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2017年12月28~1月9日 冬のイタリア
《 Milan.Venezia.Florence.Naples.Rome 》

Jesus Christ

ミラノ/Milan

ヴェネチア/Venezia

フィレンツェ/Florence

ナポリ/Naples

ローマ/Rome
Jesus Christ
イエス・キリスト
生年:紀元前6年-紀元前4年頃
パレスチナ.ヨルダン川
西岸地区南部ベツレヘム
没年: 紀元後30年頃


全能者ハリストス
イエス・キリスト
聖墳墓教会のドーム内

聖墳墓教会はエルサレム旧市街.東エルサレムにあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。キリストが十字架に磔にされたとされるゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。
イエス・キリスト(Jesus Christ)についてWikipediaより抜粋してまとめる。
Jesus Christ
 キリスト降誕
 幼少時代
 キリスト受難
 最後の晩餐
 キリストの裁判
 苦難の道
 キリスト磔刑
 キリスト墓
 復活.昇天
 キリスト12使徒
 ペテロ
 アンドレ-ヤコブ
 ヨハネ-フィリポ
 バルトロマイ-トマス
 Mマタイ-小ヤコブ
 ユダ(タダイ)-シモン
 裏切りユダ-マティア
冬のイタリア
 ミラノMilan
 ヴェネツィアVenice
 フィレンツェFlorence
 ピサPisa
 ナポリNaples
 ローマRome
 日程Schedule
 予約Reservation
イエス・キリスト像『全能者ハリストス』。
12世紀に制作された、アギア・ソフィア大聖堂のモザイクイコン(イスタンブール)。左手に聖書を持ち、右手は指の形が(イイスス・フリストス)の頭文字である「ΙΣΧΣ」を象るように整えられ(伸ばした人差し指:Ι、曲げた中指と小指が:Σ、親指と薬指の交差がΧ)、見る者を祝福する形に挙げられた姿で描かれている。
イエス・キリスト
イエス・キリスト(紀元前6年から紀元前4年頃 - 紀元後30年頃、ギリシア語: Ίησοῦς Χριστός、ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されている。イエスの存在についてはフラウィウス・ヨセフス(1世紀)、タキトゥス(1世紀)、スエトニウス(1世紀)などの歴史家がその著作の中で言及している。日本正教会では中世以降のギリシャ語と教会スラヴ語に由来する転写により「イイスス・ハリストス」と呼ばれる。
キリスト教の多くの教派(正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタント)において、三位一体(至聖三者)の教義の元に、神の子が受肉(藉身)して人となった、真の神であり真の人である救い主として(一部の教派では、単性論と通称される、神としての属性を強調する立場で)信仰の対象となっている。
「イエス」は人名。ヘブライ語からギリシャ語に転写されたもの(ギリシア語: Ίησοῦς, Iēsūs…古典ギリシア語再建音ではイエースース、現代ギリシア語からの転写例はイイスス)。「ヤハウェ(神)は救い」「救う者」を意味する。
「キリスト」は「膏をつけられた者」という意味の、救い主の称号。膏をつけられるのは旧約聖書において王・預言者・祭司であったが、新約の時代においてはこの三つの職務をイエス・キリストが旧約のそれら全ての前例を越える形で併せ持っていたことを示していると解される(ただしこの三職論については、時代・論者・教派によって、キリスト教内から異論もある)イエスの言行を記した福音書を含む『聖書』は世界で最も翻訳言語数が多い歴史的ベストセラーであり、音楽・絵画・思想・哲学・世界史などに測り知れない影響を与えた。
語義と指示内容
イエス
イエスは、「イエースース(Ίησοῦς, Iēsūs、古典ギリシア語再建音)」の慣用的日本語表記である。現代ギリシア語では「イイスス」となる。
元の語は、アラム語のイェーシューア(ישוע, Yeshua)=ヘブライ語のヨシュア(イェホーシューア、יְהוֹשֻׁעַ, Yehoshua)で、「ヤハウェの救い」「ヤハウェは救い」「救う者」を意味する[5][6]。『旧約聖書』の「民数記」や「ヨシュア記」に登場するユダヤ人の指導者ヨシュア等と同名である。
これらのギリシア語表記の語尾は主格形であり、格変化すると異なる語尾に変化する。日本語の慣例表記「イエス」は、古典ギリシア語再建音から、日本語にない固有名詞の格変化語尾を省き、名詞幹のみとしたものである。
中世以降から現代までのギリシャ語からは「イイスス」と転写し得る。日本正教会がもちいる「イイスス (Iisus)」は、Ίησοῦς の中世ギリシア語・現代ギリシャ語に由来する転写(中世・現代のギリシャ語では"η"は"ι"と同じとなり「イ」と読む)である。正教古儀式派では、"Исус"(イスス)という、東スラヴ地域でかつて伝統的だった呼称を現在も用いている。
かつての日本のカトリック教会ではロマンス語の発音からイエズスという語を用いていたが、現在ではエキュメニズムの流れに沿ってイエスに統一されている[8]。戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタンは、ポルトガル語の発音からゼズまたはゼズスと呼んでいた。
アラビア語からは「イーサー」と転写し得る。
キリスト
キリストとは、古典ギリシア語「クリストス(Χριστός, Khristos)」の慣用的日本語表記である。「クリストス」は「膏(油)を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア(マーシアハ、מָׁשִיַח, Māšîªḥ)」の訳語であり、旧約聖書中の預言者たちが登場を予言した救世主を意味する。日本正教会では現代ギリシア語および教会スラヴ語から、「ハリストス」と転写する。
この意味で、「キリスト」は固有名詞ではなく称号である。
イエス・キリスト
「イエス・キリスト」はギリシャ語で主格を並べた同格表現であって、「キリストであるイエス」「イエスはキリストである」の意味である。マタイ伝・マルコ伝はそれぞれの冒頭で「ダビデの子イエス・キリスト」「神の子イエス・キリスト」と呼び表しており、この結合表現は新約の他の文書でも用いられている。パウロ書簡には「イエス・キリスト」とならんで「キリスト・イエス」の表現も見られるが、紀元1~2世紀の間に「イエス・キリスト」の方が定着していった。
「キリスト」は救い主への称号であったため、キリスト教の最初期においては、イエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことは「イエスがキリストであることを信じる」という信仰告白そのものであったと考えられる。
しかしキリスト教の歴史の早い段階において、「キリスト」が称号としてではなくイエスを指す固有名詞であるかのように扱われはじめたことも確かであり、パウロ書簡においてすでに「キリスト」が固有名詞として扱われているという説もある
 Milan
 Venice
 Florence
 Pisa
 Naples
 Rome
 Schedule
 Reservation
 Jesus Christ
イエス・キリストとは何者か=「神の子」「真の神・真の人」
正教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタントに共通する見解を、主に教派ごとの出典に基づいてまとめ。
イエス・キリストはただ一人の神の子である。
この神の子はロゴス(言葉)とも呼ばれる(ヨハネによる福音書冒頭の「言葉」(ロゴス)はこれを指すと解釈される)神の子は、三位一体(至聖三者)の子なる神(神子:かみこ)であり、他の二つの位格(父なる神と聖霊の神)と本質を同じくする。イエス・キリストは神の子が受肉(藉身)して人の性をとった、真の神であり真の人である。この人性は、まったく完全なものである(無原罪での誕生)。 一つの位格(ペルソナ:ギリシア語: ὑπόστασις, 英語: person)のうちに神性と人性の二つの本性(ギリシア語: Φύσεις, 英語: natures)を持つとされる。
降誕と幼少時代
ヨセフの婚約者であったマリアは、結婚前に聖霊により身ごもった。天使の御告によりヨセフはマリアを妻に迎え男の子が生まれ、その子をイエスと名づけた。キリスト教ではこの日を記念しクリスマスとして祝う。
受胎告知
レオナルド・ダ・ヴィンチ:ウフィツィ美術館

