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セカンドライフ 団塊世代 海外旅行 温泉 札所  2017年8月24日~9月8日   ペルー・アメリカ南部  《
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8月27日~29日 ペルー・クスコ
クスコはアンデス山脈中の標高3,400mにある。人口約30万人。クスコとは、ケチュア語 (Quechua) で「へそ」を意味しインカ帝国の首都で、文化の中心だった。
飛行機 列車・電車 バス.タクシー 徒歩 ホテル
ペルー/クスコ
Peru
2017年8月27日
Peru/クスコ 1日目
マチュピチュ
オリャンタイタンボ駅
クスコ
Novotel.Cusco.Hotel
次㌻ニューオリンズへ

オリャンタイタンボ駅
ニューオリンズへ
日程表
各チケット予約

8月27日朝ペルー鉄道8:53マチュピチュ駅発の昨日乗ってきた時と同じ列車:ビスタドーム号に乗り~10:52オリャンタイタンボ駅着。両側に露店の並ぶ駅前にはバスやタクシーのドライバーが競争で客引きをしている。その中からよさそうな車を選んで値段を聞くと10x3=30ソル(約1000円)のコレクティーボ(ミニバス)に乗りクスコへ向かう。


お土産店の並ぶオリャンタイタンボ駅前

20~30分走ると、おととい泊まったウルバンバの街をバスは通り抜けて悪路を2時間クスコの中心に到着する。標高3400㍍の高地に戻ってきたがすっかり身体は慣れていて高山病の心配はなかった。


ホテル/ノボテル・クスコ

ノボテル・クスコホテルに着きおととい預けた荷物を受け取りチェックイン。5階の部屋からはクスコ市街が綺麗。部屋は姉と自分たちと廊下を挟んで向かいあった部屋。17時に出かけることにしてそれまでお昼寝休憩。

Peru/America
日程表
Peru/America
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クスコの中心『アルマス広場』

18時過ぎにホテルから初めてクスコの街歩き。歩いて5分のクスコ中心『アルマス広場』


『アルマス広場』すぐ横路地に入ったところにある日本人シェフの店『プカラ』で夕食。

8月27日28日
鈴木さんのレストラン
『プカラ』に⇒

鈴木さんと


Peru/America
日程表
Peru/America
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レストランで偶然隣合わせた方は、山梨県の大学職員の方々のグループ旅行で、マチュピチュに来ていて、しばし日本語で歓談する。


日本人シェフの店『プカラ』

山梨の方たちは今日リマからクスコに到着し、明日早朝にクスコからの一番列車でマチュピチュに日帰りで向かうそうだ。10人のグループで半分くらいの方は軽い高山病だという。先に店をあとにされるたので、お気をつけてと挨拶を交わしお別れする。


『プカラ』を出てすぐのところKUNAに寄る。この店はアルパカよりも一回り小さなラクダ科の動物「ビクーニャ」製品を扱い、生息数が少なく保護動物にも指定されている「ビクーニャ」製品の販売をペルー政府から許可されている唯一のお店らしい。ただしピクーニャ製品はとても高価なので、値段も手ごろでおしゃれで上質なアルパカ製品のセーター、ショール、マフラーなど買い求める。



3400㍍の高地クスコでの一日が無事終わる。
ペルーについてから何度か服用している高山病予防薬が効いているのか みんな体調に変化はない。

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ペルー/クスコ
Peru
2017年8月28日
Peru/クスコ 2日目
終日クスコ街歩き
Novotel.Cusco.Hotel
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クスコ2日目の朝食はレストラン前の中庭でいただく。今日も快晴。

クスコ街歩き、最初はホテルを出て『アルマス広場』へ


『アルマス広場』を右折して直進したアトゥンルミヨク通りの途中にある、『12角の石』


『12角の石』

壁の中央あたり、博物館の建物を支える礎石の中にあってほかの石ひと回り大きい。この複雑な12角に積み上げた石は「カミソリの刃1枚通さない」といわれるほど寸分の狂いなく周りの石に接合されている。

