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古き良き郷愁の軽井沢 
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軽井沢との出会い.....
1970年(昭和45年)
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Karuizawa
初めて軽井沢という場所に出会ったのは、偶然の出来事からだった。
それまで軽井沢という地名はよく耳にしていたが、そこはどこにあり、どんなところなのか 興味もなく 全く知らないでいた。
それが、1970年(昭和45年)二人は結婚することに!  更に 慌ただしく 両家族の間で話が進んで いって、翌46年年2月に結婚式をすることまで決まってしまった。
Mは何も心の準備もない中で話が進んでしまい 結婚後の生活には大きな不安を感じていた。大学在学中は寮で過ごし、卒業して社会人となり一応仕事にはついていたが、アパートの一人暮らしで家事などはほとんどせず、炊事 洗濯 家事一切自己流で過ごしていて、結婚すればそのまま一家の主婦とならざるを得ない状況のまま、結婚式だけは秒読み 目前に迫って来ている。
そんな切羽詰まった気持ちの日々の中で 思いついたのが、短期期間でほんの少しでも 家事・行儀見習いを経験できそうな、お手伝いさんのアルバイトをしてみようと思い立つ。・新聞広告、雑誌や考えられる限りの方法で求人広告から探してみた。いくつか見つかった中で、家事一切、躾もしてもらえそうな ある求人情報が心に留まった。それは大手町にある貿易会社の会長さんご夫妻の避暑に軽井沢の別荘へ同行するアルバイトだった。早速連絡をとりアルバイトに応募した旨を伝えると担当の方から面接の日時を指示される。数日後指定された日に面接に出かける。会社は日比谷公園沿いの、歴史ある大きなビルの一角の事務所だった。ひんやりした重い空気のビルの階段を上がり、緊張した面持ちで....貿易の事務所のドアを押して入り面接に来た旨伝える。そして秘書の方に奥の会長室に案内され、Mは会長さん自ら面接された。いくつかの質問、雑談や身分の確認など、山荘での過ごし方など説明があり 幸いその場で気に入っていただき、夏休みの40日間のアルバイトが決まった。





旧軽井沢/三笠ハウス(旧三笠ホテル)
昭和53年8月/三笠ハウス(旧三笠ホテル)
実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月。
建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風建築で、また文化人財界人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた。設計は岡田時太郎、監督は佐藤万平、棟梁は小林代造。建築様式はアメリカのスティックスタイル(木骨様式)、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。
1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。1907年(明治40年)、本館が完成した。1910年(明治43年)、洪水のため流出した。 1925年(大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更し、太平洋戦争中は、1944年、休業し、軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定されたことから、外務省の軽井沢出張所が設置された。
戦後はアメリカ陸軍第一騎兵師団に接収され、進駐軍の施設となる。1952年、米陸軍第八軍の使用終了後、三笠ハウスの名称で営業を再開し(支配人山名伝兵衛)、1970年(昭和45年)まで営業を続けた。1972年2月、日本長期信用銀行によって買収され、1974年2月、現在地の南方から70m移転し、1980年(昭和55年)3月27日、日本長期信用銀行から軽井沢町に贈与された。
廃業の時点で竣工当初の建物のおよそ50%が現存しており、1980年5月31日に「旧三笠ホテル」として国の重要文化財に指定され、保護されている。
出典:フリー百科事典Wikipedia
昭和45年の夏、Mは40日間お手伝いさんとして貿易会社の会長さんご夫婦と千ヶ滝の山荘に同居滞在する。別荘では早起きして掃除、朝食の準備、片付け、洗濯、来客のもてなし、夜まで休む暇もなく働き、計画の通り別荘での生活の中で奥様からは厳しく行儀作法の指導もいただき、以後の人生でおおきな財産となっている。
滞在中は資産家の軽井沢ライフのお供でお食事や観光など、あちこち同行させていただき、それも貴重な体験となった。

その夏、お手伝いで滞在中は毎日午後3時に電話で定期便のラブコールをした。当時は携帯電話もない時代、10円玉を両替し手元に置きながら 公衆電話からMの声を聞き無事を確認するのがとても楽しい日課だった。