受胎告知(じゅたいこくち)とは、キリスト教の聖典である新約聖書に書かれているエピソードの1つ。聖告(せいこく)、処女聖マリアのお告げ、生神女福音(しょうしんじょふくいん)とも言う。一般に、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを妊娠したことを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事である。マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。これを記念する祭日は東方に始まり、中世に西方につたわった。現在もカトリック教会などでは3月25日、東方教会では4月7日を祭日としている。カトリック教会では「お告げの祭日」と呼ぶ。正教会では「生神女福音祭」とし、十二大祭のひとつである。

キリストの降誕
イエスの降誕は『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』のみに書かれている。それによれば、イエスはユダヤの町ベツレヘムで処女マリアより生まれたという。『マタイ福音書』では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていないが、『ルカ福音書』の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。ベツレヘムは古代イスラエルの王ダビデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言があった。『ルカ福音書』では、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。『マタイ福音書』では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来る。

ヘラルト・ファン・ホントホルスト/オランダ1622年
『ルカ福音書』は「飼い葉桶に寝かせた」と書いている。
馬はこの場には居らず、代わりに牛とロバが居る。福音書には根拠がなく、『イザヤ書』から採られている。また、西方教会では小屋もしくは「馬小屋」と書くが、家畜小屋と考えたほうが良い)としての伝承が通例であるが、正教会では洞窟と伝承され、イコンにもそのように描かれる。新約外典『ヤコブ原福音書』は洞窟で産まれたと書いている。キリスト降誕の情景は上記を基本に描かれるが、カトリック教会やその影響の強い国々では人形で再現する。(これを「飼い葉桶」の意味で、イタリア語ではプレゼピオ、フランス語ではクレッシュ、ドイツ語ではクリッペ、英語ではクリブ、スペイン語ではベレンと言う。)多くはミニチュアであるが、実物大の人形と小屋が仮設されるところもある。
東方の三博士(新約聖書に登場しイエスの誕生時にやってきてこれを拝んだとされる人物)は、救世主イエス・キリストの降誕を見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげたとされる。ローマ支配下で親ローマ政策をとったユダヤのヘロデ大王は、新たなる王(救世主)の誕生を怖れ、生まれたばかりの幼子を見つけたら自分に知らせるようにと博士たちに頼むが、彼らは夢のお告げを聞いていたのでヘロデ王のもとを避けて帰ることができたといわれている。
 Milan
 Venice
 Florence
 Pisa
 Naples
 Rome
 Schedule
 Reservation
 Jesus Christ

ムリーリョによる
幼少の頃のキリスト
イエスの幼少時代
通常ユダヤ人の男子は13歳でバル・ミツバを行い宗教的に大人の仲間入りが認められる。その準備は12歳から始まる男子の義務は過越の祭りと七週の祭り、仮庵の祭をエルサレムで守る事であった。
特に重要であるのが、過越の祭りで、巡礼者たちはエルサレムに行って、最低二日間滞在することを義務付けられていた。12歳になったイエスは、両親と一緒にエルサレムに巡礼した。両親が義務を果たして、岐路に着くとイエスがいないのに気づいて、エルサレムまで戻った。
三日後に、両親はエルサレムの神殿で、ラビたちと語り合っているイエスを見つけた。その聖書理解に学者たちが舌を巻いた。両親はどうしてこんなことをしたのかとたずねた。しかし、イエスはどうして自分を探したのかと逆に両親に問うた。
ルカが記録しているこの出来事は主イエスが、旧約聖書の知識を予め獲得されていたことを示している。
ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言った。
イエスの洗礼

ヴェロッキオ工房
『キリストの洗礼』
(1475年)
洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで「悔い改め」を説き、洗礼を施していた。イエスはそこに赴き、ヨハネから洗礼を受ける。
イエスの洗礼は新約聖書の福音書にあらわれるイエス・キリストの生涯のエピソードのひとつで、ヨルダン川において洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事。キリスト教の洗礼の儀式のもととなった『ルカによる福音書』と『マタイによる福音書』ではイエスの幼年時代の記述が異なり『マルコによる福音書』に至ってはイエスの幼年時代についての記事を一切省いているが、これらの共観福音書はどれもイエスの洗礼に関しては同じような内容の並行記事となっている。マタイもルカもイエスの幼年時代の記述からいきなりイエスの洗礼に話が飛んでいる。ルカによればイエスが洗礼を受けたのは30歳のころだったという。
共観福音書でイエスの洗礼の記述はどれも同じような組み立てになっている。初めに洗礼者ヨハネが紹介され、彼の言葉と洗礼の儀式について述べられる。次にイエスがヨルダン川にやってきて洗礼を受ける。そのあと天がひらけてイエスこそ自分の子であるという神の声が聞こえる。これがイエスの公生活の始まりとされている。共観福音書であっても細かい異同はあるが、ほとんどのキリスト教派においてイエスの生涯における重要な出来事のひとつとみなされている。カトリック教会で唱えられるロザリオの祈りのうち、光の神秘のひとつがこの「イエスの洗礼」になっている。
宣教活動
荒野での試練の後イエスはガリラヤで宣教を開始する。また弟子になった者の中から12人の弟子を選び、彼らに特権を与えた。十二使徒と呼ばれる。その後、イエスと弟子たち、また彼らを支える女性たち(マグダラのマリア、ヨハンナ、スザンナ、ヤコブの母マリア、サロメ、その他の活動は2年数ヶ月に及ぶ。
イエスの奇跡
イエスの奇跡は新約聖書の4福音書に記されている、イエス・キリストが行った奇跡のことである。イエスはこれらの奇跡を行うことで、自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威をもっていることを公に示し、自らがメシヤであることを立証するために行った。
カナの婚宴は、イエス・キリストの最初の奇跡としてヨハネ福音書に書かれている。
受難、死、復活、昇天
自らをユダヤ人の王であると名乗り、また「神の子」あるいはメシアであると自称した罪により、ユダヤの裁判にかけられた後、ローマ政府に引き渡され磔刑(はりつけ)に処せられた。
その後、十字架からおろされ墓に埋葬されたが、3日目に復活し、大勢の弟子たちの前に現れた。肉体をもった者として復活したと聖書の各所に記されている。
最後の晩餐
最後の晩餐は、キリスト教の新約聖書に記述されているキリストの事跡の一つ。イエス・キリストが処刑される前夜、十二使徒と共に摂った夕食、またその夕食の席で起こったことをいう。
正教会では最後の晩餐とは呼ばず、機密制定の晩餐(きみつせいていのばんさん)と呼ぶ。「晩餐」はイエスの復活後にも弟子達とともに行われていたほか、現在に至るまで聖体礼儀として教会に継承されており、本項で述べる晩餐は「最後の」ものではなかったからだとする。また、正教会では「機密制定の晩餐」のイコンをイコノスタシスの王門の上におく規定がある。
日本聖書協会による新共同訳聖書では、該当する聖書の記述箇所に「主の晩餐」との見出しがつけられている。
この場面に関して、数々のイコンが描かれて来たが、芸術作品としは、レオナルド・ダ・ヴィンチが絵画で描いた『最後の晩餐』が有名である。
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 Jesus Christ


