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 巣鴨お墓参りと東京・街歩き  2024年12月9日
都電/荒川線.今昔  
2024年12月9日 兄の命日は3月26日。毎年お墓参りはその時期にしていたが、今年は3月に体調を崩し入院.手術があって来れなかったが、やっと退院お墓参りに行く。
JR巣鴨駅
巣鴨とげぬき地蔵
巣鴨平和霊園
都電荒川線.庚申塚
都電荒川線.早稲田
漱石山房記念館
夏目漱石略年譜
東京メトロ.早稲田
JR高田馬場
JR品川駅
アトレ品川-atre-
12月9日 10:00 娘孫達とJR巣鴨駅改札口で待合せ。
巣鴨駅前の桜は、兄の命日頃は満開で きれいだが この季節、冬枯れで寂しい。
兄のお寺へ行く途中”おばあちゃんの原宿”巣鴨地蔵通りの「とげぬき地蔵さん」をお参りしていく。
とげぬき地蔵・高岩寺⇒
髙岩寺山門 紅白提灯
とげぬき地蔵(高岩寺)本堂脇にある「洗い観音」水を掛けて洗ったところが良くなる といわれている
とげぬき地蔵尊 由来.....髙岩寺HPより転載
 今より三百年ほど前、髙岩寺が上野屏風坂にあった頃の話である。
 正徳三年(一七一三)、江戸小石川に住む、武士で髙岩寺の檀徒、田付又四郎の妻は地蔵菩薩を篤く信仰していたが、出産後に重い病を得て床に臥し、手足は竹のようににやせ細ってしまった。医師の治療も甲斐がなく、妻も「実家に取り憑いた怨霊の仕業」とまでいい出すようであった。
 悲しんだ又四郎は、怨霊の悪行であるならば、妻が深く帰依する地蔵菩薩におすがりするほかはないと、毎日一心に祈願をつづけたところ、ある日の夜、不思議な出来事があった。
 又四郎の夢に一人の僧が現われ、「私のすがたを一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」という。又四郎がすぐにはできない、と答えると、「では印像を与えよう」といわれ夢からさめた。不思議な夢だと思いつつ、ふと枕もとを見ると、地蔵菩薩の尊影があらわれた小さな「霊印」があった。
 そこで又四郎はこの霊印を印肉にしめし、宝号を唱えつつ、紙片に一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、帰宅した。すると、夜に病床の妻が又四郎を呼び、「今、枕元に死魔が現れたが、お坊さんが、杖でつき出すのを見ました」というのであった。以後、重かった妻の病はみるみる快方に向い、無病になったという。   この霊験に感心し、又四郎から地蔵菩薩の「御影」を授かった西順という僧がいた。正徳五年のある日、西順が出入りする毛利家の屋敷で、女中があやまって口にくわえた針を飲みこんでしまった。そこで西順が懐中より御影を取り出し水で飲ませたところ、誤飲した針が、地蔵菩薩の尊影を貫いて出て来たという。以上は又四郎が、亨保十三年(一七二八)にみずから記し、霊印とともに献納された霊験記の抄録である。
 髙岩寺ではこの霊印を「本尊」として本堂・地蔵殿に祀り、和紙に霊印で印じた「御影」(おみかげ・おすがた)を広く参拝者等に授与している。御影は病を治し、針を抜いた本尊延命地蔵菩薩そのものであり、昼夜携帯し、あるいは体の痛いところ、よくなってほしいものに貼るなどしてもご利益があるという。いつしか「針抜き」は「とげ抜き」となり、針のみならず「心のとげ」やさまざまなとげを抜く地蔵菩薩として江戸中に広く知られるようになったのである。
とげぬき地蔵さんの裏手を抜けると”巣鴨平和霊園”はすぐ
兄と義姉お墓は”巣鴨平和霊園”の合葬墓に埋葬されている
合葬墓には賛否あるが、急逝した兄の残された家族が皆で見つけた お寺、その気持ちを尊重したい。
合葬墓に一緒に埋葬されている方々の命日.名前.戒名が張られている
入口にある富永一朗さんによる”平和祈念碑”
”平和祈念碑”は、戦争末期の昭和20年3月4日午前9時30分、巣鴨5丁目45番地の防空壕に直撃弾が投下され、伊藤淑子ちゃん(9歳)登美子ちゃん(5歳)恵美子ちゃん(2歳)の3人の幼い生命が一瞬の間に奪われた。その幼い子供をモチーフに、漫画家の富永一朗さんが、平和であり続けることを願って奉納した。寺内には富永一朗さんの円形墓がある。
巣鴨地蔵通り(旧中山道)に戻り、都営・荒川線の庚申塚駅へ向かう。
都電荒川線”庚申塚”駅は地蔵通りそ抜けた先にある。

