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江戸三十三ヶ所 十二番 無量山 伝通院(東京都文京区小石川3-14-6) |
2013年8月2日。
真夏の江戸札所巡拝は、東京都文京区小石川『伝通院』−十二番から始める。
それからは十六番神楽坂『安養寺』〜20/28/21/22/と六ヵ寺を周る。
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(出典・伝通院・寿経寺HPより)
◆当山は、応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから200年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。正保4年(1647)には、家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り諸堂伽藍を整えて参りました。
◆教学教化面では、慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人を傳通院に移して、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席とし年を重ねるにつれ、学寮に席をおくもの千人を下らぬという状況でした。
◆明治以後は困難な時代にもかかわらず、明治24年(1891)芝三縁山より浄土宗学本校(現大正大学の前身)を無量山へ移転、更には傳通院境内に淑徳女学校を設立、又、昭和4年傳通会館が設立され、仏教の街頭進出の拠点として檀信徒のみならず、地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動を行い、教学の振興と共に社会事業も精進いたして参りました。
◆しかし、このような寺歴の中にも、享保6年(1721)、同10年(1725)、明治41年(1908)と三度の大火にあい、その再建もむなしく、第二次世界大戦では建造物すべて灰燼と帰しましたが、戦後多くの障碍の中で昭和24年本堂を再建(七十三世大河内隆弘上人)、続いて昭和63年には新世紀に対応できる宗教活動を目指して新本堂を建立、平成9年、繊月会館を建立、平成11年には観音堂(休憩所)を建立(七十五世吉川哲雄上人)し、現在に至っております。
於大の方は享禄元年(1528)、三河刈屋城主水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)、当時では武士の権力の取り引きとして通常に行われていた攻略結婚により、岡崎城主松平広忠と結婚し、翌年男子をを出産しました。これが竹千代、後の徳川家康となる。
しかし、父水野忠政が病死した後、刈屋城を継いだ兄信元が織田方に付いたので、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13年(1545)、於大を離縁して刈屋に帰すこととなった。
その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁したが、於大は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかったと伝えられている。
家康も生母の至情を忘れることなく、天下統一の後には、再婚しているにも拘わらず、実家の者として於大を迎え入れ、久松家を親戚として尊重した。
夫の久松俊勝逝去の後は髪をおろし「傳通院」と号した。家康の天下統一を見て、慶長7年(1602)8月29日、家康の滞在する伏見城にて逝去。
於大の出生地愛知県知多郡東浦町では、「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。
慶長7年(1602)に徳川家康公のご生母於大の方が逝去、傳通院を菩提寺とされてから、正保4年(1647)には、三代将軍家光公の次男、亀松君が葬られ、以来徳川家の外護を賜り、諸堂伽藍が整えられました。傳通院墓地の北側にある広大な一画に徳川家の墓域があり、ここに千姫を始め、徳川家由縁の方々の古い諸廟所が多く建っています。
千姫について(1597〜1666)
法名 天樹院殿栄誉源法松山大禅定尼
二代将軍徳川秀忠の娘。慶長8年、7歳の時に豊臣・徳川両家の関係を好転するため豊臣秀頼(11歳)に嫁し、大阪城に入る。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後播州姫路城主本多忠刻に再嫁する。寛永3年忠刻の死により江戸へ帰り30歳にして落飾し天樹院と号す。寛文6年、69歳の逝去。
(出典・伝通院HPより) |
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JR水道橋から東京ドーム前を通り20分位で江戸三十三ヵ所十二番『伝通院』に到着。まだ8時半で社務所には誰もいないので、先に徳川家由来のお墓参りを先にする。
目指す徳川家康生母『於大の方』と孫『千姫』のお墓は本堂の後ろにひときわ目立っていて直ぐわかった。
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於大の方は小説『徳川家康』の始めの巻に詳しく書かれていて印象深い。
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於大の方
享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日)
松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。 |