お手伝いもだいぶ慣れてきた8月19日、Mのいる軽井沢千ヶ滝の山荘を訪ねて会長さんにご挨拶する。お昼には『弁慶のうな重』をご馳走していただく。夕方まで休みをいただき二人で塩沢湖や碓井峠、軽井沢銀座など散策して山荘へ戻る。8月末に迎えに来るまでMを一人残して帰る。
僅かな期間だったが離れ離れになってお互いを大切に感ずるひと時で、遠い遠い昔の心に残る思い出。


...貿易の会長さんには翌年の結婚式にも出席して祝辞をいただいた。
しかし会長さんはそのわずか5年後の1975年(昭和50年)7月に急逝された。8月31日、上田の会長さんの自宅での葬儀には子供を連れて参列弔問した帰り道、主のなくなった千ヶ滝の別荘に立寄る。

以前いただいた、会長さんの著書を読むと上田でお百姓さんの家に生まれ、子供のころリヤカーで茄子を積んで売り歩き商売の面白さを子供心に感じ将来の人生におおいに役立ったそうだ。血ににじむ苦労の末に一代で貿易会社を大きく成功させ、晩年には実家の近く軽井沢に山荘を建て、鵠沼の家から毎年軽井沢に長期滞在して静養するようになっていた。
数回お会いしただけだが一言一言心に残る言葉をいただいた。

三笠通り/前田郷
昭和53年8月/旧軽井沢.前田郷
前田郷貸別荘/静閑亭 静閑亭

前田郷/バーべキュー栄庵
 
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軽井沢/前田郷 平成30年現在は長期貸
昭和53年8月/軽井沢銀座
昭和53年8月/旧軽ロータリー  郵便局
1978年(昭和53年)
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昭和53年11月/碓氷峠見晴台  長野県.群馬県 県境
碓氷峠見晴台
碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠。標高は約960m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。 古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。
出典:フリー百科事典Wikipedia
昭和53年11月/旧軽井沢
昭和53年11月/旧軽井沢.前田郷
昭和53年12月/軽井沢スケートセンター(2009年閉鎖)
1978年(昭和53年)
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軽井沢スケートセンター
長野県北佐久郡軽井沢町にあった、国土計画(後のコクド。現、プリンスホテル)が開設したスケートリンクである。
1956年(昭和31年)1月15日に開業。屋外の400mリンクと屋内リンク、テニスコート、ホテルなどがあった。1993年(平成5年)には、敷地内に千ヶ滝温泉の入浴施設がオープンした。
1958年(昭和33年)2月2日には氷が割れて、死者が出る事故が発生している。1963年(昭和38年)には世界スピードスケート選手権が行われた。以降、世界スプリント選手権、全日本選手権、ISUワールドカップなどの大規模な大会が行われてきた。
しかし軽井沢スケートセンターの再開発と老朽化のため、2009年(平成21年)3月31日で隣接していた軽井沢千ヶ滝温泉ホテル(1977年開業。旧:軽井沢スケートセンターホテル)とともに閉鎖された。以降は、立ち寄りの湯軽井沢千ヶ滝温泉のみが営業を継続している。
昭和53年12月/軽井沢スケートセンター(2009年閉鎖)
1979年(昭和54年)
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軽井沢/前田郷.現在は月貸別荘
雲場池
雲場池
雲場池(くもばいけ)は、長野県北佐久郡軽井沢町の六本辻近くにある池。地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。 細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止めて造った人造湖である。 一帯は雲場川風致地区に指定されており、池畔に遊歩道が廻らされるなど池の周囲は雲場池園地として整備されている。周辺に点在する外人墓地や美術館等の施設とともに軽井沢の観光コースとなっている。
出典:フリー百科事典Wikipedia

