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タダオ/フランス帰国前のお別れ旅行
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2014年04月21日
羽田空港
那覇空港
恩納村・琉球村
万座毛
名護ビーチプラザ
3年間の日本滞在を終え7月帰国するTadao家族と初めての沖縄へお別れ旅行。
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JTBの『おトクに喜瀬ビーチステイ』プラン

今のTadaoは...保育園に通う完全な日本人。でも9月からマルセイユの小学校に入学してフランス人として生きて行くのだろう。
なにか不憫に感ずる。

2014年4月21日羽田空港10:45発

2014年4月21日羽田空港/10:45発JAL0909便で那覇へ。 2:3:2席の並び席。
昨夜タダオは興奮してなかなか眠らなくて困ったとMihoが言っていた。
家族旅行は子供にとってなによりも幸せで楽しいもので喜んでいる様子を聞き嬉しかった。

JTBの『おトクに喜瀬ビーチステイ』プラン

レンタカー営業所までは那覇空港到着ロビーを出て送迎バスに乗る。レンタカー会社の送迎バスの待合所は長い列で、しばらくしてきたバスに乗ると直ぐに女性担当者からレンタル手続きの説明があり書類が配られる。その書類に必要事項を書き込み、営業所に着くとカウンターに進み、書類を提出、車に案内と、流れ作業で効率いい。その手際の良さは、沖縄には電車が走っていないせいかレンタカーの利用がとても多いだけのことはあると感じた。

車の運転は久しぶりだ。しかし走り出すと直ぐに感覚が戻り、快適にカーナビの通り沖縄の道を走る。
市内を抜けて一般道58号を北へ向かう。 嘉手納米軍基地横を通り、恩納村・琉球村に到着。



JTBの旅行には何カ所か無料で入場出来る施設があって琉球村もそのうちの一つ。
恩納村/琉球村

琉球村の古民家・旧大城家でクレープと沖縄茶をいただきながら生の三線を聞く。


NHK連ドラ「ちゅらさん」の中で主人公恵里と弟恵達がアルバイトをしているシーンにも琉球村が登場。


琉球牛にひかせて石臼でさとうきびを絞り黒砂糖を作っている。近づくと牛が巨体を擦り寄せて来て甘えるのが可愛いかった。

16:00~園内中央広場で 絵巻行列「道ジュネー」のショータイムが始まる。


琉球空手、古武道
沖縄古来の拳法「手(ティー)」と中国唐の拳法が融合し発展して生まれた空手。身の回りの道具を使った棒術や船をこぐ道具のカイ(エーク)を使用した古武道も。


チョンダラーと獅子
迫力のある舞にどこかユーモラスな動きで観客を魅了する獅子舞と、チョンダラー(京太郎)とのやり取りが面白い。



道ジュネー後半は大太鼓をもちいてエイサーを踊り、見物客をまじえながらのカチャーシー(踊り)になる。



琉球王朝の尚敬王が「一万人が座れる広い原っぱ(万毛)」と評したことに由来する、沖縄海岸国定公園・万座毛
岸壁には象の鼻の形の岩が付いている。まわった先は万座ビーチ。



夕方5時過ぎて喜瀬ビーチのホテル『喜瀬ビーチパレス』チェックイン。


ホテルは喜瀬ビーチに建つ。


ホテル前の喜瀬ビーチは遠浅の穏やかな砂浜。


ホテルから歩いてすぐの沖縄・居酒屋おBAR



ソーキ(リブ)煮込み炙り焼き          テビチ(豚足)のプリプリ

ゴーヤチャンプル(みそ味で昔ながらの)     ミルフィーユとんかつ(薄切り豚肉数枚重ね)

     ソーメンちゃんぷる                 名護そばの焼きソバ オムレツ仕立て

海ぶどう                                      沖縄おつまみ


夜の海風が心地いい。  潮騒を聞きながら...


