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JR福島駅前広場・古関裕而モニュメント |
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2021年9月15日 今年 早々行く予定だった金婚旅行、伸び伸びになったがやっと実現。 1971年新婚旅行で行った飯坂温泉.松島など50年ぶりに再訪する。 |
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出発前 古いアルバムから当時の写真を用意して、9月15日早朝 東京駅6:20分発 新幹線やまびこ201号で福島へ出発。 50年前の新婚旅行の頃(1971年)JRは新幹線もない国鉄(日本国有鉄道)の時代。東北本線・福島へ向かう列車は上野駅発だった。 |
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1971年 JR福島駅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2021年 同じ場所で | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1971年2月12日当時は飯坂温泉に一泊し福島に戻って松島に向かったが、今日は東京駅から福島に到着して、芭蕉が 「おくの細道」で歩いた福島郊外の文知摺観音(もちずり観音)へ寄って行く。 |
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福島駅前広場.芭蕉&曾良像 |
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文智摺観音(もちずり観音)へ、往きはバスに乗って、帰りは歩いて福島駅に戻る予定。 |
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文知摺石 |
文知摺観音.芭蕉像 |
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福島駅から20分ほどバスにのり文知摺観音前で下車、迷いながら道を尋ね尋ねやっと見つけ境内へ。芭蕉も眺めた文知摺石は参道正面にどんと置かれていた。置かれていたというより、もともとそこにあった大きな石(岩)にいろいろな言い伝えが残されたものなのだ。 |
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【意】おくの細道で芭蕉は、文知摺観音堂文知摺石(もちずりいし)を眺めてこう詠んだ。 五月女(田植えする五月頃のおとめ)たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺(シノブの茎や葉の色素を布にすりつけねじれ模様)を摺っていたかと しのばれる。 |
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文知摺石(もぢずり) |
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平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺」もしくは「しのぶ文知摺」を詠んだ句のゆかりの文知摺観音である。 甘く切ない恋歌 芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れたのか、私のせいではないのに、あなたのせい」という、甘く切ない恋の歌だ。さらに、源融と地元の長者の娘 虎女との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、観光地として知られていた。この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだ。芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。地元の子どもの言葉を借り「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。芭蕉はそんなことがあってよいものだろうかと落胆し気を取り直して詠んだ句が「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」 |
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文知摺観音(もちずり観音)から福島駅までは約7㌔。帰りはゆっくり歩いて福島駅へ向かう。芭蕉がおくの細道でもちずり観音から飯坂に向った時は橋はなくもう少し下流の「月の輪の渡し」で阿武隈川を渡ったらしい。 |
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文知摺橋(もちずりばし) |
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阿武隈川にかかる 文知摺橋を渡り国道をそれて水辺の道を歩き福島市内に入る。 |
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福島・文化通り |
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福島市・文化通り~レンガ通りに進むと「古関裕而生誕の地」の碑。 その前にオルガンの形をした「応援歌ボックス」が設置されている。オルガンには古関裕而作曲の5曲のボタン、その中の「栄冠は君に輝く」ボタンをONすると大音響で演奏が始まる。町の人は慣れていて誰も振り向きもしない。演奏を聴きながら駅へ向って歩きはじめる。 |
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福島・レンガ通り「古関裕而生誕の地」 |
応援歌ボックス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古関裕而さんと妻子 |
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福島駅から飯坂温泉手前の医王寺前まで福島交通・飯坂線に乗る。 1971年の新婚旅行で この電車に乗った時はすっかり日の暮れた夜だった。電車は混雑していて、最前列に立ちヘッドライトに照らされ真っ暗闇に浮かぶ夜空に続く二本の線路を眺めていると、それからの二人の人生を暗示しているかのように思えた心のうちが今でも昨日のことのように思い出される。 |
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飯坂線(福島⇔飯坂温泉) |
飯坂線車内”ゆ”中吊り |
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今日は芭蕉も参拝した医王寺へ寄る為、飯坂温泉2つ手前の「 医王寺前駅」で下車する。 |
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飯坂線「 医王寺前駅」は無人駅 |
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医王寺前駅は無人駅で、ホームから下り線路を渡ると道端に「おくの細道・芭蕉路」案内板が建つ。それに従って住宅街を進むと約15分で医王寺に到着した。 1685(元禄2年)芭蕉は「おくの細道」途中医王寺を訪れている。 |
