中国周遊 2007年5月10日〜5月24日  
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2007年5月18日〜21日 杭州
2007.5.18
天津
北京


中国鉄路高速鉄道
中華人民共和国の鉄道向けに導入された高速鉄道車両である。愛称は、和諧号。後年、外国からの技術移転を基にライセンス生産されているが、中国政府は自主開発[1]と発表していた元中国鉄道部科学技術教育司長の周翊民が「自分の技術でないので問題が起きても解決できない。(時速 380 km での運転で事故が起きた場合の)結果の甚大さは想像もできない」と、中国の独自技術でない事を暴露していたことが報じられた。



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北京市  (中国語:北京市、英語:Beijing)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2018万(2011年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。
By:ウィキペディア
芥川龍之介が観た 
1921年・郷愁の北京⇒



天津〜北京 中国国鉄和諧号・ 軟座(一等)乗車券

5月18日
8:00起床、ラジオ体操、予約候補だった天津のアスターホテルはどんなだったかなと散歩に出たがすごい埃がひどそうなので、ホテルに戻り一階レストランへ。朝食はビジネス客が多く列ができていて後ろに並び10分ほど待ってテーブルに案内される。
ごはん、のりなど和食がならんで嬉しい。

11:15分チェックアウト。ホテルの客待ちタクシーが駅まで40元と言うので拒否する。当たり前にふっかけてくるのが腹立たしい。ボーイが汚い車を手招きしてそれに乗る。駅まで18.2元だったので20元渡す。はじめの車の半額だ。


天津〜北京 和諧号車内

天津駅の一等車の専用待合室で待って乗車。
12:44発の列車は日本の新幹線とよく似た車両。和諧号は中国は自主開発したもとと公式見解をだしているが各国で問題となっている。
13:45分北京駅に到着する。北京駅は首都の駅らしく風格のある建物。








ホテルはグランドハイアットホテルで地図で見る限り歩ける距離なのでゆっくり歩いて行く。
しかし何もかも広く、道路幅も半端でない広さ、すごく遠くに感じた。が歩くのはその街の顔が見えて異国に来た実感がして楽しい。



北京グランドハイアットホテルは一泊2人で28400円x2泊。531号室。すごく綺麗なホテルだ。


ホテルの部屋で少し休憩してから外に出る。

グランドハイアットホテル 531号室

地下鉄に乗り22日の寝台列車切符を購入する為北京西駅へ行く。


北京西駅の広い構内には人が溢れている。西安への寝台列車販売窓口を探す。
体育館ように広い切符売り場はどの窓口も長蛇の列。

中国国鉄乗車券
購入の現状
2007年当時はなかったが、現在はオンラインによる座席指定予約制度が導入されている。新システム導入により確実に切符が手に入るようになったかといえば、一方で旅客需要は依然として増加しているため、長距離列車などでは切符の売り出し日(一般の列車は発車の4・5日前、直達は20日前)早々に売り切れになることも珍しくない。また中国に市場経済が導入されたとはいえ、鉄道はいまだ計画経済を前提とした国家の所有であるため、駅の切符の販売員(售票員)の販売意欲は日本と比較すると高いとはいえない。以前と比べれば少なくなったが、空席があったとしても「没有」(メイヨウ・座席無し)と窓口でいわれるような場面に現在でも遭遇することがある。かつては外国人は専用窓口でしか購入できなかったが現在は統一された。中国語の会話ができなくても筆談で日付・列車番号・区間を書けば入手可能である。

24番窓口に並び15分位で順番が来たので、西安までの1等寝台2名と記入した、かねて用意したメモを差し出す。しかしいとも簡単に、「メイヨー」と突き放すようにないと一言。まさかと思い食い下がってみるが「メイヨー」一点張り。中国語は解らないがどうも売り切れらしい。あいそのない切符売り場のおばさんが20番窓口(苦情窓口なのか)で相談しなさいのようなことを言われたので人を掻き分けて20番窓口へ。数人待った後同じメモを見せるがここでも「メイヨー」。信じられない事態に頭は真っ白になりながらさっきの24番窓口に行ってなんでもいいから西安へ切符を頼んでみるが22日は全くない。


