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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道 日光路
『おくのほそ道』芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅   日光路 (東京~埼玉~栃木~福島)

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


採荼庵(さいとあん)
採荼庵は江戸の俳人杉山杉風の庵室で、俳号を採荼庵と名乗った。家業は魚問屋で、鯉上納の幕府御用もつとめ、松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人に数えられ、『常盤屋句合』『角田川紀行』などの著作があり、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られている。
芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくここ採荼庵で過ごした。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立った。


江東区深川「採荼庵」


JR越中島駅から採荼庵跡へ



おくのほそ道  元禄2年(1689)3月27日〜9月6日 芭蕉(46歳)は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約2,400キロ、日数約150日にも及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらす。 『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆している。芭蕉の紀行文としては質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。 芭蕉翁顕彰会--参照

おくのほそ道
おくのほそ道 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。  
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河)の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神)のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、『草の戸も 住替る代ぞ ひなの家』面八句(おもてはちく)を庵の柱にかけ置く。
おくのほそ道
1689(元禄2年)3月27日
日光路 深川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
東京都江東区深川 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家
松尾芭蕉が門弟 曾良を伴ない おくの細道に旅立ったのは、1689年5月16日(旧暦元禄2年3月27日) 芭蕉46歳、五代将軍徳川綱吉「生類憐れみの令」が施行されていた時代の江戸.深川から。

採荼庵跡の脇に仙台堀川

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4 (1)深川
2021年4 (2)千住
2021年4 (3)日光
2021年4 (4)日光裏みの滝
2021年4 (5)黒羽光明寺
2021年4 (6)黒羽雲巌寺
2021年4 (7)那須野
2021年4 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川

芭蕉はここから船に乗ったのではないかといわれている「奥の細道」の出発地点。
おくのほそ道
おくのほそ道 弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
『行く春や 鳥啼魚の 目は泪』 これを矢立の初(はじめ)として、行く道なを進まず。人々は途中(みちなか)に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
おくのほそ道
1689(元禄2年)3月27日
日光路 千住
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
足立区 千住橋戸町 行(ゆく)春や 鳥啼(とりなき)魚の 目は泪(なみだ)
言問橋・おくのほそ道で芭蕉は隅田川を船で下って千住へ

北千住西口/旧日光街道 宿場町通り
北千住駅西口商店街の宿場町通り。『おくのほそ道』で芭蕉もこの辺りから歩き始める。


おくのほそ道
おくのほそ道  ことし元禄二(ふた)とせにや、奥羽長途(ちょうど)の行脚ただかりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨(うら)みを重ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境、もし生て帰らばと、定なき頼みの末をかけ、その日ようよう早加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかかれるもの、まずくるしむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路頭の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。

札場河岸公園芭蕉像

百代橋

札場河岸公園望楼
おくのほそ道
おくのほそ道  室(むろ)の八嶋(やしま)に詣(けい)す。同行曽良がいわく、「この神は木(こ)の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習(よみならわ)しはべるもこの謂(いわれ)なり」。はた、このしろといふ魚を禁ず。縁記のむね世に伝ふこともはべりし。

野州大塚駅

室の八島(大神神社)

大神神社の境内の池の中に石橋や、朱塗の橋がかかる島が八つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮等8つの神社が鎮座し、歌枕として知られ敷地内に芭蕉の句碑「糸遊に結ひつきたる煙哉」がある。

室の八島(大神神社)
 
おくのほそ道
おくのほそ道  卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊る。あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(そうもん)の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固(しょうじきへんこ)の者なり。剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質もっとも尊ぶべし。
日光杉並木街道
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  卯月朔日(ついたち)、御山に詣拝す。往昔(そのむかし)この御山(おやま)を二荒山と書きしを、空海大師開基)の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。今この御光(みひかり)一天(いってん)にかかやきて、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏なり。猶憚(はばかり)多くて筆をさし置ぬ。
『あらたふと 青葉若葉の 日の光』  黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。
「剃て 黒髪山に 衣更(ころもがえ)」 曽良
2021年4月6日
日光路 日光
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市山内 あらとおと 青葉若葉の 日の光
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 曽良は河合氏(かわいうじ)にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉(したば)に軒をならべて、よが薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松島・象潟(きさがた)の眺ともにせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立つ暁(あかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。よって黒髪山の句あり。「衣更(ころもがえ)」の二字力(ちから)ありてきこゆ。廿余丁(にじゅうよちょう)山を登つて瀧あり。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて瀧の裏より見れば、裏見の瀧ともうし伝えはべるなり。
『暫時 瀧に籠るや 夏の初』
2021年4月6日
日光路 日光裏みの滝
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市日光 暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや 夏(げ)のはじめ
おくのほそ道
2021年4月4日
日光路 深川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
東京都江東区深川 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家
おくのほそ道
おくのほそ道  那須の黒ばねといふ所に知人(しるひと)あれば、これより野越(のごえ)にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。   遥に一村(いっそん)を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜をかりて、明ればまた野中を行く。そこに野飼(のがい)の馬あり。  草刈る男の子になげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情しらぬには非(あら)ず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うゐうゐしき旅人の道ふみたがえむ、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  「かさねとは 八重撫子の 名成るべし」曽良   やがて人里にいたれば、あたひを鞍つぼに結付(むすびつ)けて、馬を返しぬ。
おくのほそ道
おくのほそ道  黒羽(くろばね)の館代(かんだい)浄坊寺 何がしの方におとずる。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、その弟 桃翠(とうすい)などいふが、朝夕(ちょうせき)勤めとぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前(たまものまえ)の古墳をとふ。それより八幡宮に詣ず。 与一扇の的を射し時、「べっしては我国氏神(わがくにのうじがみ)正八まん」とちかひしもこの神社にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊(ことに)しきりに覚えらる。 暮るれば桃翠(とうすい)宅に帰る。修験光明寺といふあり。そこにまねかれて行者堂を拝す。 
『夏山に 足駄を拝む 首途哉』 
おくのほそ道
おくのほそ道  当国(とうごく)雲巌寺(うんがんじ)のおくに佛頂和尚山居跡(さんきょのあと)あり。「竪横(たてよこ)の 五尺にたらぬ 草の庵(いお)むすぶもくやし 雨なかりせば」 と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡みむと雲岸寺に杖をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若き人おほく、道のほど打ちさはぎて、おぼえずかの梺(ふもと)にいたる。山はおくあるけしきにて、谷道はるかに、松 杉 黒く、苔しただりて、卯月の天今なお寒し。十景(じっけい)つくる所、橋をわたつて山門に入(い)る。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しかん)、法雲法師の石室を見るがごとし。
「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。
おくのほそ道
おくのほそ道  これより殺生石(せっしょうせき)に行く。館代より馬にて送らる。この口付きの男の子(おのこ)、短冊(たんじゃく)得させよとこう。やさしきことを望みはべるものかなと、
『野を横に 馬ひきむけよ ほととぎす』

殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。  蜂(はち)蝶(ちょう)のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。 また、清水(しみず)ながるるの柳は蘆野(あしの)の里にありて田の畔(くろ)に残る。この所の郡守(ぐんしゅ)戸部(こほう)某(なにがし)のこの柳見せばやなど、おりおりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ。 
『田一枚 植えて立ち去る 柳かな』
おくのほそ道
おくのほそ道  心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。 いかで都へと便(たより)求めしもことわりなり。中にもこの関は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあはれなり。卯の花の白妙(しろたえ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠(かんむり)を正し、衣装を改めしことなど、清輔(きよすけ)の筆にもとどめ置かれしとぞ。   「卯の花を かざしに関の 晴着かな」曽良
おくのほそ道
おくのほそ道  とかくして越え行くままに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて、山つらなる。かげ沼といふ所を行くに、今日は空曇て物影うつらず。須賀川の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋ねて、四、五日とどめらる。まず白河の関いかにこえつるやと問う。「長途(ちょうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
『風流の 初やおくの 田植うた』
無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつづけて、三巻(みまき)となしぬ。この宿(しゅく)のかたわらに、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやとしづかに覚えられてものに書き付はべる。其詞(そのことば)、栗といふ文字(もんじ)は西の木と書きて西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用いたまふとかや。
『世の人の 見付ぬ花や 軒の栗』

(14)
おくのほそ道
おくのほそ道  等窮(とうきゅう)が宅を出でて五里ばかり、桧皮(ひわだ)の宿を離れて安積山(あさかやま)あり。路より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問ひ、かつみかつみと尋ねありきて、日は山の端(は)にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍ぶのさとに行く。遥山陰(やまかげ)の小里に石なかば土に埋もれてあり。里の童べの来たりて教えける。昔はこの山の上にはべりしを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、この石を試みはべるをにくみて、この谷につき落とせば、石の面(おもて)下ざまにふしたりといふ。さもあるべきことにや。
『早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺』
おくのほそ道
おくのほそ道  月の輪のわたしを超えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野(さばの)と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が旧跡なり。梺(ふもと)に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落とし、またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし、まず哀れなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。堕涙(だるい)の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物(じゅうもつ)とす。
『笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟』   五月朔日(ついたち)のことなり。
おくのほそ道
おくのほそ道  その夜飯塚(いいづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかるに、土坐(どざ)に筵(むしろ)を敷て、あやしき貧家なり。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて雷鳴(かみなり)、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて、消入ばかりになん。短夜(みじかよ)の空もやうやう明れば、また旅立ぬ。なお、夜の余波(なごり)心すすまず、馬かりて桑折(こおり)の駅に出づる。遥なる行末をかかえて、かかる病(やまい)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅(きりょ)辺土の行脚、捨身(しゃしん)無常の観念、道路にしなん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、路(みち)縦横に踏で伊達の大木戸をこす。
おくのほそ道
おくのほそ道  鐙摺(あぶみずり)・白石の城(じょう)を過、笠嶋の郡(こおり)に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、これより遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋といい、道祖神の社・かたみの薄今にありと教ゆ。このごろの五月雨に道いとあしく、身つかれはべれば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
  