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「医王寺」 |
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この寺は、奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。そして城主.佐藤基治の息子二人の継信、忠信兄弟は義経の忠臣で義経四天王と呼ばれている。 |
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医王寺・芭蕉句碑「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」 |
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【意】 | 節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。 |
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医王寺境内を進むと義経 佐藤兄弟像がある |
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医王寺は奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。 源平合戦において、城主.佐藤基治は、藤原秀衡の命を受け、息子二人、継信、忠信兄弟を源義経に付き従わせた。兄の継信は屋島の合戦で平家の放った矢を義経の身代わりとなって受け戦死、弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身になり、僧兵に攻められた危機に機転を聞かせ自分が義経と名乗り僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させたが、後に潜伏しているところを襲われ壮絶な死を遂げた。息子二人の死を知り嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前の様子を見て、継信と忠信の妻二人、気丈に自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を着装。若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、武将の姿になり乙和の前に現れ「継信・忠信ただいま凱旋しました」と言い、乙和元気づけた。1685(元禄2年)「奥の細道」の途中医王寺を訪れた芭蕉は、佐藤兄弟を偲び「笈も太刀も五月に飾れ紙のぼり」と詠んだ。その弁慶の笈はこの寺の宝物殿に安置されている。 |
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医王寺境内の、左・佐藤忠信 中央・源義経 右・佐藤継信 の像 |
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飯坂線・小川橋 |
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医王寺を出て左に「奥の細道標識」脇の 山道を下り田園風景の畑の道を通って飯坂線の線路つたいに飯坂温泉へ向かう。芭蕉の歩いた江戸時代には電車などあるはずもなく のどかな田舎道だったろうが、はるかかなたの山の稜線は昔も今も変わらない。当時を偲びながら青空と野山を見ながら歩く。 |
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飯坂温泉共同浴場「波来湯」 |
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医王寺から山道を歩いて、花水坂駅の横を通って次の飯坂温泉駅前に到着。 元禄2年芭蕉が訪れた当時は鯖湖湯など温泉宿が4軒人口326人と残された記録の小さな温泉だった。 |
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飯坂温泉駅前の芭蕉像 |
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ヘレン・ケラーも1937年来日した際 飯坂温泉に宿泊。何処の旅館に泊まったのかは不明だがその時好印象を持たれたのか、1948年もう一度来日の際にも又 飯坂温泉を訪れている。 |
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1971年2月12日宿泊した飯坂温泉「若喜別館」 |
↑1971年部屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今の「若喜別館」 |
若喜別館は今営業して ないが建物は昔のまま |
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1971年「若喜旅館本館」「若喜別館」は駅前に並んで建っていたが、平成6年本館は火災を起こし共同浴場「波来湯」に立替えられた。新婚旅行で宿泊した「若喜別館」は現在も建物だけ当時のまま残されている。 |
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「若喜旅館」本館跡地は共同浴場「波来湯」になっている。 |
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今日はここまでで歩行数22000歩を越え15㌔以上歩いてので疲労もたまってきた。鯖湖湯まえの足湯に浸かる。疲れた足にじ~んと沁みる熱いお湯だったが疲れが一気に取れた感じ。疲労回復に温泉効果は抜群。 |
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足湯の横に建つ看板に書かれた文によると、芭蕉が泊った宿でひどい目に逢い、飯坂にはいい印象を持てなかった様子が伝わってくる。だが辛い思い出も時が過ぎていくと、懐かしい思い出にかわったことだろう。 |
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鯖湖湯横に建つ「ほりえや旅館」は明治15年建築の木造三階建、昔の旅籠の雰囲気で趣のある建物、現在も盛業中。 |
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「ほりえや旅館」前に鯖湖神社と共同浴場「鯖湖湯」この湯に元禄2年(1689)に飯坂を訪ねた松尾芭蕉と曽良も入ったと伝えられている。 |
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飯坂温泉「鯖湖湯」 |
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共同浴場「鯖湖湯」からすぐ上へ歩くと江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家「旧堀切邸」前へ、門を入り見学させてもらう。きれいに手入れされ立派な館もいまは主もいない。 |
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十間蔵 1775年(安永4年)に建立された土蔵、福島県内で最古最大 |