レオナルド・ダ・ヴィンチによる「最後の晩餐」における配置⇒12使徒
イエスが処刑される前の晩に、12使徒とともに最後の晩餐(Last Supper)をとった。この席で使徒の一人がイエスを裏切り、他の使徒達も逃げてしまうと予告した。イエスは神に感謝する祈りを唱え、パンを「自分の体」、葡萄酒を「自分の血」として弟子たちに与えた。 最後の晩餐の場面は非常に多くの作品が残されているが、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci )の絵画が有名。裏切り者がいることを指摘するイエスに、12人の使徒の複雑な心理描写を描いている。
キリストの捕縛
自分が捕らえられて十字架にかけられることを知っていたイエスは、ゲツセマネの園で祈っていた。三度祈って確信を得たイエスは自ら捕らえられるために進んでいった。
その時、イエスを捕らえるために祭司長と長老たちと神殿の番兵(神殿警察)とさらに、ローマ兵も加わっていた。彼らは、イエスを逮捕するために裏切ったイスカリオテのユダの先導によって集団で訪れた。暗い中でもイエスを捕縛できるように、口付けをするという合図が決められていた。
先にイエスが「だれを捜すのか」と尋ねたが、「ナザレ人イエスを」と彼らは答えた。それに対して、「それは、わたしです」と答えた。この言葉を聞いて彼らは後ずさりして、地に倒れた。
ユダが集団の中から出て、イエスに元に行き、挨拶して合図の口付けをした。そのユダに「友よ何のために来たのか」と尋ねた。
イエスの弟子の一人が、剣を抜いて大祭司のしもべを切りつけて、耳を切り落とした。それを、イエスは制して、剣を収めさせた。そして、耳を切り落とされたしもべをいやされた。
イエスが語っている間に、弟子たちは逃げ出した。そして、イエスは自らを明け渡して、裁判を受けるために、連行されていった。
キリストの裁判
アンナスの予備審問の間に、サンヘドリンが召集されて、律法学者、長老たち、祭司長たちがあつまり、大祭司カヤパを議長にして、サンヘドリンが開かれた。彼らは、イエスが神を冒涜した容疑を立証しようとして証拠を求めた。
イエスが神殿を壊して、三日で立て直すということを二人の人が証言した。しかし、この件について証言は一致せず、有罪は立証できなかった。その時、大祭司カヤパが、不利な証言に対して、イエスに反証するように求めた。しかし、イエスは黙秘した。そこで、カヤパはイエスに「神の子キリスト」であるかどうかという質問をした。イエスはそれに対して、自らが権威をもって人間を裁くために天から地上に戻ってくる神であること意味する答えをした。
それを、聞いたカヤパは自分の衣を引き裂いて、イエスが神を冒涜したことを宣言した。そして、それをサンヘドリンの議員全員が聞いていたので、冒涜を立証する証人が必要なく、すぐに判決を下すように求めた。議員は一致して、死刑に相当すると答えた。
その後、神殿警察がイエスの権威を失墜させるために、イエスを取り囲んでつばきをかけたり、こぶしで殴りつけたりして陵辱した。
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サンヘドリンによる最終決定
サンヘドリンはすでに、夜明け前にイエスの死刑を決定していた。しかし、死刑の決定は昼間しか下せなかったので、夜が明けてから、刑を確認して、再協議を始めた。
議員は、ローマのパレスチナ行政官の総督ピラトから死刑の判決を引き出す方法を協議して、危険人物であることを印象付けるために、イエスを捕縛して、イエスの身柄をピラトに明け渡した。ユダヤ人には死刑を決定して執行する権限がなかったからである。
再び、総督官邸に戻ってきたイエスをピラトは釈放しようと考えていた。ピラトの妻もイエスについてイエスはピラトの前にたったが、ユダヤ人たちは異邦人の家に入って穢れることを避けるために官邸には入らなかった。ピラト自らユダヤ人のもとにやってきて、イエスの告発の理由を尋ねた。ピラトはユダヤの律法によって裁くことを勧めたが、ユダヤ人たちは、イエスが反逆者で死刑に相当する罪を犯していることを訴えた。
ピラトはイエスに、ユダヤ人の王であるかと尋ねた。イエスはそのとおりであると答えた。その後、ピラトは官邸でイエスにユダヤ人がイエスを告発した本当の理由を尋ねた。イエスは自らが真理をあかしするため官邸でイエスを尋問した総督ピラトは、イエスに死刑に相当する罪を見出せなかった。しかし、祭司長や群集は納得しなかった。そして、イエスがガリラヤから来ていることを知って、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスがエルサレム滞在中なので、ピラトはガリラヤ領民のイエスを、ガリラヤ国主のヘロデ・アンティパスに裁いてもらうために送った。
ヘロデは、以前からイエスに会いたいと思っていたので大変喜んだ。ヘロデはイエスを質問攻めにしたが、何も答えなかった。そこで、ヘロデはイエスを嘲弄して、はでなきものを着せて総督ピラトに送り返した。にこの世に来た王であることを告げた。
悪夢を見たので釈放するようにお願いしていた。そこで、過越祭の恩赦によってイエスを釈放しようと考えた。そして、群集の前で、イエスか強盗犯のバラバのどちらかを釈放したらよいかと聞いた。ピラトの予想に反して、群集はバラバを釈放するように叫んだ。
それでも、ピラトは懲らしめて釈放すると告げた。そこで、イエスに鞭を打った後に、いばらの冠をかぶらせ、手に葦の棒を持たせ、緋色の着物を着せて、イエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様万歳」と叫んでからかった。
群集はイエスを十字架につけろと叫んだ。暴動になりそうなので。ピラトはイエスを外に引き出し、皆の見ているところで手を洗って、「この人の血については私には責任がない。」と宣言して。バラバを釈放して、イエスを十字架につけるように兵士に引き渡した。
ヴィア・ドロローサ(苦難の道)
ヴィア・ドロローサ(ラテン語:Via Dolorosa(「苦難の道」の意))は、新約聖書の四つの福音書の記述やキリスト教の伝承などから想定されるイエス(キリスト)の最後の歩みのこと。いずれの福音書でも、イエスは十字架を背負って総督ピラトの官邸(プラエトリウム)から刑場のあるゴルゴダの丘までの道のりを歩いたとされている。共観福音書では途中でキレネのシモンがイエスに代わって十字架を背負ったと書かれているが、『ヨハネによる福音書』ではイエス自身が最後まで背負ったことになっている。ヴィア・ドロローサという名称は、その道中に味わったイエスの苦難を偲んで名付けられており、ヴィア・クルキス(via crucis/十字架の道)とも呼ばれている。