雲場池
旧軽井沢銀座(旧軽井沢メインストリート)
旧軽井沢メインストリートは、長野県北佐久郡軽井沢町にある長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線沿いの商店街。バブル時期から旧軽井沢銀座、旧軽銀座とも呼ばれていたこともあった。
旧軽井沢ロータリーから旧碓氷峠方面へ向かう約500 mの区間(長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線)が旧軽井沢のメインストリートになっている。かつては中山道の軽井沢宿があったところで、軽井沢駅のある新道地区からは北に離れた場所に位置している。
1888年(明治21年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが別荘を開設して以来、多くの著名人が軽井沢に別荘を設けたことから、別荘族御用達の商店街として発展した。その中でも軽井沢彫は外国人の別荘向けに作られた経緯がある、今でも家具にはなごりがある。
その後も軽井沢にはペンションブームなどが追い風となって、夏場を中心に多くの観光客で賑わうようになり、手作りジャムや民芸品、タレントショップなど観光客を対象とした店が増えた。避暑地であることから、かつては夏季のみ営業し、冬場にはシャッターを閉ざす店も多かったが、1997年(平成9年)の北陸新幹線(高崎 - 長野間)先行開通により年間を通して観光客が訪れるようになったこともあり、近年では通年営業する店も増えている。

出典:フリー百科事典Wikipedia
旧軽井沢銀座
旧軽井沢銀座
今はもうない旧軽井沢銀座/近藤長屋
昭和12年、名古屋の近藤友右衛門が、別荘の敷地の表通りに長屋を造り、
夏季出張店に安い家賃で貸し、銀座の老舗呉服店等が避暑客のため、軒を連ねた。

前田郷貸別荘の朝食
レイクニュータウンの入口にはフランスの古城・シュベルニー城を模したといわれる三越のファッション館が建っている。1972年、ここレークニュータウン別荘地の一角にあった河合楽器の保養所あさま山荘で連合赤軍メンバーが管理人の妻を人質にした あさま山荘事件がひき起こされた。
レークニュータウン

1980年(昭和55年)
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軽井沢会テニスコート:1980年(昭和55年)
「テニスコートの恋」で知られる天皇、皇后両陛下のなれそめの場となった長野・軽井沢の「軽井沢会」テニスコートは、当時の面影を残したまま、今も会員制で使用されている。おふたりは1989年の即位後も、何度もテニスコートに足を運ばれた。
軽井沢会テニスコートができたのは明治時代。100年以上の歴史を誇る。天皇、皇后両陛下がコートで出会われたのは57年夏。一般財団法人「軽井沢会」テニス部委員会委員長の諸戸清郎さん(70)によると、「テニスコートの恋」当時は丸太を支柱に使ったフェンスだったが、今は完全な金網フェンスになった。会員制だが、オフシーズンは非会員でも要予約で1日4000円で利用できる。
即位後に両陛下がコートを訪れたのは7回。当然、警備が強化されたが、目立たないようにと、慣れない白いテニスウエアを着たSP数人がコート内で警備に当たった。昨年、一昨年とスタンドから会員のプレーを見守られた際、諸戸さんが案内役を務めた。両陛下がお帰りになる際、ずらりと並んだ会員に顔なじみを見つけるとうれしそうに、「お元気ですか」「お子さんは大きくなったわね」と声を掛けられた。諸戸さんは「おふたりともプレーは堅実です。夫婦でダブルスを組むと普通けんかになるのですが、笑顔で『ナイスショット』と言い合ったり、陛下が美智子さまに来た球を『オーライオーライ』と言いながら打ってフォローしたり、仲むつまじいご様子でした」と振り返る。昨年のコート訪問はわずか15分。諸戸さんは「軽井沢にいらっしゃると、お忙しい公務の合間を縫って、すっとコートにいらっしゃる。わずかな時間でも毎回コートにいらっしゃるのは、やはりおふたりの思い入れが強いからでしょう」とみている。さらに「今年の夏はぜひゆっくりお越しいただければ」と話した。
2019年4月27日日刊スポーツ記事より