途方にくれ外に出て駅への道すがら貸し電話から上海のクーさんに電話して21日西安のANAホテルに予約をしてもらう。
貸し電話の店の隣に旅行会社らしいオフイスで11:00発の飛行機が1180x2=2360元で売っているが高いので明日カード会社のサービスオフイスに行って相談してみることにする。一度ホテルに戻る。クーさんに電話して21日の西安のホテル予約を確認するとOKの返事、よかった。 明日...プラザに行って西安までの航空券の手配をしよう。1泊追加ホテル代+飛行機代−寝台列車代=で35000円位の出費になったがやむをえない。中国は列車予約がネットでできなく代行業者に頼むのも口惜しいので予約しなかったが、まさか買えないとは考えてなかったのが甘かったと反省する。



なんとか日程にめどがたったので王府井(ワンフウチン)を散策する。

王府井(ワンフーチン)
北京中心部東城区にある繁華街。巨大デパートや飲食店が立ち並び一帯は歩行者天国になっている。市場(かつての東安市場、現在の新東安市場)、百貨店(北京百貨公司)、ホテル(北京飯店)、書店、飲食店などがこの通りに面して建ち、北京の町のほぼ中央にあり、故宮、北京駅、外国人居留地区などからも近いところから、特に20世紀に入ってから商店街として賑わいだした。「王府井」という地名は、かつてここに王府(皇族の屋敷)の井戸があったことに由来する。
王府井(ワンフウチン)

王府井(ワンフウチン)で味千ラーメンに寄る。角煮ラーメン22元、バンバンジー冷麺20元、餃子8元、いかげそフライ15元、デザート24元 也。

ホテルに戻りゆっくりお風呂に入る。忙しい一日が終わった。

芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京⇒
2007.5.19
北京市内観光

5月19日
8時グランドハイアットホテル二階レストランで朝食。朝食込みで泊まっていたが、通常朝食料金は2二人で512元(7500円)にはびっくり。


地下鉄・王府井駅(ワンフウチン)

9:30地下鉄鉄建国門の長富(ニューオータニ)ホテル3F...トラベルデスクへ。列車の切符がとれず飛行機に変更手配を申し入れる。日本語を話す中国人女性が親切に応対してくれ5月21日CN航空手数料入れて2460元ですぐ発券してくれた。





天安門
天安門は1417年(明の永楽15年)に築造され、承天門と名付けられた。その後、明の末期に焼失し、清の順治8年(1651年)に改築され、現在のように拡充され、その名も天安門と改称され、現在に至っている。城楼は高さが33.7メートルもあり、高大な赤色城壁の上には5つのアーチ形の門があり、上には9つの"重檐歇山"型式の城楼がある。これは皇帝の「九五之尊」(九五は帝位を表す)を象徴するものである。赤い柱に黄色い瓦、華麗な色彩で壮麗に聳えている。城の壁の下の前後には一対ずつの「華表」が立っており、門の前には「金水河」、そして河に跨がる五本の漢白玉の橋がある。明、清の時代には皇帝の即位や皇后の冊立と言った重要な行事の際にここで詔書を発布した。有名な五・四運動は1919年にここで起こった。1949年10月1日、毛沢東が城楼の上で中華人民共和国の建国を宣言して以来、天安門は中国のシンボル的存在になっている。毛沢東主席の肖像が掛かっているこの天安門は全中国を代表する顔のような存在である。その荘厳、厳粛、壮大な城楼の形は中国の国章にもあしらわれている。天安門広場は都市の広場としては、世界の著名都市の中でも最大規模の広場である。南北方向の長さは880メートル、東西方向の長さは500メートル、面積は44万平方メートル。毎朝、荘厳な五星紅旗が旭日が昇ると同時に掲揚され、夕日が沈むと同時に降ろされる。広場の北側には天安門、西側は人民大会堂、東側に中国歴史博物館と中国革命博物館、南側は人民英雄紀念碑と毛主席紀念堂。そして毛主席記念堂の南側は正陽門となっている。天安門の両側には中山公園と労動人民文化宮がある。これらの建築物はいずれもその特有の魅力で、無数の内外観光客を引きつけている。1998年秋から大がかりな補修工事を行われ、1999年の建国50周年には一新した姿で再度デビューした。