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堀切邸内の無料の足湯 |
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すっかり寂れた感じの飯坂温泉だがゆっくり街歩きして 14時、飯坂温泉駅に戻って今夜の宿「月之瀬」に電話して迎えをお願いし車の来るのを駅のベンチにかけて待つ。 |
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穴原温泉は奥飯坂温泉とも呼ばれ飯坂温泉駅からは僅か5分程でついて14時少し過ぎ早めのチェックイン。フロントは3階で部屋は6階。 着替えて早速お風呂。お風呂は一階。眺めもいいお風呂で早いチェックインだったので貸切風呂のように一人占め。 |
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「月之瀬」宿のHP写真 |
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ゆっくり休憩しながら大相撲などみて、18時から夕食は3階大広間で。 コロナ対策で幾つかに部屋を仕切りしてグループ毎に分けられている。 |
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広い部屋に二人で向いあったテーブルに座るとすぐ脇の厨房から次々と料理が運ばれてくる。丁寧に調理された料理でとても美味しかった。 |
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夕食後にもう一度お風呂に入り休む。 |
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畳廊下の夕食会場 |
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9月16日。6時半ラジオ体操して朝風呂入り。朝食は昨夜と同じ大広間で二人だけでいただく。 |
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12畳.縁側ベランダ付き和室 |
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今日は東北線岩沼~名取~仙台へ移動する予定。 9:30チェックアウト送迎バスで飯坂温泉駅まで送ってもらう。 |
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飯坂温泉駅発10:00~10:23福島駅着でJR東北本線10:40に乗り~11:45岩沼駅着。 |
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岩沼駅から大通りを約10分歩き今日最初の目的地「二木の松史跡公園」へ。 |
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JR東北本線・岩沼駅前の芭蕉像はマスクを付けさせられている |
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ここで芭蕉は「桜より 松は二木を 三月越」と詠んだ |
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東北本線岩沼駅から900㍍10分「二木の松史跡公園」 奥の細道、道中で芭蕉は、桜の頃の江戸を立って3か月あまり、二木の松に出会った感動を「桜より 松は二木を 三月越」と詠んでいる。 |
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「桜より 松は二木を 三月越」芭蕉句碑 |
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【意】 | 桜の咲く弥生の三月江戸を旅立った頃からこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にすると 言い伝え通り、根元から二木に分かれた見事な松だ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
-----岩沼市HPより抜粋----- 「武隈(たけくま)の松」は、10世紀前半に詠まれた藤原元善の歌に登場します。元善は陸奥守として多賀城に向かう際、「武隈の松」が枯れていたのを見つけて小松を植え継ぎました。後にもう一度赴任した時に、この「松」に再会できた感動を和歌に詠んでいます。 元善が植えた松を2代目とすると、この後「松」は野火で焼けたり、枯れたり、橋の建材にするために切られたりして何度か姿を消したため、その都度、当時の陸奥守が植え継ぎました。芭蕉が見た5代目については、誰が植えたか記録がありません。現在一本の樹の根元近くから二股に分かれる「一株二股」の松ですが、元々は二本であり、11世紀初め紫式部の『源氏物語』に「武隈の松」は登場します。光源氏が歌に詠んだ「松」は二本であったといわれています。 |
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岩沼駅に戻り、岩沼12:20の電車で12:26名取駅着。今日2つ目の目的地、源氏物語の主人公 光源氏のモデルといわれる中将・藤原朝臣実方の墓をお参りする。 |
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芭蕉も奥の細道で近くまで来たが正確に見つけられず「笠島は いづこさ 月の ぬかり道」の句だけ残している。 |
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芭蕉も難渋した名取の山村らしく畦道やら ぬか道を約1時間程歩く。道を尋ねるにも人の気配がないので5軒の農家に飛び込み2軒は留守、3軒の農家に入ってやっと辿りついた。 |
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平安時代中期の公家・中将藤原朝臣実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の1人。また源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれる。 藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下っていた。 ある日、笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきと村人から言われたがそのまま通りすぎ、神罰が下ったか落馬、亡くなった。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規などがこの地を訪れ、実方を偲んでいる。 |
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中将・藤原朝臣実方の墓 |
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【意】 | 実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った |