『笠嶋は いづこさ月の ぬかり道』岩沼に宿る

おくのほそ道
おくのほそ道  武隈の松にこそ、目覚(さむ)る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。まず能因法師思ひ出づ。その昔(かみ)むつのかみにて下りし人、この木を伐(きり)て、名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠たり。代々(よよ)、あるは伐(きり)、あるひは植継(うえつぎ)などせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになんはべりし。「武隈(たけくま)の松みせ申せ遅桜」と挙白(きょはく)といふものゝ餞別したりければ、
『桜より 松は二木を 三月越し』

おくのほそ道
おくのほそ道  名取川を渡て仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿(りょしゅく)をもとめて四五日逗留す。ここに画工加右衛門といふものあり。いささか心ある者と聞きて知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考(かんがえ)置はべればとて、一日(ひとひ)案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるる。玉田・よこ野・つつじが岡はあせび咲ころなり。日影ももらぬ松の林に入りて、ここを木の下といふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝て、その日はくれぬ。なお、松嶋・塩竃の所々、画に書て送る。かつ、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ風流のしれもの、ここにいたりてその実を顕す。
『あやめ草 足に結ん 草鞋の緒』
おくのほそ道
おくのほそ道  かの画図(がと)にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)あり。今も年々十符の菅菰(すがごも)を調(ととのえて)て国守に献ずといえり。壷碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城にあり。つぼの石ぶみは高さ六尺あまり、横)三尺斗(ばかり)か。苔を穿(うがち)て文字かすかなり。四維(しゆい)国界の数里をしるす。この城、神亀元年、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)の所置(おくところ)なり。天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)六年)参議東海東山節度使(せつどし)同(おなじく)将軍恵美朝臣(えみのあそんあさかり)修造而、十二月朔日(ついたち)とあり。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る哥枕(うたまくら)、おほく語(かたり)伝ふといへども、山崩れ川流(ながれ)て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり。
おくのほそ道
おくのほそ道  それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山(まっしょうざん)といふ。松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。あまの小舟こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々に、「綱手(つなで)かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀れなり。その夜、目盲(めくら)法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚えらる。
おくのほそ道
おくのほそ道  早朝塩竃(しおがま)の明神に詣(もう)づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重なり、朝日あけの玉がきをかかやかす。かかる道の果、塵土(じんど)の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴(とうと)けれ。神前に古き宝燈あり。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進とあり。五百年来のおもかげ、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳命(かめい)今にいたりてしたはずといふことなし。誠人能(よく)道を勤(つとめ)、義を守るべし。名もまたこれにしたがふといえり。日すでに午にちかし。舟をかりて松嶋にわたる。その間(あい)二里あまり、雄嶋の磯につく。
おくのほそ道
おくのほそ道  そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭(どうてい)・西湖を恥(はじ)ず。東南より海を入れて、江の中(うち)三里、浙江の潮(うしお)をたたふ。島々の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。そのけしき、よう然として美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。ちはや振(ぶる)神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化(ぞうか)の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞(ことば)を尽さむ。
おくのほそ道
おくのほそ道  雄島(おじま)が磯は地つづきて海に出でたる島なり。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人も稀々見えはべりて、落穂・松笠など打(うち)けふりたる草の庵、閑(しずか)に住なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめまたあらたむ。江上(こうしょう)に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中(うち)に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。  『松島や 鶴に身をかれ ほととぎす』曽良
よは口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂松島の詩あり。原安適松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。かつ、杉風・濁子(じょくし)が発句あり。
おくのほそ道
おくのほそ道  十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後 開山す。其後(そののち)に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化によりて、七堂甍(いらか)改まりて、金壁荘厳(しょうごん)光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
おくのほそ道
おくのほそ道  十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝て、人跡(じんせき)稀に雉兎(ちと)蒭蕘(すうじょう)の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石巻といふ湊に出づ。「こがね花咲」とよみてたてまつりたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船(かいせん)入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かまど)の煙立ちつづけたり。思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿からんとすれど、さらに宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明ればまたしらぬ道まよひ行く。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉にいたる。その間(あい)廿余里(にじゅうより)ほどとおぼゆ。
おくのほそ道
おくのほそ道  
かねて耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成べきを、四面新に囲て、甍を覆(おおい)て雨風をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
『五月雨の 降のこしてや 光堂』

おくのほそ道
おくのほそ道  かねて耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽て、すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成べきを、四面新に囲て、甍を覆(おおい)て雨風をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
『五月雨の 降のこしてや 光堂』
おくのほそ道
おくのほそ道  南部道 遥(はるか)に見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、出羽の国に超えんとす。この路旅人(たびびと)稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(ようよう)として関をこす。大山(たいざん)をのぼつて日すでに暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
『蚤虱 馬の尿する 枕もと』
おくのほそ道
おくのほそ道  あるじのいふ、これより出羽の国に大山(たいざん)を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越べきよしをもうす。さらばといいて人を頼みはべれば、究境(くっきょう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携(たずさえ)て、我々が先に立ちて行く。今日こそ必ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじのいふにたがはず、高山森々(しんしん)として一鳥声きかず、木の下闇(したやみ)茂りあひて夜る行くがごとし。雲端(うんたん)につちふる心地して、篠の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまずい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこのいふやう、この道かならず不用のことあり。恙(つつが)なうをくりまいらせて仕合(しあわせ)したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞きてさへ胸とどろくのみなり。
おくのほそ道
おくのほそ道  尾花沢(おばねざわ)にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
『涼しさを 我宿にして ねまるなり』
『這出でよ かひやが下の ひきの声』
『まゆはきを 俤にして 紅粉の花』
  『蚕飼(こがい)する 人は古代の すがたかな 』曽良