地下鉄2号線にのり前門下車。万里の長城 八達嶺への旅遊バス発券所見ていると、なにやら身分証明書を見せながら寄ってくる男性がいる。日本語を話し、ホテル送迎〜八達嶺往復で500元でしますと勧誘する。顔つき人相も悪くなくMの体調も考えバスよりいいかと判断してお願いする。料金は後払いでホテルに帰着の際支払う約束で明日10時にグランドハイアットに迎えに来てもらう約束をする。


天安門広場は国内外の観光客であふれているが、国家のシンボル的施設であるため多数の警備兵がパトロールしていて、天安門事件が起きた場所でもあるため、中国政府や中国共産党に批判的なデモ活動が再発しない対策がとられている。

  
天安門広場

人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)


向かって左には人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)。
全国人民代表大会(国会)の議場として用いられる。
 
とにかく広い天安門広場。


天安門広場は紫禁城(故宮)の入口でもある。

  
紫禁城・故宮博物館を見学
故宮博物館
明・清両王朝の宮殿建築と宮廷収蔵を基礎として設立した総合的な国立博物館である。北京市の中心に位置しており、前方に天安門、後方に景山、東に王府井商店街、西には中南海という昔の皇室庭園がある。同博物院は1961年に中華人民共和国国務院によって指定された全国初の「重点文物保護単位」の一つであり、1987年にはユネスコ世界遺産に認定された施設でもある。
紫禁城は南北961メートル、東西753メートル、敷地は72万平方メートルの規模を誇る。高さ1Oメートルの城壁に囲まれ、その外に幅52メートルの濠がめぐらされている。四面に城門があり、南の午門は現在、参観者の入り口であり、北の神武門は出口となっている。紫禁城には、南北に通る中軸線に沿って宮殿建築が配置され、左右対称につくられている。赤い壁に黄釉の瓦をいただき、柱や梁の表面は文様や彫刻で埋められ、きらびやかである。数多くの宮殿や楼閣からなる建築群は、壮麗で、雄偉である。朝日と夕暮れの中の紫禁城は幻想世界のようで、ひときわ美しい。
紫禁城は前朝と後寝のニつの部分に分かれる。前朝は太和殿、中和殿、保和殿を中心とし、左右に文華殿、武英殿を配している。ここは皇帝が国家の行事を行ない、政治活動をする場所である。後寝は乾清宮、交泰殿、坤寧宮、東西六宮、御花園を中心とし、東側に奉先殿、皇極殿、西側に養心殿、雨花閣、慈寧宮などを配している。ここは皇帝と后妃たちが居住し、宗教活動を行ない、日常の政務を取り扱う場所である。建築面積が延ベ16万3千平方メートルに達する宮殿建築群はうまく配置され、整然としている。その一つ一つの建物は封建的礼制によって建てられ、封建帝王の最高至上の権威を現わすものである。このため昔は、民衆が紫禁城に近づくことは許されなかった。
辛亥革命の後、紫禁城宮殿は国有にすベきであるが、「清皇室優遇条項」によって、退位した皇帝溥儀が「暫居宮禁」を許され、後寝に住み続けた。当時の政府は、承コ行宮と瀋陽故宮の文物を紫禁城の前朝部に移し、1914年に古物陳列所を開設した。後寝に居住する溥儀が清の残党と結託して復辟の夢を見ながら、恩賞、抵当、補修などの理由で宮内の文物を大量に盗んだ。社会各界の人々の関心の中で、1924年、馮玉祥が国民軍を率いて北京に入り、溥儀を紫禁城宮殿から退去させた。「清室善后委員会」が発足し、故宮の接収、宮廷文物の点検を行なった。そして一年間の準備を経て、1925年1O月1O日、故宮博物院発足儀式が乾清門前の広場で盛大に行なわれ、故宮博物院が正式に成立したという公開電報が全国各方面にあてて発信された。一般公開の初日、紫禁城の神秘な宮殿と皇帝の秘宝を見ようとする人々で交通が渋滞し、大変な賑わいを見せ、その日の様子は各新聞のトップニュースとなった。
1937年、盧溝橋事件が発生し、抗日戦争が全面的に始まった。南京に置かれた文物は再び運び出され、三つのルートでそれぞれ四川省の巴県、峨嵋山、楽山に送られた。抗日戦争勝利後、南遷文物は重慶を経て、南京に帰った。中国人民解放軍が揚子江を渡る直前の1948年末から南京国民党政府は南京の倉庫から2,972箱の文物を選んで台湾に運んだ。その後、台北市士林外双溪で博物館を建て、一般公開を始めた。1949年以後、故宮博物院は一万箱余りの南遷文物を南京から少しずつ取り戻した。残った2,221箱は南京博物院に頼んで保存してもらった。戦争中、故宮の大量の文物は困難な道を辿ったが、故宮職員の粘り強い努力で紛失や損失が一切なかった。しかしながら、今日に至っても完全に故宮に戻ることなく、別々の状態になっている。この状態はいずれ終わると思われる。というのは、故宮コレクションは本来分割できない統一体だからであり、それらは紫禁城建築と分離できるはずもないのである。
この十数年来、故宮博物院が受け入れた国内外観光客の数は年間6OO―8OO万人であり、観光業の発展に従って増加傾向にある。

