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東京都心街歩き

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水道橋 神楽坂 霞ヶ関 愛宕山 芝公園 増上寺 青山
東京街歩き
8月2日(朝)
水道橋

後楽園

伝通院

飯田橋

神楽坂



2013年8月2日(金)
東京都心街歩きは水道橋からスタートする。
まず、東京ドーム横を通って地下鉄後楽園駅前へ。そこから徳川家康生母・於大の方の墓のある伝通院にむかう。



東京ドームに来ると必ず思い出すのは、今から50年以上前、小学生の夏休み、伝統の巨人阪神を姉に伴われて観覧した時姉が買ってくれ初めて食べたホットドックのおいしかったこと。
後楽園名物だったホットドックは今も売られて球場前にくると、どこともなく当時と同じホットドックの香りが漂っている。その匂いを嗅ぐと、あの夏休み子供の頃の記憶が蘇りたまらない。


東京ドームから程近い『伝通院』へは地下鉄後楽園駅を通って行く。東京ドーム駅でなく後楽園というのが嬉しい。

東京街歩き
8月2日(朝)
水道橋

後楽園

伝通院

飯田橋

神楽坂



東京メトロ・後楽園を通り過ぎ文京区役所前の春日通り信号を左折する。
ゆるやかな坂道をゆっくり登ってしばらくいくと伝通院前交差点。そこを右に折れると広い通りの正面に伝通院の山門が構えている。


伝通院

午前8時半伝通院着。
境内に入ると正面が本堂、左奥に墓地があるようだ。
朝早かったので照明が消えたままの薄暗い本堂に入りお参りする。


本堂脇を抜けて裏側の墓地の一角に目指す徳川家康の生母、於大の方とその曾孫で豊臣秀頼に嫁ぎ波乱の一生を終えた、家康の孫、千姫の葬られている墓地がある。歴史を生きたお二人の立派な墓石に手を合わせる。周りには徳川家ゆかりの方々の墓石が並んで建っている。

東京街歩き
8月2日(朝)
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於大の方
享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日)
松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。
尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせたが、松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、天文10年(1541年)に於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた。翌天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男竹千代(後の家康)を出産した。しかし忠政の死後水野家を継いだ於大の兄信元が天文14年(1544年)に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ったため、於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返された。於大は天文17年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に水野家と松平家の間で帰趨が定まらず、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には三男三女をもうける。この間、家康と音信を絶えず取り続けた。桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号した。関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。
千姫(せんひめ)
慶長2年4月11日(1597年5月26日) - 寛文6年2月6日(1666年3月11日)、
豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。
慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった。同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。しかし、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と2人で竹橋の邸で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。寛永9年(1632年)、父・秀忠薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。寛文5年(1655年)の越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(千姫実妹、越後高田藩主松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行った。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。夫・秀頼とは夫婦仲睦まじく、千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。穏和な性格の持ち主と伝えられる一方、豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・天秀尼が処刑されそうになった際に体を張って必死の助命嘆願を行い、天秀尼は助けられる。天秀尼は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となった。曾祖父・織田信秀と祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。2人目の夫・忠刻も眉目秀麗であったといわれ、美男美女夫婦で仲睦まじかった。亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(上記の秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために「浄土三部経(全4巻)」を書き写した。奈阿姫の書いた「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、茨城県常総市指定文化財となっている。祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられ、また、弟・家光とも姉弟仲は良好だったらしい。歴代の幕府もその経歴から処遇に関しては細心の注意を払った。

本堂に戻り納経をお願いしようと社務所に伺うがまだ施錠されたままなのでしばらく境内を散策する。しばらくして従事しているらしい女性が見えたので声をかけると奥に入って社務所をあけてくれ、納経をしてもらう。

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8月2日(昼)
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飯田橋

神楽坂

永田町

虎ノ門
伝通院を後にして後楽園から地下鉄で乗って飯田橋駅で下車。神楽坂へ。神楽坂下から神楽坂商店街の坂道を上がって行く。7月末開催された神楽坂祭りの名残りか神楽坂通りにはちょうちん飾りがそのまま残っていて今夜にも祭りがある風情だった。
神楽坂 毘沙門天 善國寺 は日蓮宗の寺


