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福島二本松.飯坂~松島、仙台、平泉へ |
福島スタート
阿武隈川を渡り
信夫・文知摺石
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(11)信夫
(12)飯坂医王寺
(13)白石~岩沼
(14)岩沼武隈の松
(15)仙台
(16)平泉高館
(17)平泉中尊寺
18)堺田
19)尾花沢 20)尾花沢 21)尾花沢
22)立石寺
23)大石田
24)羽黒南谷本坊
25)南谷別院羽黒山
26)南谷別院月山
27)南谷別院湯殿山 28)酒田 29)酒田 30)象潟 31)象潟
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芭蕉は生地は伊賀市であることから亀岡八幡宮お参りの際、仙台城(青葉城)仙台城では、上級武士ですら通常ならば通行できない、大手門から入城二の丸三の丸を訪れている(芭蕉隠密説)。
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早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり) |
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五月女(田植えする五月頃の.さおとめ)たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺(シノブの茎や葉の色素を布にすりつけて表したねじれたような模様)を摺っていたかとしのばれる。
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福島市の文知摺観音堂にある文知摺石を眺めて詠んだ。
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笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり) |
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弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。 武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。
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瑠璃光山 医王寺(弁慶の笈や太刀)〒960-0231 福島県福島市飯坂町平野寺前45
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笠島は いづこさ 月の ぬかり道 |
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藤中将実方の塚がある笠島はどのあたりだろう。五月雨でぬかった道で訪ねることもかなわない。
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桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきごし) |
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あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒 |
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染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」と詠んだ
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雨の中を北上した芭蕉たちは、白石城下で1泊。翌日1689(元禄2)年5月4日(陽暦6月20日)、岩沼経由で仙台を目指した。飯坂―仙台間は90キロ余り。これを2日で歩くのだから、急ぎ足だったろう。 芭蕉は「おくのほそ道」で、藤原実方の墓があるという「笠島」を遠く眺め〈笠島はいづこさ月(つき)のぬかり道〉、岩沼では能因らが歌を詠んだ歌枕「武隈の松」を訪れ〈桜より松は二木(ふたき)を三月越(みつきごし)〉と詠んだ。急ぎながらも芭蕉はご満悦である。
、岩沼から先、名取川を渡り、芭蕉たちが仙台の城下に着いたのは4日の夕方。ちょうど、家の軒にショウブをふき、邪気を払う端午の節句の日だった。
芭蕉たちは仙台に8日まで4泊したが、初めは宿探しに歩き回った。曽良の「日記」によると、まず国分町の旅籠大崎屋に投宿、当時仙台を中心に活動中の談林派の俳諧師、大淀三千風を人に尋ねるが消息不明。どうにも、あてにしていた人々がつかまらない。
そこへ三千風の高弟で木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門。芭蕉たちは、彼を訪ね三千風が旅に出て不在と知るが、この出会いが芭蕉たちを、ある意味、救ったのだ。
、二人は大崎屋に泊まり翌6日は、好天の下、大手門内の亀岡八幡宮を参拝。7日は、加右衛門が「和歌に詠まれながら不明になっている名所を調べている」と言い、玉田、横野、榴ケ岡、木下などを訪れ、薬師堂、天神社なども巡った。 さらに、その夜これから行く松島などの絵地図を描き、(マムシなどを防ぐといわれる)染緒を紺にした草鞋2足まで添えて餞別にくれたのだ。そして〈あやめ草(ぐさ)足に結(むすば)ん草鞋の緒(お)〉旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう、の意。紺の染緒をアヤメ草に詠み代えたのだ。 そして芭蕉は「風流の道の痴(し)れ者は、この心遣いで、その本領を発揮したというべきだ」と、最大の賛辞を贈った。芭蕉が、ここまで人間を描いたのも珍しい。