プラサ・サン・ブラス
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12角の石から直進坂を上がったあたりがプラサ・サン・ブラス辺りはみんな白壁の建物できれい。


太陽神殿前のペルーの女子学生

サント・ドミンゴ教会は、かつて「太陽の神殿」と呼ばれたインカ時代の神殿だった。


太陽を称えた黄金の神殿コリカンチャ
コリカンチャは、あのマチュピチュ遺跡をも造らせたとされるインカ9代皇帝パチャクテック(パチャクティ)によって建設されたもの。多くの偉業を成し遂げたとされるこの賢王は、ここに高位の神官たちを住まわせ、生贄を捧げながら太陽神インティを崇め祀らせていた。また太陽神だけでなく、月の女神ママ・キジャや創造神ビラコチャ、雷や稲妻を司るイジャパをも祀っており、それらの神々に捧げられたとされる石の部屋(神殿)が残っている。カミソリの歯一枚通らないといわれる緻密で正確な石組みだが、意外なことにその屋根は美しく切りそろえられた藁で葺かれていたという。その様子を再現した模型は、リマ市プエブロ・リブレ区にある国立人類学考古学歴史学博物館で見ることができる。
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日程表
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ロレト通り脇の広場で、(左)リャマ、(中右)アルパカと触れながらチップ1ソルで記念撮影。


ホテルに戻って中庭でコカ茶をいただき休憩。


夕方また広場へ。


アルマス広場には放し飼いの野良犬?が多くベンチに座っていると足元に体をよせてくる。大事にされているらしく警戒感がまるでなく可愛い。


今夜はお祭りがあるるらしく噴水のあたりはペルー音楽の生演奏が聞ける。

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日程表
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今夜も夕食は『プカラ』へ。

『プカラ』カウンター越しにマスター鈴木さんが見え挨拶する。NHKBSで拝見した通りの方。

8月27日28日
鈴木さんのレストラン
『プカラ』について⇒

鈴木さんと

気さくに答えてくれてテーブルに「写真とりますか?」と言われ喜んで記念撮影させていただく。


メニューは鈴木さんのお薦めの3品を注文。


クスコ『プカラ』日本に帰ったら周りに話します、これからも元気で頑張ってくださいとエールを送りお別れする。

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日程表
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アルマス広場では聖母マリアのお祭りだろうか、いっぱいの人で埋め尽くされている。

アルマス広場/聖母マリアのお祭り。

アルマス広場からホテルに帰る。暖かいバスタブのあるお風呂に入って休む。


明日はクスコ最後の一日、そして夜にはまたアメリカ/ニューオリンズまでの大移動。
ペルー/クスコ
Peru
2017年8月29日
Peru/クスコ 3日目
クスコ空港
リマ空港
ダラス空港
ニューオリンズ
JW.Marriott.Orleans
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クスコ最後の一日、今日も快晴。部屋の窓から広場の大聖堂の尖塔が見える。


アルマス広場の石段に腰かけていると、16歳だという可愛いペルーの少女が小さな人形キーホルダー買ってと声をかけてくる。1個0.5アメリカ㌦というので4個お土産に買う。この少女日本では高校一年生なんだ。

アルマス広場の空はいままで見た中で最も青い綺麗に澄んでいた。
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ホテルに戻りタクシーを呼んでもらいクスコ空港へ。

クスコ空港

クスコ空港でクスコ~リマ、リマ~ダラス、ダラス~ニューオリンズ航空券3枚受け取る。


AA7251便:クスコ空港18:05~19:40リマ空港着。


リマ空港

リマ空港では乗継に4時間もある。マクドナルドでゆっくり夕食。ここまでは順調だったのだが、この後またまたアクシデント。


ここまでは順調だったのだが、ハリケーンの影響でこの後またまたアクシデント勃発。

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次㌻ニューオリンズへ
クスコレストラン『プカラ』の鈴木さんについての記事
鈴木健夫-『ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ』
『地球はとっても丸い』原田慶子さんのレポート記事より転載 http://chikyumaru.net/?p=8727⇒

