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  Ken & Merry's Second Life
  郷愁の軽井沢 
Since 1970 ~
出会い..... 旧三笠ホテル&前田郷
1970年頃の軽井沢/雲場池(くもばいけ) 
1970年(昭和45年)
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Karuizawa
三笠通り
前田郷
旧軽井沢銀座通り
雲場池
白糸の滝
近藤長屋
スケートセンター
北軽井沢
南軽井沢
中軽井沢
鬼押し出し
神宮寺
聖パウロ教会
軽井沢会テニスコート
ユミオンチャーチ
ショー記念礼拝堂
旧軽井沢諏訪神社
軽井沢72ゴルフ
旧軽井沢
旧軽井沢
旧軽井沢



Background
雲場池(くもばいけ)
軽井沢町の六本辻近くにある池。地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。 細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする雲場川をせき止めて造った人造湖である。 一帯は雲場川風致地区に指定されており、池畔に遊歩道が廻らされるなど池の周囲は雲場池園地として整備されている。
出典:フリー百科事典(Wikipedia)

軽井沢
と出会ったのは、偶然の出来事から。それまで軽井沢という地名はよく耳にしていたが、何処にあり、どんなところなのか 興味もなく 知識も全くなかった。
1970年(昭和45年)K&Mの
結婚がきまると、 慌ただしく両家の間で話が進んで 、翌46年年2月に結婚式をすることまで決まってしまった。まさかそんなに早く結婚するとは、Mは心の準備も何もない中で話が進んでしまい 家事は何もできない不安を抱えていた。体育大学在学中は寮で過ごし、卒業して社会人となって一応仕事にはついたものの、アパートで一人暮らし、家事などほとんどせず、炊事 洗濯 家事一切自己流で過ごしていて、結婚すればそのまま一家の主婦とならざるを得ない状況の中、結婚式だけが目前に迫って来ていた。

あせりと切羽詰まった気持ちの日々の中で 思いついたのが、短期期間で少しでも 家事・行儀見習いが経験できそうな仕事と、住込みお手伝いさんのアルバイトを思い立った。  新聞広告、雑誌などの求人広告を探してみた。そしていくつかの中から、家事一切、躾もしてもらえそうな 求人情報が目に留まった。それは大手町にある貿易会社の会長さんご夫妻が毎夏.避暑を過ごす軽井沢の別荘へ同行する住み込みお手伝いさんのアルバイトだった。 早速 会社の事務所に連絡をとりアルバイトの希望を伝えると、担当の方から面接の日時が指示された。数日後指定された日に面接に出かける。会社は日比谷公園沿いの、歴史ある重厚なビルの一角の事務所だった。ひんやりした重い空気のビルの階段を上がり、緊張した面持ちで...貿易会社の事務所のドアを押して入り面接に来た旨伝える。そして秘書の方に奥の会長室に案内され、Mは会長さん自ら面接された。いくつかの質問、雑談や身分の確認など、山荘での過ごし方など説明があり 幸いその場で気に入っていただき、夏休みの40日間のアルバイトが決まった。
1978年頃/三笠ハウス(旧三笠ホテル)
三笠ハウス(旧三笠ホテル)----旧軽井沢三笠通り
実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月。 建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風建築で、また文化人財界人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた。設計は岡田時太郎、監督は佐藤万平、棟梁は小林代造。建築様式はアメリカの木骨様式、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。 1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。1907年(明治40年)本館が完成した。1910年(明治43年)洪水のため流出した。 1925年(大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更し、太平洋戦争中1944年、休業し、軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定されたことから、外務省の軽井沢出張所が設置された。戦後はアメリカ陸軍第一騎兵師団に接収され、進駐軍の施設となる。1952年、米陸軍第八軍の使用終了後、三笠ハウスの名称で営業を再開し1970年(昭和45年)まで営業を続けた。1972年2月、日本長期信用銀行によって買収され、1974年2月、現在地の南方から70m移転し、1980年(昭和55年)3月27日、日本長期信用銀行から軽井沢町に贈与された。 廃業の時点で竣工当初の建物のおよそ50%が現存しており、1980年5月31日に「旧三笠ホテル」として国の重要文化財に指定され、保護されている。出典:フリー百科事典Wikipedia
短期のお手伝いさんアルバイトに採用され1970年(昭和45年)の夏Mは40日間お手伝いさんとして貿易会社の会長さんご夫婦と初めての軽井沢/千ヶ滝の山荘に同居滞在することになる。
山荘での生活は、早朝起きて広い山荘の清掃から始まり、奥さんを手伝って朝食の準備、そして片付け、洗濯、日中は何組も訪問される来客のもてなし、夕食、片付け、夜まで休む暇もなく働き終い風呂に入ってやっと就寝。考えていた通り、別荘での生活の中で奥様から厳しく行儀作法の指導もいただき、このひと夏の経験は以後の人生でおおきな財産となっている。
滞在中は厳しい家事をこなす毎日だったが、時には資産家の軽井沢ライフのお供で、お食事や観光など、あちこち同行させていただき、それも軽井沢を知る貴重な体験となった。

