチケット売り場でキャリーバックを開けて雨具を用意する。
ホテルまでは地図では3.2㌔ほどあるが、戦争の痕跡が残る街の現在を見ながら歩いていこうと決めていた。

サラエボ包囲の頃の
ホリデイイン
1992年4月~1996年2月

ホリデイイン=現在はホテル.ホリデー(Hotel Holiday)
◆◇◆◇
ボスニア・
ヘルツェゴビナ紛争
Bosnian Warについて
BusTerminalを出て右に折れ大通りに出たところに、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時ただ1軒営業していたホテル「ホリデーインサラエボ」現在はホテル ホリデー(Hotel Holiday)が写真で見た姿のまましっかり立っている。世界中のジャーナリストがここに集結し、取材を続けていた。戦場カメラマンの宮嶋茂樹氏もその1人。
首都だけあって1990年代の紛争の爪痕はほとんど目に着かない。しかしここはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時の主戦場だった街なのだ。

1992-1996にサラエボ包囲された殺害された子供の記念碑
現在はこんなに平和な首都サラエボの街も、25年前ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時は戦場と化した街だ。
大通りを進むと「永遠の炎」
第2次世界大戦の犠牲者を慰霊するため、ナチス・ドイツの占領から解放された1年後の1946年4月6日に建てられた記念碑。1884年サラエボ冬季五輪の聖火から採火された。

「永遠の炎」
「永遠の炎」を更に進むと「イエスの聖心大聖堂」が見えてくる。
「イエスの聖心大聖堂」はボスニア・ヘルツェゴビナで最大のカトリック教会の大聖堂。サラエボ大聖堂とも称されている。

サラエボ大聖堂「イエスの聖心大聖堂」
サラエボ大聖堂前の大通りを進みスーパーKonzumを左に折れる坂道を上がりHotel Vipに到着する。

Hotel Vip
チェックインして部屋は2階の1号室。
明日朝8:30に空港への送迎をお願いする。
きれいなビジネスホテルという感じ。冷蔵庫の飲み物は全てフリーとサービスが良い。
◆◇◆◇
ボスニア/ヘルツェゴビナ紛争
Bosnian War
荷物を置いてすぐサラエボ街歩き開始。

サラエボは、1914年第一次世界大戦が開戦のきっかけとなるオーストリア皇帝が暗殺されたサラエボ事件、 平和の祭典1984年冬季オリンピックが開催されたにも関らず、その数年先の1992年~1996年にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激しい戦場となったり、波乱の歴史を持つ街。
バスターミナルから歩いて来た時は裏側から見ていた「イエスの聖心大聖堂」
「イエスの聖心大聖堂」から街の中心を流れるミリャツカ川へ出る。

サラエボ事件の現場「ラテン橋」

サラエボ事件 新聞挿絵
ミリャツカ川上流に架かるサラエボ事件の現場「ラテン橋」が見えてくる。

ラテン橋たもとサラエボ博物館1878-1918に展示されている写真
サラエボ事件の現場となった場所ミリャツカ川に架かるラテン橋
1914年この橋の北で、オーストリア/ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった。橋はユーゴスラビアの愛国主義を記念し、一時プリンツィプ橋と呼ばれたがユーゴスラビア崩壊後にかつてのラテン橋に戻された。

ミリャツカ川に架かるラテン橋
メインストリート・バシュチャルシヤ
ラテン橋のたもと
ミリャツカ川から旧市街へ。まだ紛争の跡を残した建物も残っている。
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ボスニア/ヘルツェゴビナ紛争
Bosnian War








 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
戦闘はユーゴスラビアからの独立後間もない、装備の十分ではないボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍と、独立に反対するセルビア人を支えるユーゴスラビア人民軍およびスルプスカ共和国軍の間で行われ1992年後半から1993年前半にかけてが、サラエボ包囲がもっとも激しかった期間であった。
サラエボ包囲は、ボスニアヘルツェゴビナ紛争で発生した包囲戦で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボがボスニア・ヘルツェゴビナ国内のセルビア人勢力によって一方的に設立された事実上の国家であるスルプスカ共和国と、ユーゴスラビア人民軍によって包囲されたもので1992年4月5日から1996年2月29日に至るまで継続した。
1990年代初期の暗黒と荒廃の時代以降、サラエボでは復興開発が進められている。2004年の時点で、紛争による建造物の損害はほぼ修復されるか再建された。新しい建設計画も進められ、サラエボでは急速な経済発展を経験した。
サラエボのメインストリート・バシュチャルシヤ。中央の塔はサラエボのシンボル「セビリ」と呼ばれる水飲み場、広場からオールドタウンへと続いている。
Hotel VIPフリードリンクにはビール2、清涼飲料水4、水4が入っていた。