安土桃山時代の文禄4年(1595年)、池上本門寺第12代貫主である日惺上人により、馬喰町に創建される。 たびたび火災に見舞われ、麹町を経て寛政5年(1793年)には現在地へ移転した。 本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれ、現在は山手七福神の一つに数えられている。

坂をあがり切ったさきに目指す安養寺の山門がひっそりと建っていた。入ってすぐ右の本堂にお参りして左手の玄関のチャイムを押すと住職さんらしき方が納経を引き受けてくれたので、境内を見学しながら待つ。納経帳を受け取り来た道をまた神楽坂下方面に向かって歩く。商店街中ほどに毘沙門天・善国寺がにぎやかな飾りつけのまま祭りの名残をいっそう残していた。軽く手を合わせて地下鉄飯田橋駅に戻り南北線で永田町に向かう。
江戸三十三ヵ所16番安養寺
神楽坂
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8月2日(昼)
神楽坂

永田町

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国会議事堂

虎ノ門


永田町駅から砂防会館前を通り最高裁判所前を右折、国立国会図書館前〜国会議事堂裏手へ、通りの向かい側には衆議院議員会館が建つ。小学校の時国会議事堂は見学しているがまったく記憶になく今こうして目の前にするとその姿に何故か感動を覚える。国会議事堂正面へは南門から半周すると正門前に出る。

国立国会図書館

今日は参議院選挙後初の臨時国会開催日で周囲は警察車両と警察官の数がすごい。歩いているだけでも少し緊張するくらいだが、警備の警察官に今日の国会議事堂の見学方法を尋ねるととても親切にアドバイスしてくれ、それによると今日は国会が開催のため一般の見学は午後4時から裏門の見学者受付に申し込むといいそうだ、が4時までは待てないので外から見ていこうと思い正面まで行く。


国会議事堂正面は警備の警察官に写真撮影を尋ねると門の外からならどうぞと言われたので柵の間から写真におさめてもとの道を戻る。
東京街歩き
8月2日(昼)
永田町

霞ヶ関

国会議事堂

アメリカ
大使館

虎ノ門

国会議事堂
現在の建物は1936年(昭和11年)に帝国議会議事堂として建設され,
左右対称形を成しており、正面に向かって左に衆議院、右に参議院が配置されている。
1881年(明治14年)10月12日、明治天皇から国会開設の詔が発せられ、1890年(明治23年)を期して「國會」を開く事が表明された。4年後の1885年(明治18年)に内閣制度が発足すると議事堂建設の取り組みが始まった。1886年(明治19年)2月に内閣臨時建築局が設立され、ドイツ帝国から建築家を招聘し、官庁集中計画と議事堂の設計が成された。1887年(明治20年)4月の閣議で、議事堂建築予定地が麹町区永田町一丁目に決定されたが、官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会の開設も切迫していたため、この計画による議事堂建築は中止された。こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設された。ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーおよび臨時建築局技師吉井茂則の設計による第一次仮議事堂は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24日に竣工した。会期中の翌1891年(明治24年)年1月20日未明に漏電により出火、仮議事堂は全焼した。このため華族会館(旧鹿鳴館)、後に帝国ホテルを貴族院にあて、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあて、急場をしのいだ。その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェの設計による第二次仮議事堂が昼夜兼行の作業で再建され、同年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は11月21日召集)。1894年(明治27年)8月には日清戦争が勃発、大本営が広島に移されると、臨時仮議事堂が約半月の突貫工事で広島に建設され、同年10月14日竣工、翌10月15日に召集された第7回帝国議会で使用された。東京以外で帝国議会が開会された唯一の事例である。日露戦争後の1906年(明治39年)には仮議事堂の改修および本格的な議事堂の建設が決まったが、大正政変により実施は延期された。さらに数年を経た1918年(大正7年)9月になって新議事堂の意匠が一般公募されることになった。翌1919年(大正8年)2月、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省技手の渡辺福三案(実際には宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた[3]。当選案を参考に大蔵省臨時議院建築局が実際の設計を行い、デザインは大幅に変更された。1920年(大正9年)1月30日に原敬内閣総理大臣などが参列して、現在地である永田町の高台において地鎮祭を挙行、新議事堂の建設が始まった。1923年(大正12年)には関東大震災に見舞われたが、建設中の新議事堂および第二次仮議事堂は無事だった。しかし1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こして焼失した。このため政府は第三次仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう9月29日に建設着手し、昼夜兼行の突貫工事でわずか3か月で建設され、同年12月22日に完成した。新議事堂の完成が近づいた1936年(昭和11年)2月26日には二・二六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇した。こうした苦難を経て、新議事堂が広田弘毅内閣総理大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、着工から実に17年を経た1936年(昭和11年)11月7日のことだった。第二次世界大戦後に日本国憲法が制定され、帝国議会にかわる国会が国権の最高機関と位置付けられると、国会議事堂はその権威を象徴する施設となった。また議事堂周辺の国有地が衆議院および参議院の所管に移され、民有地も次々に買収されていったため、現在の国会議事堂の周囲は国会や政党関係の施設が立ち並び、日本の政治の中枢となっている。
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都心街歩き
東京街歩き
8月2日(昼)
霞ヶ関