その夏、お手伝いで滞在中
Kは毎日午後3時に電話で定期便のラブコールをした。携帯電話もない時代、10円玉を両替し手元に置きながら 公衆電話からMの声を聞き毎日の出来事を聞くのがとても楽しい日課だった。

お手伝いもだいぶ慣れてきた8月19日、軽井沢/千ヶ滝の山荘を訪ねて会長さんにご挨拶する。お昼には『弁慶のうな重』をご馳走していただく。夕方まで休みをいただき二人で塩沢湖や碓井峠、軽井沢銀座など散策して山荘へ戻る。あっという間の一日、月末に迎えに来るまで一人残して帰る。

離れ離れになってお互いを大切に感ずる貴重な夏を送って、遠い遠い昔の心に残る思い出となった.......

そしてその翌年、明治記念館で結婚式には貿易会社の会長さんに出席して祝辞をいただいた。
しかし会長さんはそのわずか5年後の1975年(昭和50年)7月に急逝された。
8月31日、上田の会長さんの自宅での葬儀には子供を連れて参列弔問した帰り道、主のなくなった千ヶ滝の山荘に立寄る。
あの夏にいただいた、会長さんの自叙伝本によると、長野県/上田市でお百姓さんの家に生まれ、子供のころリヤカーで茄子を積んで売り歩き商売の面白さを子供心に感じ将来の人生におおいに役立ったそうだ。血ににじむ苦労の末に一代で貿易会社を大きく成功させ、晩年には実家の近く軽井沢に山荘を建て、神奈川/鵠沼の家から毎年軽井沢に長期滞在して静養するようになっていた。晩年は悠々自適のいい人生を送られたと思う。
数回お会いしただけだが、いくつか心に残る言葉をいただき今も人生の指針になっている。


三笠通り/前田郷

旧軽井沢/前田郷

碓氷峠見晴台と浅間山

1970年(昭和40)の夏から子育てに追われて、幾年月が過ぎ、1976年8月に久しぶりに家族で軽井沢/三笠通りにある「前田郷」貸別荘に滞在、以降ここに来るのが夏休みの恒例となる。

旧軽井沢銀座/神宮寺と三笠通り
旧軽井沢銀座裏にある神宮寺は真言宗智山派の寺院。山号は表白山、院号は釈迦院。本尊は大日如来。碓氷峠にある熊野神社の別当寺。
旧軽井沢.前田郷 静閑亭
旧軽井沢/前田郷
日本の土木建設業界の雄といわれる実業家前田栄次郎が、昭和8年(1933年)、軽井沢町内(旧軽井沢地区)に8,000坪余りの土地を取得し、貸別荘を開業したのが起源である。第二次世界大戦中は、前田郷の深山荘に在日スイス大使館が疎開しており、日本のポツダム宣言受諾通告は、この地から打電された。現在は、創業時に建設されたカラマツの丸太で建設されたログハウス風の本館の他、18棟の貸別荘が営業している。
出典:フリー百科事典Wikipedia