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中将・藤原朝臣実方 -------日本伝承大鑑より抜粋------- 藤原実方は中古三十六歌仙の一人で、歌道に秀で美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人)後世において『源氏物語』のモデルの一人とされている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。 長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出た。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と陸奥守に左遷したのである。 本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。 長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない。 この返答に対し実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎた。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけ、実方は落馬し打ち所が悪く死んでしまった。 実方中将の墓は伝承通り、笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考える。 この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。 |
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帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。 |
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アルモンテホテル仙台 |
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西口近くのアルモンテホテル仙台へチェックイン、部屋に荷物を置いて、今日3つ目の目的地 仙台市薬師堂へ向かう。 仙台駅から地下鉄東西線で3つ目の薬師堂駅下車歩いて数分で「陸奥国分寺薬師堂 」 |
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下鉄東西線・薬師堂駅 |
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陸奥国分寺は、仙台市内に現存する中で最古の歴史を持つ寺。 1270年前の奈良時代、聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺のうち最北に置かれた寺だった。 薬師堂を中心とする現在の伽藍は、400年前の江戸時代初頭、仙台藩の祖 伊達政宗公によって再建されたもの。現在は信者さんの祈祷を行う「薬師堂」と、檀家さんの法事を行う「本坊」の2つに役割分担して活動している。 |
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陸奥国分寺 |
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芭蕉は,奥の細道の旅の途中,元禄2年(1689)5月5日から7日までの3日間仙台に滞在。この句は,その時芭蕉を案内した後わらじ二足などせんべつを贈った俳人・北野加之への感謝の気持ちを詠んだもの。 |
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「陸奥国分寺薬師堂 」芭蕉句碑 |
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【意】 | 染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの含意である。 |
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国分寺・薬師堂お参りして地下鉄で仙台へ、駅ビルで夕食の食材を買ってホテル戻る。アルモンテホテル仙台はビジネスホテルにしては大きなお風呂がありゆっくり入って疲れをとる。 夕食は買ってきた神戸コロッケなどで部屋で済ませる。 |
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アルモンテホテルの大浴場---ホテルHPより |
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9月17日 7時~アルモンテホテル1階レストランで朝食。ビジネスホテルとは思えないくらい料理が美味しく種類も豊富、器も綺麗で大満足。次もこのホテルチェーンを探して是非泊まりたいと思っている。 |
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松島・大観荘. 松風閣 |
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9月17日 今日は仙台から松島へ移動。 |
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ホテル近くの仙台・あおば通駅からJR石巻線9:29~に乗り松島海岸駅に10:10分到着。 50年前の新婚旅行ではただ降りて駅前から海岸まで歩いただけでほとんど何も見てなかった。 |
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50年前の松島海岸 |
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50年前にさかのぼる 今日のセンチメンタル・ジャーニーは松島海岸駅から.... | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1971年松島海岸駅前 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2021年同じ場所で | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1971年2月12日、あの時は僅か一泊二日の新婚旅行だった。上野から福島~飯坂温泉、翌日松島に来た時は真冬の寒い夕方でただ寒く日本三景松島とはほど遠い景色しか思い浮かばない。そのあと仙台にむかい深夜の列車で帰京。ささやかで短い旅行だったが楽しさは今以上だったように思う。 |
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松島海岸駅から歩いて観光船乗り場へ歩く。11時出航の船を予約していた。レストハウスの乗船券売り場に入るとキャンペーンで乗船券\1500+お店で使えるクーポン\1500=3000円分が1000円で販売している。二人分2000円で乗船券と3000円の買物券がついてくる。なんという太っ腹な大判振舞い。 |
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出航時間まで30~40分あるので近くの五大堂を見学。 Wikipediaによると『日本三景・松島海岸に近い小島に建つ。伝承によれば大同2年(807年)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。その後、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。現在の堂は、慶長9年(1604年)伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した。東北地方最古の桃山建築と言われており、現在、国の重要文化財に指定されている』 |