尾張国知多郡の豪族水野忠政とその夫人華陽院(於富)の間に、忠政の居城緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた。父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせたが、松平氏とさらに友好関係を深めようと考え、天文10年(1541年)に於大を清康の後を継いだ松平広忠に嫁がせた。翌天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男竹千代(後の家康)を出産した。しかし忠政の死後水野家を継いだ於大の兄信元が天文14年(1544年)に松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従ったため、於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の・三河国刈谷城(刈谷市)に返された。於大は天文17年(1547年)には信元の意向で知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁する。俊勝は元々水野家の女性を妻に迎えていたが、その妻の死後に水野家と松平家の間で帰趨が定まらず、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。俊勝との間には三男三女をもうける。この間、家康と音信を絶えず取り続けた。桶狭間の戦いの後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。於大は俊勝の死後、剃髪して伝通院と号した。関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)には、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川家が豊臣家に敵意がないことを示した。同年、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。 |
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千姫(せんひめ)
慶長2年4月11日(1597年5月26日) - 寛文6年2月6日(1666年3月11日)、
豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。 |
慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった。同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。しかし、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と2人で竹橋の邸で暮らした。寛永5年(1628年)に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。寛永9年(1632年)、父・秀忠薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。寛文5年(1655年)の越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(千姫実妹、越後高田藩主松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行った。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。夫・秀頼とは夫婦仲睦まじく、千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削」を千姫にしていたのを侍女が目撃している。穏和な性格の持ち主と伝えられる一方、豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・天秀尼が処刑されそうになった際に体を張って必死の助命嘆願を行い、天秀尼は助けられる。天秀尼は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となった。曾祖父・織田信秀と祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。2人目の夫・忠刻も眉目秀麗であったといわれ、美男美女夫婦で仲睦まじかった。亡くなった際、娘・勝姫の子である奈阿姫(上記の秀頼の娘とは別人)は祖母の菩提を弔うために「浄土三部経(全4巻)」を書き写した。奈阿姫の書いた「浄土三部経(紺紙金泥阿弥陀経)」は現在、茨城県常総市指定文化財となっている。祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられ、また、弟・家光とも姉弟仲は良好だったらしい。歴代の幕府もその経歴から処遇に関しては細心の注意を払った。 |
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本堂に戻り隣の社務所で納経・朱印をいただき次の十六番神楽坂・安養寺へ向かう。
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2012年4月10日(火)晴れ 江戸三十三ヶ所巡拝2度目は13・14・15番を廻るのだが、その前に巣鴨平和霊園で兄のお墓参りをする。巣鴨平和霊園は住宅地の中で家々に挟まれた窮屈な場所にある。
3月26日兄の命日前後、毎年お参りするが今年は桜の開花が遅く、ちょうど見頃だった。
毎年桜の時期になると、兄は思い出されるだろうから、兄はいい時期に亡くなったなと思う。
今日最初の札所は江戸三十三番・十三番 護国寺(文京区大塚5-40-1)
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巣鴨平和霊園は住宅街の中

護国寺向かいの右のビル2階に義君の通った体操教室がある。 |
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江戸三十三ヶ所 十三番 神齢山 護国寺 (東京都文京区大塚5-40-1) |
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兄のお墓から巣鴨駅前を左に見ながらどんどん進み、千石交差点を右折する。そこから護国寺(十三番)へは一本道だ。右前方に護国寺が見え始めると、通りの向かいに孫のよし君の通っていた体操教室のビルがあり、Mは小学校入学までの1年間送り迎えした懐かしい場所。 |
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護国寺は徳川綱吉ご生母の菩提寺だけに東京都内と思えない壮大な寺。
境内を散策して納経所へ12:10に着くと、お昼休み休憩中で納経は13:00からなので本堂に上がり裏手の廊下に腰掛けてゆっくり花見をする。