前田郷のバーべキュー棟-栄庵
 
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軽井沢/前田郷 平成30年現在は長期貸のみだった
昭和53年8月/旧軽銀座M30歳↑ と軽井沢郵便局↓
明治5年9月軽井沢郵便取扱所として開設。明治8年1月1日 軽井沢郵便局(旧軽井沢銀座)となる。
1978年(昭和53年)
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昭和53年11月/碓氷峠見晴台  長野県.群馬県 県境
碓氷峠見晴台
碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠。標高は約960m。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。 古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。 出典:フリー百科事典Wikipedia
旧軽井沢・離山(テーブルマウンテン)へ
離山の山体は方向によっては円錐台形をしており、また頂部が比較的に平らであるため、愛称は「テーブルマウンテン」。登山口から山頂までは高低差200mほどで、ゆるやかな登山道を徒歩1時間ほどで登ることができる。
昭和53年11月/旧軽井沢.前田郷
昭和53年12月/軽井沢スケートセンター(2009年閉鎖)
1978年(昭和53年)
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軽井沢スケートセンター
長野県北佐久郡軽井沢町にあった、国土計画(後のコクド。現、プリンスホテル)が開設したスケートリンクである。1956年(昭和31年)1月15日に開業。屋外の400mリンクと屋内リンク、テニスコート、ホテルなどがあった。1993年(平成5年)には、敷地内に千ヶ滝温泉の入浴施設がオープンした。
1958年(昭和33年)2月2日には氷が割れて、死者が出る事故が発生している。1963年(昭和38年)には世界スピードスケート選手権が行われた。以降、世界スプリント選手権、全日本選手権、ISUワールドカップなどの大規模な大会が行われてきた。 しかし軽井沢スケートセンターの再開発と老朽化のため、2009年(平成21年)3月31日で隣接していた軽井沢千ヶ滝温泉ホテル(1977年開業。旧:軽井沢スケートセンターホテル)とともに閉鎖された。以降は、立ち寄りの湯軽井沢千ヶ滝温泉のみが営業を継続している。 出典:フリー百科事典Wikipedia
碓井峠見晴台
昭和53年12月/軽井沢スケートセンター(2009年閉鎖)
旧軽井沢・ショー通り
1979年(昭和54年)
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軽井沢/前田郷.現在は月貸別荘
雲場池
雲場池(くもばいけ)
軽井沢町の六本辻近くにある池。地元では「おみずばた」と呼ばれ、「スワンレイク」という愛称も持つ。 細長い形状からデーランボーという巨人の足跡という伝説が残るが、大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする雲場川をせき止めて造った人造湖である。 一帯は雲場川風致地区に指定されており、池畔に遊歩道が廻らされるなど池の周囲は雲場池園地として整備されている。
出典:フリー百科事典(Wikipedia)

雲場池
旧軽井沢銀座      
旧軽井沢銀座(旧軽井沢メインストリート)
旧軽井沢メインストリートは、長野県北佐久郡軽井沢町にある長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線沿いの商店街。バブル時期から旧軽井沢銀座、旧軽銀座とも呼ばれていたこともあった。
旧軽井沢ロータリーから旧碓氷峠方面へ向かう約500 mの区間(長野県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線)が旧軽井沢のメインストリートになっている。かつては中山道の軽井沢宿があったところで、軽井沢駅のある新道地区からは北に離れた場所に位置している。
1888年(明治21年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーが別荘を開設して以来、多くの著名人が軽井沢に別荘を設けたことから、別荘族御用達の商店街として発展した。その中でも軽井沢彫は外国人の別荘向けに作られた経緯がある、今でも家具にはなごりがある。
その後も軽井沢にはペンションブームなどが追い風となって、夏場を中心に多くの観光客で賑わうようになり、手作りジャムや民芸品、タレントショップなど観光客を対象とした店が増えた。避暑地であることから、かつては夏季のみ営業し、冬場にはシャッターを閉ざす店も多かったが、1997年(平成9年)の北陸新幹線(高崎 - 長野間)先行開通により年間を通して観光客が訪れるようになったこともあり、近年では通年営業する店も増えている。
出典:フリー百科事典(Wikipedia)
旧軽井沢銀座
旧軽井沢銀座
ミカドコーヒー旧道のモカソフト
今はもうない旧軽井沢銀座/近藤長屋
昭和12年、名古屋の近藤友右衛門が、別荘の敷地の表通りに長屋を造り、
夏季出張店に安い家賃で貸し、銀座の老舗呉服店等が避暑客のため、軒を連ねた。

前田郷での朝食
前田郷/旧スイス公使館跡 1980年↑
前田郷/旧スイス公使館 ↓2017年(現在) 

