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![]() 戸塚駅前 |
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2023年4月19日 今日は姉の、21日に兄のお墓参りをと鎌倉・天園ハイキング |
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![]() 戸塚駅東口 |
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戸塚駅から、亡き姉の菩提寺へ。 |
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戸塚駅から歩いて10分、半年ぶりにお参りする。 |
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お墓参りを終え戸塚駅に戻る。 |
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![]() 北鎌倉駅 |
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戸塚駅から10:49分の電車に乗って10:58分北鎌倉駅到着。 |
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天園ハイキングはここ北鎌倉駅からスタート。 |
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横須賀線路沿いを進むと、左に円覚寺、明月院入口を眺めながら通過して、ハイキングコース入口のある建長寺へ。 |
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天園ハイキングコース入口は建長寺境内の奥で、山門をこぐり拝観料500円を支払い境内へ。参拝しながら進む。 |
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建長寺は鎌倉五山の第一位、臨済宗建長寺派の大本山で、建長五年(1253)に鎌倉幕府五代執権北条時頼により建立されたわが国最初の禅寺。 |
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鎌倉の郷土料理"けんちん汁"は建長寺が発祥の精進料理だそうだ! |
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![]() 建長寺の梵鐘 |
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建長寺の梵鐘は円覚寺、常楽寺の梵鐘と共に、鎌倉三名鐘の一つ |
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![]() 唐門 |
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唐門は、1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠正室お江の方の=墓のお堂の門として建てられ、1647年、建長寺に寄附され、龍王殿の正門として使用されている。 |
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建長寺境内を抜け、いよいよハイキングコース入口。 |
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半増坊道と書かれた小径に入る。ここからが天園ハイキングコースだ。 |
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建長寺(A) から大平山.山頂を経由して瑞泉寺(B) まで天園ハイキングコース |
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半僧坊参道にある虫塚は、解剖学者の養老猛司氏の計画によって虫供養の為、2015年(平成25年)設置された。 。 |
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![]() 天園ハイキングコースは長い石段を登る |
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いよいよ、名物天園ハイキングコースの長い石段が始まる。 このコースで一番きつい登り。 |
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長い石段を上がっていくと、半増坊大権現の天狗像が13体並んでいる広場に出る。 ベンチに腰かけて水分補給とお昼にする。 |
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半僧坊の社殿前"相模湾見晴台"しかし春の霞空で海がはっきり見えない。 |
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勝上献地蔵が安置されている勝上嶽地蔵堂。 建長寺のお堂では最高地点にある天空のお堂。 |
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![]() 勝上献地蔵 (鎌倉十一番札所) |
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勝上献展望台へ | |||||||||||||||||||||||||||||||
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こんな風に見えるはず |
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展望台から正面に富士山が見えるはずが春霞でうっすらしか見えない |
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天園ハイキングコース勝上献分岐。外人さんのハイカーが多いのにびっくり。 |
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![]() 十王岩 |
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鎌倉のパワースポット十王岩は鶴岡八幡宮の真北に位置して、風雪によってとぼれているが、岩に十王像が3体刻まれている |
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![]() ハイキングコースには幾つもの"やぐら"(横穴式供養堂)がある |
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『やぐら』 現在の神奈川県鎌倉市にあたる相模国鎌倉とその周辺地域で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて造られ使用された、横穴式の納骨窟または供養堂である。鎌倉市教育委員会によると、3000基以上が確認されている[2]。現在では土砂崩れや宅地開発で破壊されたものも多く、残ったやぐらも風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華であった。火葬人骨のほか多くの副葬品が納められていた。 By Wikipediaより転載 |
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天園ハイキングコースも半ばにかかる。 |
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標高159.4㍍!大平山山頂。 |
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大平山・山頂標識は板に手書文字 | |||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 鎌倉カントリークラブ.凄い打ち下ろし |
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大平山にある鎌倉カントリークラブ、ハイキングコース脇にコースやクラブハウスが造られている。 |
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![]() 鎌倉カントリー・クラブハウス |