朝食は10階レストランで沖縄食材のバイキング。


今日は沖縄本島の北側を一周ドライブ。


道の駅許田でおやつと美ら海水族館の割引入場券を購入。


美ら海水族館


水量7500㎥の世界最大級水槽『黒潮の海』

《沖縄美ら海水族館》

「チュらうみ」とは沖縄の方言で「清〔きよ〕ら(しい)海」という意味。
2005年(平成17年)にアメリカのジョージア水族館が開館されるまでは世界最大の水族館であった。
水族館内には水量7,500m³の世界最大級の大水槽『黒潮の海』を設置するほか、総展示槽数は77槽。
「沖縄の海との出会い」をコンセプトに、イノー(沖縄の方言でサンゴ礁の縁の浅瀬のこと)、珊瑚礁、黒潮の海、深海と様々な海の生物を紹介している。
なかでも世界で初めて長期飼育に成功したジンベエザメやナンヨウマンタが人気の展示となっており、ジンベエザメは水族館のキャラクターともなっている。また、「サメ博士の部屋」では、サメについての様々な知識を学ぶことができる他、併設されている「危険ザメの海」水槽には、沖縄近海にも生息する危険ザメの一種であるオオメジロザメやイタチザメなどのサメ数種類も飼育されている。
飼育数は約740種21,000点。隣接施設として「イルカラグーン」「オキちゃん劇場」(イルカショー)「ウミガメ館」「マナティー館」がある。

「黒潮の海」水槽

水族館の1階から2階を貫く「黒潮の海」水槽は、長さ35m×幅27m、深さ10m、水量7,500m³で世界でも有数の大きさを誇る。観客と大水槽を隔てるアクリルパネルは高さ8.2m、幅22.5m、厚さ60cm、パネル総重量は135トンあり、ギネスブック公認の世界最大のアクリルパネルとなっていたが、2008年オープンしたドバイ水族館のアクリルパネルに記録を更新された。

この「黒潮の海」水槽には、ジンベエザメをはじめとする大型のサメやエイなどが回遊し、来館者の視界いっぱいに水槽が広がる雄大な光景を見せている。ジンベエザメは餌を採る際に口を水面に向け垂直の姿勢をとるが、成熟すれば全長9メートルに達するといわれるジンベエザメの尾が水底をこすらないように水槽の深さは10mとされたのである。この大水槽では給餌解説が行われるほか、上部から水槽を観察する「黒潮探検(水上観覧コース)」や水槽に隣接したカフェ「オーシャンブルー」などもある。

美ら海水族館からエメラルドビーチ先『かぬたん』で沖縄そば・昼食。


今帰仁村を抜けワルミ大橋を渡り屋我地島、古宇利大橋から古宇利島に入り、島を一周する。


古宇利島から名護市の『ナゴパイナップルパーク』に寄る。


名護・パイナップルパーク



タダオが一番喜んだ、無人電動カート「パイナップル号」。
ヤシ並木やとっくりヤシのトンネル、不思議な花アナナス、ヘゴのジャングルなどトロピカルムードいっぱいの園内を一周。電動カートを降りるとパイナップル食べ放題の部屋。



楽しい一日だったが沖縄らしい青空が見れなかったのは少し残念だった。
ホテルに戻り夕食は喜瀬ビーチパレス1Fの居酒屋『喜瀬のちんぼーら』で。





テラス席で食事をはじめたが、急な風雨で室内に移動する。


3日目の朝、今日はタダオ家族を残して先に帰る。
隣の部屋のタダオに別れを告げに行くとぐずってサヨナラを言わない。子供にも別れは淋しいもの。


沖縄に到着した日と同じ高速道路は通らず一般道路で東側・太平洋岸を那覇に向かって帰る。
喜瀬から宜野座、金武から太平洋沿岸の329線道路をうるま市~中城村と南下してお昼すぎ首里城公園に到着。

◇◇首里城(しゅりじょう、スイグスク)◇◇ 出典:Wikipedia
沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある。

《歴史・沿革》
首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。
1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある)。
太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。
戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。
1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤~黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。
1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。


守礼門(しゅれいもん)
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられている扁額(へんがく)には「守■之邦(しゅれいのくに)」と書かれている。「琉球は礼節を重んずる国である」という意味である。首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある代表的な門がこの「守礼門」である。中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されている。1527~55年(第二尚氏4代目尚清王代)にはじめて建立され、1933年(昭和8)に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもので、2000年の記念紙幣2,000円の絵柄にもなっている。
首里城郭内へ入る第一の正門。「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられた。首里城は外郭と内郭により二重に囲まれているが、ここは外郭の最初の門で、別名「あまえ御門(あまえうじょう)」ともいう。「あまえ」とは琉球の古語で、「喜ばしいこと」を意味する。創建は1477~1500年頃(尚真王代)で、沖縄戦で焼失したが、1974年(昭和49)に復元された。門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せてある。このスタイルは後述する久慶門(きゅうけいもん)、継世門(けいせいもん)、等と同じである。門の両側には「シーサー」という一対の石造の獅子像がある。