(拡大図⇒)
”巣鴨庚申塚”は江戸時代中山道の宿場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人馬の世話もしていた。”巣鴨庚申塚”は広重の浮世絵にも描かれ、現在は庚申堂に猿田彦大神を合祀している。

都電荒川線「庚申塚」へ

安藤広重「巣鴨庚申の図」
駅名になっている「庚申塚」現在は”庚申堂”
停留場の名前になっている「庚申塚」は、昔のこの場所の地名で、その由来は停留場のすぐそばにある巣鴨猿田彦大神庚申堂。日本神話に登場する猿田彦大神をまつっているお堂で、ほこらに納められた庚申塔は、江戸時代の明暦の大火(1657年)後に建立されたといわれている。さらに地中には、それよりも古い1502年に造られた碑が埋められていると言い伝えられている。

早稲田を路面電車が走り始めたのは、東京市電の停留場ができた1918(大正7)年のこと。1930(昭和5)年には王子電気軌道の路線も早稲田を通るようになり、早稲田大学などに通うたくさんの学生が路面電車を利用するようになった。当時から、大学の周りには学生向けの下宿、飲食店、本屋さんなどが集まり、今につながる学生街ができていた。戦後、都電が最盛期を迎えるころになると、早稲田には、飯田橋や大手町を通って茅場町へ向かう15系統、大塚と王子を経て荒川車庫前へ向かう32系統、本郷、上野を通って隅田川の厩橋へ向かう39系統の3つの路線が走っていた。
1967(昭和42)年、自動車の普及や激しい道路渋滞など交通事情の変化の波を受けて都電の路線廃止が始まり、1968(昭和43)年には早稲田を走っていた3路線のうち15系統と39系統が廃止され、32系統、27系統と統合して現在の東京さくらトラムに生まれ変わった。
参照...さくら旅.
早稲田行き   1974年開業当時の"都電.荒川線"   三ノ輪行き
歴史ある庚申堂や巣鴨のとげぬき地蔵尊に近い庚申塚停留場は、東京さくらトラム(都電荒川線)でもっとも歴史のある停留場の一つ。
東京さくらトラム"都電荒川線"は昭和49年(1974年)10月1日、当時の27系統(三ノ輪橋~王子駅前)と32系統(荒川車庫前~早稲田)を統合して誕生した。

都電のはじまりは、1911(明治44)年に飛鳥山―大塚間を走った王子電気軌道の路面電車。この庚申塚停留場は王電の開業と同時に作られた停留場。しかも、開業した時から今までずっと名前が変わっていない。

東京に唯一残った都電荒川線 "庚申塚駅"から乗って、終点"早稲田駅"へ
都電荒川線・終点.早稲田駅に到着



都電荒川線・早稲田駅
2024年12月9日の都電・荒川線/早稲田駅
「都の西北」早稲田停留所で折返し 61年前の都電(1963年.諸河久氏撮影)
「早稲田大学校歌」
都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ



都電・早稲田駅から、漱石の終の棲家の跡地に建つ”漱石山房記念館”へ
  Google-map ⇒

”漱石山房”とは、夏目漱石が明治40年9月本郷から転居して、大正5年12月亡くなるまでの9年間を過ごした 終の棲家。
漱石山房記念館の前を通る ”漱石山房通り” は江戸時代の地図でも同じ場所に道があったことが確認できる。

”漱石山房通り”猫の案内サイン
長女の勤務先であった”新宿区立早稲田小学校”を通る。早稲田小学校は明治33年(1900年)開校なので、漱石が早稲田の家に越してきたときには開校していた。
標識も”吾輩の猫”が案内している
漱石山房記念館 早稲田駅からゆっくり歩いて20分ほどで”漱石山房記念館"に到着
「吾輩は猫である」には、我輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。
「硝子戸の中」の中でも、ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。
初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目の生涯は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった(中略)その後へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。