おくのほそ道
おくのほそ道  山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊(ことに)清閑の地なり。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮ず。梺(ふもと)の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌(いわお)を重ねて山とし、松栢(しょうはく)年旧(としふり)土石老て苔滑(なめらか)に、岩上(がんじょう)の院々扉を閉てものの音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。
 
『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』

おくのほそ道
おくのほそ道  最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ。「ここに古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角(ろかく)一声の心をやはらげ、この道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)残しぬ。このたびの風流ここにいたれり。最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなどいふ、おそろしき難所あり。板敷山(いたじきやま)の北を流て、果は酒田の海に入る。左右山覆(おお)ひ、茂みの中に舟を下す。これに稲つみたるをや、稲舟(いなぶね)といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙(ひまひま)に落て仙人堂岸に臨て立(たつ)。水みなぎつて舟あやうし。
『五月雨を あつめて早し 最上川』
おくのほそ道
おくのほそ道  六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。図司左吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍利(えがくあじゃり)に謁す。南谷の別院に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(じょう)こまやかにあるじせらる。四日、本坊にをゐて誹諧興行。   『有難や 雪をかほらす 南谷』
五日、権現に詣(もうず)。当山(とうざん)開闢(かいびゃく)能除大師はいづれの代の人といふことをしらず。延喜式に「羽州(うしゅう)里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州(うしゅう)黒山」を中略して「羽黒山」といふにや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合わせて三山(さんざん)とす。当寺武江東叡(ぶこうとうえい)に属(しょく)して天台止観(てんだいしかん)の月明らかに、円頓融通の法(のり)の灯かかげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効(げんこう)、人貴(とうとび)かつ恐る。繁栄長(とこしなえ)にして、めでたき御山(おやま)といいつべし。
おくのほそ道
おくのほそ道  八日、月山(がっさん)にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包、強力といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪を踏てのぼること八里、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関に入るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身こごえて頂上にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。笹を鋪(しき)、篠を枕として、臥(ふし)て明るを待つ。日出でて雲消れば湯殿に下る。谷の傍(かたわら)に鍛治小屋といふあり。この国の鍛治、霊水をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔を打、終(ついに)月山と銘を切て世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬(にらぐ)とかや。干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。行尊僧正の哥(うた)の哀れもここに思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。そうじてこの山中の微細(みさい)、行者の法式として他言することを禁ず。よりてて筆をとどめて記(しる)さず。坊に帰れば、阿闍利のもとめによりて、三山順礼の句々短冊に書く。 
『涼しさや ほの三か月の 羽黒

『雲の峯 幾つ崩れて 月の山』
『語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな』
 『湯殿山 銭(ぜに)ふむ道の 泪かな』曽良

おくのほそ道
おくのほそ道  羽黒を立ちて、鶴が岡の城下)、長山氏重行といふもののふの家にむかへられて、誹諧一巻(ひとまき)あり。左吉もともにに送りぬ。川舟に乗りて酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医師(くすし)のもとを宿とす。  
『あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ』
 『暑き日を 海にいれたり 最上川』

おくのほそ道
おくのほそ道  江山(こうざん)水陸の風光数(かず)を尽して、今象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責む。酒田の湊より東北の方、山を超え礒(いそ)を伝ひ、いさごをふみて、その際十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂(まさご)を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中(あんちゅう)に莫作して、「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色(せいしょく)またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋に膝をいれて雨の晴るるを待つ。その朝(あした)天よく晴れて、朝日花やかにさし出づるほどに、象潟に船をうかぶ。まず能因嶋(のういんじま)に船をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(こうじょう)に御陵(みささぎ)あり。神功后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。このところに行幸(みゆき)ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中(うち)に尽て、南に鳥海天をささえ、その陰うつりて江にあり。西は有耶無耶の関、路(みち)をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて浪打ち入るる所を汐越といふ。江(え)の縦横)一里ばかり、俤松嶋にかよひてまた異なり。松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂(たましい)をなやますに似たり。
『象潟や 雨に西施が ねぶの花』
『汐越や 鶴はぎぬれて 海涼し』
祭礼 『象潟や 料理何くふ 神祭』曽良  『蜑の家や 戸板を敷て 夕涼』みのの国の商人 低耳   岩上に 雎鳩(みさご)の巣をみる『波こえぬ 契りありてや みさごの巣』曽良
おくのほそ道
おくのほそ道  酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む、遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改て、越中の国市振の関にいたる。この間九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病おこりてことをしるさず。 
『文月や 六日も常の 夜には似ず』  
『荒海や 佐渡によこたふ 天河』

