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 北欧旅行(2012年9月26日~10月16日) エストニアロシアフィンランドスウェーデンノルウェーデンマーク
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10月13日
北欧旅行18日目
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コペンハーゲン空港駅
オーデンセ市内観光
オーデンセ駅
コペンハーゲン空港駅
コペンハーゲン市内観光
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コペンハーゲン市庁舎横のアンデルセン像

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10 船旅(B)沿岸急行船Kirkenes
11 デンマーク/コペンハーゲン(A)
12 コペンハーゲン(B)


コペンハーゲン市庁舎
ハンス・クリスチャン・アンデルセン...出典:ウィキペディア

1805年4月2日デンマーク、フュン島の都市オーデンセで産まれる。
22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で産まれた。
彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。アンデルセンは、両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。1816年に靴職人の父親が亡くなると自分の進路を決めなければならなくなり、学校を中退する。15歳の時、彼はオペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。最初の3年間は困窮を極めた。彼が創作する劇作や歌なども認められなかった。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のヨナス・コリン(コペンハーゲン王立劇場の支配人)の助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。しかし、在学中の5年間(1822-1828年)は悲惨なものだった。文学的才能について学長から嘲笑れたりしたので、コリンは個人授業を受けさせた。
1828年大学に入学し、文献学と哲学を学んだ。1829年には、『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行──1828と1829における』を自費で出版しドイツ語版も出るほどであった。その後、ヨーロッパを旅行し、1834年10月にはローマに行っている。
デンマークに戻ってきた1835年に最初の小説『即興詩人』を出版する。
この作品は、発表当時かなりの反響を呼び、ヨーロッパ各国で翻訳出版されてアンデルセンの出世作となったが、現在は森鴎外訳を得た日本以外で顧みる者はほとんどいない。
同年『童話集』を発表するが、当初はむしろ不評であった。その後も死去するまでの間に多くのおとぎ話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様な民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。初期の作品では主人公が死ぬ結末を迎える物も少なくなく、若き日のアンデルセンが死ぬ以外に幸せになる術を持たない貧困層への嘆きと、それに対して無関心を装い続ける社会への嘆きを童話という媒体を通して訴え続けていた事が推察できる。しかし、この傾向は晩年になってようやくゆるめられていき、死以外にも幸せになる術がある事を作中に書き出していくようになっていく。また極度の心配性であったらしく、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた。さらに、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた。
70歳の時に肝臓癌で死去する。大学を卒業しなかったアンデルセンは、旅行を自分の学校として、多くの旅行記を書いている。グリム兄弟、バルザック、ディケンズ、ヴィクトル・ユーゴーなど旅先で多くの作家や学者と交友を深めた。生涯独身(未婚)であった。
アンデルセンが70歳で亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並び大騒ぎになった。世界中で愛読されていたにもかかわらず、自身は常に失恋の連続だった。要因として、容姿の醜さ、若い頃より孤独な人生を送ったため人付き合いが下手だったこと、他にもラブレター代わりに自分の生い立ちから、童話作家としてデビューした事、初恋に敗れた悲しさなどを綿々と綴られた自伝を送るという変な癖があったことを指摘する人もいる。この著作は死後約50年経て発見された。それ等によると生涯に三度、こうした手紙類を記したことが分かっている。探検家デイヴィッド・リヴィングストンの娘との文通は有名である。彼の肖像は、デンマークの旧10クローネ紙幣に描かれていた。
首都コペンハーゲンには人魚姫の像とダンス博物館に王立バレエ団時代の資料が、彼の生まれ故郷オーデンセにはアンデルセンの子供時代の家(一般公開)とアンデルセン博物館がある。また、1956年には彼の功績を記念して国際児童図書評議会 (IBBY) によって「児童文学への永続的な寄与」に対する表彰として国際アンデルセン賞が創設され、隔年に授与が行われている。この賞は「児童文学のノーベル賞」とも呼ばれ、高い評価を得ている。

------------------------- 代表作品 ---------------------------
即興詩人  絵のない絵本   火うち箱   裸の王様   みにくいアヒルの子  人魚姫  親指姫   マッチ売りの少女  雪の女王  野の白鳥(白鳥の王子)  赤い靴  しっかり者のスズの兵隊   小夜啼鳥   モミの木 エンドウ豆の上に寝たお姫さま パンをふんだ娘  蝶   沼の王の娘   とび出した五つのエンドウ豆  雪だるま 最後の真珠   父さんのすることはいつもよし   ある母親の物語  空とぶトランク