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護国寺略縁起 (出典・護国寺HPより)
当山の創建は天和元年二月(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌二年、堂宇は完成した。 この創建より以前、桂昌院が綱吉公と共に群馬県館林城においでのとき、亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていたが、偶々綱吉公が将軍職を嗣ぐことになり、桂昌院もその生母として江戸城三の丸に移られた。この頃より、亮賢僧正も祈祷の命を奉じて江戸城を訪れ、幕府の信仰を受けること益々厚く、天和三年二月(一六八三年)桂昌院は初めて当寺に参詣された。 貞享四年三月七日に開山亮賢僧正遷化され、その高弟賢広僧正が嗣いで第二世となる(開山墓地は大正十四年東京府により史蹟に指定される) 元禄七年十月、綱吉公・桂昌院と共に当寺に参詣し、寺領加増され六百石となる。その翌八年、快意僧正第三世を嗣ぐ。快意僧正は特に将軍の帰依を受けること厚く、元禄十年正月(一六九七年)観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数で、この大造宮を完成し、同年八月落慶供養の式典が挙げられた。これが現在の観音堂(本堂、昭和二十五年重文指定)であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下隋一のものと賞されている。 以来、孝養心厚い綱吉公は桂昌院の参詣にしばしば同行され、護国寺界隈は当寺の隆盛と共に賑わい、寺領も千二百石と加増されるなど、境内も様々な建造物が甍を併べた大殿宇となった。 宝永四年(一七〇七年)快意僧正護持院住職となり、亮貞僧正が第四世を嗣ぐ。当時、常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は、綱吉公の信仰を専らにし、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し将軍家祈願の任に当っていた。寺領千五百石、真言新義僧録、更らには大僧正に任ぜられる等、綱吉公の信頼を一身に集めていた。 当寺と護持院との関係は深く、両寺共々幕府に奉仕し、その信仰を専有するに至った。その後享保二年正月一七一七年、神田橋護持院は火災を受け、上野寛永寺と並び称せられた巨刹も堂塔一宇残らず焼失した。その後幕命により護持院を当寺に合伴し、観音堂の方を護国寺に、本彷の方を護持院とし、それより護持院の住職が当寺を兼ねることとなった。以後、両寺領併せて二千七百石、幕府祈願の任を変りなく勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきたが、維新を迎え、やがて明治となり政治機構一変し、その時、護持院は廃寺となった。しかし、当寺は現存して第一世亮賢僧正の法脈を保持しつづけている。 明治十六年、大正十五年と火災で堂宇の多くを失ったが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。その他、薬師堂、大師堂、多宝塔、忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門、惣門。そして中門と多くの堂宇が保存、または再建されている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされている。 震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。 |
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大津三井寺の日光院客殿を
移築した:月光殿 |
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早稲田大学創立者・大隈重信のお墓 |
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本堂脇が納経所になっていて、お昼休みから帰った若いお坊さんに納経をしてもらう。
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護国寺・本堂 |
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次は今日2寺目の江戸三十三札所 十四番・金乗院へ。
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2012年4月10日(火)晴れ 江戸三十三ヶ所巡拝2度目は13・14・15番を廻る。
今日2寺目は十四番札所・金乗院。十三番・護国寺山門を出て、目白通りを歩き、高田一丁目交差点を左折して坂を下ると直ぐ右に『目白不動』金乗院へ到着。
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江戸三十三ヶ所 十四番 神霊山 金乗院 (東京都豊島区高田2-12-39) |
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本堂…聖観世音菩薩などが祀られている。
不動堂…目白不動明王が祀られている。秘仏となっている。この不動明王は明王自ら左腕を断ち切りそこから火焔が噴き出しているという独特の姿をしており、特別に強い力があるという。
倶梨伽羅不動庚申…境内にある庚申塚。寛文6年(1666年)建立。倶利伽羅明王を主尊とする点で貴重なものといわれている。
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江戸三十三箇所第十四番札所・金乗院 縁起(出典・Wikipedia)