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五大堂 |
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11時になり松島島めぐり観光船「仁王丸」乗船する。 客が少ないせいで全員2階席が開放され窓際の二人席に一人づつゆっくり座って島めぐりを楽しむ。 |
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新婚旅行の時は、寒い夕暮れで景色もろくに見ていなかったが、今日はその時見れなかった松島の島々の美しい景観が見れてしっかりリベンジできた! |
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一時間の島めぐりクルーズのあとに松島・瑞巌寺を見学。 |
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瑞巌寺・総門を入り境内へ |
李登輝総統の植栽 |
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日本三景松島・国宝 瑞巌寺 Wikipediaより参照 山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺。平安時代の創建、天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。江戸時代前期の1689年に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。境内に「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。同じ東北地方にある平泉の中尊寺と毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。 |
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瑞巌寺総門~御成門~中門~本堂~宝物館~洞窟遺跡群と見て回る。 |
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瑞巌寺を出て宿の巡回送迎バスの「だいかん亭」土産物店停留所からバスに乗ってホテルへ。 |
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松島・大観荘チェックイン。 松島の景観はここが一番いいのではと幾つかの宿の中から選んだホテル。 |
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松島・大観荘.松風閣556号室 |
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部屋は和室の松風閣。窓から見える松島の景観は期待通りの絶景! あいにくの曇り空だったが青空の下で見たかった景観だが、それにしても曇り空の下でも素晴らしい眺め。 松風閣はこのホテル最初の建物なのでWi-Fiが使えなかった。 |
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大浴場へ連絡通路 |
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お風呂はエレベーターで一度ロビー階に降りて階段を降りた先。チェックインしてすぐで先客もいなく一人で大きなお風呂をひとり占めの贅沢。洗い場はひとつづつ間をあけて「ソーシャルディスタンス」をとっている。 |
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大浴場=ホテルHPから転載 |
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夕食会場は一階レストラン LaCeres。入口で部屋番号告げ窓際席に案内される。夕食時にスパーリングワインと熱燗一本付きプラン(Yahooトラベル)。 |
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松島大観荘1Fレストラン LaCeres | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
食事はブッフェスタイルでマスクとビニール手袋をして料理を取りに行く。お刺身、お寿司がとても新鮮。 |
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飲みきれないスパーリングワインを係の人が箱に詰め手提げ袋に入れてくれた。嬉しい心づかい。 |
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大観荘ロビーフロア |
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もう一度寝る前にお風呂へ。台風の影響で夜激しい雨。 |
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朝食は夜と同じ1Fレストラン LaCeres |
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9月18日(土) 昨夜の雨も朝にはすっかり上がっていた。チェックアウトして10:30分の送迎バスでJR松島駅(松島海岸駅でなく)へ送ってもらう。ここから鳴子はスイカが使用できる区間。 松島駅11:09分~11:30小牛田で乗換11:34~~13:01鳴子温泉駅着。鳴子温泉駅へ走る車窓からたびたび線路ぎわでカメラを構えた集団がたびたび目撃された。 |
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JR・松島駅 |
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小雨の悪天候にもかかわらず沢山のカメラを構えた人達。その理由が鳴子温泉につくとやっと理解できた。~13:01鳴子温泉駅到着するとホームにはあふれるような人達が蒸気機関車を写真に修めている。 12年ぶりの「SL東北DC陸羽東線号」運行に遭遇 |
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鳴子温泉駅でDE10形ディーゼル機関車を切り離しD51単機牽引 |
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2010年12月運転された「 SLゆけむり号」が12年ぶりに鳴子温泉~小牛田を走行する日にぶつかった。 「SL東北DC陸羽東線号」鳴子温泉駅13時03分発~小牛田駅14時49分着で運行。 |
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鳴子温泉観光協会の無料宿泊券当たるキャンペーン |