おくのほそ道
おくのほそ道  今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所を超えてつかれはべれば、枕引きよせて寐たるに、一間隔てて面(おもて)の方(かた)に若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老たる男(おのこ)の声も交て物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、この関まで男(おのこ)の送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。「白浪のよする汀(みぎわ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しくはべれば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひはべらん。衣の上の御情(おんなさけ)に、大慈のめぐみをたれて結縁せさせたまへ」と泪を落とす。不便(ふびん)のことにははべれども、「我々は所々にてとどまる方おほし。ただ人の行くにまかせて行くべし。神明の加護かならずつつがなかるべし」といひ捨て出でつつ、哀れさしばらくやまざりけらし。 
『一家に 遊女もねたり 萩と月』   曽良にかたれば、書とどめはべる。

おくのほそ道
おくのほそ道  黒部四十八ヶ瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たご)の藤浪は春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと人に尋ぬれば、「これより五里いそ伝ひして、むかふの山陰(やまかげ)にいり、蜑(あま)の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、加賀の国に入る。
『わせの香や 分入右は 有磯海』

おくのほそ道
おくのほそ道  卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿(りょしゅく)をともにす。一笑といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人(しるひと)もはべりしに、去年(こぞ)の冬早世したりとて、その兄追善をもよおすに、
『塚も動け 我声は 秋の風』ある草庵にいざなはれて
『秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子』途中吟(とちゅうぎん)
『あかあかと 日はつれなくも 秋の風』

(40)
おくのほそ道
おくのほそ道   小松といふ所にて 『しほらしき 名や小松ふく 萩すすき』   
この所太田の神社に詣。真盛が甲(かぶと)・錦の切あり。往昔(そのむかし)源氏に属(しょく)せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊唐草(きくからくさ)のほりもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打ったり。真盛討死の後(のち)、木曽義仲(きそよしなか)願状(がんじょう)にそへてこの社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。
『むざんやな 甲の下の きりぎりす』

おくのほそ道
おくのほそ道   山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽(しらねがだけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(かざん)の法皇三十三所の順礼とげさせたまひて後(のち)、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷(なた)と名付たまふとなり。那智(なち)・谷組(たにぐみ)の二字をわかちはべりしとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり。  『石山の 石より白し 秋の風』   温泉(いでゆ)に浴す。その功有明につぐといふ。  
『山中や 菊はたおらぬ 湯の匂』
あるじとするものは久米之助とていまだ小童(しょうどう)なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室(ていしつ)若輩のむかしここに来たりしころ、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村(いっそん)判詞(はんじ)の料を請ずといふ。今更むかし語とはなりぬ。

おくのほそ道
おくのほそ道   曽良は腹を病て、伊勢の国長嶋といふ所にゆかりあれば、先立て行くに、 『行行て たふれ伏と も萩の原』曽良  と書置(かきおき)たり。行くものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。よもまた、『今日よりや 書付消さん 笠の露』
大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。なお加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、『終宵(よもすがら) 秋風聞くや うらの山』と残す。一夜の隔(へだ)て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮(しゅりょう)にふせば、明ぼのの空近う、読経声すむままに、鐘板(しょうばん)鳴て食堂(じきどう)に入る。今日は越前の国へと、心早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若き僧ども紙・硯をかかえ、階(きざはし)のもとまで追来たる。折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳散れば、 
『庭掃て 出でばや寺に 散柳』  とりあへぬさまして草鞋ながら書捨つ。

