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サイパン島 慰霊に周る

30日島巡りの朝ベッドから見上げる空はどんより曇り空。
2012年10月30日
今日は太平洋戦争犠牲者を追悼するツァーに参加サイパン島内を周る。
9:30ホテル・ロビーにツァーバスが迎えが来る。

《バンザイ岬に並ぶ慰霊碑の数々》


ガイドさんは現地在住の日本人で中年女性の方。
参加者は合計4人だけ。マイクロバスで出発。
町やホテルに日本からの渡航者は多数いたのに、慰霊をする人がほとんどいないのが残念。 娘からサイパンで結婚式をするといわれた時、この島の歴史を考えると少々重い気持ちになったが、若い人にはそういう感傷はないのだろう。


≪サイパンの戦い戦闘経過 出典:ウィキペディア≫
太平洋戦争(大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘。斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団 (アメリカ軍)が上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日〜20日)が発生した。
1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)前半にかけて連合国軍はソロモン諸島、ギルバート諸島、マーシャル諸島、ニューギニア島のパプア半島を攻略し、カロリン諸島、パラオ諸島、マリアナ諸島へ迫った。 マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29が展開すれば東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。アメリカ軍は中国の成都市にもB-29を進出させており、1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに日本本土空襲を開始する直前の状態であったが、成都からでは九州など西日本の一部しか攻撃できなかった。もし、マリアナからの本土空襲が始まれば日本は関東の工業地帯を破壊され、さらには民間人に大量の死者を出すことや国民の士気が低下して戦争継続が困難となることが予想された。 日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年秋に大本営は絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍が絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になってあわてて防備強化が図られた。松輸送の名の下に本土からの輸送によって第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパン島に派遣された。松輸送は期待以上の成功を収めたものの、歩兵第18連隊や歩兵第118連隊など約1万名は輸送中敵の潜水艦の雷撃により戦地に辿り着く事なく戦死した。現地で増援部隊の一部は再編成され、独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)が編成されている。海軍の陸上部隊としては、第5根拠地隊の下に第55警備隊(司令:高島三治大佐)などが置かれている。 日本陸軍は1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにした。第31軍は司令部をサイパン島に置き、海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入った。これはマリアナ方面の防備が海軍担当であったためであり、第31軍は中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲忠一中将)の指揮を受ける形式になったが、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部により行われた。このほか、サイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれており、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将ら高級指揮官が集中していた。日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。そのため、海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。ただ、主力の第43師団の到着は米軍の上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。 日本の委任統治領だった関係でサイパン島には日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍上陸時にも在島していた。
1944年6月日本軍主力が防衛する島中央部において戦闘が開始された。この頃になるとアスリート飛行場が運用可能になり、偵察機や爆撃機の使用が開始された。空からの援護もありアメリカ軍は防衛線を突破、占領地は島の70%に達した。しかし、この日占領した住居地域では、倒壊した住居跡に残るトタンの下に日本軍が隠れており、掃討にかなりの時間を要した。日本軍の独立歩兵第317大隊600名は、アスリート飛行場奪回の為夜襲をかけたが、米軍に包囲され全滅した。 7月7日、日本軍は完全に追い詰められた。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、陣地を築いて待ち構えていた。この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えたが、日本軍出撃部隊はほぼ全滅した。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていた。南雲中部太平洋方面艦隊司令長官を始め高級指揮官らは自決し、一部の日本兵は降伏、事実上サイパン島の日本軍は全滅した。7月9日にターナー中将はサイパン島の占領を宣言した。

最後の激戦地バンザイクリフに建つ慰霊碑。

≪戦闘による犠牲 出典:ウィキペディア ≫
アメリカ軍の攻略作戦が始まると、多数の民間人が砲爆撃に巻き込まれて死傷していった。
戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍にとらえられることを避けるためバンザイクリフやスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。 アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、当時の多数の日本人が信じていた「残虐非道の鬼畜米英」や帰国船撃沈事件の恐怖イメージのためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した。サイパン島の日本軍が民間人に対する配慮を欠いていたことも自決の原因として指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。 日本の軍人の中には、アメリカ軍による意図的な民間人虐殺を目撃したと証言する者もあるが、信憑性は疑問視されている。 戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人〜10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。 大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また、藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。半数以上の民間人がアメリカ軍によって保護されたことは一般国民には伝えられなかった 。 戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている。











ガラバンなど南のアメリカ軍上陸から北へ敗走していき、逃げ場を失い島の北バンザイクリフから身を投げた人達は正確な数は不明だが数千人といわれている。


バンザイクリフに建つ観音像は日本を向いて建てられている。


日本政府が建てた慰霊の観音像。

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後方の岩山はスーサイドクリフ(自殺の崖)でここからも数千人のひとが飛び降りて亡くなっている。
観音像の眼差しはバンザイクリフを見下ろしながら日本本土に向かって建っている。