旧市街に貼られた
ヴィア・ドロローサの標識
イエスの処刑からおよそ二千年後の現在の地理上では、ヴィア・ドロローサの始発点はエルサレム旧市街北東のイスラム教地区にあるライオン門付近、終着点は旧市街北西のキリスト教地区の聖墳墓教会内にあるイエスの墓に相当する。その間、始発点と終着点を含めた計十四箇所に留(りゅう)と呼ばれる中継点が設けられており、第9留までが旧市街の入り組んだ路地の途中に、残りの五つが聖墳墓教会の内にある。毎週金曜日の午後3時(サマータイムの期間は午後4時)になるとフランシスコ会の主催で大勢の聖地巡礼者、並びに観光旅行者が旧市街地の繁華街を練り歩くのだが、この信心業をヴィア・ドロローサ(十字架の道行き)と呼ぶこともある。なお、信心業としての十字架の道行きはエルサレムだけでなくキリスト教世界の各地で行われている。
他方、自由主義神学の影響下にある派・信徒の中には、キリストの復活を事実として信じない者が少なからず存在する。一方で、自由主義神学と正統主義双方の行き過ぎを是正しようとしたブルトマンの立場からの、「『歴史的事実』『客観的事実』ではなく神話であるが、たしかに(ケリュグマにおいて)復活した」とする非神話化の説明も存在する。
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磔刑図.
1459年マンテーニャ画
キリストの磔刑
キリストの磔刑(キリストのたっけい)は、キリスト教の聖典である新約聖書の四福音書に書かれているエピソードの一つ。ナザレのイエスがエルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したため、死刑の権限のないユダヤ人の指導者たちによって、その権限のある支配者ローマ帝国へ反逆者として渡され、公開処刑の死刑である十字架に磔(はりつけ)になって処刑されたというものである。
復活 (キリスト教)
キリスト教においては、十字架につけられたイエス・キリストが、眠っている者の初穂として死人の中から復活したことが信仰されている。キリストが復活し、キリストの復活によって全ての人が生きるとされ、死者は復活するとされる。
このように、キリスト教における復活は、イエス・キリストのみにとどまるものではなく、全ての人に及ぶものである。善行をした者も悪行をした者も、最後の審判の日には全ての人が復活するとされ、善行を行った者は生命の復活に出て、悪行を行った者は裁きを受けるために復活するとされる、ただし教派・思潮によって、この「善行」「悪行」をどのように解釈するかには、小さくない差がある)。最後の審判の日における復活については、身体も伴った復活がキリスト教において信じられている。キリスト教における4つの福音書には、イエスの誕生について語らないものはあるが、イエス・キリストの復活について記していないものはない。キリスト教において復活は、最初の最も基本的な宣教の内容を形成しており、キリスト教神学の中心的位置を占めている。キリスト教の復活の信仰は、キリストの復活の事実に基いているとキリスト教においては捉えられている。コリントの信徒への手紙一の15: 14における、使徒パウロによる「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」(口語訳聖書)との文言が、キリスト教において復活信仰が欠かせないことを示すものとして挙げられる。キリストの復活が、全人類的な意味における死者の復活へ結び付くとされる信仰内容は、聖書の多くの箇所に示されているのみならず、多くの教派が用いるニカイア・コンスタンティノポリス信条といった祈祷文・信仰告白、および各種イコンや芸術作品(絵画・音楽作品等)にも表れている。
フレスコ画イコン『主の復活』(カーリエ博物館蔵.イスタンブール)
キリストがアダムとイヴの手を取り、地獄から引き上げる情景。旧約の時代の人々にまで遡って復活の生命が主・神であるハリストスによって人類に与えられたという『ハリストスの地獄降り』と呼ばれる正教会の伝承による。
キリストの墓
キリストの墓は、キリスト教において、イエス・キリストが埋葬された後に復活したと信じられている墳墓。ここではそれ以外の、キリストの埋葬や遺骸に関する世界各地の諸説・伝承についてや創作も取り上げる。
一般にキリスト教徒に信じられているところでは、キリストの墓の場所はエルサレムの「聖墳墓教会」あるいは「園の墓」である。しかし、異説も存在する。

キリスト教の立場からみた場合のキリストの墓が存在する可能性

キリストの遺骸を祭る墓があるかもしれないと主張する人たちも居る。 他の宗教の場合と異り、キリスト教においては、キリストの遺骸は失われたのではなく、信仰上存在しないということをまず踏まえなければならない。まったくキリスト教を信じない人は、イエス・キリストが人であったのならば、その遺骸は存在するだろうと考えるかもしれない。 しかし、それを祭る墓があるためには、イエス・キリストその人を信奉する人たちの存在を仮定しなければならない。
その墓があるためには、イエス・キリストを信奉するが、その肉体が天に上げられたのではないと信じる人が居なければならない。 これは正統的なキリスト教からすれば異端となる。 グノーシス主義的なもののひとつ、エビオン派の養子的キリスト論を、分かりやすい例として挙げる。 彼らによれば人間イエスと神性キリストを区別する。 人間イエスはナザレのヨセフとマリアの間に産まれた子であって、彼が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときに聖霊が降り、神の子イエス・キリストとなった。 また、十字架につけられるときにキリストの神性はイエスから離れた。十字架上で死んだのは人間イエスであって、キリストではない。この考えに立てばキリストは一足先に天に昇っているから、人間イエスの遺骸は地上に残されているはずである。 しかしこの思想では、キリストが去ったあとの人間イエスの遺骸を信奉する意味も無くなるので、墓が存在する理由には多少無理がある。イスラム教の『クルアーン』に登場するイーサー(イエス)は、十字架にはつけられておらず、つけられたのは身代りだとされている。 身代りの人物が誰であるかはいろいろだが、この話は16世紀までにはヨーロッパにも伝わっていた。 最近では、バーバラ・シーリング(またはスィーリング)が弟ヤコブが身代わりをしたという説を唱えている。イエスが十字架で死なずに生き延びて、別の地で手厚く葬られたのならば、その墓があるかもしれない。
聖墳墓教会
エルサレム旧市街(東エルサレム)にあるキリストの墓とされる場所に建つ教会。ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされる。正教会では復活教会とも称されている。ギリシャ正教系の正教会、アルメニア使徒教会等においてはエルサレム総主教座聖堂であり、中東地域の教会行政の中心でもある。
ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は325年頃、キリストの磔刑の場所、ゴルゴタに教会を建てることを命じた。遺骸がアリマタヤのヨセフらによっていったん葬られ、3日目に復活したという墓もその近くのはずであった。エルサレムは2度のユダヤ戦争によって破壊され、135年ごろにはローマ風の都市へと再開発されている。このため、ゴルゴタの位置は分からなくなってしまっていた。伝えられているところによれば、コンスタンティヌスの母ヘレナが326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見したとされ、ゴルゴタと比定した。神殿を取り壊して建てられたのが現在の聖墳墓教会である。教会の中の小さな聖堂がイエスの墓とされている。この場所はエルサレムの旧城壁内にあるが、処刑場は城壁外にあったのではないかという疑念も出されている。聖墳墓教会とは別に、城壁外に「園の墓」があり、聖公会などプロテスタントの一部教派に支持されている。聖墳墓教会はイエス・キリスト三つの異なった聖地を三つに連結した教会であった。これはバシリカやアトリウム、と呼ばれるロタンダを含んだ。このロタンダのドームは4世紀の終わりに完成した。教会はホスロー2世治下のサーサーン朝軍がエルサレムに侵攻し聖十字架を手にいれた614年に、火災によって損傷した。630年には、東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入り、教会を再建するために聖十字架を返還した。イスラム教徒の支配下で教会は一定の自治下にあったが、966年のムスリムによる暴動の後、ドアや屋根が燃やされた。更にファーティマ朝のカリフ、ハーキムはキリスト教会の破壊を命じたため、1009年10月18日には教会そのものが一時的になくなってしまった。ところが、厳しい状況の下、東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスが1048年に小さな教会を再建した。土地は1099年1月15日の第1回十字軍の騎士によって奪還された。第1回十字軍は自らを武装した巡礼と見なしており、聖墳墓教会で巡礼者として祈るまで自分たちの遠征が完了したとは考えなかった。十字軍の指導者であるゴドフロワ・ド・ブイヨンは彼の生涯で「王」という称号を使わないことを決め、彼自身を「聖墳墓教会の守護者」と宣言した。12世紀の編年史家ギヨーム・ド・ティールは、12世紀半ば十字軍が教会をロマネスク様式で修築し鐘楼を加えたことを記している。
聖墳墓教会
キリストの遺骸
エルサレムにイエス・キリストの墓と信じられているところが2つある。 伝えられているところによれば、コンスタンティヌス1世の母ヘレナが326年ごろエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿となっていた地を比定した。 これを取り壊して建てられたのが、現在正教会、非カルケドン派、カトリック教会などが共同管理する聖墳墓教会である。 しかし、『ヘブライ人への手紙』(13:12)の記載などから、処刑場は城壁外にあったのではないかとの疑念が出され、聖公会などは旧城壁外にある「園の墓」(Garden Tomb)をそれと信じている。
このどちらにもキリストの遺骸は無い。ニカイア・コンスタンティノポリス信条に従えば、イエス・キリストは十字架上で死に、葬られるが復活し、40日後に天に昇ったとされる。したがって、いったん葬られた場所は存在するが、遺骸は地上には残されていない。その代わりになったともいえるが、カトリック教会では中世、キリストの聖遺物への崇敬が盛んに行われた。たとえば聖十字架とされる物質は早い時期から各地の教会で崇敬の対象となっていた。カトリック教会ではイエスの母マリアも死去することなく天にあげられたと信じられている。
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イエス・キリストの昇天
イエス・キリストの昇天に関する記述が見られる第一の資料は『マルコによる福音書』16章14節から19節である。その描写によると、イエスと弟子たちがエルサレムに近い場所にある建物の室内で席についていた。イエスは弟子たちに福音を述べ伝えるよう命じ、信じるものは毒にも倒れず、病気のものを癒す力が与えられると言った。イエスはこう言い終えると天にあげられ、神の右の座についたという。昇天という出来事自体に関する記述はない。『ルカによる福音書』24章50節から51節の記述はもっと短い。イエスは11人の使徒とエルサレム近郊のベタニアに赴く。イエスは彼らを祝福し、天にあげられたという。マルコでもルカでも、昇天は復活後すぐに起こっている。
昇天に関してもっとも詳細な描写を行っているのは『使徒言行録』1:9-12である。それによれば復活後の四十日間、イエスは神の国について語り続けた。四十日のあと、イエスと弟子たちはベタニア北部のオリベト山に集まった。イエスは弟子たちに聖霊の力が与えられるだろうと告げ、福音を全世界に伝えよと命じる。イエスはそこで昇天し、雲の間に消えた。そこへ白衣を着た二人の男があらわれてイエスがやがて同じように再臨すると告げたという。
一見すると、これらの三つの記述は微妙に食い違っているようである。特にルカ福音書と使徒言行録が同じ著者によって書かれたという伝承があるだけに読者は戸惑いを感じるであろう。しかしよく見ると、ルカ福音では決してイエスが復活後すぐに天にあげられたといっているわけではないことがわかる。また聖書学的にはマルコ福音書の本来の末尾は16:8であり、それ以降の部分は後代の付加であろうという説が有力になっていることにも留意する必要がある。
『マタイによる福音書』は、ガリラヤの山でイエスが弟子たちに世界へ福音を伝えるよう命じて終わっており、昇天に関する記事はない。マルコ、ルカ、使徒言行録以外では聖書に昇天に関する言及はない。
イエスが処刑される前の晩に、12使徒とともに最後の晩餐(Last Supper)をとった。この席で使徒の一人がイエスを裏切り、他の使徒達も逃げてしまうと予告した。イエスは神に感謝する祈りを唱え、パンを「自分の体」、葡萄酒を「自分の血」として弟子たちに与えた。 最後の晩餐の場面は非常に多くの作品が残されているが、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci )の絵画が有名。裏切り者がいることを指摘するイエスに、12人の使徒の複雑な心理描写を描いている。
ペトロ Petrus  