芭蕉と曽良、仙台での3日目、亀岡八幡宮をお参りし、城の大手門をくぐり二の丸、三の丸を通り訪れている。 |
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夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡 |
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五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂 |
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蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり) する枕もと |
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涼しさを 我(わが)宿にして ねまる也 |
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這出(はひいで)よ 飼(かひ)屋が下の 蟾(ひき)の声
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眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
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| 9)須賀川 | 10)須賀川 | 11)信夫 | 12)飯坂 医王寺 | 13)白石~岩沼 | 14)岩沼 武隈の松 | 15)仙台 | 16)平泉 高館 | 17)平泉 中尊寺 |
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森川許六(蕉門十哲) 「奥の細道行脚之図」 |
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蕪村画 逸翁美術館 大きい画像⇒ |
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『おくのほそ道』を辿る旅第二回 |
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(1)草の戸も住替すみかはる代ぞ雛ひなの家 (2)行ゆく春や鳥啼なき魚の目は泪 (3)あらたふと青葉若葉の日の光 (4)暫時しばらくは滝に籠るや夏げの初はじめ (5)夏山に足駄あしだを拝む首途かどで哉 (6)木啄きつつきも庵いほは破らず夏木立なつこだち (7)野を横に馬牽向ひきむけよほとゝぎす (8)田一枚植うゑて立たち去る柳かな
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(1)深川
(2)千住
(3)日光
(4)日光裏みの滝
(5)黒羽光明寺
(6)黒羽雲巌寺
(7)那須野
(8)遊行柳
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(9)風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた
(10)世の人の見付つけぬ花や軒の栗
(11)早苗とる手もとや昔しのぶ摺ずり
(12)笈おひも太刀も五月さつきにかざれ帋幟かみのぼり
(13)笠島はいづこ五月のぬかり道
(14)桜より松は二木ふたきを三月越みつきごし
(15)あやめ草ぐさ足に結むすばん草鞋わらぢの緒
(16)夏草や兵つはものどもが夢の跡
(17)五月雨さみだれの降ふり残してや光堂 |
(9)須賀川
(10)須賀川
(11)信夫
(12)飯坂医王寺
(13)白石~岩沼
(14)岩沼武隈の松
(15)仙台
(16)平泉高館
(17)平泉中尊寺 |
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(18)蚤虱のみしらみ馬の尿ばりする枕もと
(19)涼しさを我わが宿にしてねまる也 (20)這出はひいでよ飼かひ屋が下の蟾ひきの声 (21)眉掃まゆはきを俤おもかげにして紅粉べにの花 (22)閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声 (23)五月雨を集めて早し最上川 (24)有難ありがたや雪をかをらす南谷 (25)涼しさやほの三日月の羽黒山 (26)雲の峰幾つ崩くづれて月の山 (27)語られぬ湯殿ゆどのにぬらす袂たもとかな (28)あつみ山や吹浦ふくうらかけて夕涼み (29)暑き日を海に入れたり最上川 (30)象潟きさがたや雨に西施せいしが合歓ねぶの花 (31)汐越しほごしや鶴脛はぎぬれて海涼し |
(18)堺田
(19)尾花沢
(20)尾花沢
(21)尾花沢
(22)立石寺
(23)大石田
(24)羽黒南谷本坊
(25)南谷別院羽黒山
(26)南谷別院月山
(27)南谷別院湯殿山
(28)酒田
(29)酒田
(30)象潟
(31)象潟 |
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(32)文月ふみづきや六日も常の夜には似ず (33)荒海や佐渡さどに横たふ天河あまのがは (34)一家ひとつやに遊女も寝たり萩はぎと月 (35)早稲わせの香や分入わけいる右は有磯海ありそうみ (36)塚も動け我泣声わがなくこゑは秋の風 (37)秋涼し手毎てごとにむけや瓜茄子うりなすび (38)あかあかと日は難面つれなくも秋の風 (39)しをらしき名や小松こまつ吹ふく萩はぎすゝき (40)むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす (41)石山の石より白し秋の風 (42)山中やまなかや菊はたをらぬ湯の匂にほひ (43)今日よりや書付かきつけ消さん笠の露 (44)庭掃はきて出いでばや寺に散ちる柳 (45)物書かきて扇引ひきさく余波なごり哉 (46)月清し遊行ゆぎやうの持てる砂の上 (47)名月や北国日和びより定さだめなき (48)寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋 (49)浪なみの間まや小貝こがひにまじる萩はぎの塵ちり (50)蛤はまぐりのふたみに別れ行ゆく秋ぞ |