寺院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされている。永順は1594年(文禄3年)に没しているのでそれ以前の天正年間の頃(1573年(天正元年)- 1592年(文禄元年))の創建ではないかと推定されている。当初は中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称したが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となった。江戸時代までは近隣の木之花開耶姫社の別当なども務めていたが、第二次世界大戦による戦災で本堂や徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額などが焼失。現在の本堂は1971年(昭和46年)に再建されたものである。また目白不動尊は、元々は当寺院のものではなく、1キロほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺という寺院にあったものであった。
文京区関口・かつての新長谷寺付近の通りは「目白坂」と呼ばれ、古来より練馬方面から江戸へ向かう際の通り道として知られていた。新長谷寺(しんちょうこくじ)は、山号を東豊山(とうぶさん)といい真言宗豊山派の寺院であった。当寺院にあった不動明王像は唐から帰ってきた弘法大師が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像で、それが武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれているがその詳しい年代はわかっていない。その後、この寺院は江戸時代に入り元和4年(1618年)に奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興された。秀算は二代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名した。寛永年間に三代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名を贈り、以後この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになったという。また一帯の高台も目白台と呼ばれるようになった。(これは現在の地名になっている目白や目白台の起源になっている)その後、この寺院は五代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けて発展した。また江戸市民に時を告げる時の鐘を備えていた。しかし、新長谷寺はその後第二次世界大戦による戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺となってしまった。本尊の目白不動は金乗院に移され、現在に至るまで金乗院が目白不動尊として信仰を得るようになっている。 |
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本堂にお参りした後納経・朱印は本堂横の社務所で行っている。
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丸橋忠弥…江戸時代の武士で、由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担したとして処刑された。
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十四番・目白不動前の坂を下った先が明治通りで都電学習院前停留所、その右手先に学習院大学がある。わき道を進み裏から大学校舎を眺め、明治通りに戻り早稲田方面に歩く。
次は今日最後の十五番・放生寺へ。
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江戸三十三ヶ所 十五番 光松山 放生寺 (東京都新宿区西早稲田2-1-14) |
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2012年4月10日(火)晴れ 江戸三十三ヶ所巡拝2度目は13・14・15番を廻る。
今日3寺目で最後は 江戸三十三ヶ所 十五番札所・放生寺 (新宿区西早稲田2-1-1)
十四番寺から歩いてくると神田川にさしかかる、橋の上から見る桜がとてもきれい。
諏訪町交差点を左折、学習院女子大学・女子高校を過ぎると早稲田大学のキャンパスで通りは学生で埋め尽くされていた。早稲田大学前の通りの向こう側が今日最後の光松山・放生寺(15番)。
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坂道を上がって本堂にお参りする。本堂脇の納経所では担当のお坊さんが外出中ですでに準備された朱印・納経の紙でよろしいでしょうか?といわれ『かまいません』と告げ日付だけ書き加えて渡される。
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江戸三十三箇所第十五番札所 (出典・放生寺HPより) 放生寺は寛永十八年(1641年)、威盛院権大僧都 良昌上人(りょうしょうしょうにん)が高田八幡(穴八幡)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。 聖観世音菩薩のお姿が三十三身あるとされ観音霊場が三十三の札所となった起こりともなっております。放生寺のご本尊は古くより融通虫封じ観世音として称され親しまれて参りました。 融通とは滞り無く通じることを意味します。 冬至より授与いたしております「一陽来福(いちようらいふく)」も「ゆうずうさん」と呼ばれ多くの方に親しまれております。虫封じは起源は定かではありませんが江戸の時代より夜泣きや疳の虫の祈祷霊験あらたかな寺として多数の老若男女の参詣があり今日にいたって居ります。 一陽来福 當山で毎年多数の信徒に授与して居ります一陽来福のお札は、江戸天保年間より當山に伝わる秘法を厳修し一部の信徒に授与したのが始まりです。その後時代の変遷により今日の様に多数の信徒に授与するようになりました。そもそも、一陽来福は冬至を表す言葉「一陽来復」=陰極まって一陽が生ずると言う言葉に「来る」年も授与された方たち全てに沢山の「福」が来る様に、當山ご本尊を拝むときに唱えます観音経の結びの「福聚海無量」=福聚(あつ)むること海の如く無量なり と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。當山本尊は古来より融通・虫封観世音と呼ばれ多数の信徒を集め現在に至っております。中でも融通は=滞りなく通じると言うことでご商売をされている方は基より、近年では人間関係(融通円満)を願う方も多く居られます。一家の居間若しくは、ご商売先の部屋に毎年定められた恵方に向けて冬至、大晦日、節分の何れかの深夜0時にお札を貼ります。 | |