そんな様々な猫たちが、展示順路をご案内しています。
漱石山房記念館HPより転載
【漱石山房記念館】「《特別展》『三四郎』の正体 夏目漱石と小宮豊隆」を開催
(10/12~12/15)夏目漱石の弟子であり『三四郎』のモデルとされる小宮豊隆生誕140年を迎え《特別展》『三四郎』の正体 夏目漱石と小宮豊隆」開催
夏目漱石『三四郎』のモデルともされる小宮豊隆(1884-1966)は、福岡県仲津郡久富村(現京都郡みやこ町)に生まれ、県立豊津中学校(現県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校に進学しました。 明治38(1905)年、東京帝国大学文学部独文科に入学し、いとこの犬塚武夫がロンドン留学中の知り合いだった夏目漱石に在学中の保証人になってもらい、以後門下生として木曜会の常連となりました。
 漱石のもと、朝日文芸欄の編集などに携わり、漱石の没後も夏目家を支え、「漱石全集」の編纂を担当し、今日の「漱石全集」の形を作り上げました。 また、漱石山房に残されたままだった漱石書斎の蔵書を自らが館長を務めていた東北大学附属図書館に移管し、今日の東北大学コレクション「漱石文庫」の原型を作っています。現在、小宮豊隆は演劇評論家、文芸評論家として知られますが、『漱石の芸術』『夏目漱石』など、漱石に関する著作も有名です。本年、小宮豊隆生誕140年を迎え、夏目漱石と小宮豊隆との交流の軌跡、小宮の生涯と業績を各種の資料から探ります。
夏目漱石「三四郎」
初版(春陽堂.明治42年)
          公益財団法人新宿未来創造財団 小宮豊隆肖像 漱石全集編纂を終えて
(大正7年)(みやこ町歴史民俗博物館)
夏目金之助書簡 小宮豊隆宛て(明治39年11月9日)(みやこ町歴史民俗博物館「小宮豊隆資料」)
最晩年「漱石山房」書斎の漱石(1914年)
1階「漱石山房」にあった漱石の書斎を再現
漱石山房の玄関/ 上↑戦前  下↓現記念館
夏目漱石旧家で使用されていた、玄関
夏目 漱石......Wikipediaより転載
1867年2月9日(慶応3年1月5日)~1916年(大正5年)12月9日
小説家.英文学者。江戸牛込馬場下横町(現.新宿区喜久井町)出身。本名は夏目金之助。俳号は愚陀仏。
明治末期から大正初期にかけて活躍、言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像になった。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(現.東京大学)英文科卒業後、愛媛県松山.尋常中学校教師、熊本.第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。

漱石山房記念庭の「猫の墓」
  「此の下に稲妻起こる宵あらん」
明治41年9月『吾輩は猫である』のモデルにされた猫が死んだ。この句はその猫の墓標に漱石が書いたもの。
『永日小品』の中に「猫の墓」という一章があり、しだいに弱って死に至るまでの容態がくわしく描写されて、”稲妻”は夜の雷光でなく、猫の目の光の比喩として用いている。
破壊しは空襲で、漱石山房と共に焼失したが、その残片を再利用して、1953年に再興した。