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ゴルフコースを回り込んでハイキングコース目的地の瑞泉寺まではあと一息。 |
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北鎌倉駅を出発して3時間半、天園ハイキングコース瑞泉寺口、目的地に到着 |
コースあちこちに"やぐら" | ||||||||||||||||||||||||||||||
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瑞泉寺山門脇の道を進んで鎌倉宮へ向かう。 |
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![]() 瑞泉寺 総門 |
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由緒ある神社/鎌倉宮をお参りする。 |
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厄割石↑は「かわらけ」を石に投げつけ割ることで厄払いする。 |
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「ふくまねき獅子舞」(お守り)が沢山奉納されている。 |
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![]() 源頼朝公の墓入口の児童公園 |
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鎌倉宮から10分くらい歩くと、源頼朝公の墓前にくる。入口にある児童公園で休憩。 お参り終えたらしき、同年配の団体さんが公園で休憩していた。 |
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![]() 頼朝公墓地入口「白旗神社」 |
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「源頼朝公」は建久10年(1199)1月13日に53歳で亡くなり、法華堂(白旗神社)に葬むられた。現在の墓は白旗神社の横の階段を登った所にあり、江戸時代に島津氏によって建てられた。墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂と呼ばれた。墓の層塔は1779(安永8)年大御堂から移された。 |
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![]() 史跡法華堂跡(源頼朝公墓)石段上がりきった所 |
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源頼朝公顕彰碑 君出でて 民もしづまり 九重の塵も おさまる 世とはなりけり |
源頼朝公の墓は平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた人の墓所としてはあまりに小ぶり質素に少々驚きながらお参りする、が その最中、Mが両太ももに激痛に、顔をしかめ痛みに耐えながら、しばらく動けない.......... しばらくそのまま、痛みがやわらぐのを待つ。だいぶして、なんとか立ち上がり一歩一歩、だましだまし石段を下る。なんとか石段下の平坦な道路に辿り着き、鶴岡八幡宮方面にゆっくり向かう。 |
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源頼朝墓所から鎌倉国宝館横の通りを抜け鶴岡八幡宮へ |
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![]() 鶴岡八幡宮「舞殿(下拝殿)」 |
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鶴岡八幡宮は、1063年河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉に分祀し源氏の守り神として創建された。 1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った源頼朝は、八幡宮を現在の小林郷北山に移し、幕府の中枢となる施設を整備していった。 |
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![]() 鶴岡八幡宮本宮(上宮) |
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Mの両太もも痛で鶴岡八幡宮の石段を上るのはちょっと無理、石段下から手を合わせて帰ることにする。 |
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鶴岡八幡宮・三の鳥居 | |||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 鶴岡八幡宮・段葛 |
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鶴岡八幡宮・段葛(若宮大路)..... Wikipedia参照 段葛とは、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮の参道、若宮大路のなかで、二の鳥居から鶴岡八幡宮までの車道より一段高い歩道をいう。終着点には三の鳥居があり、鶴岡八幡宮の境内へと到る。神奈川県指定史跡。若宮大路は一部が国の史跡に指定されており、神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部である。 |
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![]() 鶴岡八幡宮・二の鳥居 |
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ここまで15㌔以上山道を降りて歩いてきて、やっと鎌倉駅前に到着。 |
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![]() とんがり帽子の時計台・鎌倉駅 |
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今日は藤沢のホテルに行って一日が終える、鎌倉駅から14:46分JR横須賀線・君津行で、14:54分大船駅で東海道線に乗換15:00分~15:04分藤沢駅に着く。ホテルは駅から5分ほどの「スーパーホテル藤沢駅南口」 |
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スーパーホテル藤沢駅南口 楽天で予約2泊朝食付き\17720+全国支援「いざ神奈川」8000円 |
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今日一日の歩行数は、23165歩 およそ16㌔と少し。 ホテルには湯河原から運んでしつらえた天然温泉の大浴場がある。着替えて早速お風呂へ。 早い時間のお風呂は、誰もいない貸切状態。ゆっくり入り疲れもすっかり洗い流す。 |
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二日目は鎌倉寺社巡り。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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4月20日 5時Mお風呂 7時一階レストランで朝食。 9時ホテルを出発、今日一日は鎌倉お寺周り ①本覚寺~②妙本寺~③安国論寺~④長勝寺~⑤本興寺~⑥光則寺~⑦龍口寺を周る |
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鎌倉駅をスタート、駅から5分ほどの、①「本覚寺」へ。 佐渡流罪になっていた日蓮上人が文永11年(1274年)に帰って、ここ本覚寺の夷堂に滞在し、辻説法の拠点とした。 |
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身延山から日蓮上人の遺骨を分けたので「東身延」とも呼ばれている。 |
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![]() 日蓮上人分骨堂 |