歓会門(かんかいもん)

瑞泉門(ずいせんもん)
「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。門の手前右側にある湧水が「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられた。ここは第二の門で、別名「ひかわ御門(うじょう)」ともいう。
「樋(ひ)」は川や泉から水を導く長い管、または溝、あるいは屋根の雨水を受けて地上に流す装置(掛け樋)等のことをさす。一方、沖縄で井戸や泉のことをすべて川(カワまたはカー)と表現する。「ひかわ」とは、こうした表現を合わせた言葉で、フィージャーガーとも発音する。 創建は1470年頃で沖縄戦で焼失したが、1992年(平成4)に復元された。門の両脇には一対の石獅子(いしじし)が並んでいる。これも魔除けの意味で置かれている。
「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る最後の門である。1562年には石造欄干(せきぞうらんかん)が完成したという記録があることから創建はそれ以前である。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年(平成4)に外観が復元された。現在は公園管理のための施設として利用されている。別名「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいう。向かって左側(北側)は「納殿(なでん)」で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側(南側)は「君誇(きみほこり)」で城内の儀式のとき等に使われた。3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)等限られた身分の高い人だけが通れる門である。それ以外の役人は両側の門から入城した。

奉神門(ほうしんもん)

正殿(せいでん)
正殿(せいでん)
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式といってよいでしょう。
首里城正殿の壁等の彩色塗装には、桐油が塗られています。なお、下地の一部は漆です。
御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。年間を通じて様々な儀式が行われた広場である。御庭には(せん)【敷き瓦】というタイル状のものが敷かれているが、この色違いの列は、儀式のさいに諸官が位の順に立ち並ぶ目印の役割をもっていた。中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者【冊封使(さっぽうし)】等限られた人だけが通ることを許された。

御庭(うなー)

首里城から南城市(旧知念村)にある沖縄の世界遺産の一つ斎場御嶽へ。
沖縄の多くのグスク(城)及び遺跡の中から、首里城、中城城跡、座喜味城跡、勝連城跡、今帰仁城跡と、その関連遺産の4つの遺物、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽が世界遺産に登録されている。

斎場御嶽(せーふぁうたき)
沖縄県南城市(旧知念村)にある史跡。15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされる。「せーふぁ」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ほどの意味となり、これは通称で正式な神名は「君ガ嶽、主ガ嶽ノイビ」という。敷地内には首里城内の施設名と同じ拝所が複数ある。 3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)には「チョウノハナ(京のはな)」という最も格の高い拝所があり、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨するとされる。 なお、三庫理からは王国開闢にまつわる最高聖地とされている久高島を遥拝することができるが、これについては史書には記述がない。これは、近世になって三庫理の岩壁の一角が崩れたことによるもので、かつての三庫理は三方を岩壁に囲まれた空間だった。文字通り王国最高の御嶽とされ、国家の最高神職である聞得大君が管理した。聞得大君の就任儀式「御新下り(おあらおり)」が行われた御嶽でもある。かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口(うじょーぐち)を越えて進入することは許されず、国王であっても、御門口より先に入るには袂の合わせを女装に改める必要があったという。2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。また、国の史跡、沖縄県指定名勝にも指定されており、御嶽内で出土した陶磁器と勾玉などは国の重要文化財(考古資料)に指定されている。周囲の森林は沖縄本島南部に於けるもっとも優れた森林の一つである。本島中南部は第二次世界大戦において被害を受け、それ以前の状態を残した場所がほとんどないが、この地域は戦災を免れた。
                          《三庫裏》

二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分は、それぞれが拝所となっていて、東側には海の彼方に久高島を望むことができる。


斎場御嶽
から沖縄最後の訪問地『ひめゆりの塔』へ


「ひめゆりの塔」が建っている位置は旧陸軍病院第三外科が撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれている。ここには、ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、通信兵、住民などおよそ100名がいた。解散命令後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、80名あまりが亡くなった。




「ひめゆりの塔」で手を合わせお参りする。
沖縄の日程はすべて終わり那覇空港へ向かう。
帰りの便はANA20:40発最終便なのでチェックインカウンターで早い便への変更をお願いしてみる。
通常できないが親切に16:40の便に変更をしてくれる。深夜の帰宅になるところ本当に助かった。


タダオ家族は2日後に帰京する。
帰ってから送られてきた琉球伝統衣装を着た記念写真。

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