猫が亡くなった際には、知人たちに猫の死亡を知らせる案内を送っており、漱石の猫への思いが感じられる。
左はその一つ、門下生の松根東洋城に宛てたネコの死亡通知」
『病気療養中だった猫が裏の物置のへっつい(かまど)の上で死んでいた、車屋に頼み箱に納めて裏庭に埋葬した、「三四郎」執筆中につき会葬には及ばない』
と書かれている。
夏目金之助(漱石)が門下生で俳人の松根東洋城に宛てたもの、明治41(1908)年9月14日付
夏目漱石の終焉の地は、当時とはうって変わった近代住宅の風景に囲まれていた。
孫のYちゃんが何度も滑り降りた、山房記念館裏の大きなすべり台
漱石山房記念館見学して、地下鉄.早稲田駅へ。
地下鉄から高田馬場でJRに乗換えて品川へ向かう
JR品川駅に到着。港南口を出た所にある”アトレ品川”へ
JR品川駅から港南口へすぐ前が”アトレ品川”
みんなで食事は”アトレ品川”4Fにある海鮮寿しトリトン(本店:北海道北見市) で
海鮮寿しトリトン、入口で少し待って奥のテーブル席へ
海鮮寿しトリトンは北海道北見が発祥のお寿司屋さん
評判通り、ネタが新鮮で大きく食べ応えがある
ゆっくり食事して、品川駅で逆方向に帰る子供たちと さよならする。
    巣鴨お墓参りと東京・街歩き
     終
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夏目漱石・略年譜
1867年(慶応3年)1月5日 - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたため、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたものの、すぐに連れ戻される。
1868年(明治元年)11月 - 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。  
1869年(明治2年) - 養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。
1870年(明治3年) - 種痘がもとで疱瘡を病み、顔に瘢痕(あばた)が残る[注釈 9]。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。
1874年(明治7年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(現・台東区立蔵前小学校)に入学。
1876年(明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。
1878年(明治11年)-2月 - 回覧雑誌に『正成論』を書く。10月 - 錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業。
1879年(明治12年) - 東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。
1881年(明治14年) - 1月 - 実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。 1883年(明治16年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。
1884年(明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。9月 - 大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校予科入学。
1885年(明治18年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
1886年(明治19年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
1887年(明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助がともに肺病のため死去。急性トラホームを患い、自宅に帰る。夏に初めての富士登山。
1888年(明治21年) -1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。7月 - 第一高等中学校予科を卒業。9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。
1889年(明治22年) -1月 -正岡子規と親交が始まり-子規の『七草集』の批評を書き初めて“漱石”の筆名を用いる。8月-友人らと房総を旅行後に紀行漢詩文集『木屑録』を残す。
1890年(明治23年) -7月 - 第一高等中学校本科を卒業。9月 - 帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。
1891年(明治24年) -7月 - 特待生となる。二度目の富士登山。12月 - 『方丈記』を英訳する。
1892年(明治25年) -4月 - 分家。北海道後志国岩内郡吹上町に転籍する徴兵を免れるためとの説がある。5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。
1893年(明治26年) -7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。10月-高等師範学校の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者、有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。
1894年(明治27年) -2月 - 結核の徴候があり、北里柴三郎の病院で検査を受ける(感染なし)。
1895年(明治28年) -4月 - 松山中学(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで 赴任。12月-貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と見合いをし、婚約成立。
1896年(明治29年) -4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。6月 - 中根鏡子と結婚。7月 - 教授となる。
1897年(明治30年)6月 - 実父・直克死去。   
1898年(明治31年)10月 - 俳句結社「紫溟吟社」の主宰になる。  1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。
1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)   1901年(明治34年)1月 - 次女・恒子誕生。  
1902年(明治35年)9月 - 正岡子規没。
1903年(明治36年) -4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。10月 - 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。
1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。  1905年(明治38年)1月 - 『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。12月 - 四女・愛子誕生。
1906年(明治39年)4月 - 『坊つちやん』を『ホトトギス』に発表。
1907年(明治40年)-1月『野分』を『ホトトギス』に発表。4月-教職を辞し朝日新聞社に入社、作家としての道を歩み始める。6月長男.純一誕生。『虞美人草』朝日新聞に連載-
1908年(明治41年)-1月『坑夫』( - 4月)、6月『文鳥』、7月『夢十夜』( - 8月)、9月『三四郎』( - 12月)を『朝日新聞』に連載。12月 - 次男・伸六誕生。
1909年(明治42年)3月-絶縁とされていた養父からまとまった金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。この経緯はのちの自伝的小説『道草』で話材とされている。
1910年(明治43年)-3月五女.雛子誕生。6月-胃潰瘍のため内幸町の長与胃腸病院に入院。8月-療養のため修善寺温泉で24日夜大吐血.一時危篤状態に陥る。長与病院に再入院
1911年(明治44年)-2月21日 -文部省からの文学博士号授与を辞退。8月- 朝日新聞社主催の講演会で明石-和歌山-大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し湯川胃腸病院に入院。
1911年(明治44年)-11月29日 - 五女・雛子、原因不明の突然死。のちの漱石の遺体解剖の遠因となる。
1913年(大正2年)-1月 - ひどいノイローゼが再発。3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に再転籍する。
1914年(大正3年)-4月 -『こゝろ』を『朝日新聞』に連載( - 8月)。11月 - 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
1915年(大正4年)-6月 -『道草』を『朝日新聞』に連載- 9月。11月-中村是公と湯ヶ原に遊ぶ。12月-芥川龍之介、久米正雄が門下に加わった。このころからリウマチに悩む。
1916年(大正5年)-1月 - リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。5月 - 『明暗』を『朝日新聞』に連載( - 12月)。
1916年(大正5年)-12月9日 - 午後7時前、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士。
     巣鴨庚申塚・由来記
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