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本堂脇に四国八十八カ所の砂を埋め込んだものがあり八十八歩で歩いてお参りする。
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小高い丘の上の寺の境内からは目の前の早稲田大学がよく見える。
それにしてもすごい数の学生さんが構内へ出入りしていく。
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朝10:00頃から15:00まで少しの休憩で歩き続け少々疲れたが、お参り後早稲田大学の学生さんでいっぱいの通りを進んで地下鉄早稲田駅へ、帰路に着く。
総歩行数は21863歩 約16km
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江戸三十三ヶ所 十六番 医光山 安養寺 (東京都新宿区神楽坂6-2)
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2013年8月2日。 真夏の江戸札所巡拝は12/16/20/28/21/22/と六ヵ寺を周る。
小石川伝通院から今日2番目の安養寺へは、地下鉄で後楽園から飯田橋下車、早稲田通りの神楽坂下から歩いて10分程のところだ。
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(出典・安養寺HP)
江戸三十三箇所第十六番札所
◇醫光山の山号は、 本尊薬師如来に由来します。 開基は慈覚大師円仁。 天正 19 年 (1591) 徳川家康公 築城の時、 城内平川口より田安へ換地。 その後天和3年 (1683) 4月現今の神楽坂に移る。 本尊薬師如 来は金銅仏の坐像で一丈六尺の堂々たる尊容をなし、日光・月光両菩薩、十二神将の御影と共にお祀り されています。 『大聖歓喜天』(聖天さま) 当寺の聖天さまは、近代における稀有の名僧第234代天台座主大椙覚宝猊下が拝まれていた聖天さ まで由緒正しい伝統を誇っています。聖天さまは私どもの願いを分け隔てなくお聞き入れ下さり、その お力は多くの人々をお救い下さっています。 聖天堂内には元三大師・大黒天・虚空蔵菩薩・愛染明王・三宝荒神・毘沙門天・妙見菩薩の諸尊がお 祀りされて、心願成就、家内安全、商売繁盛、病気平癒、良縁成就、合格成就、交通安全等の祈願に多 くの方々が参拝しております。
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安養寺は神楽坂坂上交差点の角に向かって小さな本堂が構えている。
境内から本堂脇の玄関でチャイムをならすと住職さんらしき方が応対され納経帖を預けて本堂に入りお参りする。
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安養寺を出てすぐのところにある神楽坂商店街にある毘沙門天さん。
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神楽坂の夏祭りの名残のちょうちん
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次は二十番・虎ノ門天徳寺へ。
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江戸三十三ヶ所 十七番 如意輪山 宝福寺 (東京都中野区南台3-43-2)
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十九番東円寺から僅か1kmの十七番宝福寺だったが、道に迷って30分近くかかってやっと到着。
本堂にお参りして社務所の玄関で声をかけるが不在でなかなか寺の方が出てこない。
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しばらく待たせてもらい奥さんらしき人に納経帳に朱印をいただく。帰り際に『気をつけてお回りください』と正座して丁寧に挨拶され、そんな挨拶をされるのは珍しく、少し嬉しい気持ちで寺を後にする。
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宝福寺社務所 |
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宝福寺前の坂道の途中にある趣のある多田神社もお参りして、地下鉄・方南町へ向かう。
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多田神社 |
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多田神社由緒
満仲公は第56代清和天皇の御曽孫多田源氏の祖神である。 幼少より文武両道に秀で国家に凛然として輝き、武門の棟梁たる勅諚を賜り国家鎮護の大任を課されたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農耕の拡大に寄与し、併せて源氏興隆に確固たる基礎を築かれた。 またその威力は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽くされた事蹟は尠少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第2子は歴史上著名な頼光公であり、第4子頼信公は平忠常を討ち関東を平定した。続いて頼義、義家の父子二公は前九年後三年の両役に大軍を率いて、奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092年)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。 慶長2年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治14年改築しまた明治44年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後氏子の急増により昭和35年社殿を改築したのが現在の社である。 |