国会議事堂

アメリカ
大使館

虎ノ門

国会議事堂前交差点までくると斜め前にはニュースでたびたび見慣れた、首相官邸だ。もちろん中入らず通りの反対側から撮影する。その隣に幽霊が出ると話題の総理大臣公邸を過ぎ、次にアメリカ大使館へ向かって歩く。
総理官邸
東京街歩き
8月2日(昼)
霞ヶ関

国会議事堂

総理官邸

アメリカ
大使館

虎ノ門


左に国会記者会館・内閣府を過ぎ特許庁、外堀通りを渡って右に復興庁と続きまさに官庁街の姿は壮観だ。左に虎ノ門病院で坂の上右手に堂々たる建物がアメリカ大使館だ。大使館職員らしき外国人とすれ違うと先入観で外交官なのか皆顔つきもインテリに見える。
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都心街歩き
アメリカ大使館
東京街歩き
8月2日(昼)
総理官邸

アメリカ
大使館

虎ノ門


芝公園




《敷地の賃貸料問題》
大使館の敷地(1万3,000平方メートル)は日本の国有地であるが、その賃貸料(約250万円/年)を1998年(平成10年)以降払っていないこと、他国に比べて賃貸料が格安である(駐日英国大使館の3万5,000平方メートルの賃貸料は3,500万円/年)ことが問題となった。
米側は「そもそも1896年(明治29年)に交わした契約文書に値上げの規定はなく、大幅な値上げには応じられない」と、100年以上前の文書を引き合いに出して支払いを拒否していたが、最初の滞納の時効を控えた2007年(平成19年)12月10日に段階的な引き上げで合意し、米側は同日までに10年分の借地料7,000万円(今回の合意で、1998〜2007年分は年700万円とし、以後2008〜2012年は年1000万円、2013〜2027年は年1500万円に引き上げられたことによる)を支払った。なお、米国以外にも、英国などいくつか国々が国有地を借りているが、借地料を滞納した例は、本件以外にはない

アメリカ大使館前で左に折れて桜田通りに出て右折虎ノ門交番前の交差点を渡り愛宕神社方面へ進む。


正面にトンネルが見える。愛宕トンネルといい上の愛宕山を貫いている。トンネル入口脇にNHK放送博物館の看板がある。ちょっと寄ってみようと思い急な階段を上がってみる。息の切れそうな急階段をあがりきると山頂らしき広場で、左に愛宕神社、右にNHK放送博物館の建物がある。先に愛宕神社をお参りする。由緒ある神社らしく厳かな雰囲気。