(43)
おくのほそ道
おくのほそ道   越前の境、吉崎の入江)を舟に棹(さおさ)して汐越の松を尋ぬ。  『終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松』 西行(さいぎょう)この一首にて数景尽たり。もし一辧(いちべん)を加るものは、無用の指を立(たつ)るがごとし。
おくのほそ道
おくのほそ道  丸岡天龍寺の長老、古き因(ちなみ)あれば尋ぬ。また金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、このところまでしたひ来たる。ところどころの風景過(すぐ)さず思ひつづけて、折節(おりふし)あはれなる作意など聞こゆ。今すでに別に望みて、 『物書て 扇引きさく 余波哉』
五十丁(ごじっちょう)山に入りて永平寺を礼(らい)す。道元禅師の御寺なり。邦機(ほうき)千里を避て、かかる山陰(やまかげ)に跡をのこしたまふも、貴きゆへありとかや。
おくのほそ道
おくのほそ道  福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯したためて出づるに、たそがれの道たどたどし。ここに等栽といふ古き隠士)あり。いづれの年にか江戸に来たりてよを尋ぬ。遥(はるか)十(と)とせあまりなり。いかに老さらぼひてあるにや、はた死)けるにやと人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中(しちゅう)ひそかに引入て、あやしの小家に夕顔・へちまのはえかかりて、鶏頭は木々(ははきぎ)に戸ぼそをかくす。さてはこのうちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘しげなる女の出でて、「いづくよりわたりたまふ道心の御坊にや。あるじはこのあたり何がしといふものの方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる風情ははべれと、やがて尋ねあひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立(だつ)。等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折(しおり)とうかれ立(たつ)。
おくのほそ道
おくのほそ道  漸(ようよう)白根が嶽(だけ)かくれて、比那が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出でにけり。鴬の関を過て湯尾峠を越れば、燧(ひうち)が城(じょう)、かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。その夜、月ことに晴れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ、なお明夜(めいや)の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟なり。社頭(しゃとう)神(かん)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(はいり)たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人、大願発起のことありて、みづから草を刈(かり)、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず。神前に真砂を荷(にな)ひたまふ。これを遊行の砂持ともうしはべる」と、亭主のかたりける。
『月清し 遊行のもてる 砂の上』  十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(あめふる)。
『名月や 北国日和 さだめなき』
おくのほそ道
おくのほそ道  十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと種の浜(いろのはま)に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某(なにがし)といふもの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風(おいかぜ)時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家(こいえ)にて、侘しき法花寺(ほっけでら)あり。ここに茶を飲(のみ)、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。
『寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋』 
『波の間や 小貝にまじる 萩の塵』  その日のあらまし、等栽(とうさい)に筆(ふで)をとらせて寺に残(のこす)。
おくのほそ道
おくのほそ道  大垣(おおがき)
露通(ろつう)もこのみなとまで出でむかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曽良も伊勢より来たり合い、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、そのほかしたしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものに会ふがごとく、かつ悦び、かついたはる。旅のものうさも、いまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢の遷宮おがまんと、また舟にのりて、 
『蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ』
序章(高橋治監修おくの細道より転載)
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。松尾芭蕉のいちばんの傑作といわれる「おくのほそ道」はこう書き出せれている。
※年、月、日といった時間は限りないひろがりと、永遠につづく宇宙から見れば旅行者のようなものだ。きては去り、去っては新しいものがおとずれる。人間も時間と似たようなもんで、船頭も馬子も、船や馬を相手にして、人生という時間の中を旅している。つまり旅の中に生活しているともいえるだろう。
古人も多く旅に死せるあり。
古人は、もう遠い昔に亡くなった人という意味で、芭蕉はだれとだれだとは書いていない。しかし芭蕉の生きかたや、芭蕉の作品に見られる影響から、中国の李白、杜甫、日本の西行や宗祇などの詩人たちだと考えられている。芭蕉はこれらの詩人たちの作品を非常に愛し、自分も詩人として、一歩でもこういった先人の世界に近づきたいと努力した。たまたま、これらの人々は旅行中に死んだ。芭蕉も「おくおほそ道」の旅をぶじに終えて、二年ほど関西に住んだのち、江戸に帰る。しかし、三年近く江戸にいただけで、元禄七年(1694)夏九州を目ざす旅に出発し、そのとちゅう、大阪ではげしい下痢をする病気にかかって死ぬ。あこがれた古人たちと同じ旅行中の死だった。
「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」が時世の句で、
よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上(こうしょう)の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。
ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
  「草の戸も 住替る代ぞ ひなの家」
面八句(おもてはちく)を庵の柱にかけ置く。
ここ採荼庵で芭蕉が『おくの細道』最初に詠んだ句
2021年4月4日
日光路 (1)深川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
東京都江東区深川 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家


(意)
戸口が草で覆われたこの深川の家も、私に替わって新しい人が住み、綺麗な雛人形が飾られるような華やかな家になるのだろう。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4 (1)深川
2021年4 (2)千住
2021年4 (3)日光
2021年4 (4)日光裏みの滝
2021年4 (5)黒羽光明寺
2021年4 (6)黒羽雲巌寺
2021年4 (7)那須野
2021年4 (8)遊行柳


採荼庵跡の脇に仙台堀川
芭蕉はここから船に乗ったのではないかといわれている「奥の細道」の出発地点。
『おくのほそ道』街歩きは
「採荼庵」深川から隅田川に出て北千住までは隅田川テラス散歩コースを歩く。約12㌔⇒地図





両国橋~蔵前橋へ

隅田川テラスの句碑

隅田川テラスは新大橋~
両国橋~蔵前橋~厩橋~駒形橋~言問橋~白髭橋までいくつもの江戸の名残の橋の下を通っていく。


隅田川テラス

両国橋~蔵前橋~厩橋~駒形橋~から名物アサヒスーパードライホール下までくる。



オブジェは、仏デザイナー
フィリップ・スタルクの設計

アサヒビール本社スーパードライホール

吾妻橋から見上げると名物のアサヒビール本社スーパードライホールのオブジェ 前の吾妻橋を渡ると雷門に続く浅草への入口だが、ここは渡らず更に進んで~言問橋


こまどり姉妹の唄に出てくる言問橋
「浅草姉妹」⇒ ♪♪ なにも言うまい 言問橋の水に流した あの頃は
     鐘が鳴ります 浅草月夜 化粧なおして エー化粧なおして 流し唄 
♪♪

白髭橋
で隅田川を渡り左岸に移る。北千住まではあと少し!⇒


左岸 隅田川テラス

隅田川テラス左岸から振り返ると白髭橋の向こうに、さっき下を抜けてきたばかりの東京スカイツリー。


桜満開の都立汐入公園からもスカイスリー

東京都汐入公園を抜けると最後の千住汐入大橋を渡って北千住駅まではあと一息。
朝6時半から歩き始め3時間かかって北千住駅に到着。西口の宿場町通り見ていく。


北千住駅

  芭蕉は船を千住で船を降り、矢立初め(旅日記の始め)として詠んだ句。
2021年4月4日
日光路 (2)千住
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
足立区 千住橋戸町 行(ゆく)春や 鳥啼(とりなき)魚の 目は泪(なみだ)
(意)
春も過ぎ去る頃 皆と旅立つ別れを惜しんでいると鳥も悲しそうに鳴き、魚も涙をためている。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川