軽井沢会テニスコート:1979年(昭和54年)
日進ミート・ショップ(テニスコート通り)
テニスコート通りとショー通りの交差点
オーディトリアム通り:ユミオンチャーチ  1980年(昭和55年)
聖地軽井沢を育てたダニエルのノルマンが1987年(明治30年)中心となりユニオンチャーチは創立された。キリスト教各宗派の超教派の合同教会である。また別荘に住む外国人達や日本の宣教師達のよりどころであった。
1980年(昭和55年)
軽井沢聖パウロカトリック教会
長野県北佐久郡軽井沢町にあるカトリックの教会ならびに聖堂である。 1935年(昭和10年)に英国人のワード神父 により設立され、米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当。軽井沢の歴史的建造物の一つ。管轄するカトリック横浜司教区における呼称は「軽井沢カトリック教会」である 。 堀辰雄の小説「木の十字架」にも登場し、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」との言葉を残している。また、「風立ちぬ」(堀辰雄)、「掌の小説」(川端康成)にも登場し、多くの文豪たちもひきつけられたことを物語っている。ここで結婚式をあげるカップルも多く、西郷輝彦と辺見マリ、林隆三と青木一子、林正和と森山加代子、吉田拓郎らもここで挙式した。  レーモンドに誘われて初めて軽井沢を訪問したウォード神父は,軽井沢ホテルのラウンジでミサをあげた。軽井沢に滞在していた外交官やビジネスマン,テニス選手等が参加した。初めての主日は8名だったが,次の主日は30名,その次は40名,そして最後は68名の参加があったことに驚き,夏の間のみ開かれる小聖堂を建てることを決意した。軽井沢ホテルに滞在し,日光東照宮をたてた宮大工を呼んで,約6ヶ月をかけて聖堂を完成させた。費用のほとんどをウォード神父が負担した。軽井沢ホテルはウォード神父のホテル代を請求しなかった。
出典:フリー百科事典Wikipedia
1980年(昭和55年)
日本聖公会/軽井沢ショー記念礼拝堂
軽井沢ショー記念礼拝堂は、長野県北佐久郡軽井沢町にある日本聖公会中部教区に属する教会堂。 カナダ生まれの聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会。現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28年)で、1922年(大正11年)までにほぼ現在の形に増改築された。礼拝堂の前にはショーの胸像と1903年(明治36年)に村民によって寄贈された記念碑が建っている。
出典:フリー百科事典Wikipedia
1980年(昭和55年)
草軽電鉄旧北軽井沢駅跡 1980年(昭和55年)
草軽電鉄旧北軽井沢駅跡 映画『カルメン故郷に帰る』に登場    
草軽電鉄は、大正4年一部開通、大正15年草津~新軽井沢間55.5kmの全線が開通した。(昭和34年~37年廃線)  沿線に18の駅が開設され、その内の一つが北軽井沢駅舎であった。当時は「地蔵川停留所」といわれていたが、昭和4年この地区に法政大学村が開村されたことに伴い、大学村が駅舎を新築し草軽電鉄に寄附、名称を軽井沢の北側に位置していたので、「北軽井沢駅」と呼ばれるようになった。 


照月湖
周囲2kmの小さな静かな森に囲まれた湖。標高1048mの位置にあるため、夏でも25℃を超えることがなく涼しく6~7月は蛍の名所。

1980年(昭和55年)
1981年(昭和56年)
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1981年(昭和56年)
1982年(昭和57年)
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1983年(昭和58年)
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昭和45年8月31日、会長さんご夫婦との約束の40日間のお手伝いを終え中軽井沢の山荘にMを迎えに行って帰りは伊香保に寄って帰る。
40日間、初めて他人の中で生活でいろいろな経験をし終えて、顔つきが大人になった印象が今も残っている。
≪4度目の軽井沢≫
4度目の軽井沢は兄とミュンヘンオリンピック応援をかねてヨーロッパ旅行に出かける為Mと長女を実家に預ける為軽井沢経由で行く。
≪6度目の軽井沢≫
昭和51年、軽井沢を初めて知ってから6年後、友人家族と懐かしい軽井沢へ一泊旅行。銀座近くの貸し別荘・からまつ荘(軽井沢土地別荘管理事務所)
≪7度目の軽井沢≫昭和52年
それからの軽井沢滞在の初めは前田郷から始る。
以後毎年夏休み軽井沢に来ることになる。
2006年(平成18年)夏
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