故宮博物館チケット売り場 入場料は60x2=120元

故宮博物館
故宮博物館
故宮博物館
故宮博物館

帰りに王府井(ワンフウチン)のショッピングセンターに入り美味しそうなパンを買ってホテルに帰る。


王府井(ワンフウチン)
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王府井(ワンフウチン)


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北京(2)
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芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京
 1921年に大阪毎日新聞社から中国視察旅行に派遣された芥川は、江南地方や長江流域の都市をひととおりまわった後、北京に約1カ月間滞在した。この悠久の古都ののどかな風情に、彼はすっかり魅せられたのである。今年2007年は、ちょうど芥川の没後80年にあたる。そして、彼のこよなく愛した北京は、一年後のオリンピック開催に向けて、21世紀の国際的大都会へと目覚しい変貌を刻一刻と遂げている。しかも現在、大手書店を覗いてみれば幾種もの芥川作品集が目につくように、中国で芥川作品の出版ブームが起きている。   こうした背景の中で、北京に惚れ込んだ東京生まれの天才小説家の86年前の北京との出会いを振り返るのは、もっとも時宜を得ていると言えよう。このような趣旨で草したこの小文をもって、今年の中日文化・スポーツ交流年並びに芥川龍之介没後80年に捧げ、そして来年は世界的な大イベントの中心舞台となる北京に、ささやかな祝福を送りたい。 芥川龍之介が北京に入ったのは、1921年6月である。時期はちょうど初夏に入る頃で、彼はすぐに中国式の夏服を一式あつらえた。そして、毎日のようにそれを着て出かけ、中国民俗学者中野江漢の案内のもと、北京の街を隅々まで歩き回ったのである。万寿山(頤和園)、玉泉山、北海、天壇、地壇、先農壇、雍和宮、什刹海、陶然亭、白雲観、永安寺(北海公園内)、天寧寺……。その見学の熱心さと徹底ぶりは、北京に長く住んだ中野江漢を驚嘆させるばかりだった。 「花合歓に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ」。この自作の歌は、初夏の北京を心より楽しんでいた小説家の様子を髣髴とさせる。     芥川が語った北京の印象には、必ずと言っていいほど、槐や合歓などのイメージが出てくる。例えば後に中国旅行記の『支那游記』に収められた「雑信一束」には、「北京」と題する次のような一節がある。   甍の黄色い紫禁城を繞つた合歓や槐の大森林、――誰だ、この森林を都会だなどと言ふのは?     紫禁城を中心とする当時の北京は、「森林」としてその眼に映ったのである。鬱蒼とした大樹が黄色の瑠璃瓦を幾重にも取り囲んだ風景は、北京の城壁の上から眺めたものと思われるが、当時の北京は市民一人当たり三本の樹木を擁するほどの文字通りの「森の都」であった。高層ビルと立体交差で埋まる現在の北京からは想像もつかない古都の、今ではもはや失われてしまった姿が記述されている。     明清二代王朝の皇帝の住まいである紫禁城が故宮博物院となったのは1925年のことで、1921年当時は、遜位したラストエンペラー溥儀がまだ内廷で暮らしていた。紫禁城の外朝の一部、文華殿と武英殿だけが「古物陳列所」として開放され、民国政府の所有する文物を展示していた。