聖ペトロのイコン
聖カタリナ修道院.エジプト





ペトロ像(聖ペトロの家教会)
カペナウム.イスラエル
『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。
『ルカによる福音書』ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていることなどから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、主イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。
イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落とすが、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれている。そうなることをイエスが事前に予告していたことを思い出した時「激しく泣いた」とされている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。『使徒言行録』ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。ヤッファでは亡くなった少女タビタを生き返らせる奇跡を行ない、また清い者・清くない者、あらゆる人々に宣教するよう幻を見て、その近くのカイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長をイエスの道へ導いている。「コリントの信徒への手紙一」によれば、ペトロは妻を連れて各地の教会をめぐっていたようである。また、ガラテア書によれば、アンティオキアに割礼を行う一派が来た時に異邦人とともに食事をすることを止め、パウロから非難された。
イエスが逮捕された時、他の弟子達は官憲の追跡から逃げた。ペトロは官憲に捕まりイエスのことを3度訊ねられたが、私は知らないと言い通した。彼は初代教会の指導者となった。彼はローマで布教していたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教した。彼はローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されている。初代ローマ教皇。
【Quo vadis?(クオ・ヴァディス:主よ、どこに行き給うか?)】
 ペトロは迫害が激しいローマを逃げ出してアッピア街道を歩いていると、反対側から来たイエスに出会った。「主よ、どこへ行かれるのですか?」と聞くと、「もう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて恥じ、死を覚悟してローマへ戻った。1896年、ポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがキリスト教迫害を描いた小説クオ・ヴァディスを書いた。また、ハリウッドでも同名の映画が作成された。
ペトロ Petrus 
初代教皇:就任 30年?
教皇離任:64年-68年の間
本名:シメオン.バル.ヨナ
出生 西暦1年
死去:64年-68年の間
   (62〜67歳)
埋葬地:サン.ピエトロ大聖堂
     バチカン
原国籍:ローマ帝国
宗派:ユダヤ人
  キリスト教徒

聖ペトロとサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ)

サン・ピエトロ大聖堂はバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロのイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。

かつてローマの郊外であったバチカンの丘のペトロの墓と伝えられる場所に後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)である。
サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。
しかし1939年以降、ローマ教皇ピウス12世は考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼した。すると紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペトロへの願い事が書かれているのが見つかった。
さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。
1949年8月22日のニューヨーク・タイムズはこれこそペトロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペトロのものであると確認されたと発表した。もちろん考古学的には上記の「状況証拠」しかないので、真偽については半世紀以上が経過した2010年代になっても論争が続いている。
当該遺骨は発掘後、専用の棺が作られてそこに納められた上で、クリプタに設けられた専用の施設に安置されている。通常は一般には非公開であるが、教皇フランシスコはこの公開を許可し、2013年11月24日、前年10月から行われていた信仰年の締めくくりミサの中で、この棺が初めて公開された。