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宝福寺前の坂道の途中にある趣のある多田神社もお参りして、地下鉄・方南町へ向かう。

地下鉄丸ノ内線方南町駅からカンボジア大使館でビザ受取の為青山一丁目へ向かう。
今日の江戸札所巡りはこれでおしまい。
江戸札所も残り五ヶ寺となりあと一回で結願となりそうだ。
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四谷駅前新宿通りから15分。坂の多い住宅街観音坂に清林寺がある。6回目の江戸札所巡拝最初のお寺。
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一階の社務所に納経帳を託して階上の本堂をお参りする。朱印を記帳する姿勢が心ここにあらずであまり感心しない。お寺を回ると朱印をお願いしても気持ちいいお寺とここのように熱意を感じないお寺があり、ここは後者だ。300円の納経料といえ仏に仕える身なのだから金額の大小にかかわらずお参りする人には心地いいい印象を与える接し方をして欲しい。
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江戸三十三ヶ所 十八番 金鶏山 真成院 (東京都新宿区若葉2-7-8)
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お寺とは少し異なる外観内観である。
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清林寺から東宮御所から明治記念館前を歩いて青山一丁目カンボジア大使館へ。ビザを受取って地下鉄で二十五番魚藍寺最寄りの白金高輪駅へ。
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医王山悉地院東円寺
真言宗豊山派の寺で薬師如来像を本尊とし、江戸期に造られた聖観音像も安置されています。開創は天正元年(1573)で、備後国の僧祐海(一説には秀海)が開山したと伝えられています。本堂は、徳川家康が入府した頃に九州から出府した三谷氏の発願により改築したと伝え、さたに昭和7年に再改修したものです。境内にある観音堂は江戸三十三観音霊場の第19番札所であり、また六地蔵石像は寛政8年(1796)に造られたものでしたが、破損がはなはだしく、近年新たに造立したものです。墓地入口には、かつての妙法寺道の北側にあった「十三塚の碑」が移されています。このほか、文化財としては康永3年(1344)・至徳3年(1386)銘の板碑が保存されています。なお、当寺の飛境内(和田1丁目13番)には御不動様が祀られています。この御不動様は大山不動尊の道しるべであったと伝えられるもので、今も人々の信仰を集めています。
(杉並区教育委員会掲示より) |
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今日のスタートは地下鉄丸ノ内線・中野富士見町駅から。
江戸33ヶ所・十九番札所 東円寺は地下鉄駅を出て大通りを和田一丁目・二丁目と真っ直ぐ進み10分位で到着。
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江戸三十三ヶ所 十九番 医王山 東円寺 (東京都杉並区和田2-18-3) |
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江戸三十三ヶ所巡りも残り僅かとなってきた。
今日は十七番・十九番二ヶ寺参拝して、3月カンボジア旅行のビザを取りに青山一丁目のカンボジア大使館に寄るコースを歩く。
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東円寺は住宅街の一角にありなかなかの大寺。
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玄関で納経帳を預けて本堂〜観音堂をお参りする。
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東円寺の立派な庫裡で納経帳を受取り次の十七番・宝福寺へ向かう。
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江戸三十三ヶ所 二十番 光明山 天徳寺 (東京都港区虎ノ門3-13-6)
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2013年8月2日。 真夏の江戸札所巡拝は12/16/20/28/21/22/と六ヵ寺を周る。
十六番神楽坂の安養寺から地下鉄で永田町に出て、国会議事堂〜NHKの愛宕山など散策してからだったので二十番・天徳寺についたのは昼過ぎだった。
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二十番札所・天徳寺はNHK放送博物館からエレベーターで下りてすぐの所にある。
虎ノ門というのに少し裏通りに入ると都心とは思えない静かな通りに門を構えていた。
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二十番札所・天徳寺も入口のインターホンで納経をお願いする。
あがってお参りしてくださいといわれるので、靴を脱いで本堂をお参りする。
真夏というのに本堂に入るとひやっとしていて、お寺というのはどうしてこんなに涼しいのだろうかと思う。
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二十番札所・天徳寺から次に向かうのは、何故かずいぶん先の番号だが一番近隣の寺芝公園の二十八番金地院になっている。 |
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江戸三十三ヶ所 二十一番 三縁山 増上寺 (東京都港区芝公園4-7-35) |
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20番から芝公園を回り込み芝・増上寺へ。
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増上寺は徳川家の菩提寺で江戸三三箇所では最大規模の大寺。