フリードリンク
サラエボ/Hotel Vip

今日一日の歩行数は14448歩。
11月02日

Sarajevo Hotel VIP
ボスニアヘルツェゴビナ
サラエボ国際空港
ハンガリー/ブダペスト
リスト.フェレンツ国際空港
11月2日8:30分朝食後にチェックアウト。
ホテルの車でサラエボ空港へ送ってもらう。
サラエボ空港でWizzAirチェックイン。LCCだけに機内持ち込み荷物は一人1個までと制限が厳しい。
ボスニアヘルツェゴビナ/サラエボ空港
サラエボ空港11:15分発~12:20分ブタペスト到着予定。
ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル ハンガリー/ブダペスト
ボスニアヘルツェゴビナ紛争
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ドバイ
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モスタル
Sarajevo
サラエボ
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ブタペスト
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スコピエ
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ソフィア
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 By Wikipedia
ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦
 1)背景 紛争の始まり 
1991年に勃発したユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きの中で、1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。当時、同国には約430万人が住んでいたが、そのうち44%がボシュニャク人、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在していた。ボシュニャク人とクロアチア人が独立を推進したのに対し、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化。独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。 およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。また、犠牲者たちの中には悲劇的な死を遂げた恋人同士が存在しており、ロミオとジュリエットに似た境遇を持つことから「サラエボのロミオとジュリエット」と呼称された。

 2)紛争の始まり
1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。このユーゴ解体の流れを契機とし、ボシュニャク人およびクロアチア人はボスニア・ヘルツェゴビナの独立を模索するが、地域人口の一部を占めるセルビア人はこれに反対。クロアチアに倣い、セルビア人は自治区を設立して独立の動きに対抗しようとしたが、ボシュニャク人が主導権を持つボスニア・ヘルツェゴビナ政府はこれを認めなかったため、両者間での武力衝突が生じるようになった。 このような状況の中、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はセルビア人の反発を無視して1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行った。セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、住民投票は90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。

 3)92-93年 セルビア人勢力の優勢
紛争の開始直後はユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。また、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は必ずしも一枚岩ではなく、緊密な連携に欠けていた。クロアチア人とセルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ分割交渉をきっかけに、クロアチア人勢力とボシュニャク人勢力との間で武力衝突が勃発した(クロアチア.ボスニア戦争)。セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧し、首都サラエヴォを包囲。劣勢に立たされたクロアチア人勢力はヘルツェゴビナ西部の確保に専念し、ボシュニャク人勢力はサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む国土の残り3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビア人勢力を支援するユーゴへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年の終わりまでセルビア人勢力の優位は保たれた。 1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。

 
 4)94年-95年春 対セルビア人勢力包囲網の構築とその破綻
94年に入ると、アメリカの介入によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を締結。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによるセルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、北大西洋条約機構によるセルビア人勢力への小規模な空爆が実施された。また、8月5日にセルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃したことに対し、NATOによる再度の空爆が行われた。さらに秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。 これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めにはセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。ボシュニャク人勢力を支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという対抗手段に出る。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥った。事態は混迷の度合いを増すが、ジミー・カーター元アメリカ大統領の仲介により、1995年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。

 5)戦闘の終結
1995年春、停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた。セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOは5月から7月にかけてセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対抗した。また、セルビア人勢力による人質作戦への対応のため、NATOは国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立した。 同年8月28日には非戦闘地域に指定されていたサラエヴォ中央市場にセルビア人勢力が砲撃を行い、市民37人が死亡する事件が発生。これを受けてNATOはデリバリット・フォース作戦を発動し、8月30日から9月14日までこれまでにない大規模空爆を行った。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。

 6)民族浄化
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。 手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。 従軍可能年齢にある男性は各地で虐殺や強制収容の対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的な強姦を繰り返され、妊娠後中絶が不可能な段階になってから解放することによって、出産せざるを得ないよう仕向けた。これは家父長的な男権社会の影響が残っていたボスニア・ヘルツェゴビナの村社会では、女性が強姦によって(異民族の子を)妊娠・出産したということは、一族にとって非常な不名誉と見なされるため、これによってコミュニティを破壊させ、効果的に異民族を排除できると考えられたためである。

 
7)和平合意
戦闘中もボスニア3分割案などによって和平が模索されたが、NATOによるセルビア側への攻撃を含んだ介入によって停戦となった。1995年10月、アメリカ合衆国のクリントン大統領が内戦の当事国間による平和協定妥結を発表した。そして11月に、アメリカ・デイトンのライト・パターソン空軍基地に内戦の当事国であるボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビアの各大統領が集まり、43ヶ月間にわたった内戦終結のための平和協定に仮調印した。12月、NATOは6万人のボスニア和平実施部隊派遣を承認し、12月14日にはパリで和平が公式に合意・調印されて戦闘は終息した。 合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成すこととなった。 領土配分は、スルプスカ共和国が約49%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約51%とされ、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど高度に分権化され。

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