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アンデレ Andreas

聖アンデレと聖フランシスコ
(プラド美術館マドリッド)
『マルコによる福音書』によると、兄弟ペトロと共にガリラヤ湖で漁をしていたときに初めにイエスに声をかけられ、弟子となった。弟子のリストの中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネについで4番目にあげられている。
『ヨハネによる福音書』では、シモンとアンデレの兄弟はもともと洗礼者ヨハネの弟子であったが、イエスを「神の子羊だ」というヨハネの言葉を聞いてイエスに従ったことになっている。他に、五千人にイエスが食べ物を与える物語では、アンデレはパンと魚を持った少年を連れてきてイエスに紹介し、食べ物が増える奇跡を導く役割を果たしている。また、ギリシャ人がイエスに会いにきたときも、その間を仲介している。
エウセビオスは、オリゲネスが「アンデレは小アジアとスキタイで伝道し、黒海に沿ってヴォルガ川まで行った」と述べた、と伝えている。そのため、アンデレはルーマニアとロシアの守護聖人になった。アンデレはルーマニアではアンドレイ、ロシアではアンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌィイと呼ばれる。伝説上ではアンデレはビザンティウムの最初の司教であり、そのため正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁は初代総主教をアンデレとしている。また伝承ではアンデレはギリシアのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教したことになっており、絵画においてもしばしばX字型の十字架と共に描かれている。十二使徒のひとりとして崇敬され、カトリック教会、正教会、聖公会などで聖人とされる。前述したロシアとルーマニアのほか、スコットランドとギリシャでも守護聖人とされており、アンデレが処刑されたとされるX字型の十字架は「アンデレの十字架」と呼ばれ、アンデレを守護聖人とする人物や団体の旗や紋章に採り上げられる。スコットランドの国旗「聖アンドリュー旗」(セント・アンドリュー・クロス、青地に白)、ロシア海軍の軍艦旗「聖アンドレイ旗」(白地に青)などが有名である。ロシアでは「聖アンドレイの守護勲章」と呼ばれる勲章も存在する。

アンデレ Andreas
生年: 紀元前5年
生まれ:イスラエル
ガリラヤ
死亡: 西暦60年11月30日
   ギリシャ パトラ
本名:AndrewtheApostle
埋葬:イスタンブール
   聖使徒大聖堂
兄弟姉妹: ペトロ
大ヤコブ Jacobus

迫害されるヤコブ
(プラド美術館 マドリッド)
ゼベダイの子のヤコブは新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。正教会では聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれる。
『マルコによる福音書』によるとヤコブは父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった。彼ら二人は「ボアネルゲス」雷の子らとよばれていたようである。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、『使徒行伝』によるとユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。44年頃のことと推定される。

レコンキスタの最中の9世紀、ヤコブの遺体とされるものが、遥か遠くスペインの、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラの地で”奇跡的に発見された”とされる。その頃のスペイン地域は、イベリア半島においてのレコンキスタの最中であり、イスラム勢力と闘っていたキリスト教勢力を守護する、またはキリスト教徒勢力がイベリア半島を制圧する行動のシンボルとして熱狂的に崇められた。このためスペインの守護聖人とされる(聖ヤコブはスペイン語で「サンティアゴ」となる)
このためサンティアゴ・デ・コンポステーラは、イベリア半島のみならず、西方カトリック世界における代表的な巡礼地となり、三大巡礼地のひとつに数えられるに至った。巡礼路は整備され、巡礼を世話することを目的とする修道院が配置されるに至った。いまも同地は巡礼の聖地として信仰を集めている。巡礼路の中核をなすものは、隣国フランスに発し、ピレネー山脈を越える巡礼路である。
ホタテ貝はヤコブのシンボルで、フランス語ではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。
英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。
カトリック教会における記念日は7月25日。正教会での記憶日は4月30日(ユリウス暦を使用する正教会では5月13日に相当)
大ヤコブ Jacobus
生まれ: ベツサイダ
死亡: 西暦44年
 イスラエル エルサレム
兄弟姉妹: ヨハネ.
  福音記者ヨハネ
両親: ゼベダイの子. サロメ
ヨハネ Johannes

福音記者ヨハネ
エル・グレコ


ヨハネは兄のヤコブとともにガリラヤ湖で漁師をしていたが、ナザレのイエスと出会い、その最初の弟子の一人となった。ペトロ、兄弟ヤコブとともに特に地位の高い弟子とされ、イエスの変容の場面や、ゲッセマネにおけるイエス最後の祈りの場面では、彼ら三人だけが伴われている。『ルカによる福音書』ではイエスから最後の晩餐の準備をペトロとヨハネの2人が仰せつかっている。
『ヨハネによる福音書』ではイエスが十字架にかけられたときも弟子としてただ一人「愛する弟子」が十字架の下にいたと書かれている。このためキリスト磔刑図においては、伝統的にイエスの母マリアとヨハネを左右に配する構図が存在する。
また、『ヨハネ福音書』ではイエスの墓が空であることを聞いてペトロとかけつけ、真っ先に墓にたどりついたのもこの弟子であり、伝統的に使徒ヨハネのことだと信じられている。
ヨハネは初代教会においてペトロとともに指導的立場にあった。
古い伝承では使徒たちの中で唯一殉教しなかったとされる。イエスの母マリアを連れエフェソスに移り住んだヨハネは、のちパトモス島に幽閉され、そこで黙示録を記した。釈放されてエフェソスに戻り、そこで没した。福音書を書いたのはパトモス島から釈放された後、老年に達してからで、弟子プロクロスが口述したと伝える。またアトス山修道院を開いたのは、ヨハネに伴われたイエスの母マリアであるとする伝説もある。

ヨハネ Johannes
生まれ:ベツサイダ
死亡:トルコ エフェソス
埋葬:トルコ セルチュク
    聖ヨハネ聖堂
両親:ゼベダイの子 サロメ
兄弟姉妹:ヤコブ
フィリポの像
サンクトペテルブルク
聖イサアク大聖堂
フィリポ Philippe

フィリポは新約聖書に登場するイエスの弟子、十二使徒の一人。
フィリポは、イエスが「私についてきなさい」とはっきり命じた最初の弟子でる。
彼はエチオピアの女王に仕える宦官に福音を伝えた。その宦官がエチオピアに戻り教会を設立した。エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及している。
その後フィリポはトルコ西部で宣教を行った。ヒエラポリスの神殿に住みついていた大蛇を退治し、蛇にかまれた大勢の人々の命を助けた。町の支配者や異教の神官はこれに反発し、彼を逆十字に縛って処刑した。
彼はヒエラポリスに埋葬された。
文語訳聖書、口語訳聖書、新改訳聖書の表記ではピリポ。日本ハリストス正教会での表記はフィリップ。伝統的教会すべてにおいて聖人とされる。
フィリポという名前はギリシア語の男性名で、ユダヤ人としての名は別にあったと想定される。
フィリポは四福音書の十二使徒のリストすべてに登場するが、その記事はあまり多くなく、『ヨハネによる福音書』に集中している。それによればフィリポはベトサイダの出身で、イエスに直接招かれて弟子になる。フィリポは知り合いのナタナエルにイエスを紹介し、ナタナエルも弟子になった。また、「ギリシャ人」(これはギリシア語を話すユダヤ人である可能性もある)がイエスに会いにきたときには、まずフィリポに仲介を頼んでいる。
フィリポ Philippe
生年:西暦5年
生まれ:ベツサイダ
死亡:西暦80年 トルコ
   ヒエラポリス-パムッカレ
埋葬地:ローマ
サンティ.アポストリ教会
バルトロマイ Bartholomew
サンジョバンニ.イン.
ラテラーノ大聖堂(ローマ)
 
別名ナタナエル(Nathanael)、フィリポのすすめでキリストと出会い、5番目の弟子となった。
イエスの死後インドからアルメニアで伝道活動をしていたが、捕らえられて生きながら皮を剥がれて殺された。
生きながら皮を剥がれたバルトロマイは、片手にナイフ(メス)を、もう片方の手には剥がされた皮膚を持っている姿で描かれている。次第に解剖学の象徴となり、多くの医学院で見られるようになった。
1572年のバルトロマイの祝日に、パリで新教徒が虐殺される聖バルテルミーの虐殺がおこる。

