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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は50句~詠まれた場所を辿る
おくのほそ道(2)

2021年4月 一回目
深川 4月4日
千住 4月4日
日光 4月5日
日光裏みの滝 4月6日
黒羽光明寺 4月7日
黒羽雲巌寺 4月7日
那須野 4月7日
遊行柳 4月7日
那須 殺生石 4月8日
須賀川 4月9日






おくのほそ道
芭蕉が門弟 曾良を伴ない おくの細道に旅立ったのは、今から332年前1689年5月16日(旧暦3月27日) 芭蕉46歳、五代将軍徳川綱吉「生類憐れみの令」が施行されていた時代の江戸.深川から。二人は大垣までの2400㌔を143日かけ歩いた。同じ場所に数日滞在することもあり一日40㌔以上歩くことも多かった、わらじ履き、雨具は質素なわらの蓑と菅笠、満足な地図や勿論電話もなく、143日で2400㌔踏破するという驚異の健脚。歩くのが目的でなく各地で数々の名句を生み出していった姿に畏敬の念を抱きながら同じ道を辿りたい。

2021年4月4日 第一日目は早朝5時家を出て JR越中島駅から芭蕉江戸の旧居『採荼庵跡』へ向かう。
おくの細道 芭蕉が最初に詠んだ句
2021年4月4日
東京都江東区深川1-8付近
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家



『おくのほそ道』の旅へ出発した江東区深川「採荼庵跡」

芭蕉は採荼庵 裏のこの辺りから船で千住へ向かった
草の戸も住替る代ぞひなの家  月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也 .....舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。元禄2年春芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとり芭蕉庵を引き払い深川からは船で遡上し千住に降り立つ

船を千住で降り、矢立初めとして詠んだ句。
2021年4月4日
(2)足立区千住橋戸町31
千住大橋公園
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
行(ゆく)春や 鳥啼(とりなき)魚の 目は泪(なみだ)


芭蕉は多くの人々に見送られた心境を、人のみならず、鳥や魚までが別れを惜しんでいると描写してみせたのである。時に芭蕉45歳。50年の人生における最晩年の旅立ちであった。

越中島駅~採荼庵跡~芭蕉記念館~素盞雄神社~大橋公園(矢立初めの地)~北千住駅~草加(東武伊勢崎線)~草加松原公園(旧日光街道)~獨協大学前~久喜
北千住/旧日光街道 宿場町通り

北千住駅

草加駅
草加松原 旧日光街道

久喜スーパーホテル

久喜駅

室の八島(大神神社)

東武鉄道新今市駅
東照宮/日光杉並木街道

日光/神橋



日光ホテル春茂登

日光 元禄2年4月1日(1689年5月19日)、出発して3日後に詠まれた句
2021年4月5日
(3) 栃木県 日光
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
あらたふと 青葉若葉の 日の光
日光東照宮

見ざる言わざる聞かざる 眠り猫
昇り龍と降り龍

日光路
日光路
日光路
日光路


森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」

2021年4月6日
(4)栃木県 日光裏みの滝
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや 夏(げ)のはじめ

日光/裏みの滝



2021年4月6日
(5)栃木県 黒羽光明寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
夏山に あしだを拝む 首途哉 (かどでかな)
2021年4月9日
(6)栃木県 黒羽雲巌寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
木啄(きつつきも)庵 (いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち)

木啄(きつつきも)庵 (いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち)

雲巌寺
2021年4月8日
(7) 栃木県 那須温泉神社 殺生石
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす

那須 温泉神社

那須 殺生石

殺生石 横芭蕉句碑『石の香や 夏草赤く 露暑し』

那須湯本温泉・鹿の湯

鹿の湯 HPより

那須湯本温泉・鹿の湯は手前湯船から、41℃/42℃/43℃/44℃/46℃/48℃の6つの浴槽 入浴料500円

2021年4月8日
(8)栃木県 遊行柳
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
田一枚 植(うゑ)てたち去る 柳かな