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①本覚寺から妙法寺へのみちすがら、珍しい建物「比企谷幼稚園」で、妙法寺の支院の境内に、昭和12年3月八角形の夢殿を模して建てられた。 |
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![]() 珍しい建物の/比企谷幼稚園 |
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本覚寺から②妙本寺へ10分ほど歩く。 |
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妙本寺は、日蓮聖人が開山された、日蓮宗最古の寺院。 この地は、鎌倉時代に鎌倉殿(=将軍)を支えた13人の御家人のひとり「比企能員」一族が住む谷戸であったところから「比企谷」と呼ばれている。 比企一族は建仁3年(1203年)北条一族「比企の乱」によって滅ぼされた。 |
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(能員/妻の道) (能員/姪の比奈=義時の妻) 比企能員 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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「比企の乱」の時、幼少で京都にいたため生き延びたのが、比企能員の末子、能本だった。能本は当時鎌倉の辻に立ち生命がけの布教をする日蓮聖人に出会い「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない」と自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まり。 |
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日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けた。 |
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日蓮聖人は鎌倉では苦難の時代を送り乗り越えられたのは、こうした縁のある人たちに助けられたものだ。 |
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鎌倉で屈指の海棠(かいどう)の名所と知られている妙本寺だが、作家の小林秀雄の著『中原中也の思ひ出』の中で1937(昭和12)年、中原中也と二人で美しい海棠を見上げ、目を奪われたと記されている。 |
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妙本寺本堂お参りして、静寂の板廊下でしばし休憩する。 |
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妙本寺本堂 |
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②妙本寺を出て~③安国論寺へ向かう。 |
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『鎌倉のぼたもち寺。常栄寺由来』鎌倉時代に龍ノ口で刑に処される日蓮に、ひとりの老婆「桟敷の尼」が日蓮に胡麻入りのぼた餅を捧げた。そして刑がまさに執行される時、江ノ島の空に光る物体が出現し役人達が恐れをなし刑は中止になり佐渡へ送られることになる。老婆が差し出した、ぼたもちは「首つなぎぼたもち」として語られ、お寺の由来になっている。 |
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「ぼたもち寺」から、むらさきつつじの名所「安養院」を通っていく。 |
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安国論寺 |
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安国論寺について..........安国論寺HPより転載 建長五(1253)年安房国から鎌倉入りした日蓮聖人が草庵を結ばれた場所に創建されました。ここで国の安泰と人々の幸せを願い『立証安国論』を執筆されました 境内には 日蓮聖人が草庵としてお住まいになり 当山の元となった「御法窟」と呼ばれる岩窟『立正安国論』を幕府に進献したことに反感を持つ人々に襲われた「松葉ヶ谷の法難」の際に山王権現の使いとされる白猿の導きで難を逃れ一時避難した「南面窟」等があります。 |
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安国論寺.富士見台よりの眺め |
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安国論寺境内に正岡子規の歌碑、「鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大菩薩」 子規は1888年(明治21年)と1893年(明治26年)に鎌倉を訪れ、安国論寺へ足を運んだ。 |
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③安国論寺から④長勝寺へ。 日蓮上人が弘長元年 (1261) に幕府に捕らえられ、伊豆に流されて1263年に赦免の後鎌倉に戻り、石井長勝が邸内に小庵を建て提供した。 |
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長勝寺.本堂(帝釈堂)前に上野公園の西郷隆盛像製作した高村光雲作の「日蓮聖人像」 |
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④長勝寺から~⑤本興寺=日蓮上人が辻説法の由緒の残る寺。境内に身延山から譲られたしだれ桜が咲く。 |
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本興寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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本興寺から鎌倉大仏へ、初夏のような暑さの中、今日一番の長丁場、40分ほど歩く。江ノ電由比ガ浜駅横を抜けて大仏まで あと一息。 |
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鎌倉大仏は、どこから見てもほんとう品のいい大仏さん。小学校の修学旅行で行ったのが最初の出会いなので、それから65年経ってる! |
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鎌倉大仏と高徳院について.....鎌倉大仏殿高徳院HPより転載 | |||||||||||||||||||||||||||||||
.「露坐の大仏」として名高い高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。像高約11.3m、重量約121t を測るこの仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏(
盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有しています。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは1252(
建長四) 年。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられています。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていません。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、1334(
建武元) 年および1369( 応安二) 年の大風と1498( 明応七) 年の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができます。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(
泰祐) の喜捨を得た祐天.養国(増上寺第36 世法主を拝命した高僧)の手で復興をみました。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかなりません。今日、創建750