旧軽井沢銀座
レイクニュータウンの入口にはフランスの古城・シュベルニー城を模したといわれる三越のファッション館が建っている。1972年、ここレークニュータウン別荘地の一角にあった河合楽器の保養所あさま山荘で連合赤軍メンバーが管理人の妻を人質にした あさま山荘事件がひき起こされた。
レークニュータウン
1980年(昭和55年)
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軽井沢会テニスコート:1980年(昭和55年)
「テニスコートの恋」で知られる天皇、皇后両陛下のなれそめの場となった長野・軽井沢の「軽井沢会」テニスコートは、当時の面影を残したまま、今も会員制で使用されている。おふたりは1989年の即位後も、何度もテニスコートに足を運ばれた。
軽井沢会テニスコートができたのは明治時代。100年以上の歴史を誇る。天皇、皇后両陛下がコートで出会われたのは57年夏。一般財団法人「軽井沢会」テニス部委員会委員長の諸戸清郎さん(70)によると、「テニスコートの恋」当時は丸太を支柱に使ったフェンスだったが、今は完全な金網フェンスになった。会員制だが、オフシーズンは非会員でも要予約で1日4000円で利用できる。
即位後に両陛下がコートを訪れたのは7回。当然、警備が強化されたが、目立たないようにと、慣れない白いテニスウエアを着たSP数人がコート内で警備に当たった。昨年、一昨年とスタンドから会員のプレーを見守られた際、諸戸さんが案内役を務めた。両陛下がお帰りになる際、ずらりと並んだ会員に顔なじみを見つけるとうれしそうに、「お元気ですか」「お子さんは大きくなったわね」と声を掛けられた。諸戸さんは「おふたりともプレーは堅実です。夫婦でダブルスを組むと普通けんかになるのですが、笑顔で『ナイスショット』と言い合ったり、陛下が美智子さまに来た球を『オーライオーライ』と言いながら打ってフォローしたり、仲むつまじいご様子でした」と振り返る。昨年のコート訪問はわずか15分。諸戸さんは「軽井沢にいらっしゃると、お忙しい公務の合間を縫って、すっとコートにいらっしゃる。わずかな時間でも毎回コートにいらっしゃるのは、やはりおふたりの思い入れが強いからでしょう」とみている。さらに「今年の夏はぜひゆっくりお越しいただければ」と話した。
2019年4月27日日刊スポーツ記事より
軽井沢会テニスコート:1979年(昭和54年)
日進ミート・ショップ(テニスコート通り)
テニスコート通りとショー通りの交差点
オーディトリアム通り:ユミオンチャーチ  1980年(昭和55年)
聖地軽井沢を育てたダニエルのノルマンが1987年(明治30年)中心となりユニオンチャーチは創立された。キリスト教各宗派の超教派の合同教会である。また別荘に住む外国人達や日本の宣教師達のよりどころであった。
1980年(昭和55年)
軽井沢聖パウロカトリック教会
長野県北佐久郡軽井沢町にあるカトリックの教会ならびに聖堂である。 1935年(昭和10年)に英国人のワード神父 により設立され、米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当。軽井沢の歴史的建造物の一つ。管轄するカトリック横浜司教区における呼称は「軽井沢カトリック教会」である 。 堀辰雄の小説「木の十字架」にも登場し、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」との言葉を残している。また、「風立ちぬ」(堀辰雄)、「掌の小説」(川端康成)にも登場し、多くの文豪たちもひきつけられたことを物語っている。ここで結婚式をあげるカップルも多く、西郷輝彦と辺見マリ、林隆三と青木一子、林正和と森山加代子、吉田拓郎らもここで挙式した。  レーモンドに誘われて初めて軽井沢を訪問したウォード神父は,軽井沢ホテルのラウンジでミサをあげた。軽井沢に滞在していた外交官やビジネスマン,テニス選手等が参加した。初めての主日は8名だったが,次の主日は30名,その次は40名,そして最後は68名の参加があったことに驚き,夏の間のみ開かれる小聖堂を建てることを決意した。軽井沢ホテルに滞在し,日光東照宮をたてた宮大工を呼んで,約6ヶ月をかけて聖堂を完成させた。費用のほとんどをウォード神父が負担した。軽井沢ホテルはウォード神父のホテル代を請求しなかった。
出典:フリー百科事典Wikipedia
1980年(昭和55年)
日本聖公会/軽井沢ショー記念礼拝堂
軽井沢ショー記念礼拝堂は、長野県北佐久郡軽井沢町にある日本聖公会中部教区に属する教会堂。 カナダ生まれの聖公会宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会。現在の建物の原形が造られたのは1895年(明治28年)で、1922年(大正11年)までにほぼ現在の形に増改築された。礼拝堂の前にはショーの胸像と1903年(明治36年)に村民によって寄贈された記念碑が建っている。
出典:フリー百科事典Wikipedia
白糸の滝⇒
1980年(昭和55年)白糸の滝
草軽電鉄旧北軽井沢駅跡 1980年(昭和55年)
草軽電鉄旧北軽井沢駅跡 映画『カルメン故郷に帰る』に登場    
草軽電鉄は、大正4年一部開通、大正15年草津~新軽井沢間55.5kmの全線が開通した。(昭和34年~37年廃線)  沿線に18の駅が開設され、その内の一つが北軽井沢駅舎であった。当時は「地蔵川停留所」といわれていたが、昭和4年この地区に法政大学村が開村されたことに伴い、大学村が駅舎を新築し草軽電鉄に寄附、名称を軽井沢の北側に位置していたので、「北軽井沢駅」と呼ばれるようになった。 