岬の遊歩道を歩くと戦中の悲劇があったのが信じられない景観。
その先の断崖から多くの人たちが絶望の中身を投げたのだ。
その気持ちを思うと胸はしめつけられ瞼が熱くなる。


≪ バンザイクリフについて 出典:ウィキペディア ≫
太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍司令部がサイパン島北部にあり、アメリカ軍の激しい戦闘(サイパンの戦い(1944年6月15日〜同年7月9日))において、追い詰められた日本兵や民間人が、スーサイドクリフと同様にアメリカ兵からの投降勧告、説得に応じず、80m下の海に身を投じて自決した悲劇の断崖(岬)である。多くの自決者が「天皇陛下、万歳」と叫び両腕を上げながら身を投じたことから、戦後この名で呼ばれるようになった。自決者の数は1万人にのぼるとも言われていて、海は血で真っ赤に染まり、死体の海と化した。現在は、サイパン島南太平洋地域の平和記念公園として整備され、慰霊碑や寺院が建立されており、崖周辺にある多数の供養塔とともに、観光地の1つとなっている。また、慰霊碑へ向かう道の途中には、戦車が放置してあり見学することができる。
戦後六十周年の2005年6月28日、日本の皇室としては初めて、今上天皇・皇后両陛下がバンザイクリフを慰霊のため訪問した。
かつては、英語化された音でマッピ岬(Marpi)と呼ばれた。日本統治時代の地名もマッピ(松尾)で、古い文献にもそのように記されている。プンタンサバネタ(Puntan Sabaneta)という呼称は、現地の言葉であるチャモロ語での呼称である。北マリアナ政府は、この岬を正式にプンタンサバネタに変更したが、世界ではバンザイクリフが使われている。
サイパン戦での犠牲者
日本兵・在留日本人:55000人以上 アメリカ兵:3500人以上 チャモロ人:900人以上 韓国人多数

天皇・皇后両陛下慰霊

≪民間人収容所での生活 出典:ウィキペディア ≫
大場栄(映画・太平洋の奇跡モデル)が20代の憲兵伍長Tを民間人に装わせて投降させる形でアメリカ軍が設置した民間人収容所に送り込み、収容所内の10代の青少年をオルグしてアメリカ軍に対する抵抗組織をつくる。1945年8月15日の終戦後、収容所内での民間人は、終戦(日本の敗戦)はアメリカ軍の陰謀だと主張する勢力と、終戦を信じる勢力が対立する。その後憲兵伍長は少年組織を唆して終戦派のリーダーを殺害させ、さらに山に立てこもる日本軍を説得しようとした民間人をも殺害。主犯の憲兵と実行犯の少年は収容所を脱出し大場のもとに帰る。大場らが投降した後、少年は逮捕されるが憲兵伍長に単独犯と自白するよう言い含められ、死刑判決(後無期懲役に減刑)を受けアメリカ本土で服役、出所以後牧師となる。一方、大場及び憲兵は罪に問われることなく日本に帰還した。このことに関して収容されていた民間人から大場の責任を問う声がある。

『太平洋の奇跡・フォックスと呼ばれた男』
は元アメリカ海兵隊員ドン・ジョーンズの長編実録小説『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』が原作で、原作のモデルになった、・大場栄陸軍大尉については評価が分かれている


最後の司令部跡の後ろの山からも多くの人が身を投じた。


太平洋戦争当時の最後の司令部跡。
 岩山をくりぬかれて作られた司令部とは名ばかりの小さな洞窟。
洞内は砲弾の痕が多数残り、米軍の圧倒的な激しい攻撃にさらされた日本兵達の苦悶の様子が理解できる。


最後の司令部跡に残された日本軍の破壊された武器が風雨にさらされ無残な姿のまま並んでいる。


戦禍の跡の生々しいサイパン島を周って、ささやかだが哀悼の気持ちを捧げることができて気持ちが少し軽くなった。

日本人には辛い過去のある島だが、ハワイなどに比べ島内は素朴で静か、気候・風景も心地よくハワイなどよりずっと落ち着いて過ごせた。またいつかこれたら慰霊に伺おうと思う。