東京街歩き
8月2日(昼)
国会議事堂

総理官邸

アメリカ
大使館

虎ノ門


愛宕山


愛宕トンネル


愛宕神社
愛宕山(あたごやま)は、東京都港区愛宕にある丘陵である。一帯の愛宕神社境内には、三等三角点があり、25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。 
江戸時代から愛宕山は、武士たちの間の信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われている。山上にある愛宕神社は、もとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったと言う。
また、日本放送協会(NHK)の前身の一つ東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年の日本初のラジオ放送は、この愛宕山から発信された。このように歴史の舞台となってきた愛宕山は現在かつてのような見晴らしはなくなってしまったが、大木などによる緑の豊かさは変わらない。歴史ある曹洞宗青松寺・愛宕神社・NHK放送博物館と、それらを取り囲む超高層ビルの群れ(例えば青松寺を挟んで建つシーザー・ペリによる愛宕グリーンヒルズツインタワーや、虎ノ門・神谷町・霞が関や汐留などのビル群)が同時に存在する、現在の東京を象徴する風景を見せている。
愛宕山は、地形的にも自然形成によって成立したものであると地質学的にも立証されているが、周辺の低地との兼ね合いから形成のメカニズムがはっきりしていない。
愛宕神社では現在でも「男坂」の急な石段は「出世の石段」と呼ばれている。江戸時代1634年2月25日(寛永11年)、徳川秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰り、徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣(曲垣平九郎)が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、その者は馬術の名人として全国にその名を轟かせた、という逸話から来ている。
以降、出世の石段を馬で登った成功例は今までに3例存在する。1例目は仙台藩で馬術指南役を務め、廃藩後曲馬師をしていた石川清馬で、師の四戸三平が挑み、果たせなかった出世の石段登頂を1882年に自らが成功させ、これにより石川家は徳川慶喜より葵の紋の使用を許された。
2例目は参謀本部馬丁の岩木利夫で、1925年11月8日、愛馬平形の引退記念として挑戦し、観衆が見守る中成功させた。上りは1分ほどで駆け上がったが、下りは45分を要した。この模様は山頂の東京放送局によって中継され(日本初の生中継とされる)、昭和天皇の耳にも入り、結局平形は陸軍騎兵学校の将校用乗馬として使われ続けることとなった。
3例目は馬術のスタントマン、渡辺隆馬である。1982年、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』において、安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で32秒で登頂した。





参道は長い石段で『出世の石段』と呼ばれている。向かいのNHK放送博物館へ。無料で放送文化の黎明期の資料が展示されていて見学する。1925年(大正14年)ここで日本最初のラジオ放送が開始し、1940年(昭和15年)まで本局として使用されていた。

東京街歩き
8月2日(昼)
国会議事堂

総理官邸

アメリカ
大使館

虎ノ門


愛宕山

NHK放送博物館
1925(大正14)年3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れた。アナウンサーは、JOAKを「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と遠くに呼びかけるように読み上げ、このあと、初代総裁の後藤新平があいさつし、ラジオの機能として文化の機会均等、家庭生活の革新、教育の社会化、経済活動の活性化を強調した。そして7月、今度は愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”と呼ばれるようになった。
NHK発祥の地である愛宕山に世界初の放送専門博物館として1956年(昭和31年)に開館。開館当時は愛宕山放送局の局舎を使用していた。現在の塔屋付4階建てビルは1968年(昭和43年)に新築されたもので、当時使われていた建物は現存しない。以前はNHK放送文化研究所と同居していたため、展示室は2階までだったが、2002年(平成14年)に同研究所が近くの愛宕グリーンヒルズMORIタワーに移転したことから、全フロアに拡張して2003年(平成15年)にリニューアルオープンした。玉音盤など約2万件の放送資料と約6,500点の放送関係図書を所蔵している。それぞれの時代のラジオ受信機やテレビ受像機が展示され、動態保存(通電すれば作動する状態で保存・展示。テレビはアナログビデオ信号を入力することが必要)にも努めている。

一階受付で次に行く、20番天徳寺の場所を尋ねると親切に地図を出して調べてくれ愛宕山の下にありここからは直ぐのところにありそうで、教えられ通り博物館のエレベーターでトンネル道に下りる。


天徳寺はNHKから数分のところにあった。虎ノ門といっても裏通りは静かで都心とは思えない。ひっそりした境内に入り玄関でチャイムを鳴らすと奥さんらしき方が応対してくれ納経をお願いすると、あがって本堂にお参りをすするよう促される。失礼して靴を脱ぎ廊下を抜けた先の誰もいない本堂でお参りする。

20番天徳寺

朱印をいただき、次の28番金地院は東京タワー下なのでひたすらタワーを目標にして歩く。地図で見ながら近くにオランダ大使館がや芝高等学校があるが見当たらない。正則高校横を抜けて行くと芝公園に入る。
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8月2日(午後)
虎ノ門