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増上寺本堂脇の納経所は売店も兼ねて外国からの参拝者も多数だた納経をする人は稀の様子だった。
ご朱印をお願いした間にお参りする。
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江戸三十三箇所第二十一番札所 増上寺 (出典・増上寺HPより)
増上寺は、明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって開かれました。場所は武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられています。室町時代の開山から戦国時代にかけて、増上寺は浄土宗の東国の要として発展していきます。安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。 三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。
(江戸〜明治) 江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。 全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。檀林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。
(明治〜大正) 明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873年)と四十二年(1909年)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。しかし明治八年(1875年)には浄土宗大本山に列せられ、伊藤博文公など新たな壇越(だんのつ)(檀徒)を迎え入れて、増上寺復興の兆しも見えはじめました。大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。
(大正〜昭和) 明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが、昭和二十年(1945年)の空襲でした。
しかし、終戦後、昭和二十七年(1952年)には仮本堂を設置、また昭和四十六年(1971年)から四年の歳月を三十五億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立しました。平成元年(1989年)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建。さらに法然上人八百年御忌を記念して平成二十一年(2009年)圓光大師堂と学寮、翌二十二年に新しく安国殿が建立されました。現在、焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいます。
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【平成25年 徳川霊廟 無料公開日】
1/15・4/2〜4/8・5/10・5/15・9/15・10/2・10/12・10/13 |
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増上寺から今日最後の麻布観音・22番長谷寺へ。
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22番長谷寺は別名麻布大観音。外苑西通りと六本木通り交差点から5分位坂道をあがった先の住宅地のなかにある。 |
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江戸三十三ヶ所 二十二番 補陀山 長谷寺 (東京都港区西麻布2-21-34) |
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芝増上寺から道に迷い遠回りしてしまい、お寺には4時少し前に到着。
ぎりぎり納経時間に間に合う。
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納経所
二十二番 補陀山 長谷寺本堂
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江戸三十三箇所第二十二番札所 (出典・補陀山長谷寺HP)
大本山永平寺別院 補陀山 長谷寺 (ほださん ちょうこくじ)
かつて「渋谷が原」と呼ばれたこの地には、古くから観音堂が建ち、奈良長谷寺の観音さまと同じ木片で造られたという、小さな観音さまが祀られ、人々に親しまれていました。
時流れて徳川家康公開府の後、この観音堂を基に補陀山長谷寺が開かれました。家康公の幼馴染みでもあった高僧、門庵宗関大和尚をご開山に2万余坪の寺領を賜ったと伝えられます。
正徳6年(1716年)2丈6尺の大観音を建立。古仏は尊像の体内にお納めし、江戸屈指の観音霊場・江戸観音霊場第22番札所として尊崇(そんすう)を集めました。
近年、戦火で消失した大観音の再建を願う人々の根強い信仰により、高さ3丈3尺、壮麗無比の御姿がよみがえりました。
幾多の災禍を越え、寺観再建が成った今、現代に生きる観音霊場長谷寺は、宗門の専門僧堂(修行道場)大本山永平寺の東京別院として、また、観音信仰の聖地として、現世利益が満ち溢れています。
本尊 釈迦牟尼佛 観音堂奉安 麻布大観音
創建年代 慶長3年(1598) 開山 門庵宗関大和尚 宗派 曹洞宗
御詠歌 うららかや麻布の台の長谷寺 空吹く風も法を説く声
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長谷寺観音堂 |
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今日の巡拝はあと一寺青山2丁目の二十四番梅窓院まで回る予定だったが時間切れでここまででおしまい。青山墓地横を青山一丁目まで歩き帰路につく。
歩行数36000歩余り、約27`b歩き疲労はピークだった。
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