6:00早起きしてラジオ体操。
7:30ホテル・ヒルトンは一階がレストランで朝食時間は5:30~10:30と空港近くのホテルらしい。



今日はアンデルセン生誕の街オーデンセへ行く為9:30発の列車を予約していた。(二人で467DKK)
空港駅はホテルから徒歩3分くらいなので9:00頃ホテルを出発して駅に向かう。


2番線で列車を待っていると、ホームの雰囲気が何か様子が変だ。みんな駅員さんに群がり説明を聞いているようだ。

Tallinn
StPetersburg
StPetersburg2
Helsinki
Stockholm
Stockholm(2)
Oslo
Hurtigruten
Copenhagen
Copenhagen2

片言英語で駅員さん探して質問すると『9:30の列車は事故で運休になって、こんど来る電車でコペンハーゲン中央駅に行きそこで別の電車に乗り換えてください』という主旨の説明。


しかし確信が持てなく、近くにいた女性二人(デンマーク人だった)に同じ質問をすると、自分達は国内旅行中で途中まで一緒に行きましょうと親切な言葉。座席指定券もあったのに役に立たず、予定の時間に着けるかどうかもわからず、彼女たちを頼りにしてついて行くしかない。次の列車に乗りコペンハーゲン中央駅へ。


コペンハーゲン中央駅のホームは大混雑。
目的の列車を探し彼女たちも右往左往しながらやっとオーデンセ方面行きを見つけて彼女たちも一緒に乗車する。
検札に来た車掌さんがオーデンセ着予定時間を教えてくれる。

ほっとしながら車窓の風景を楽しみながら、約1時間半、無事にオーデンセ駅に到着した。


オーデンセ駅ホーム ↑     ↓ オーデンセ駅前

オーデンセ駅をでると駅前は緑いっぱいの王様公園、地図をひろげて王様公園を抜けてアンデルセンの生家方面に歩く。天気は快晴でノルウェーでは見れなかった久しぶりの青空が目にしみる。


オーデンセ駅前 不思議なモニュメント

オーデンセの地名の由来は北欧の神話に由来している。フュン島周囲の美しい風景を見たフレイアの夫フレイアが『見て!オーディンOdin Se』叫びそれが地名になったという。確かに美しい街だ。


王様公園から抜けると直ぐに街の中心繁華街だが、騒々しくなく落ち着いた風情。駅を背にしてとにかく真っ直ぐ行けばオーデンセ川というキーワードが頭にあった通り真っ直ぐ進んでいった。


アンデルセンの子供時代過ごした家が見つかる。オーデンセで生まれたアンデルセンは貧しい子供時代で多感な少年時代を過ごした家は世界的童話作家の家とは思えないほど簡素で小さく( 実際使われていたのはこの建物の半分程のよう)アンデルセンは靴屋さんを営む家族とともにはここに暮らしていたのだ。


アンデルセン子供時代の家

子供時代の家の近く 聖クヌート教会はアンデルセンが堅信礼(キリスト教で幼児洗礼などを受けた者がキリスト教徒として強められ信仰告白を行う儀式)を受けた教会。


聖クヌート教会の裏手はアンデルセン公園で、芝生の上にアンデルセンの像が建ち、オーデンセ川にかかる橋の下の流れでアンデルセンの母親が洗濯仕事をした場所だ。

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オーデンセ駅
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アンデルセン公園
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この川でアンデルセンのお母さんが洗濯物をしたのか。
今は心和むのどかな風景の場所だが、アンデルセン一家にとっての当時はそんなのんびりした気持ちにはとてもなれない厳しい時代だったことだろう。



次に向かったのはアンデルセンの生家。
生家は工事中だったので外からしか見れなかった。建物は3戸の共同住宅で当時は両親・姉・祖父母など5家族20人近くが住んでいた。
ここで1805年4月2日アンデルセンは靴屋の息子として生を受ける。



生家の隣にはアンデルセン博物館。


アンデルセンの生家前のみやげ物店。
マダムは接客がすごく親切丁寧な方で人形とクリスマス飾りを買う。
免税書類を作ってもらう。



オーデンセのスーパーでチーズ・ワインを買って駅に戻る。
帰りの列車は時刻表の通りに動いていて予約していた14:07分の列車でコペンハーゲンに帰る。
コペンハーゲン中央駅を出てチボリ公園側に歩いて行く。