年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めています。 |
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鎌倉大仏殿 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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鎌倉大仏殿はすごい見物客で、それも外人さんの多いのにはびっくり。コロナ前に完全に戻ってる感じがする。家族連れの外人さんに大仏バックにKM記念撮影お願いすると、何枚も念入りに撮影してくれた。 |
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大仏殿から観光客の流れに沿って長谷寺方面に歩きその近くの光則寺へ。 日蓮上人が「立正安国論」を時頼に建白した場所だ。 |
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光則寺について......Wikipedia参照 | |||||||||||||||||||||||||||||||
日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、弟子の日朗も捕らえ家臣で寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁した。しかし、後に光則は日朗と日蓮を私淑するようになり、1274年(文永11年)頃に自邸を寺院に改め、日朗を開山に迎え、父の名「行時」を山号、自身の名「光則」を寺号として「行時山光則寺」を創建した。これに先立ち、1260年(文永元年)に日蓮は宿谷氏の邸宅を訪ね、「立正安国論」を時頼に建白している。 |
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![]() 光則寺の本堂前、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑 |
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光則寺を出て長谷駅へ。長谷寺は坂東札所で、お参りしてるの立ち寄らず、江ノ電長谷駅から江の島へ向かう。 |
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![]() 江ノ電・長谷駅 |
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江ノ電・江の島駅で下車、駅からすぐの、龍口刑場跡に建つ日蓮宗寺院、龍口寺(りゅうこうじ)へ。 |
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![]() 龍口寺 |
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日蓮上人は生涯の中で危機的な法難に何度も会われているが、中でも最も命の危機のあったのがここ瀧口寺だ。 |
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![]() 日蓮上人が閉じ込められた/龍ノ口・土牢 |
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龍口寺について......Wikipedia参照 | |||||||||||||||||||||||||||||||
日蓮宗の開祖・日蓮は、“天災や人災によって国内が混乱し人心が頽廃する原因は、幕府や諸宗が正法に帰依していないからである”とする『立正安国論』を著し、文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に上呈して国家諌暁を行った。しかし、幕府はこれを拒絶した上に国家への反逆と見做し、御内人の平頼綱に命じて弾圧を加えた。(松葉ヶ谷法難・伊豆法難等)それでも幕府や諸宗に対して批判の手を緩めない日蓮に対し、平頼綱は独断で龍ノ口刑場での斬首刑を画策、文永8年(1271年)9月12日の夕刻に日蓮を連行した。龍ノ口到着後には土牢に閉じ込めておき9月13日に差し掛かったあたりで刑が執行されそうになったが、伝承に拠れば、この時に江の島の方角から強烈な光り物が現れ太刀取り役の武士の目がくらむほどの事態に陥いり、刑の執行が中止されたと伝えられている。これが“日蓮一生の中でも最も死に直面した危機である”として、日蓮宗では「龍口法難」と称し四大法難の一つに数えられるようになった。その後、延元2年/建武4年(1337年)に、日蓮の弟子・日法がこの「龍ノ口法難霊蹟」に、処刑の際に首の座に敷かれたという「首敷皮」と「自作の祖師像」を安置し敷皮堂という堂宇を建立した。これが龍口寺の始まりと伝わっている。 |
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瀧口寺をお参りして、今日の鎌倉寺社巡りも終わった。江の島に行く予定もあったが、だいぶ歩いて疲れが出てきて、そのまま江の島駅から藤沢に戻る。 |
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スーパーホテル藤沢駅南口に戻って、一休みして、温泉大浴場へ。今日もまだ早い時間で一人も入浴客がいないのでゆっくり独り占め。湯河原から運んだ温泉。 |
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最後の夕食は近くのビル八階にある「とんかつ新宿さぼてん」で。 |
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夕食後ホテルに帰って、旅行最後の温泉大浴場に入る。 |
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4月21日 5時Mお風呂 7時一階レストランで朝食。 9時、荷物をまとめチェックアウトして藤沢駅へ。 今日は藤沢から横浜~池上線・久が原で孫の小学校を見て、五反田から巣鴨に廻って、お墓参りして帰る予定。 |
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![]() 東神奈川駅前イオンで買物 |
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藤沢から東神奈川駅で下車、駅前のスーパーで食品を買物して京浜東北線・蒲田から久が原へ。 |
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13:30分、6日に入学したばかりの孫のYちゃんの小学校の帰校時間。 どんな様子で通っているのか見たくて迎えに行く。 友達と手をつないで元気そうに校門を出でくる。元気な姿に安心する。一緒に家まで送って、義母さんや皆と久しぶりの会話を交わして、14:00分さよならする。 |
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池上線/久が原~五反田~巣鴨へ15時頃着。駅から歩いて、亡き兄のお墓参り。 いつも命日の3月末にお参りしてるが、今年は少し遅くなってしまった。 |
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巣鴨平和霊園「平和記念碑」...富永一朗作 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)3月4日、午前9時30分、東京都豊島区巣鴨5丁目45番地の防空壕に直撃弾が投下され、伊藤淑子ちゃん(9歳)、登美子ちゃん(5歳)、恵美子ちゃん(2歳)の3人の幼い生命が一瞬の間に奪われました。 この平和祈念碑は、漫画家の富永一朗先生が、3人の幼い子供をモチーフに、世の中がいつまでも平和であり続けることを願って原画を奉納して下さったもので、すがも平和霊苑のシンボルになっています。.......(文)-岡崎.鳥山石材店 |
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亡き義姉の見つけた霊園だが、きっとあの世で二人仲良くしていることだろう。戸塚のお墓参りもして来たこと、鎌倉の日蓮上人ゆかりのお寺参りしたこと報告する。 |
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お墓参りも終え、家に帰る |
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