ペルー伝統の味を守り続けるクスコ「プカラ」のオーナー鈴木さん
8月27日28日
鈴木さんのレストラン
『プカラ』訪問⇒

鈴木さんと


Calle Plateros 309にあるレストラン「プカラ」のオーナーシェフ、鈴木健夫さん。レストランの入れ替わりが
激しいクスコ中心部にあって、一人のシェフが同じ場所でこれほど長く営業し続けている例はほかにない。

鈴木健夫-ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 前編
ペルーの古都クスコにあるペルー料理店「プカラ」。創業28年、日本の旅行ガイドブックでもおなじみの老舗レストランだ。この店のオーナーシェフは、横浜出身の鈴木健夫さん(67歳)。職人肌の鈴木さんが作る正統派のペルー料理は何度食べても飽きることがなく、旅行者のみならず地元の人にも長く愛されている。
鈴木さんと料理との出会いは、バンケットスタッフとしてのアルバイト時代。彼が学生だった1960年代の日本は、まさに高度成長期の真っただ中。市内のホテルや横浜港に寄港する豪華クルーズ船では、さまざまなパーティーが頻繁に催されていたという。そんなある日、鈴木さんはノルウェー商船のパーティーに派遣された。ボーイとして入ったものの、あまりの忙しさに調理場の手伝いまでさせられ、その時初めて「調理って面白い」と思ったという。このことが、鈴木さんの将来を決めるきっかけになった。
専門学校を中退した鈴木さんは、国際線航空会社へ機内食を提供する会社に就職し、そこでフランス料理を学んだ。飛行機に乗ること自体がまだまだ贅沢だった当時の機内食は、現在のものとは比べ物にならないほど豪華だったという。鈴木さんが配属されたファーストクラス向けの部署には、とりわけ世界各国の高級珍味が集まっていた。「どの航空会社も国の威信がかかっているから、『これを使うように』って、お国自慢の高級食材を送ってくるんだ。フォアグラやキャビア、トリュフ、生ハム、チーズ。シャンパンやワインだって、日本では手に入らない名品ばかりだった。あんなに凄いものを試食したら、もう巷の洋食専門店なんて子供だましにしか思えなかったね」
調理技術だけでなく、世界の味をその舌で学ぶ機会に恵まれた鈴木さんは、いつしか海の向こうに想いを馳せるようになっていった。「外国の料理を作るなら、その国で学ぶべき」と思ったのだ。ちょうど海外で料理修業する料理人がちらほら出始めていた時代。鈴木さんも自分の求める“何か”があるはずと、世界の料理にアンテナを張っていた。