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まさかこんな日にぶつかるとは、感心しながら陸橋を渡り駅を後にホテルへ向かう。 |
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14時前だったがチェックイン受け付けてもらい部屋に入れた。青葉館・1012号室。 鳴子ホテルは去年泊まっていいお風呂だったので再訪。 |
以前の鳴子ホテル⇒ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鳴子ホテル |
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鳴子ホテルチェックイン。今夜は二人だけだが明日はA家族と合流し5人で宿泊予定。 |
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鳴子ホテル・大浴場---ホテルHPより |
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早速宿自慢のお風呂へ。白濁していい湯。 ただ、今日宿泊した青葉館から1階の大浴場へ行くには、エレベーターを5階のフロント階で降り、廊下を歩き別のエレベーターに乗換えて行くのが少々面倒。 |
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青葉館~紅葉館へ連絡通路 |
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今夜の夕食は大広間で懐石料理 |
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コロナ対策で仕切られた夕食会場 |
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明日は松尾芭蕉が奥の細道で宿泊して唯一現存する建物を見学予定。 |
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封人の家(旧有路家住宅)芭蕉宿泊宿跡 |
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JR陸羽東線・鳴子温泉駅 |
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鳴子温泉2日目。鳴子温泉駅から10:09分発電車で堺田(宮城.山形県堺駅)へ10:23着。ここは山形県になる。 |
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無人駅/山形県.堺田駅 |
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陸羽東線の堺田駅は山形県最上郡最上町にあり宮城県と山形県の県境にある駅。 無人駅でホームの石段を上がるとすぐ右に、全国的にも珍しい平坦な場所にある分水嶺がある。 |
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日本海と太平洋へ流れ分かれる「分水嶺」 |
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東の宮城県は江合川、北上川を116Km下り、石巻市の太平洋へ、西は小国川、最上川を102Km下り山形県酒田市の日本海へ注いでいる。 |
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分水嶺の前に拡がる そば畑。 |
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分水嶺から5分ほど歩いて国道を渡ると、330年前、芭蕉がおくの細道で泊まった宿として現存する最古の家と伝わる、封人の家(旧有路家住宅)がある。 |
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封人の家(旧有路家住宅) |
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1689(元禄2)年5月、芭蕉は門人の曾良をともない 尿(しと)前の関を越え、 「大山を登って日すでに暮れければ封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」と 「おくのほそ道」につづり、大雨のためしかたなく、この家に二泊三日滞在したといわれてる。 |
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封人の家(旧有路家住宅)入口 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【意】 | こうして貧しい宿で寝ると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で飼う馬が土間で尿をするのが響く それさえ、ひなびた情緒を感じる | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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封人の家-----最上町HPより参照 国境を守る役人の家のことで、この名称は俳聖松尾芭蕉の「おくのほそ道」に由来する。 旧有路家住宅「封人の家」 旧有路家住宅は、昭和44年12月18日、山形県東部に古くから見られた茅葺き寄棟造り、広間型民家の好例として、重要文化財に指定された最上町所有の建造物。桁行24.755メートル、梁間9.999メートル、平面積269.180平方メートル(約81坪)の大型民家である。年代は特定できないが、江戸初期を下らない時代の創建と見られている。 昭和46年~48年に解体復元工事が実施されて、創建当時の様式で保存、一般公開されている。 この建造物は、江戸期には新庄藩上小国郷堺田村の庄屋住宅で、内部は床の間、いりざしきなどの5部屋と、内庭、内まや(厩)からなる。 住宅構造には、江戸期に庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅宿ともなり、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史的性格が強く反映されている。 この住宅は、松尾芭蕉が「おくのほそ道」に記した、堺田のいわゆる"封人の家"と見なされ、元禄2年(1689)5月芭蕉は2泊3日にわたって"封人の家"に逗留し、その時の印象を「蚤虱馬の尿する枕もと」の句で表現したと伝わる。 |
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囲炉裏の炎が、芭蕉と曾良が寝たのだろ、薄暗い居間を赤々と照らしている。 囲炉裏の前は土間で前には馬小屋がある。 芭蕉目線で「蚤虱 馬の尿 する枕もと」が見られる貴重な空間。 |
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封人の家から裏道を通って堺田駅へ。 |
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堺田駅から12:12分の電車に乗り鳴子温泉に戻る。前後の電車は10:50分 13:50分、本数が驚くほど少ない、これでやっていけるのか心配。こういうローカル線こそ残してほしいのだが... |
