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 2017年 12月8日  皇居~上野公園 東京街歩き
 
Ken & Mary's Second Life
|『皇居乾通り.秋の一般公開』見学~上野公園まで街歩き |


  ◆皇居乾通りの秋の一般公開の案内・注意事項 (By.宮内庁)
◆皇居乾通りの秋の一般公開2017  平成29年 秋季皇居乾通り一般公開  日程:2017年12月2日(土)~12月10日(日) 
入門時間:10:00~14:30  退出時間:乾門15:30、東御苑16:00  場所:皇居乾通り・坂下門
[事前予約・申込・入場料金について]
・皇居乾通りの一般公開・通り抜けは事前予約・申込は必要ありません。当日直接、皇居「坂下門」におでかけください。入場料金は無料。
[駐停車禁止・駐車場について]
・皇居に駐車場はありません。・皇居周辺道路は駐停車禁止です。路上駐車や道路上での乗降車はできません。
[入・退場について]
・坂下門の入門時間は10:00~14:30です。 混雑のため最寄の駅から坂下門まで徒歩で30分近くかかる場合があります。
・乾門からの退出時間は15:30まで、東御苑から退出する場合は16:00までです。
・西桔橋から皇居東御苑に出た場合は、大手門、平川門、北桔橋門からの退出となります。
[手荷物検査・ボディチェックについて]
・坂下門から入門する際に、警察官等による手荷物検査と金属探知機のボディチェックが行われます。
・大きなバッグを持っていくと時間がかかりますので、できるだけ荷物は少なく、バッグも小さい方がスムーズに検査が終わります。
[トイレ]・トイレは皇居前広場に設置される仮設トイレ、またはボディチェック後の仮設トイレで済ませておくことをオススメします。・例年、東京駅・大手町などの駅のトイレ、及び皇居周辺の商業施設のトイレも混雑します。
[飲食・喫煙について]

・飲食、飲酒、喫煙をすることはできません。・売店・自動販売機などはありません。
[靴・履物について]
・皇居坂下門から乾門の間はなだらかな上り坂で、約750メートルの距離があります。 皇居内は坂道、砂利の箇所などがあり、多くの人で混雑しますので歩きやすい靴での参加が推奨されています。 ハイヒール、下駄ばきは避けたほうが無難です。
[服装等について]
・服装は特に決まりはありませんが、仮装など皇居乾通り一般公開の参入者としてふさわしくない服装で入場することはできません。
[写真撮影について]
・写真撮影をすることは可能です。・三脚、脚立、自己撮影用器具(自撮り棒)等の使用はできません。
[その他注意事項]
・動物・ペットを同伴しての入場、自転車等での入場はできません。・ドローンなどの持ち込み・飛行・撮影はできません。
2017年 12月8日
坂下門
皇居乾通り
皇居門

徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。   

  神田明神   神田明神HPより

社伝によると、天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。その後、天慶の乱で活躍された平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。
明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。
昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。
戦後以降、結婚式場・明神会館など次々と境内の建造物が再建されていき、昭和51年に檜木造の隨神門が再建されるに及び、江戸時代に負けない神社の姿を取り戻しました。さらに「平成の御造替事業」が行なわれ、社殿の修復・塗替えや資料館の創建など境内整備が進められました。平成17年、神札授与所・参拝者控え所・休憩所を兼ね備えた鳳凰殿、氏子英霊をお祀りする祖霊社が建立されるなど、さらに境内整備が進められております。

皇居~上野動物園 約10㎞ 一日街歩き 終わり
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 2017年 12月   皇居~上野公園 東京街歩き
 
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