(32)直江津 (33)出雲崎 (34)市振 (35)俱利伽羅峠付近 (36)金沢 (37)金沢 (38)金沢~小松 (39)小松 (40)小松多太神社 (41)小松那谷寺 (42)山中温泉 (43)山中温泉 (44)大聖寺全昌寺 (45)松岡天龍寺 (46)敦賀気比神宮 (47)敦賀 (48)敦賀色ヶ浜 (49)敦賀色ヶ浜 (50)大垣 |
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おくのほそ道 出典: Wikipedia |
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元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」という序文より始まる。作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。 |
概要
おくのほそ道は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、桜の花咲くころの元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵出発し....行く春や鳥啼魚の目は泪.....船に乗り千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる十数日間滞在する地となった。
ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や
鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。
ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って山寺(立石寺)に立寄り、「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉の聲こえ」の句を残す。 日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟きさかたに到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。
ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。
さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。 |
4つの原本
推敲の跡多い原本には中尾本(おくの細道)と曾良本(おくのほそ道)があり、個々の芭蕉による真筆箇所もしくは訂正箇所については現在でも論が分かれている。その後に芭蕉の弟子素龍清書した柿衞本・西村本がある。この柿衞本・西村本は共に素龍清書本とも呼ばれる |
出版経緯
西村本の外題「おくのほそ道」は芭蕉自筆とされており、これが芭蕉公認の最終形態とされる。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年(元禄15年)に西村本を基に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」と書くのが正式とされるのはこの原題名に基づく。
この元禄初版本は現在1冊しか確認されていないが、増刷され広まったため版本は多く残る。よって現在世間一般に知られる「おくのほそ道」は、西村本を原本とした刊本の本文を指す。
1938年(昭和13年)に曾良本が発見された。1960年(昭和35年)に柿衞本の存在が発表され、1996年(平成8年)に芭蕉の真筆である野坡本の発見とされた中尾本の存在が発表されている。これによりこの本の原点を探る研究・出版がより増すこととなった。 |
江戸旅立ち
元禄2年春 芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う。「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」
3月27日 明け方、採荼庵より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む。矢立の初め「行く春や 鳥なき魚の 目は泪」
4月1日 日光「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
4月4日 黒羽 光明寺 栃木県大田原市黒羽を訪れ、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪
4月5日 栃木県大田原市の雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねる。「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」
4月9日 栃木県大田原市の修験光明寺に招かれて行者堂を拝する。「夏山に 足駄を拝む 首途哉」
4月19日 那須 温泉神社 殺生石 栃木県那須町の温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねる。「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」