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鳴子温泉駅の待合室 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホテルに戻りお風呂に入って休憩していると、午後2時過ぎ、ホテルに着いたと孫のYちゃんからメールがある。ロビーに迎えに降りて部屋へ案内する。みんなはお風呂に行き、Yちゃん「おじいちゃん街を散歩しよう」と誘われ浴衣で外出する。 |
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鳴子温泉駅~温泉街~湯めぐり回廊を案内しながら歩く。 |
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湯めぐり回廊で珍しい手湯を体験させる。 |
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鳴子温泉神社 |
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湯めぐり回廊~温泉神社をお参りしてホテルに帰る。 |
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夕食前にみんなでもう一度お風呂。 |
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今夜の夕食は5階レストランでバイキング |
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今はどこの宿でも食事の際は手袋マスク着用。 |
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今夜は食事も部屋も孫のYちゃん&娘&お婿さんと5人一緒。 |
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明日から車で一ノ関のYちゃん家に行って泊まる予定で金婚旅行も小休止。 |
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中尊寺・金色堂 |
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鳴子温泉ホテル朝食後10時チェックアウト、K君の運転で出発。 |
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鳴子温泉からは15分程のところの鳴子峡へ |
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紅葉の名所なので真っ赤に色づいた鳴子峡も見てみたい。 |
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鳴子峡から一ノ関に向かう道すがら「尿前の関」で車止め皆に待ってもらい一人石段を下り関所跡を見てくる。 |
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芭蕉と曽良は二人は、1689(元禄2)年5月宮城県大崎市岩から小雨の中 出羽街道を西へ進み、出羽へ入る手前、仙台藩の関所「尿前の関」で二人は足止めを食った。「この道は、旅人がめったに通らず、関所の番人に怪しまれ、やっとのことで関を越えた」...ほそみち に記している |
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出羽街道 尿前の関 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
おくの細道 |
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10~15分で尿前の関を見学して車に戻る。 途中の栗駒山荘で地元の食材など買って行く。ここは温泉宿泊施設で眺めが素晴らしい。 栗駒山は、宮城、秋田、岩手の三県にまたがる山。標高は1,626m。 |
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栗駒山荘 |
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栗駒から途中の国道342号「祭畤大橋災害遺構展望の丘」で東日本大震災の3年前に発生した岩手・宮城内陸地震で崩落した「旧祭畤大橋」を見る。 |
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旧祭畤大橋 崩落現場への歩道 |
旧祭畤大橋--朝日新聞記事 |
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国道342号を旧祭畤大橋から一関方面に進み、20分程で厳美渓入口に到着。 |
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厳美渓駐車場からの通路 |
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厳美渓に到着。 栗駒山を源に流れる磐井川が巨岩を侵食した2kmにわたる渓谷美、風情ある遊歩道を歩く。 |
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創業明治40年の名物「かっこうだんご」は渓流をはさんだ対岸に店があり、川の上に張られたロープに下がる籠に注文と代金を入れて木槌を鳴らすと、籠は引き上げられ代わりに注文しただんごとお茶が入って降りてくる。 |
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厳美渓名物 かっこうだんご「空飛ぶだんご」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
車に戻り、厳美渓から一ノ関のYちゃん家にむかう。 Yちゃんは昨年北海道と岩手県の教員試験受験どちらも合格したが、何故か岩手県を選んで今年の4月から最初の赴任先一ノ関の学校近くで一人暮らしをしている。 |
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孫のYちゃん宅訪問 娘夫婦は今度で3回目初めての娘の一人暮らしが心配でしょうがないのだろう。がK&Mは初めて。たまたま明日が75歳Kの誕生日。夕食時Yちゃんケーキを用意お祝いしてもらう。 |
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Yちゃん家は2LDK。布団を並べて敷いてやすむ。 |
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朝ごはんを皆で食べ、Yちゃんは出勤時間、玄関で「じじ ばば は今日、中尊寺を見学して夕方帰るので夕食支度して待ってるよ」言うと笑顔で出かけた。学校は歩いても10分位だが自転車通勤してる。 |
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一ノ関駅まで歩き8:56発の電車に乗り中尊寺最寄り駅の平泉駅へ9:03着。 歩いて最初は芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ高館・義経堂へ向かう。 |
