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山梨県立文学館/村岡花子展 |
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村岡花子展入口のグリーンゲイブルズ・赤毛のアン/オブジェ |
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4月8日京王線・仙川駅でKazuと待合せ。 Kazuの車で甲府市・山梨県立文学館で開催中の連続テレビ小説『花子とアン』のモデル村岡花子展へ。 |
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村岡花子展会場は湯村温泉の近く山梨県立文学館。14:30到着。 |
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県立文学館は甲府市「芸術の森公園」の中。隣接している県立美術館にはミレーの代表作『落穂ひろい-夏』『種をまく人』などミレーの作品が多数所蔵展示されている。 |
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村岡花子について Wikipediaより | ||||||||||||||||||||||||||||
山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれる。本名は村岡 はな(むらおか はな)、旧姓:安中。クリスチャンである父の希望により、2歳でカナダ・メソジスト派の甲府教会において小林光泰牧師より幼児洗礼を受ける。父の逸平は静岡県の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなる。布教の流れで甲府に移り住み、そこで出会ったてつと結婚してその実家に住むようになる。教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女のはなに過剰なほどの期待をかけた。 常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えず、はなが5歳の時にしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになる。城南尋常小学校に通うはなは、心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむ幼少期を過ごした。その頃、社会主義活動に加わった逸平は特に教育の機会均等を訴え、娘の才能を伸ばすべく奔走し、1903年(明治36年)、学校創設者との信仰上の繋がりから、10歳のはなを東洋英和女学校に給費生としての編入学を実現させる。一方、家族の生活は困窮しており、8人きょうだいのうち高い教育を受けたのは長女のはなのみで、他の弟妹は次女と三女を残して皆養子や奉公などで家を出されている。はなの入学は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであった。 東洋英和女学校でカナダ人I・S・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、大正三美人の1人で後に白蓮事件を起した同級生柳原白蓮の紹介で佐佐木信綱から万葉集など日本の古典文学を学ぶ。この頃からペンネームとして安中 花子を名乗るようになる。同校高等科在学中からアイルランド文学の翻訳家松村みね子(筆名片山廣子、芥川龍之介の晩年の恋人)の勧めで童話を執筆。 1914年に東洋英和女学院高等科を卒業、英語教師として山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、キリスト教の夏季講座で市川房枝と出会う。1917年から、東京銀座のキリスト教出版社である教文館に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった村岡儆三と出会い、不倫の末、1919年に結婚し、村岡姓となる。1920年に誕生した長男を、1926年に病で失う。このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。1927年、片山廣子の勧めにより、マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を『王子と乞食』の邦題で翻訳し、平凡社から公刊。1932年から1941年11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった[5]。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードをいくつか発売した。第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力(その一方、婚外子への法的差別撤廃には反対した)。その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受ける。1968年、脳血栓で死去。長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、花子の直系子孫は存在しない。後に、妹・梅子の長女・みどり(1932年生)を養女とする。そのみどりの娘で花子の義理の孫にあたる村岡恵理は赤毛のアン記念館館長を務めている。クリスチャンとしては日本基督教団大森めぐみ教会の会員として、教会に通った。 (モンゴメリと村岡花子) 村岡とモンゴメリとの出会いは、日本を去る宣教師のミス・ショーに手渡された『赤毛のアン』の原書、1908年の冬版であった。この出会いは1939年のことで、村岡は灯火管制のもと翻訳を続けて終戦の頃に訳し終え、1952年に三笠書房から出版された『赤毛のアン』は日本の読者にも広く受け入れられた。村岡はその後、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、モンゴメリの作品翻訳を次々と手がける。村岡の最後の翻訳作品となった『エミリーの求めるもの』は、彼女の没後、1969年に出版された。山本史郎の『東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章』(東京大学出版会)は村岡の訳の中に一部が欠落していることの理由を考えた講義である。 (年表) 1893年、山梨県甲府市に生まれ東京に育つ。1904年東洋英和女学校へ編入学。 1914年、に東洋英和女学院高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。 1919年、結婚。1920年、長男誕生。1926年、長男を疫痢で喪う。 1927年、マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊。 1932年、から1942年までJOAK(NHK東京放送センター)のラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、「ラジオのおばさん」で人気を博す。 1939年、宣教師のミス・ショーからモンゴメリの"Anne of Green Gables" を受け取る。 1952年、モンゴメリの"Anne of Green Gables" を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊。 1952年、日本初の家庭図書館である道雄文庫ライブラリーを自宅に開館。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。 1963年、夫を喪う。 1967年、アメリカ合衆国を訪問後の翌年、1968年脳血栓で死去。享年75歳 |