コペンハーゲン中央駅

コペンハーゲン中央駅横がすぐにチボリ公園入口だ。






チボリ公園には明後日入園予定なので脇の道路を回りこんで公園裏手のコペンハーゲン市庁舎前広場へ。
市庁舎前広場はコペンハーゲンのランドマークで、街の中心にありコペンハーゲン一番の繁華街ストロイエの入口にあたる。


市庁舎はコペンハーゲンで最も高い105㍍の塔をもち、市庁舎横にはアンデルセンの像が空を見上げている。
市庁舎ホールには100年に1000分の1の誤差しかないイェンス・オルセンの天文時計が有名だ。


Tallinn
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StPetersburg2
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Hurtigruten
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Copenhagen2

市庁舎右横 アンデルセン通り沿いのアンデルセンの像

コペンハーゲン 一の繁華街『ストロイエ』









市庁舎前広場からコンゲンス・ニュートーゥ(王様の新広場)を結ぶストロイエを歩く。
中ほどのアマートゥ広場。


ストロイエでは大道芸も華やか。
実演されていた脱出イリュージョン。


ストロイエをされに進んでアンデルセンが成功してから住んだニューハウン。
ニューハウンは運河沿いにカラフルな木造家屋が並び、かって長い航海を終えた船乗り達の息抜きの居酒屋街だったところで今もカフェやレストランが軒を連らね賑やかに営業中である。


アンデルセンも南岸18・20・67番地に居を構えその壁に彼の名前が刻まれている。


ニューハウンは今も昔と変わらない風景で、アンデルセンも日々見たであろう景色を見られるのは感慨深い。


ニューハウン北岸からアンデルセンの住んだ南岸(写真右)を通って石造りの旧王立劇場前へ。
デンマーク最古の劇場で、1874年にこけら落しが行われた。


ストロイエに戻り。チボリ正面入口からコペンハーゲン中央駅へ。


チボリ公園正面
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今日の歩行数は28683歩 約18.6km。
歩きつかれて電車にのり着席すると、前に座った女性が日本語で話しかけてくる。
日本に留学経験のある人で膝の上に置いた日本語ガイドブックを見て日本人と思って話しかけたといった。
久しぶりに日本語が話せてとても楽しかった。彼女は『日本人は礼儀正しく優しく控えめでとても好きな国です』といますぐにでも日本に行きたいといっていた。 間もなくカストラップ(空港)駅でさよならする。

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コペンハーゲン

デンマーク王国の首都で、通称は北欧のパリ。シェラン島の東の海岸にあり、デンマーク東部、デンマーク最大の都市で、コペンハーゲン自治市の人口は52万人。コペンハーゲン県の人口は112万人。また、シェラン島東部とエーレスンド海峡を挟んだ対岸のスウェーデン南部スコーネ県のマルメ市、ルンド市などを含めた都市圏人口は280万人に達する。北欧最大の都市圏である。
コペンハーゲンは1000年ころスヴェン1世 (デンマーク王) スヴェン1世とその息子クヌーズ1世 (デンマーク王) クヌート大王によって発見された。12世紀半ばに、アブサロン司教の所有になった後の重要性の高まるまでは、コペンハーゲンはただの漁港であった。アブサロン司教は1167年にコペンハーゲンの要塞化をおこなった。良質の港湾はコペンハーゲンを商業の重要な中心に成長することを促進した。ドイツ人に存在を気づかれると、ハンザ同盟の度重なる攻撃を受けた。1254年にはヤーコプ・エルランドセン司教から都市の特許をうけた。1658年から1659年にはカール10世指揮下のスウェーデン軍の厳しい包囲に抵抗した(北方戦争)。この戦役は「氷上侵攻」としても知られている。1801年にはパーカー提督指揮下の英国艦隊がデンマーク海軍とコペンハーゲンの海戦という大きな戦争をコペンハーゲン湾内で戦った。この戦いではホレーショ・ネルソン副司令官指揮下の艦隊がデンマーク艦隊を撃破した。



フッティ・ルーティン(船旅2)

デンマーク・コペンハーゲン(2)

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