1940年創業のキンタ・レストラン(伝統的な郷土料理を、生演奏とともに提供する店)、「Rosita Rios(ロシータ・リオス)」。鈴木さんの人生を大きく変えたこの一枚は、日本を代表する写真家、田沼武能氏の作品だ。
1977年6月のある日、同僚が一冊の雑誌を持ってきた。前年に出版された文藝春秋デラックスの「美味探求:世界の味 日本の味」だ。何気なく表紙をめくった鈴木さんの手が、最初のページで止まった。どこかの国の、どこかのレストランでの食事風景。テーブルに置かれた見知らぬ料理を、あれこれとシェアしつつ食べる中年客。客の合間を縫うように立つ2人のギター弾きが、何やら楽しそうにメロディを奏でている。店内の活気や人々のざわめきとともに、人々の食べることへのただならぬ集中力を感じさせる一枚だ。本文にはこう記されていた。「ペルーの人々は“アメリカ大陸で一番美食家なのは自分らだ”と自慢する。なるほど、民族レストランの食事は、オードブルだけでも7種類もある。酢魚のセビーチェ。骨付き豚のから揚げ……」このページを見た瞬間、鈴木さんは稲妻に打たれたようなショックを受けた。「これだ!俺は一生これをやっていく!」
機内食調理は、客の顔が見えない仕事だ。その上ほとんどが手付かずで戻ってくる。「一生懸命作っても、そのほとんどがそのままゴミ箱行きなんだよね。食べてもらえない料理を作るのは嫌だなって、思ったんだよね」そんな彼だからこそ、人々が食べることを心から喜んでいる姿に、一瞬で魅了されてしまったのだ。彼らをこんなにも夢中にさせるペルーの料理とは、一体どんなものだろう。ペルー料理を知りたい、研究したい。鈴木さんはいてもたっても居られなくなり、早速情報収集を始めた。
先ずは渋谷の駐日ペルー大使館へと向かったが、何の情報も得ることができなかった。途方に暮れフラフラと歩いていった先で、日系ペルー人の経営する旅行代理店を偶然見つけた。ペルー人を伴侶に持つという日本人スタッフに話をすると、「じゃあ、私の妻に料理の話を聞いてみたら?」と、翌日一席設けてくれた。その席で、一時帰国中だというペルー在住の日本人を紹介される。リマでペンションとレストランを経営しているというその人物は、「だったら、うちのペンションで管理人をやりながら、ペルー料理を学べばいいじゃないか」と鈴木さんに声をかけてくれた。ペルーでペルー料理を学べる!このチャンスを逃すものかと、鈴木さんはすぐさま両親を説得。上司にも熱意を告げ、会社を退職することにした。当時は景気が良く、人の心にも余裕があったのだろう。そんな破天荒なチャレンジに挑む同僚をみなが応援し、快く送別会を開いてくれたそうだ。あの衝撃を受けてからわずか1か月後の7月に、鈴木さんはペルーへと渡った。27歳の時だった。
鈴木健夫-ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 中編
リマにやってきた鈴木さんは、ペンションの管理人として働くかたわら、リマの旧市街で人気だった日系人経営の大衆レストラン「Don Juan(ドン・ファン)」でペルー料理の基礎を学ぶことになった。スペイン語はまったく知らなかったが、ここで食材名や調理に関する単語を一気に覚えたという。当時は無給で働いたと言う鈴木さんに、その理由を伺う。「ボクはペルー料理の研究に行ったからね、教えてもらう立場で給料は貰えないでしょ。それに観光ビザだったんだから、稼いじゃダメだしね」とストイックな一面も見せた。

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こうして改めて自分の歴史を振り返るのも、悪くないね」と語る鈴木さん


しかし数ヶ月もすると、鈴木さんはドン・ファンでの修行に物足りなさを感じるようになっていた。ドン・ファンの料理は日系人ならではのアレンジが加えられており、自身の求める伝統的な作り方とは相反するものがあったのだ。チキンスープを作るのに市販のブイヨンを使うか、骨付き鶏や野菜くずを煮込むところから始めるか。たったこれだけの違いも、職人肌の鈴木さんには受け入れ難かった。「ボクは簡単に売れる料理じゃなくて、昔ながらの本当の作り方を研究したかったんだ」もっと納得のいく修行をしたいと、別の店を探し始めた。次のターゲットは、リマ随一の名店と謳われた「Tambo de Oro(タンボ・デ・オロ)」だった。知人宅で知り合った留学生に通訳を頼み、「給料もいらないし、迷惑もかけない。とにかくペルー料理を教えてほしい」とその店に飛び込んだ。しかしいくら無給とはいえ、得体の知れない外国人をハイハイと雇うような高級料理店はない。鈴木さんは何度も門前払いを食らったが、それにもめげず通い続け、1週間目にやっとその望みを叶えることができた。ペルー料理を知りたい、もっと理解したいという鈴木さんの探求心は、その後ますます高まっていった。
タンボ・デ・オロで半年間修行し、名のあるペルー料理をすべて習得した鈴木さんは、南米各地の食文化を学ぶ旅に出た。ところが貧乏旅行による栄養失調と疲労が祟ったのだろう、リマに戻ったとたんA型肝炎を発症、そのままリマの病院に運ばれてしまった。「当時の国立病院は、そりゃすごくてね。大部屋に入れられたんだけど、それが体育館より広くて、まさに野戦病院さながらなの。で、毎晩誰か死んでいくわけ。すると看護婦たちが来て、遺体からババッと服をはがして、その遺体をベッドの下に置いた鉄製の担架に落とすのよ。その『ゴトン』って音がすごくてねぇ。あー、死んだらモノ扱いなんだって思ったよ」想像するのも恐ろしいペルーの病院。しかしさすがカトリックの国だけあって、身寄りのない貧困者を救済する体制は整っていた。とある慈善団体が、なんと鈴木さんの2か月分の入院費を肩代わりしてくれたのだ。「食事だって悪くはなかったし、腹が減ったら看護婦さんが時々パンを恵んでくれた。だからペルーの病院には感謝してるんだよね」20代という若さゆえの環境適応能力であった。
なんとか体力を取り戻した鈴木さんは日本へ帰国し、複数の店でペルー料理のシェフとして働いた。当時の日本でペルー料理は大変珍しく、マスコミの注目を集めたという。テレビや雑誌の取材を頻繁に受けていた鈴木さんは、「あのまま行けば、ちょっとした有名人になっていたと思うよ」と笑いながら当時を振り返る。