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山梨県立文学館 |
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山梨県立文学館は日曜日なので駐車場もいっぱい園内も見学者ですごい盛況でテレビの影響力はすごい。 |
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甲府市「芸術の森公園」はそこそこにオブジェや彫刻が配置されとてもきれいに整備された素晴らしい公園になっている。文学館前にパリのロダン美術館庭園を模したであろう錐形の植木。 |
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文学館前の『野山を歩くファン・ゴッホ』像オシップ・ザッキン作 富士山を背に南アルプスを向いて建っている。本物はゴッホ終焉の地パリ郊外オーヴェル・シュル・オワーズ駅近くのゴッホ公園に設置されている。 |
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入場料は600円・県内宿泊者は480円に割引。 2階が村岡花子展/展示室。 |
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2階展示室。村岡花子の生涯が年代順に整理陳列されている。 |
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感心したのは村岡花子が教鞭を取った甲府市の英和中・高等学校は明治22年開校で初代校長はカナダ人ウイントミュート。この明治時代に外国から教育者を招いている先進性に驚きを感じた。 |
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太宰治など山梨関連作家の県内分布図。 |
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山梨県立文学館見学後 湯村温泉・富士屋ホテルへ。 湯村温泉はいまではひなびてきているが、過去 太宰治、井伏鱒二、松本清張、山口瞳、田山花袋、飯田蛇笏、竹中英太郎、など多くの文人も逗留した山梨が誇る歴史ある名湯。 |
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湯村温泉街はいまではひなびてきているが、過去 太宰治、井伏鱒二、松本清張、山口瞳、田山花袋、飯田蛇笏、竹中英太郎、など多くの文人も逗留した山梨が誇る歴史ある名湯。 |
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湯村温泉/富士屋ホテルにチェックイン。 富士屋は駐車場からフロントまで長い廊下を歩く。通路脇の大広間には結婚式があるのかきれいにセットアップがされている。 |
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部屋から東南の山麓上に富士山が雲の中霞んで見える。 |
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富士屋はJTBで予約。 チェックインの際『アップグレードさせていただきました』と案内された部屋は最上階で(12F)12畳x10畳x居間付き。こんなに広い部屋は初めての経験。3人では広すぎてもったいない。 |
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部屋の窓から富士山が遠く雲の合間から顔を覗かせている。 天気だったら裾野まで綺麗に見えるだろうが残念。 |
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18時から夕食は13階の鉄板焼きレストラン『KEYAKI』。
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13階レストラン『KEYAKI』 |
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『KEYAKI』前菜 |
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『KEYAKI』テンダーロインステーキ |
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『KEYAKI』牛肉ひつまぶし |
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デザートは隣室。 |
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『KEYAKI』デザート・ショコラ |
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ホテルだが富士屋のお風呂は天然温泉。 |
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12階1203号室。3人では無駄に広すぎる。 |
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ただ窓も部屋の広さに比例して大きく甲府の夜景が窓いっぱいに綺麗。 |
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朝食は3階レストランで。 焼きたてオムレツと、地元のほうとうはさすがに美味しかった。 |
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みんな朝からすごい食欲。 |
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10:00富士屋ホテルチェックアウト。お墓まいりへ。 |
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柳川寺 |
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6月9日。2月の兄の3回忌は記録的な大雪で欠席していたので今日お参りする。 |
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善妙寺 | バスは一日5本 |
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富士川町鰍沢『うなぎ国本屋』 |
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うなぎ特上・2550円 |
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きざみうな丼・1230円 |
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富士川町鰍沢松月堂『やまが焼き』はみんなの大好物。お土産に買う。 |
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中央高速で約2時間弱で18:00三鷹駅前着。Kazuと別れ電車で帰宅。 |
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