照月湖
周囲2kmの小さな静かな森に囲まれた湖。標高1048mの位置にあるため、夏でも25℃を超えることがなく涼しく6~7月は蛍の名所。
北軽井沢・浅間牧場茶屋
1980年・北軽井沢/紀州鉄道パルコール村.....紀州鉄道で開発した北軽井沢の別荘村
1981年(昭和56年)
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1981年(昭和56年)夏・旧軽井沢前田郷にて

旧軽井沢諏訪神社夏祭り
創立年代不詳、軽井沢開発当初 信州一の宮 諏訪大社の御分霊を載き、古来より厚く崇敬されている。御本殿は中仙道軽井沢宿が最も繁栄した元禄期の再建。明治6年村社に列せられ、昭和21年神社制度変革により神社本庁所属、昭和55年8月10日長野県神社庁献幣使参同指定神社に昇格。軽井沢町指定文化財で現在は、旧軽井沢、新軽井沢の集落の氏神さまとして崇敬されている。 
出典:長野県神社庁  
1981年(昭和56年)夏・碓井峠見晴台
1982年(昭和57年)
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熊野皇大神社
長野県側は神社庁により特別神社に指定されているが、群馬県側はただの神社で碓氷峠に位置する神社。和歌山県の熊野三山、山形県の熊野神社と並び日本三大熊野と称される。社殿は群馬県安中市と長野県軽井沢町にまたがっており、参道と本宮の中央を県境が通る。長野県側は神社庁により特別神社に指定されている熊野皇大神社と称される。 主な社宮は3つであり、本宮は伊邪那美命、日本武尊(ヤマトタケル)長野県側の那智宮は事解男命を祀る。群馬県側の新宮は速玉男命を祀る。

社伝によれば、ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際、濃霧が生じて道に迷った。この時に一羽の八咫烏が梛の葉を咥えて道案内をし、無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる。古代の東山道は当社の南方の入山峠を通っていたと考えられ、中山道にあたる新道が開通した時に現在地に遷座したという説もある。鎌倉時代の1292年5月3日(正応5年4月8日)に松井田一結衆が奉納した鐘には「臼井到下今熊野大鐘事」とある。なお1354年(文和3年)に奉納された多重塔に「当社権現」と刻される事などから、神仏混淆の両部を備えており、神宮寺や仁王門もあったとされる。神宮寺は後に軽井沢町に移転したという。 江戸時代は中山道の要所にあることから賑わい、1695年(元禄8年)には越後高田藩主・松平定逵の通行の際には吉例祈祷をして初穂料として金100疋を奉納されるなど、大名の中山道通行の際に祈祷を行なう事もあった。また上州で武術が盛んなことから各流派による額の奉納も多く、1826年(文政9年)に気楽流の飯塚臥龍斎、1831年(天保2年)に真神道流柔術の片山庄左衛門、1845年(弘化2年)には日置流弓術の酒井数馬が、それぞれ奉納を行なっている。