ペルー伝統の味を守り続ける
クスコの日本人シェフ鈴木さん

鮮魚のレモンマリネ「セビーチェ」、さまざまなサルサ(ソース)をかけた「オードブル」、
クスコ伝統の調理法で仕上げたアンデスのモルモット「クイ」など、鈴木さんご自慢の料理が並ぶ

そんな中、現地の素材が手に入らない日本でペルー料理を作り続けることが、常に「本物」を追い求める鈴木さんにとって次第に苦痛となっていった。どんなに工夫を重ねても、代用品では自分が目指す味を出しきれないのだ。「ペルーの豊かな食文化を日本で再現したかったのに、それができなかった。どんなに美味しくったって、それは全部まがい物だ。自分では60点くらいだと思っているのに、まわりにはチヤホヤされてさ。それってペテンだよね。お金は稼げたけど、嬉しくないんだよ」シェフとしての成功を収めているにもかかわらず、日々不満が募っていく。「妥協」という文字をレシピに加えたくない鈴木さんにとって、これほど辛い時期はなかった。ある日鈴木さんはバイク事故を起こし左手首を骨折、フライパンが握れず休業を余儀なくされた。料理を作るのも苦痛だが、作れなければもっとストレスが溜まっていく。そんな鈴木さんの姿を、ペルー料理の神様はずっと見守っていたのだろう。神様は彼の友人の口を借りてこう囁いた。「日本より暖かいところのほうが、骨の治りが早いよ」日本より暖かいところ、ペルーだ!たったその一言で再びペルー行きを決めたという鈴木さん。ペルーに戻る予定はなかったのに、実は帰国後もずっとスペイン語の勉強を続けていたというから驚きだ。帰国からすでに8年経過していたが、鈴木さんは何の問題もなくペルーの料理界に復帰することができた。己がいるべき場所に帰ってきたのだ。

 鈴木健夫-ペルー伝統の味を守り続ける日本人シェフ 後編

1986年、ふたたびペルーの地を踏んだ鈴木さんは、リマ旧市街の5ツ星ホテル「Hotel Crillon(ホテル・クリヨン)」の門を叩いた。「無給でいいから、ペルー料理を勉強させてくれ」という鈴木さんに対し、ホテル側は「無給だが、滞在先としてホテルの一室を与えよう」という粋な計らいで応えてくれた。ホテルの客室に寝泊まりし、上級職員用の社員食堂で朝食を食べ、そのまま調理場へ出勤する毎日。「同僚と飲みに行く時は、全部奢らされたけどね。スタッフは地方出身者が多かったから、彼らの郷土料理の話も聞けたし、それはそれでよかったよ」金銭に対しては無頓着だが、自分の欲求に対してはとことんまで貪欲な鈴木さんだった。