ミケランジェロの「最後の審判」にも剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描かれている(この皮の顔はミケランジェロの自画像になっている)。バル・トロマイという名の語義は「タルマイの子」である。記念日は8月24日とされる。
共観福音書の弟子のリストではバルトロマイとしてあらわれるが、他に記述はみられない。上述のバルトロマイの語義から、彼の実名ではなく、父親の名前に由来する呼び名と思われること、ヨハネによる福音書の弟子のリストではバルトロマイの名前はなく、代わりにナタナエルという人物があげられていることから、伝統的にバルトロマイの本名がナタナエルであるという見方がされてきている。
バルトロマイは、伝承ではタダイとともにアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬される。アルメニア使徒教会の名は、「タダイとバルトロマイによって建てられた教会」を自負するところから来ている。

バルトロマイ
Bartholomew
生まれ: カナ
死亡: アルメニア
本名:
Bartholomew.of.Iudaea
トマス Thomas

イエス傷に触れるトマス
ドゥッチオ.ディ.ブオニンセーニャ作
1308-1311頃。
使徒トマスに関して新約聖書では十二使徒の一人として挙げられるほかは、『ヨハネによる福音書』に以下の記述があるのみである。
『ヨハネによる福音書』では情熱はあるが、イエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。ヨハネではイエスが復活したという他の弟子たちの言葉を信じないが、実際にイエスを見て感激し、「私の主、私の神」と言った。またイエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んでその身体を確かめたとも。これを西ヨーロッパでは「疑い深いトマス」と呼ぶ。この故事は後世、仮現説に対し、イエスの身体性を示す箇所としてしばしば参照された。またトマスの言葉はイエスの神性を証するものとして解釈された。そのような解釈では、トマスの言動はイエスが神性・人性の二性をもつことを証ししたと解される。
正教会では「研究を好むフォマ」と呼び、復活祭後の主日を「フォマの主日」と呼んで、八日後にトマスがイエスにあった際の言動を記憶する。
新約外典の『トマスによる福音書』はトマスの名を冠しているが、本人の作ではなく、彼を開祖と見做した集団)の誰かによって書かれたものと考えられる。 『ヨハネによる福音書』における上記トマスの批判的な記述は、『トマスによる福音書』による教えに反論するために書かれたものであると、エレーヌ・ペイゲルスは指摘している。
トマスはインドまで赴いて宣教し、そこで殉教したとされているが、史実的な裏づけはない。しかし、『トマス行伝』にインドの王として記録されているグンダファルという人物が、近年発掘された当時の貨幣によって実在していたことが判明した。また、この時代から海路を通したインド貿易が行われていたため、インドに渡ったというのはまったくあり得ない話ではないといわれている。インドでは、トマスはトマの名で呼ばれ、トマが建てたという伝承のある教会がある。
トマス Thomas
生誕:ガリラヤ
死没:72年12月21日
インドMylapore
記念日
7月3日:カトリック教会
12月21日:米国聖公会
トマスの日曜日:東方正教会
マタイ Matthaeus
マタイ Matthaeus
死亡:西暦74年
本名:Matthew of Galilee
埋葬:イタリア
 サレルノのドゥオーモ
両親:Alphaeus
住居:イスラエル カペナウム
兄弟姉妹:ヤコブ

「聖マタイと天使」 
カラヴァッジョ1602年
サン.ルイジ.デイ
フランチェージ聖堂.ローマ
マタイは新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人。
「マタイ」の意味は「神の賜物」。聖書によればイエスの弟子となる以前は収税人であった。
収税人とは、ローマ帝国から収税業務を請け負った者で、決まった額を当局に納めなければならなかったが、余った分は自分の収入になった。そのため、収税人は取り立てられるだけ取り立てようとするため、住民からは嫌われていた。 イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけ、彼は仕事を捨てて従った。
新約聖書の最初におさめられた福音書の本文には著者に関する言及はないが、古代以来伝統的にマタイによるものとされ、『マタイによる福音書』というタイトルがつけられている。近代以降の聖書学的研究のうち、高等批評では、エルサレム崩壊に関する記述は預言でないとの推測に基づく成立年代の設定などから、使徒マタイが著者であるという見解は疑問視されている。だが聖書信仰の福音派では、現在もマタイが記者だと理解している。
『マタイによる福音書』によればローマ帝国の徴税人であったが、イエスの召命に応えて弟子となったとされる。『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』では同じような記述がみられるが、呼ばれた弟子の名前は「アルファイの子レビ」または「レビ」となっている。このため、伝統的にはマタイとレビは同一人物をさすと解釈されてきた。
イエスの弟子となったときの記事を除けば、聖書はマタイの言動を伝えていない。『使徒言行録』によればイエスの死後も教団内にいたようであり、キリストの昇天・ペンテコステなどの記事に名前がみえる。伝承では『マタイによる福音書』を記したと伝えられ、エチオピアまたはペルシアのヘリオポリスで殉教したとされる。
2世紀のパピアスは、マタイが福音書をアラム語で書き、弟子がギリシア語に訳したと伝えている。今日の研究はこの伝承に懐疑的であるが、マタイという名はアラム語起源のもので、彼が初期教団内のヘブライズムの中心人物のひとりであったことが伝承に反映された可能性が示唆される。

小ヤコブ Jacobus
小ヤコブ
ローマ・十二使徒教会

アルファイの子のヤコブは新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。
『マルコによる福音書』などの使徒リストに「アルファイの子ヤコブ」として登場する以外に言行の記録は無い。マルコ福音に「小ヤコブとヨセの母マリア」が登場し、伝統的にアルファイの子ヤコブがこの「小ヤコブ」とされる。これと区別して、ゼベダイの子のヤコブを大ヤコブと呼ぶことがある。
マルコ福音、マタイ福音 に、イエスの兄弟としてヤコブの名が挙げられており、西方を中心に流布する伝承では、これも同じ人物として、アルファイの子のヤコブをイエスの兄弟とする。なおカトリックなどでは実の兄弟ではなく、従兄弟とする。
この伝承では、マルコ福音の「小ヤコブとヨセの母マリア」とヨハネ福音(イエスの)「母の姉妹、クロパの妻マリア」とを同一人物とする。また父親であるアルファイはクロパの異名であり(「アルファイ」はギリシャ語名で「クロパ」はアラム語名とされる)、ルカ福音に登場するクレオパも同一人物とする。
『使徒言行録』などに登場するヤコブ (イエスの兄弟)は一部の伝承ではアルファイの子のヤコブであるとされていたことがあるが、近代の聖書学者は彼らを区別する。



小ヤコブ Jacobus
生まれ:イスラエル ガリラヤ
死亡:西暦62年
イスラエル エルサレム
両親:Alphaeus
兄弟姉妹:マタイ、 タダイ
ユダ(タダイ) Judas