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平泉駅から線路を渡って中尊寺通りを歩きはじめる。間もなく右にそれて義経終焉の地、高館(衣川館)・義経堂がある。芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだと思われ場所だ。 |
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義経が始めて平泉を訪れてのは1174年、義経16歳の時で その頃の平泉は京都の文化にも引けを取らない平泉文化の成熟期を迎えていた。頼朝挙兵までの6年間義経は22歳までここ平泉で過ごした。平氏討伐後、義経の力を恐れた兄 源頼朝に追われるが、藤原氏三代 秀衡の庇護を受け、高館に居館を与えられた。ところが秀衡 病没のち、四代泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、1189年、父の遺言に背き衣川館を急襲して義経に付き従ってきた武蔵坊弁慶など忠臣が応戦するも、圧倒的な数の差に敗れ、義経は妻子と共にここで自害したと伝えられている。 |
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高舘義経堂前からの眺め..芭蕉もこの景観を眺めたことだろう |
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義経終焉の地 高館(衣川館)・義経堂の「夏草や 兵どもが 夢の跡」芭蕉句碑 |
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【意】 | 夏草の茂るこの地は兵士たちが功名を夢見て戦った跡。私も夢にその面影を感じたことだ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高舘義経供養塔 |
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源義経主従終焉の地高舘義経堂を出て中尊寺駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。 伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだ。有名な“弁慶の立ち往生”である。が、あくまで伝承で弁慶が実在したかどうか定かでない。 |
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弁慶の墓 |
弁慶の墓 |
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金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。 |
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月見坂 |
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中尊寺はもっと大きな建物を想像していたが思ったより控え目な簡素な寺院だった。 |
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中尊寺 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中尊寺由来....中尊寺HPより参照 中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。 鎌倉時代以降、次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。 |
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「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。 ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。 |
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中尊寺 金色堂 |
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【意】 | すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている |
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中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像 |
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中尊寺・金色堂について....中尊寺HPより参照 金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。 内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。 この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。 仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。 |
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中尊寺・金色堂 |
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最後に能楽殿を見学。 能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。 |
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能楽殿・能舞台 |
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レストハウス横の中尊寺バス停から一ノ関駅行き11:58分に乗りYちゃん家近くの竹山バス停で下車、途中のフードパワーセンターというスーパーで今夜の総菜を買って帰る。 |
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中尊寺に行っている間にK君は明日から仕事なので先に帰っていた。新幹線の中からLineで鳴子~一ノ関の写真をアルバムにして送ってくれた。 18時Yちゃん仕事から帰り一緒に夕食。 |
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今朝もYちゃんを職場に送り出してお別れする。9時半、荷造りして金婚旅行に再出発。一ノ関駅まで歩き10:15分の電車で花巻へ向い11:06花巻駅に着く。 |
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花巻駅から宮沢賢治記念館へ見学予定で記念館方面行きのバスが、まだ1時間もあとの便しかない。記念館までは約7㌔程あるが行けるところまで行こうと歩き始める。 |
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花巻駅前 |
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