北千住西口/旧日光街道 宿場町通り
北千住駅西口商店街 宿場町通り。芭蕉も『おくのほそ道』でこの辺りから歩き始めている。

2021年4月4日
1日目
 

北千住駅に戻り予定より30分早く東武浅草線10:05に乗る。
僅か10分で10:15草加駅着。


草加駅

草加駅から草加松原遊歩道(旧日光街道)に出る。硬めでぱりっとした食感の草加せんべいで有名な土地らしく煎餅屋さん多数。
芭蕉も歩いた旧日光街道の面影が残った遊歩道は、綾瀬川沿いの旧日光街道の松並木。「日本の道100選」「利根川百景」に指定されている。


札場河岸公園芭蕉像

矢立橋





札場河岸公園望楼

芭蕉と曾良が宿泊せず通り過ぎた草加宿、松原遊歩道に架かる二つの木橋、矢立橋百代橋


草加松原遊歩道/綾瀬川

百代橋

草加宿 松原遊歩道 百代橋の上から左正面にこれから行く東武線.獨協大学前駅が見える。


東武線・獨協大学前駅から乗って春日部で乗換え今日の宿泊地 久喜駅へ向かう。


久喜駅

おくのほそ道を辿る旅一日目は久喜のスーパーホテルに宿泊。駅から10分ほどで、天然温泉付きのビジネスホテル。朝食込み5100円。
15時チェクイン時に清算を済ませ、フロント前の棚から、好みの枕と部屋着を持って部屋へ。着替えて早速一階の温泉に入る。天然温泉とのふれこみだが3人も入るといっぱいになる位の小さな湯船だが25㌔歩いた後なので気持ちいい。

20時部屋から、Mに約束のテレホンコールして無事を連絡。


小さい天然温泉お風呂

久喜スーパーホテル
4月4日 歩行数 36007歩 25㌔
2021年4月5日
2日目 日光
 

4月5日 2日目の朝 久喜スーパーホテル一階レストランで朝食。
マスク、体温測定、アクリル板で仕切られた席でいただく。一人客が圧倒的に多い。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川


スーパーホテル朝食




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



今日 2日目は室の八島に寄って、栃木県日光杉並木街道など歩く予定。久喜から電車で栗橋乗換え野州大津駅へ。


野州大津駅は無人駅。住宅街を抜けて徒歩15分、室の八島(大神神社)前に出る。



野州大津駅

室の八島(大神神社)

大神神社の境内の池の中に石橋や、朱塗の橋がかかる島が八つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮等8つの神社が鎮座し、歌枕として知られ敷地内に芭蕉の句碑「糸遊に結ひつきたる煙哉」がある。

室の八島(大神神社)
 
室の八島(大神神社)  (参照)栃木ふるさと学習㌻⇒

室の八島(大神神社)句碑

当時 惣社村の大神神社にある八つの島と池が、歌枕「室の八島」だとされ芭蕉は「糸遊に結びつきたる煙かな」の句を残したが『おくのほそ道』に収められていない。 糸遊=かげろう。

野州大津駅へ戻って電車で新栃木駅に向かう。
新栃木駅から東武日光行きに乗車、11:37分下今市に到着。下車して杉並木街道へ。


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川


東武鉄道新今市駅

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





下今市駅国道119号を西に向かうと間もなく杉並木街道入口へ。

東照宮/日光杉並木街道

杉並木街道は、国道119号と並行して続き、日光市内に近くなると車道と合流する。ほとんどは静かな歩道が続いていた。日光駅まで杉並木街道では誰一人歩く人に出会わなかった。


約9㌔JR日光駅~東武日光駅まで約3時間かかって到着。


JR日光駅~東武日光駅を通って日光街道を東照宮向って歩く。


日光/神橋 は二荒山神社の建造物。

神橋前に到着。左折し右上の東照宮下を進むと間もなく今夜の宿「ホテル春茂登」が見えてくる。


姉妹ホテル「日光千姫物語」は「春茂登」の部屋目の前

今日の宿 春茂登は通りを挟んで目の前に姉妹ホテル「日光千姫物語」お風呂はそちらに入りに行く
2泊3日 2食付き(部屋食)で\20700-格安。


18時~夕食。部屋食なのはありがたいが、一人で食べる夕食は味気ない。
20時部屋から、Mにテレホンコールして無事を連絡


4月5日 歩行数 24803歩 17.3㌔
4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

2日目 6時半ラジオ体操、7時から春茂登の朝食。
今日は午前中、芭蕉も訪ねた「裏見の滝」を見て、午後から東照宮を見学する予定。



(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川



朝食

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





7時半、宿を出発「裏見の滝」は片道約4㌔の山道を歩く⇒

宿を出て国道122号線を中禅寺湖方面に歩くと直ぐの所に「日光田母沢御用邸記念公園」前を通って進む。

日光田母沢御用邸記念公園
県立の都市公園。皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された御用邸の建物と庭園を公園として整備一般公開している。明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一とし貴重