4月20日 白河の関「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」
5月4日 多賀城 壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしたという。
5月9日 松島 芭蕉は美観に感動したあまり「いづれの人か筆をふるひ詞ことばを尽くさむ」と自ら句作せず、曾良の句を文末に置いた「松嶋や 鶴に身をかれほとゝぎす」曾良
5月13日 平泉 藤原3代の跡を訪ね「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠む。「夏草やつはものどもが夢のあと」「五月雨の 降り残してや 光堂」光堂と経堂は鞘堂に囲まれ開帳されていなかったと伝えられこれら二つ堂は見ていないとされる。
5月14日 尿前の関 「蚤虱 馬の尿する 枕もと」
5月17日 尾花沢 旧知の豪商、鈴木清風を訪ねる。「涼しさを 我宿にして ねまる也」「這出よ かひやが下の ひきの声」「まゆはきを おもかげにして べにの花」
5月27日 立石寺(山形市山寺)にて。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
5月29日 新庄 最上川の河港大石田での発句を改めたもの。五月雨を あつめて早し 最上川
6月5日 出羽三山 羽黒山「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」 6月6日 月山「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」 6月7日 湯殿山「語られぬ 湯殿にぬらす たもとかな」
6月10日 鶴岡にて。「珍しや 山をいで羽の 初茄子び」
6月14日 酒田にて。「暑き日を 海にいれたり 最上川」「あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ」
6月16日 象潟きさがたは松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高かった。象潟を芭蕉は「俤おもかげ松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象泻は憾むうらむが如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり」と形容した。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」西施は中国春秋時代の美女の名。「汐越 鶴はぎぬれて 海涼し」
7月4日 越後 出雲崎 いずもざきでの句。「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」
7月13日 市振の関 親不知おやしらずの難所を越えて市振いちぶりの宿に泊まる。「ひとつやに 遊女もねたり 萩と月」
7月14日 越中 那古の浦 数しらぬ川を渡り終えて。「わせの香や 分入右は 有磯海ありそうみ」
7月15日 金沢(陽暦では8月29日)から24日 城下の名士達が幾度も句会を設ける。蕉門の早世を知る。江戸を発って以来、ほぼ四ヶ月。曾良は体調勝れず。急遽、立花北枝が供となる。「塚も動け 我泣聲わがなくこえは 秋の風」「秋すゝし 手毎にむけや 瓜天茄うりなすび」当地を後にしつつ途中の吟 「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
7月25日から27日 小松 山中温泉から戻り8月6日から7日 懇願され滞在長引くも安宅の関記述なし。「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」
7月26日 加賀 片山津 『平家物語』(巻第七)や『源平盛衰記』も伝える篠原の戦い(篠原合戦)、斎藤実盛を偲ぶ。小松にて吟。「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
7月27日から8月5日 山中温泉 大垣を目前に安堵したか八泊和泉屋に宿「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂」「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云う所にゆかりあれば、先立ちて行に」
「行行ゆきゆきて たふれ伏ふすとも 萩の原」曾良と書き置たり。「今日よりや 書付消さん 笠の露」
8月5日 小松 那谷寺 小松へ戻る道中参詣、奇岩遊仙境を臨み。「石山の 石より白し 秋の風」
8月7日 大聖寺 熊谷山全昌寺 前夜曾良も泊まる。和泉屋の菩提寺、一宿の礼、庭掃き。「庭掃て出でばや寺にちるやなぎ」「終宵よもすがら秋風聞やうらの山」曾良
8月9日 越前 吉崎「この一首にて数景尽たり」 蓮如ゆかり吉崎御坊の地。「終宵よもすがら 嵐に波を 運ばせて 月を垂れたる 汐越の松」
8月10日 丸岡 天龍寺 金沢から供とした立花北枝とここで別れる。 「物書て 扇引さく 余波哉」
8月14日、夕方、敦賀に到着。仲哀天皇の御廟である氣比神宮に夜参する。美しい月夜であった。遊行二世上人のお砂持ちの故事にちなんで。「月清し 遊行のもてる 砂の上」
8月15日、北国の日和はあいにくで、雨が降り、十五夜の名月は見れず。「名月や ほっこく日和 定めなき」
8月16日、西行の歌にもある「ますほの小貝」を拾おうと、船で色ヶ浜へ向かう。「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
8月21日頃、大垣に到着。門人たちが集い労わる。
9月6日 芭蕉は「伊勢の遷宮をおがまんと、また船に乗り」出発する。 結びの句「はまぐりの ふたみにわかれ 行く秋ぞ」 |
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