出典:フリー百科事典Wikipedia

 2019年7月13日 朝日新聞デジタル版記事より

11面の「beパズル」を解く前に、こんな謎かけはいかがだろうか。

 
《八万三千八三六九三三四七一八二四五十三二四六百四億四六》
群馬県安中市と長野県軽井沢町の境にある旧碓氷峠を記者が訪れたのは、6月11日の昼すぎだった。
濃霧の中、峠から群馬県側の旧中山道を約300メートル下ると
一(ひと)つ家(や)の碑 の案内板があった。落ち葉の積もった脇道をさらに200メートルほど進む。高さ1メートル余りの石碑が見え、表にこの数字が刻まれている。
どう読むか。峠に戻り、碑を管理する熊野神社の渡邊修宮司に謎解きをお願いした。「『山道(やまみち)は寒(さむ)く寂(さみ)しな一つ家に夜毎(よごと)身(み)にしむ百夜置(ももよお)く霜(しも)』と読みます。数字の語呂合わせで作られた短歌です」 言い伝えによれば、武蔵坊弁慶が逃避行のさなかに心中を数字に託して歌った。しかも爪で彫ったというから生々しい。
源頼朝に謀反の疑いをかけられ、京の都から奥州平泉に逃れた弟の義経一行。その面々の中に弁慶はいた。平家を滅ぼした立役者たちへの理不尽な仕打ちだ。
「痛切な思いをこの地に残したかったが、ここを通ったことが幕府にばれないようにするため、数字で書いたのでしょうか」 碑はもともと江戸前期の寛永年間に建立されたという。約10キロ北西にある浅間山が1783(天明3)年に大噴火し、その後の水害で流失した。「このあたりに積もった火山灰は私の身長とほぼ同じ5尺5寸(約166センチ)と伝わっています」と渡邊宮司。現在の碑は1917(大正6)年に再建されたそうだ。 流失前の碑の歌を本に書いた人がいた。江戸中期の儒学者、新井白蛾(はくが)(1715~92)。随筆『牛馬問』で、作者不詳として紹介した。ある人は昔からこんな和歌の例があると言うが、自分はその道に疎いのでよく知らない、と素っ気ない文章。特に下句は現在の碑と少し違う。〈四五十二四六 夜毎に白く 百四億四百 もも夜置くしも〉。再建の際、記憶違いで誤記されたのかもしれない。
(中略)

■弁慶いずこ、逃避行の空白
義経に付き従い、奥州平泉をめざして逃避行を続けた弁慶は、なぜ旧碓氷峠にいたのか。歌舞伎十八番の一つ「勧進帳」では現在の石川県小松市の安宅(あたか)の関が有名で、室町期に成立したとされる軍記『義経記(ぎけいき)』では、山伏に変装した一行が日本海側の修験の道をたどったはずだが……。
鎌倉幕府の歴史を編年体で記した『吾妻鏡』では、義経の消息が伊勢、美濃などで途切れ、平泉まで飛ぶ。歴史の空白があるようだ。
日本中世史研究の第一人者、五味文彦・東京大学名誉教授(73)は、こんな想像をする。「鎌倉幕府にとって重要だった当時の碓氷峠に義経一行が向かったとは考えにくい。ただ、江戸時代には『吾妻鏡』が世間にも流布していました。美濃と平泉の間の空白を埋めようと、碓氷峠にも来ていたと解釈したのかもしれません」
碓氷峠の難所はだれがどう切り開いたのか。そんな考えにふけりながら歩いた旅人もいたことだろう。すでに怪力の伝説が広まっていた弁慶が、この地の物語に盛り込まれた可能性はあるという。
そこで古地図を広げてみる。美濃から信濃と上野(こうずけ)を経て奥州に向かうには……。古代からの東山道だ。江戸幕府が中山道を整備するまで内陸の幹線道路の一つだった。弁慶たちは頼朝の裏の裏をかき、敵中突破のように関東を横切ったのではないか。状況証拠らしきものがある。
軽井沢町の西隣の長野県御代田町にある真楽寺には「弁慶の腰掛けの松」と呼ばれるマツがある。根元が曲がっていることから名付けられたそうだ。さらに西の長野県小諸市の深沢渓谷には、細長い棒状の「ねんぼう岩」が立つ。高さは約30メートルといわれ、てっぺんに弁慶の金の茶釜が隠されていると伝わる。
旧碓氷峠から東に直線距離で約25キロ離れた群馬県榛東村の黒髪山神社に、一つ家の碑とほぼ同じ数字の歌が刻まれたほこらがある。ここでも代々、「弁慶公遺書」と言い伝えられてきたのだという。
旧碓氷峠の歌碑を調べたことがある軽井沢町文化財審議委員会長、大久保保さん(73)に話を聞いた。一つ家の碑に刻まれた数字の歌の作者は「弁慶説」のほかに二つの説があるという。
歌舞伎役者の市川団十郎説。「初代か二代。得意とする弁慶の荒事から弁慶説が派生したのかもしれません。数字はユーモアが流行した元禄文化の言葉遊びではないか」碓井貞兼の妻説。「大江山の酒呑童子退治で知られる平安期の源頼光の四天王の一人だった碓井貞光の父が貞兼。一つ家は東山道沿いの駅家(うまや)(人馬を用意した施設)で、貞兼はその駅長といわれます。妻は歌をよくし、〈百夜置く霜〉は女性的な表現です」 旧碓氷峠の群馬県側には山姥(やまんば)伝説がある。歌川国芳が浮世絵に描いた。「一つ家」は急坂にあった茶屋で、ここに住む老婆が旅人を苦しめたという話もある――。
再び上った旧碓氷峠は、やはり霧に包まれていた。東は群馬から、西は長野から暖かく湿った空気が標高約1200メートルの峠に向かって吹き上がり、冷やされて、霧が生まれるという。一つ家の碑の作者の探索も五里霧中である。
峠を行き交う江戸期の旅人がこの碑を見た時の表情を想像してみた。記者のように頭を抱えてしまうだろうか。いや、思わずニヤリとしたに違いない。鬱屈(うっくつ)した現代よりも、ずっとしゃれっ気があった時代だっただろうから。
 (文・辻岡大助)