ペルー伝統の味を守り続ける
クスコの日本人シェフ鈴木さん

クスコの骨董市で見つけたという椅子に座る鈴木さん。
「今じゃ、こんな風に木をカーブさせて作ったひじ掛けは珍しいんだよ」と愛おしそうに説明してくれた。

ホテル・クリヨンでの生活が数か月続いたころ、「どうせなら、自分で店を出したら?」という話が持ち上がった。自分の店を持つことは、どの料理人もが見る夢。開業資金を稼ぐため鈴木さんは北米へと渡り、ニューヨークの和食レストランでがむしゃらに働いた。半年で1万ドルを貯め、日本の貯金もかき集めて意気揚々とペルーへ凱旋したものの、さまざまな事情が重なりリマの出店計画は頓挫してしまう。しかし、落胆する鈴木さんをペルー料理の神様は見捨てなかった。
「リマがダメなら、クスコはどう?あそこなら日本人旅行者も多いし」
その友人の言葉に、目の前の霧がぱっと晴れた。そうだ、クスコに行こう!鈴木さんはすぐに動いた。幸運なことに、街の中心であるアルマス広場のすぐそばに店舗を借りることができ、そこで念願のペルー料理店を開いた。1988年12月24日、ペルー料理店「プカラ」の誕生である。
オープンから28年、プカラのメニューは当時からほとんど変わっていない。時代に合わせて追加したものはあるが、取りやめた料理は1つもないそうだ。それは流行に左右されない伝統料理だからこそ、時代におもねらない正統派の味を提供しているからこそできることだ。創作料理も魅力的だが、よほどのものでない限り徐々に飽きられ、そのうち記憶からも消えていく。鈴木さんの料理へのこだわりは、現代の消費社会への警鐘のようにも聞こえてくる。

ペルー伝統の味を守り続ける
クスコの日本人シェフ鈴木さん

木のぬくもりを感じさせる、落ち着いた雰囲気の「プカラ」。
バーカウンターは鈴木さんの手作り、椅子やテーブルはボロボロだったものを友人たちと一緒に修理した。


根っから職人気質の鈴木さんは、料理だけでなく、気になったことは自分が納得するまでとことん追求する人だ。クスコの家具屋に頼んでもちゃんとしたものができないからと、店内の椅子やテーブルはもとより、毎日厨房で活躍するオーブンや冷蔵庫まで自作してしまうツワモノである。今でも時間があればクスコのがらくた市へ赴き、リサイクルできそうなものを仕入れてくる。どんなに古びていても、本当にいいモノならその価値は失われない。本質を見抜く眼、それが鈴木健夫の才能なのだろう。
「以前はね、『日本人のボクがなぜペルーでペルーの伝統料理を?』って思ったこともあったんだよね。そんなのはペルー人が作ればいいことだし、ボクは日本で本物のペルー料理を作りたかった。でも日本にもいるだろう?外国人なのに日本の文化をこよなく愛していて、日本人よりもっと日本人らしく生きている人が。ボクも同じだなって思ったんだ。その国の良さを再発見できるのって、実は外国人なんだよ。だからね、日本人のボクだからこそできる、本当のペルー料理があると信じてるんだ」
「この1~2年以内に、もう一店オープンしたいんだよね」と夢を語る鈴木さん。そんな彼を眺めていたら、ふとそばで誰かが微笑んだような気がした。あれはきっとペルー料理の神様に違いない。

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クスコの日本人シェフ鈴木さん
≪原田慶子(はらだ・けいこ)/プロフィール≫
ペルー・リマ在住フリーランスライター: 2006年来秘、フリーライターとしてペルーの観光情報を中心に文化や歴史、グルメ、エコ、ペルーの習慣や日常などを様々な視点から紹介。『地球の歩き方』ペルー編・エクアドル編、『今こんな旅がしてみたい(地球の歩き方MOOK)』ペルー編、『トリコガイド』ペルー編、共著『値段から世界が見える!日本よりこんなに安い国、高い国』ペルー編、『世界のじゃがいも料理』ペルー編取材・写真撮影など。ウェブサイト:www.keikoharada.com
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