そこの見学には筆記用具の持ち込みが禁じられていたため、芥川は見学後に記憶に頼って、眼にした古代書画を手帳に書きとめた。それによれば、唐・閻立本「職貢図」、元・王蒙「長松飛瀑図」、明・文徴明「古木寒泉図」、清・銭維城「林泉雨景図」など、歴代王朝の名品があったことがわかる。また、中国書画に高い鑑識眼を持つ芥川は、展示品の中に贋作が混じっていることも見抜いていた。     しかし書画の鑑賞という面でより芥川の眼を開いた場所は、古物陳列所よりも、西単の霊境胡同にあった陳宝陦の家であった。陳宝陦は清末の重臣で、溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城宮内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をしてすっかり瞠目させた。その中には、李公麟「五馬図」、宋徽宗「臨古図」、王時敏「晴嵐暖翠図」、郎世寧「百駿図」などが含まれていた。これら中国古代芸術の精髄と言ってもいい品々に芥川は感動し、友人にも「此処の御府の画はすばらしいものです」と伝えている。陳宝陦宅で芥川が鑑賞した書画はやがて散逸し、その多くが所在不明となっている。北京城内の胡同にある一軒の居宅で、これほど多くの名品を一斉に眼にすることは、もはや不可能である。その意味では、芥川龍之介は相当恵まれた旅行者だったとも言える。   名所見学と書画探訪のほかに、芥川は中国戯曲の鑑賞にも熱中した。彼自身の言葉でいえば、北京へ来てからは「速成の劇通になった」ほどほぼ毎日劇場に出入りし、「芝居まわり」をしていた。しかも滞在中観た芝居は、「六十有余」にも上るという。1920年代では、京劇という名称こそ定着していなかったものの、戯曲はもっとも主要な大衆娯楽であった。後に四大名旦と称される女形の名人梅蘭芳、程硯秋、尚小雲、荀慧生たちが頭角を現した頃で、この四大名旦はもちろんのこと、楊小楼、余叔岩、カク寿臣、貫大元など、京劇の全盛時代を飾る数々の名優の演技を、芥川は観たのである。ちなみに、梅蘭芳と楊小楼一代の当たり役となった京劇『覇王別姫』は、この年に北京で初演された。     芥川の旅行記には、同楽園で崑曲の名優韓世昌の演じる『火焔山』と『胡蝶夢』を観た詳細な記述が見られる。500年の歴史を持つ崑曲は中国に現存する最も古い戯曲であり、長い間、貴族や文人の間で愛好されていたが、清末以降急激に衰退し始めた。前門外の大柵欄の胡同の中にある同楽園は、当時崑曲を上演する唯一の劇場であった。     同楽園に足を運んだ芥川は、ある酔顔の老人と遭遇した。同行者が、「あれは樊山だ」と教えた。樊増祥(号は樊山)は、清末民初の名高い文人で、生涯にわたって日常茶飯事的に詩を作り、詩作3万首、駢文百万言を残した当代きっての詩宗であった。民国時代には遺老として閑居し、詩酒と観劇を嗜む晩年を送った。劇場で不意に遭遇したこの老詩人に、芥川は「僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時」「文学青年的感情は少く(全集の原文ママ)とも未だ国際的には幾分か僕にも残りをるなるべし」と書いている。「国際的」「文学青年的感情」、つまり海外の文学ファンが持つような気持ちが思わず湧いてきたということであろう。劇場というもっとも市井的な空間において、昔ながらの旧派文人の悠々と観劇する一瞬の横顔から、芥川は中国の伝統的な詩文精神の一端を垣間見たのである。    この日、崑曲を見た後の夕方には、中国の新世代知識人の代表者胡適を招待することになっていた。