一つ家の碑
1983年(昭和58年)
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鬼押し出し
鬼押出し園は、群馬県吾妻郡嬬恋村にある公園である。一帯は1783年(天明3年)におきた浅間山の噴火の際に流れ出た溶岩で、膨大な量の溶岩が風化した結果形成された奇勝を巡回できる。経営母体は株式会社プリンスホテル。 園内には東京上野の寛永寺の別院である浅間山観音堂が設置されている。これは浅間西武グループの母体となった箱根土地創業者の堤康次郎が1919年にこの一帯を訪れ、既にリゾート地として知られていた軽井沢に比較的近い立地を活かして観光開発の対象とすることを目論んだ「北軽井沢」の名で知られるようになる。1928年にはバス運行を開始するなどの観光開発を推進した。1935年には園地内の遊歩道整備と、木造3層展望台の「岩窟ホール」建設が行われている。1951年7月1日、現行の「鬼押出し園」として営業を開始した。国土開発の「鬼押出し園」南側にある長野原町町有地を開発して「鬼押出し・浅間園」を1963年に開設。以後2015年現在まで競合する同種の自然公園施設二つが並立する状態になっている。鬼押出し園は、隣接する浅間園について一般には言及せず、公式には特段の案内も行っていない。これは浅間園の側も同様である。 山噴火の犠牲者を弔う目的で1958年に勧請された。
出典:フリー百科事典Wikipedia

浅間山観音堂
昭和45年8月31日、会長さんご夫婦との約束の40日間のお手伝いを終え中軽井沢の山荘にMを迎えに行って帰りは伊香保に寄って帰る。
40日間、初めて他人の中で生活でいろいろな経験をし終えて、顔つきが大人になった印象が今も残っている。
≪4度目の軽井沢≫
4度目の軽井沢は兄とミュンヘンオリンピック応援をかねてヨーロッパ旅行に出かける為Mと長女を実家に預ける為軽井沢経由で行く。
≪6度目の軽井沢≫
昭和51年、軽井沢を初めて知ってから6年後、友人家族と懐かしい軽井沢へ一泊旅行。銀座近くの貸し別荘・からまつ荘(軽井沢土地別荘管理事務所)
≪7度目の軽井沢≫昭和52年
それからの軽井沢滞在の初めは前田郷から始る。
以後毎年夏休み軽井沢に来ることになる。
2006年(平成18年)夏
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軽井沢72ゴルフ

松尾芭蕉句碑
旧軽井沢の芭蕉「馬をさへながむる雪の朝哉」の句碑。軽井沢の俳人小林玉蓬により150回忌に建てられたものだが、この句は 芭蕉の 野ざらし紀行の際 名古屋で詠まれたもの。
芭蕉が軽井沢~追分を訪れたのは、1688年(貞享5年)8月芭蕉45歳の更科紀行の時で詠んだ句は「吹き飛ばす  石も浅間の  野分哉」
二手橋脇の室生犀星文学碑

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