アルメニア教会
総本山エチミアジン大聖堂
は世界最古の教会

タダイと呼ばれるユダについての伝承は混乱している。小ヤコブの兄弟であったともイエスの親族「主の兄弟」だったともいわれる。いっぽうで主の兄弟ユダとユダ・タダイは別人であるとする伝承もある。
タダイと呼ばれるユダは、西方ではイエスを裏切って自殺したイスカリオテのユダとの混同を避けるために意図的に軽視されてきたようで、「忘れられた聖人」とさえ呼ばれた。それは西方の信徒たちがユダの名において祈りを捧げるのを避けたためであった。西方ではユダは敗北者の守護聖人になっている。
一方、タダイは伝承ではバルトロマイとともにアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬される。アルメニア使徒教会の名は、「タダイとバルトロマイによって建てられた教会」を自負するところから来ている。
イエスの出身地と同じ地方であるガリラヤのパネアス生まれのユダは、イエスに従った婦人の一人(クレオパの妻)マリアの子であったという。父クレオパはキリストの復活をおそれずに述べ伝えたために殺害されたという。ユダの兄弟の一人である(小)ヤコブは初期からイエスに従った弟子であった。小ヤコブは一部の伝承において『使徒言行録』等に現れる主の兄弟ヤコブと同一視され、「主の兄弟ユダ」とユダ・タダイの同一視が生じる。ここでは、彼らの母クレオパのマリアが聖母マリアの従姉妹であるとされ、このことが「主の兄弟」つまりイエスの親族という呼称の根拠であるとされる。この伝承は主に西方で流布している。
イエスの親族(主の兄弟)ユダは後に結婚して子供をもうけたようで、95年ごろに生存していたユダの子孫についての言及がある。古代の資料では主の兄弟ユダがユダヤ、サマリア、イドマヤ、シリア、メソポタミアからリビアで福音を宣教したとされ、62年にエルサレムに戻って兄弟シメオンのエルサレム司教としての任命において協力したといわれている。このユダは兄弟シモンと共にペルシャで殉教したのではないかと考えられている。伝説では彼の遺骸はローマに運ばれ、現在のサン・ピエトロ大聖堂の場所に埋葬されたという。


タダイはバルトロマイとともにエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したといわれる。301年にアルメニア王国は世界で初めてキリスト教を国教と定めた。そのアルメニア教会の総本山エチミアジン大聖堂は世界最古の教会である。
ユダ(タダイ)Judas
生まれ:イスラエル ガリラヤ
死亡:西暦70年10月28日
 パルティア
本名:Jude of Galilee
埋葬地: バチカン
 サン.ピエトロ大聖堂
兄弟姉妹: ヤコブ

Saint Simon
Jusepe de Ribera
1630年プラド美術館
熱心党のシモン
熱心党のシモンは、十二使徒の一人。シモンや、イエスの兄弟のシモンとは別人である(ただし、後者に関してはカトリック教会では同一人物とされている)。新約聖書中では、共観福音書と『使徒行伝』に、各々一度名が見えるだけで、それ以外に言及されることは無く、人物の詳細については不明な点が多い。
「熱心党」について
ギリシア語原文の彼についての該当箇所は難解である。熱心党のシモンに言及した最古の史料は『マルコによる福音書』であり、その他、彼に関する新約文書の言及箇所は、この福音書を写したものである。マルコ福音書の該当箇所は、「熱心者 のシモン」と記されている。これを写した『マタイによる福音書』も全体の文体を変えてはいるが、「熱心者」という呼称をそのまま用いている。この語は「熱心党員」を指す一般的なものではなく、実際に何を指しているのかは不明である。「熱心党」を指すもとも考えられるが、律法(トーラー)に熱心な者を意味しているとも考えられる。
一方、『ルカによる福音書』は、マタイと同じく、マルコを写しながらも、この語を「熱心党員」と置き換えている。
ちなみに、日本聖書協会の訳は、これらをすべて「熱心党」で統一している。
熱心党のシモン
Simon Zelotes
生まれ: カナ
両親: Clopas
叔父: ナザレのヨセフ
イスカリオテのユダ Judas Iscariot

ユダの接吻
ジョット.ディ.ボンドーネ画



『最後の晩餐』ユダ
イスカリオテのユダは、新約聖書の4つの福音書、使徒行伝に登場するイエスの弟子のうち特に選ばれた十二人る。ほかの弟子はガリラヤ出身であったのに対し、ユダの出身はガリラヤではないとされている。イエスを裏切ったことから、裏切り者の代名詞として扱われることが多い。なお、ユダは12番目の使徒であり、彼が裏切りの末死んだためにマティアが新しい12番目の使徒となったのであって、イスカリオテのユダを第13使徒とするのは誤りである。使徒ユダ(タダイ)とは別人で、新約聖書の『ユダの手紙』の著者も別人である。
イエスを逮捕する時に行なった「ユダの接吻」は非常に有名で、後世にも『ゴッドファーザー PART II』でも描写されているようにイタリアのマフィアが裏切り者を処刑する際、この行動を真似るという風習が存在した。
イエス一行の会計係を任されており、不正を行う事が可能な立場にいた。

ユダがいつ弟子になったかという記述は福音書にはみられない。『ヨハネによる福音書』は「イスカリオテのシモンの子ユダ」と紹介している。
『マタイによる福音書』ではユダは金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をとりつけている。『ヨハネによる福音書』では高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難する。そこに続けて彼が使徒たちの会計を任されながら、不正を行っていたと記されている。
複数の福音書の最後の晩餐の場面ではイエスに裏切りを予告され、『マルコによる福音書』では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまでイエスに言われている。
ユダは祭司長たちと群衆をイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡した。
その後、『マタイ福音書』では、ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したことになっている。
『使徒言行録』では、ユダは裏切りで得た金で買った土地に真っ逆様に落ちて、内臓がすべて飛び出して死んだことになっている。

【ビートルズのヘイ・ジュード】「Hey Jude, don't make it bad! ユダ そんなに落ち込むなよ」
イスカリオテのユダ
Judas Iscariot
死亡:イスラエル.
   エルサレム
本名:Judas Iscariot
埋葬:エルサレム
   Akeldama
両親:Cyborea Iscariot.
    Simon Iscariot





 Milan
 Venice
 Florence
 Pisa
 Naples
 Rome
 Schedule
 Reservation
 Jesus Christ

ルーベンス.プラド美術館
1610~1612年
マティア Matthias
聖マティアあるいはマッテヤ、マチアは新約聖書の『使徒行伝』に登場するイエスの使徒の1人。
『使徒行伝』によればイエスの復活後、エルサレムに戻ってきた使徒たちはペトロを中心に、イスカリオテのユダ(裏切り)に代わる使徒をたてることを決定する。使徒が11人では不完全であるというのは使徒たちをイスラエルの十二部族になぞらえている思想から出ていると思われる。そこで洗礼者ヨハネの洗礼からイエスの昇天までの間、イエスと使徒たちと共にいたものの中から新たに一人を選び出すことにする。
その候補者は一人はバルサバともユストともよばれたヨセフであり、もう一人はマティアであった。祈ってくじをひくとマティアの名が出たので、彼が十二人目に加えられた。
ところがこのあとマティアの名前は新約聖書から消えてしまう。伝承によればエルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首されたとも伝えられるが、伝説の域を出ない。
マティア Matthias
生まれ:ユダヤ
死亡:西暦80年
  イスラエル エルサレム
本名: Matthias
イエス‐キリスト(Jesus Christ)コトバンク・デジタル大辞泉では
[前4ころ~30ころ]キリスト教の始祖。パレスチナのナザレの大工ヨセフと妻マリアの子として生まれた。30歳ごろバプテスマのヨハネから洗礼を受け、ガリラヤで神の国の近いことを訴え、宣教を始めた。ペテロなど12人の弟子と活動を続けたが、ユダヤ人に捕らえられローマ総督により十字架刑に処せられた。その死後3日目に復活したと確信した弟子たちはイエスをメシア(救世主)と信じ、ここにキリスト教が始まった。イエズス。キリスト。ジーザス=クライスト。「イエス」は、神は救いである、の意のヘブライ語のギリシャ語形「イエスース」から。「キリスト」は、ヘブライ語で油を注がれた者の意の「メシア」にあたるギリシャ語「クリストス」からで、元来はイスラエルの王をいう称号であるが、当時は待望する救世主をも意味していた。

イエスについて

ミラノ/Milan

ヴェネチア/Venezia

フィレンツェ/Florence

ナポリ/Naples

ローマ/Rome
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近くにあるスペイン大使館にちなんで命名された