田一枚 植てたち去る 柳かな

遊行柳
遊行柳から白河の関跡へ11.7㌔。8時半~から3時間半かけ歩く。
 
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日光路
日光路
日光路
日光路
白河の関跡からJR東北本線白坂駅へ8㌔歩いて、午後2時半到着。
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おくのほそ道 日光路
福島須賀川~岩手平泉中尊寺
2021年4月9日
(9)福島県 須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた

JR須賀川
2021年4月9日
(10)福島県 須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗

世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗

須賀川
2021年月日
(11)信夫
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)
2021年月日
(12)飯坂医王寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)
2021年月日
(13)白石~岩沼
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
笠島は いづこさ 月のぬかり道
2021年月日
(14)岩沼武隈の松
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
桜より 松はふたきを みつきごし
2021年月日
(15)仙台
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒
2021年月日
(16)平泉高館
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
夏草や つはものどもが 夢の跡
2021年月日
(17)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
さみだれの ふり残してや 光堂

日光路
  9)須賀川
 10)須賀川
 11)信夫
 12)飯坂 医王寺
 13)白石~岩沼
 14)岩沼 武隈の松
 15)仙台
 16)平泉 高館
 17)平泉 中尊寺




森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」

日光路
日光路
日光路
日光路
蕪村画 逸翁美術館 大きい画像⇒
おくのほそ道    出典: Wikipedia
元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。
概要
おくのほそ道は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵出発し....行く春や鳥啼魚の目は泪.....船に乗り千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となった。 ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。 ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残す。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。 ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。
4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所については現在でも論が分かれている。その後に芭蕉の弟子素龍清書した柿衞本・西村本がある。この柿衞本・西村本は共に素龍清書本とも呼ばれる
出版経緯
西村本の外題「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。 この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増刷され広まったため版本は多く残る。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。
1938年(昭和13年)に曾良本が発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本の存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本の発見とされた中尾本の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。
江戸旅立ち  
元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」
3月27日 明け方、採荼庵より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。矢立の初め「行く春や 鳥なき魚の 目は泪」
4月1日 日光「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
4月4日 黒羽 光明寺 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪
4月5日 栃木県大田原市の雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」
4月9日 栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。「夏山に 足駄を拝む 首途哉」
4月19日 那須 温泉神社 殺生石  栃木県那須町の温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」
4月20日 白河の関「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」
5月4日 多賀城 壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。
5月9日 松島 芭蕉は美観に感動したあまり「いづれの人か筆をふるひ詞ことばを尽くさむ」と自ら句作せず、曾良の句を文末に置いた「松嶋や 鶴に身をかれほとゝぎす」曾良
5月13日 平泉  藤原3代の跡を訪ね「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。「夏草やつはものどもが夢のあと」「五月雨の 降り残してや 光堂」光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂は見ていないとされる。
5月14日 尿前の関 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」