愛宕山

芝公園

東京タワー

増上寺

麻布
芝公園

その辺からは見慣れた東京タワーの懐かしい雄姿が目の前に迫っていた。タワーを背にして通りの向こうに金地院の参道が見える。境内から振り返ると東京タワーが覆いかぶさるように寺を見下ろしている。この寺も玄関のチャイムで納経をお願いする。ここでも中にある本堂にあがってお参りさせていただく。冷房しているのか自然なのか、本堂は涼しくひんやりしていた。
28番 金地院

境内から見上げるタワーの写真を撮ってからタワーに戻る。夏休みでタワーの入場券売り場は沢山の人だかり。
東京街歩き
8月2日(午後)
虎ノ門

愛宕山

芝公園

東京タワー

増上寺

麻布






坂道を下り東京タワー下信号を渡ると芝・増上寺の裏側に出る。表門を探しながら歩くとプリンスホテル前で守衛さんに増上寺の道を訪ねるとホテル敷地を抜けて行くように言われホテルの庭園を抜けると東京タワー側とは反対側から増上寺の境内に入る。徳川家の菩提寺らしいお寺の境内はものすごい広さでここからもお堂の上に東京タワーがそびえている。大きな本堂でお参りしたあと横の売店を兼ねた納経所で朱印をいただく。場所柄外人の観光客がとても多い。観光地のようで土産を買う人ばかりで納経などは誰もしていない。
21番増上寺
東京街歩き
8月2日(午後)
愛宕山

芝公園

東京タワー

増上寺

麻布
増上寺
増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。
慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。
三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。
墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。
江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。
全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。
檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。
明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。
大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。 明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが、昭和二十年(1945年)の空襲でした。しかし、終戦後、昭和二十七年(1952年)には仮本堂を設置、また昭和四十六年(1971年)から四年の歳月を三十五億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立しました。平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建。さらに法然上人八百年御忌を記念して平成二十一年(2009年)圓光大師堂と学寮、翌二十二年に新しく安国殿が建立されました。現在、焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいます。

本堂前のベンチでゆっくり休憩する。8月2日だが今日は最高気温が29℃位でそれほど暑くなかった。今日の街歩きはここから麻布十番〜六本木を通り西麻布、そして青山霊園を抜けて信濃町から四谷までの予定だがここまででだいぶ体力を消耗していて最後まで予定の通り行けるかどうかわからないが、頑張って進もうと歩き始める。が、体力と思考力が低下してしまっていたのか、増上寺から麻布十番に抜けるつもりが道を間違えて南麻布方面にすすんでしまう。途中で道を尋ねた人もあまり詳しくない人で、戻るのも大変そうで、そのままだいぶ進んで外苑西通りでやっと西麻布の標識を見つける。


空気の悪い道路をしばらく歩きやっと西麻布交差点にたどり着く。地図を拡げて22番長谷寺の位置は交差点を渡り左斜め進んだ先、ゆるい坂を登っていくと正面の寺院の屋根が見える。
東京都街歩き(5) 水道橋 神楽坂 霞ヶ関 愛宕山 芝公園 増上寺 青山
都心街歩き
東京街歩き
8月2日(夕方)
芝公園

南麻布

西麻布

青山1丁目

新宿


午後4時少し前、やっと着いたという感じ。福井の永平寺の別院の長谷寺は西麻布の高級住宅街の中にある。山門をこぐるとなかなか広い境内で正面ひ本堂が構えている。内部は修復中らしく数人の職人さんが作業中だったがその横で手を合わせお参りする。入口近くに納経所があり朱印を押してもらい境内にある東屋で休憩しながら今日の行程を振り返り、計画ではこれから青山霊園〜外苑〜四谷と歩く予定だったが、ここで終りにする。
22番・長谷寺
東京街歩き
8月2日(夕方)
芝公園

南麻布

西麻布

青山1丁目

新宿

西麻布の交差点から外苑西通りを地下鉄に乗ろうと青山方面に歩き始めたが駅がない、青山霊園を左にみながらだいぶ歩きやっと青山一丁目の駅が見える。もう体力も限界、足も重く万歩計を見るとすでに3万歩を超えていた。地下鉄駅にやっと到着長い長い東京街歩きが終わった。歩行距離約27キロメートル。
東京都街歩き(5) 水道橋 神楽坂 霞ヶ関 愛宕山 芝公園 増上寺 青山
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