アメリカに留学し、帰国後に中国の新文化運動の旗手を担っていた胡適は、当時北京大学で教鞭をとっていた。胡適日記によると、彼もちょうど芥川より一カ月前に、同じく同楽園で崑曲を見たばかりであった。しかし、伝統戯曲に対して、あいにく胡適はほぼ全面的に否定する立場を取っていた。芥川龍之介は胡適との席上で、多少の意見を保留しながら、伝統戯曲の改良について英語で滔々と見解を述べ、胡適を感服させた。胡適日記には、中国式の服を着た芥川が中国人に酷似し、言うことも相当の見識を持っていたという、芥川についての印象が記されている。この年、芥川龍之介は29歳、胡適は30歳であった。    日本へ帰る前に、芥川は天津も訪れたが、天津のような西洋風の街に来るとたちまち北京への「郷愁」を感じた、と述べている。東京に住むことがかなわずとも北京に住むことができれば本望、という思いを抱いたほどであった。芥川は、北京を離れる直前に、ある雑誌社のインタビューに、次のように答えている。 「私が支那を南から北へ旅行して廻った中で北京程気に入った処はありません。それが為に約一カ月も滞在しましたが、実に居心地の好い土地でした。城壁へ上って見ると幾個もの城門が青々とした白楊やアカシヤの街樹の中へ段々と織り出されたように見えます。処々にネムの花が咲いて居るのも好いものですが殊に城外の広野を駱駝が走って居る有様などは何んとも言えない感が湧いて来ます」    このような北京へのノスタルジックな愛着を芥川は持ち続け、北京の旅から4年過ぎた1925年にも東京日日新聞で、「僕のあるいて一番好きな所といったら北京でしょうね。ふるい、いかにも悠々とした街と人、そしてあらゆるものを掩いつくす程の青青とした樹立、あれほど調和のとれた感じのよい都はないと思います」と、懐かしげに語っている。帰国後は多忙な作家生活を送った芥川は、もう一度北京へ行きたいという思いを果たすことなく、1927年の夏に36歳の若さで自殺する。死ぬ時には聖書を枕元に置き、中国で買い求めた浴衣を着ていた。    芥川龍之介が亡くなって80年を経た現在、その文学が中国で愛読されている。2005年に全5巻本の中国語版『芥川龍之介全集』が刊行されたが、これは中国で刊行された最初の日本人文学者の全集であり、また海外で出版された最初の芥川全集でもある。さらにその刊行後、芥川作品の出版の勢いによりいっそう拍車がかかり、「挿絵版」「普及版」「経典版」「保存版」などの形で、数々の新版作品集が次々と書店に並ぶようになった。この現象を見る限り、芥川文学の芸術性と国際性が改めて認知されたと言える。しかしそれは同時に、世界の優秀な文化遺産を自由に享受する精神性や国境を越えた広い視野を持つ若い世代が、中国で育ったことの証でもあると考えられる。中国の芥川ブームの牽引力となったのは、これらの青年層の読者たちの存在なのである。     また喜ばしいのは、中国の大学における日本研究専攻の大学院課程の充実に伴い、芥川龍之介を学位論文の研究テーマに選ぶ学生も増え、優秀な新鋭研究者が数多く育てられていることである。こうした状況の中、芥川龍之介国際学会の第二回大会が、まもなく寧波大学で開催される。世界的に評価されている天才小説家の没後80年に、この国際的シンポジウムが中国で開催されることは、極めて大きな意味を持つであろう。世界一の人口と急速な近代化への歩みを誇る国で、芥川龍之介文学の国際化が確実に遂げられている。

出典:人民中国インターネット
   
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