5月17日 尾花沢 旧知の豪商、鈴木清風を訪ねる。「涼しさを 我宿にして ねまる也」「這出よ かひやが下の ひきの声」「まゆはきを おもかげにして べにの花」
5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
5月29日 新庄 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。五月雨を あつめて早し 最上川
6月5日 出羽三山 羽黒山「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」 6月6日 月山「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」 6月7日 湯殿山「語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな」
6月10日 鶴岡にて。「珍しや 山をいで羽の 初茄子び」
6月14日 酒田にて。「暑き日を 海にいれたり 最上川」「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」
6月16日 象潟きさがたは松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象泻は憾むうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり」と形容した。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」西施は中国春秋時代の美女の名。「汐越 鶴はぎぬれて 海涼し」
7月4日 越後 出雲崎 いずもざきでの句。「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
7月13日 市振の関 親不知おやしらずの難所を越えて市振いちぶりの宿に泊まる。「ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」
7月14日 越中 那古の浦 数しらぬ川を渡り終えて。「わせの香や 分入右は 有磯海ありそうみ」
7月15日 金沢(陽暦では8月29日)から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。江戸を発って以来、ほぼ四ヶ月。曾良は体調勝れず。急遽、立花北枝が供となる。「塚も動け 我泣聲わがなくこえは 秋の風」「秋すゝし 手毎にむけや 瓜天茄うりなすび」当地を後にしつつ途中の吟 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
7月25日から27日 小松  山中温泉から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」
7月26日 加賀 片山津 『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
7月27日から8月5日 山中温泉 大垣を目前に安堵したか八泊和泉屋に宿「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に」
「行行ゆきゆきて たふれ伏ふすとも 萩の原」曾良と書き置たり。「今日よりや 書付消さん 笠の露」
8月5日 小松 那谷寺 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。「石山の 石より白し 秋の風」
8月7日 大聖寺 熊谷山全昌寺 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。「庭掃て出でばや寺にちるやなぎ」「終宵よもすがら秋風聞やうらの山」曾良
8月9日 越前 吉崎「この一首にて数景尽たり」 蓮如ゆかり吉崎御坊の地。「終宵よもすがら 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」  
8月10日 丸岡 天龍寺 金沢から供とした立花北枝とここで別れる。  「物書て 扇引さく 余波哉」
8月14日、夕方、敦賀に到着。仲哀天皇の御廟である氣比神宮に夜参する。美しい月夜であった。遊行二世上人のお砂持ちの故事にちなんで。「月清し 遊行のもてる 砂の上」
8月15日、北国の日和はあいにくで、雨が降り、十五夜の名月は見れず。「名月や ほっこく日和 定めなき」
8月16日、西行の歌にもある「ますほの小貝」を拾おうと、船で色ヶ浜へ向かう。「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句「はまぐりの ふたみにわかれ 行く秋ぞ」
松尾芭蕉略年譜
江戸.西暦元号 年齢 事柄
1644(正保元) 1 伊賀国の松尾与左衛門の二男として生まれる。
1656(明暦2) 13 父与左衛門が亡くなる。
1662(寛文2) 19 藤堂新七郎家の若殿良忠、俳号蝉吟に仕える。
京都の北村季吟に俳諧を学ぶ。宗房を俳号として使う「春やこし年や行けん小晦日」
1666(寛文6) 23 良忠が25歳で亡くなり、奉公をやめる。
1672(寛文12) 29 『貝おほひ』を上野天満宮(上野天神宮)に奉納する。
このころ、江戸へ行く。「きてもみよ甚兵が羽織花衣」
1674(延宝2) 31 季吟から名前の入った『埋木』を授けられる。
1675(延宝3) 32 西山宗因を歓迎する句会に出席。このころから俳号「桃青」を使い始める。
1677(延宝5) 34 俳諧の宗匠となる。
1680(延宝8) 37 宗匠をやめて、深川の庵にうつる。
1682(天和2) 39 江戸の大火で庵が焼け、甲斐国の高山糜塒を頼る。
1683(天和3) 40 母が故郷で亡くなる。新しい芭蕉庵へ入る。
1684(貞享元) 41 「野ざらし紀行」の旅にでる「野ざらしを心に風のしむ身かな」母の墓参りで伊賀へ帰る。名古屋の連衆と「冬の日」の歌仙の句会「狂句木枯しの身は竹斎に似たるかな」
1685(貞享2) 42 伊賀から奈良・京都、大津・名古屋・木曾路を通って江戸へ帰る。
1686(貞享3) 43 「古池や蛙飛び込む水の音」の句ができる。
1687(貞享4) 44 曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる(「鹿島紀行」の旅)
「笈の小文」の旅へ出立し、名古屋を経て伊賀へ到着。「旧里や臍の緒に泣く年の暮」
1688(元禄元) 45 藤堂良忠の子良長に招かれる「様々のこと思ひ出す桜かな」
伊勢神宮へ参詣、万菊丸(杜国)と吉野へ向かう。
越人と一緒に名古屋から信州更科へ「更科紀行」の旅に出る。
1689(元禄2) 46 曾良を伴い「おくのほそ道」の旅へ出て、大垣に到着。
1690(元禄3) 47 大津の幻住庵に入る。
1691(元禄4) 48 伊賀での句「山里は万歳おそし梅の花」が詠まれる。
『猿蓑』(初しぐれ猿も小蓑をほしげなり)が刊行される。
1692(元禄5) 49 三度目の芭蕉庵へ入る。
1694(元禄7) 51 『おくのほそ道』清書本が完成。伊賀に帰郷、奈良を経て大阪の地で病気、亡くなる。
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