ガイドツァーは南の繁華街方面へと続いていたが、北の戦禍の跡地を案内してもらったので、そこまでで中断してホテルへ送ってもらう。

お昼にアクアリゾートサイパンHotel戻る。

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≪サイパン島の歴史 出典:ウィキペディア≫

≪スペイン統治時代≫
1521年3月6日にマゼランがヨーロッパ人として初めてマリアナ諸島を発見し、1565年にはマリアナ諸島の領有を西欧諸国に布告した。それ以降、3世紀に渡りスペインの統治下にあった。1668年にイエズス会のサンヴィトレス神父を長とする伝道使節団がマリアナ諸島のグアム島に来訪して以来、マリアナ諸島全域で住民のキリスト教化が始まった。当初の布教は順調であったが、先住民の習慣に干渉する神父たちに島民は反感を抱くようになり、1670年1月にサイパン島で先住民による伝道師殺害事件が起きた。この事件がその後十数年に及ぶスペイン=チャモロ戦争の発端となり、スペインは軍隊を派遣して先住民を虐殺した。 その後、1695年にスペインはサイパン以北のマリアナ諸島の先住民をサイパン島に強制移住させたが、それらの島民も1698年にサイパン島に元からいた先住民と共にグアム島へ強制移住させられ、サイパン島は一時無人島となった。 1815年にはカロリン諸島のサタワル島から酋長アグルブに率いられた一団が移住し、更にスペインは、チャモロ人の帰島を認めたため再び同島は有人島となった。

 ≪ドイツ統治時代≫
1898年、米西戦争でスペインの支配は終わりドイツに売却される。ドイツは、開拓および先住民への教育政策を放棄し、同島を流刑地に選んだ。

 ≪日本統治時代≫ 
1914年7月、第一次世界大戦が勃発し、10月14日には連合国側であった日本が赤道以北の南洋諸島全体を占領した。この事に伴い、日本国内では彩帆島(さいぱんとう)と呼称される事となる。1920年には、国際連盟の委任統治領となり、同島には南洋庁サイパン支庁が設置され、都市開発や公衆衛生、産業振興、教育政策が急速に推進された。日本による委任統治領となった後は、サイパン島は内地から南洋への玄関口として栄え、サイパンで産出された砂糖の積み出し港としての役割にとどまらず、同じく日本の委任統治領であるパラオやマーシャル諸島、カロリン諸島などとの間での貿易の中継地点としても発展する。この時期には、プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、日本(主に沖縄県出身者)や台湾、朝鮮からの移民が移住した。
その間、準国策会社の南洋興発株式会社(本社所在地はサイパン島・チャランカノアがサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設し、アジア最大の製糖産地として発展させた。設立者(社長)の松江春次は、「砂糖王(シュガーキング)」と呼ばれ、彼の功績が称えられて、彩帆神社境内に「彩帆公園(現砂糖王公園)」が造園され、現職社長としては異例の寿像が建立された。1943年8月の時点での人口は日本人(台湾人、朝鮮人含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。第二次世界大戦中は、日本軍司令部があったこともあり、1944年6月のアメリカ軍をはじめとする連合国軍の上陸の際には、住民を巻き込んだ激しい戦闘によって多数の犠牲者を出した。現在でもバンザイクリフ (Banzai Cliff) やスーサイドクリフ (Suicide Cliff) など島のあちこちに戦争の名残がある。
1944年7月以来、サイパン島は、連合国の一国であるアメリカ軍の軍政下に置かれたが、1947年に国際連合の信託統治領「太平洋諸島信託統治領(施政権者:アメリカ合衆国)」となった。1981年1月9日、アメリカ合衆国内の自治領である「北マリアナ諸島」としてアメリカ合衆国内に留まったが、北マリアナ諸島以外は次々と分離独立していった。日本からやって来る戦没者慰霊団の宿泊施設として、1977年にハファダイビーチホテルが創業して以来、日本人観光客が多くが訪れるようになり、1980年代に入ると、日本のデベロッパーからの投資が活発に行われ、多くのリゾートホテルやゴルフ場が建設された。現在では、日本人の保養地として栄えるようになった。第二次世界大戦終戦60年にあたる2005年には、6月27日から翌28日にかけて今上天皇皇后両陛下が戦没者を慰霊するため、天皇が史上初めて友好親善ではない慰霊目的だけの海外訪問として当地に行幸した。この際、在住韓国人による抗議活動が予定されていたが、地元住民の反対により中止に追い込まれた。サイパンを訪問する観光客は、依然として日本人が大多数であるが、最近は日本人の渡航先が多様化した上、日本航空による定期便運休の影響もあり、日本人観光客は、ピーク時に比べ減少傾向にある。それに代わり、韓国や中国からの観光客が増加しているが、日本人観光客減少の損失を補えるほどではない。また、アメリカ合衆国本土とは違い、両手10本による指紋採取が行われていないなど入国審査が緩やかであったためか、韓国の仁川国際空港などを経由してロシアからの観光客も多く見かけるようになった。ところが、2009年11月28日から北マリアナ諸島において連邦化が実施され、それまで北マリアナ政府が担当していた入国審査を合衆国政府に移管し、合衆国本土と同じ出入国管理法が適用されるようになった。したがって、現在は指紋採取も合衆国同様実施されており、中国人やロシア人に対しては入国ビザが必要になるなど入国審査が厳しくなった。本来ならば同年6月1日から実施する予定であったが、住民の反対運動や連邦化への準備不足などの影響から180日延期された。

明日は帰るのだ、サイパンは縁と折があれば又 是非 来たいと思う。

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