出発して一時間ほど滝の入口駐車場に着く。
そこから更に15分程山道をのぼると滝に続く良く整備された木造の道に出る。




芭蕉が歩いたころはこんなに整備された道でなくもっと難渋して登ったことと思われる。

  
   日光裏みの滝で詠んだ句
2021年4月6日
日光路 (4)日光裏みの滝
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市日光 暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや 夏(げ)のはじめ
(意)
滝の裏の岩窟に身をひそめていると、僧が夏に籠って修行する気持ちになり身も引き締まる。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川

4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

日光「裏みの滝」

「裏みの滝」に到着。芭蕉が来た300年前には滝の左から登って滝の裏側に出て、名前の通り滝の裏側から見られただろう。その道も今は崩れて通行禁止になっている。


森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」


「裏みの滝」はとても風情があり激しく流れ落ちる見応えのある滝。
『暫時は 滝に籠るや 夏のはじめいい句も浮かぶというもの。


裏見の滝から同じ道を下って宿に帰る。

昨日ちょっとしたトラブル「途中駅でsuicaが自動改札機に反応しなくなるがあり日光駅で再発行してもらおうと、宿から日光駅へ10:20分の送迎バスに間に合ったので乗せてもらう。駅の窓口でそれを申し出ると気持ちよく受付けてくれたが、明日以降でないと受取れないとのこと、今日来ておいてよかった。

JR日光駅天井東照宮薬師堂と
同じ「龍の龍」パネルがある

suicaカード磁気不具合再発行してもらう

JR日光駅から大通りを歩いて東照宮に向かう。コロナ禍でいつも観光客の半数は外国人と言われる日光だが、全く見かけない、日本人すら通りを歩く人は本当に少なく商店も宿もこんな時代に遭遇して気の毒で仕方ない。

  日光 元禄2年4月1日(1689年5月19日)江戸を出て3日後に詠まれた句
2021年4月6日
日光路 (3)日光
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市山内 あらたふと 青葉若葉の 日の光
(意)
ここ日光の霊山の木々の青葉若葉に映る日の光は、神霊の荘厳そのもの、なんと尊くありがいことか。日光の地名を読み込み、聖地の緑と光を切り取った表現(芭蕉の徳川家への賛辞には賛否がある)

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川







輪王寺 総本堂 三仏堂

神橋したから東照宮に向って上がっていくと初めに輪王寺の社殿。
その脇を出て右の参道を進むと正面が東照宮の石の大鳥居が構えている。



日光東照宮「石の大鳥居」は1618年(元和4年)筑前 黒田長政(軍師官兵衛の長男)によって奉納された。


東照宮正面「石の大鳥居」

徳川家康が祀る日光東照宮、現在の社殿群は、ほとんどが寛永13年(1636年)3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。芭蕉がお参りしたのは1689年、家光により造営された僅か53年後で芭蕉と曾良の驚き多き想いはどんなだったろう。

 重要文化財「神厩舎」の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」 

眠り猫

東照宮の本殿の裏に左甚五郎の作と伝えられる眠り猫、下をくぐって長い石段を登った先が、奥宮(奥社)徳川家康公のお墓がある。


奥宮(奥社) 入口一対の狛犬 吽像 阿像

徳川家康公 墓
徳川家康公 東照宮HPより抜粋
家康公は元和2年(1616年)4月17日駿府城(静岡市)で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。
 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。

陽明門
 陽名門 別名「日暮の門」正面の中央に位置する白い木に彫られた「目貫きの龍と龍馬」

陽名門の天井画、狩野探幽により描かれた
「昇龍」別名「八方睨みの龍」と「降龍」別名「四方睨みの龍」

陽明門の左右に伸びる国宝「廻廊」

東照宮を出てパワースポット上新道を通って「二荒山神社」「輪王寺 大猷院」へ


上新道

石の大鳥居から右に折れた上新道を進んだ先「二荒山神社」「日光廟 大猷院」が並んで建つ。

日光二荒山神社HPより参照
御祭神 二荒山大神 ⇒親子3神を祀る
      大己貴命(おおなむちのみこと)父
      田心姫命(たごりひめのみこと)母
      味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)子
古くより、二荒山(男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。境内は、日光国立公園の中枢をなす、日光連山をはじめとて、御神域は、3,400㌶におよぶ広大な境内地です。華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財の神橋など日光市内に3社鎮座しています。  男体山山頂⇒奥宮  中禅寺湖畔⇒中宮祠  山内(市内)⇒御本社

日光廟 大猷院(たいゆういん)

日光廟 大猷院(たいゆういん)
は徳川三代将軍「家光公」の廟所。


日光東照宮見学はここで終る。

日光東照宮には何度か来たが今度ほどゆっくり見たのは初めて。一人旅の良いところかもしれない。
「二荒山神社・大猷院」の入口が西参道になっていて坂を下り終えると、宿の春茂登はすぐ前。

宿に帰ると今日も早速タオルを持って、姉妹ホテル「日光千姫物語」のお風呂に入りに行く。
広く大きくいいお風呂。内風呂、サウナ、露天風呂も入りゆっくり汗を流す


2日目の夕食は18時から今日も一人で部屋でいただく。
今夜は牛肉のしゃぶしゃぶがついた。格安なのに部屋で食べられ贅沢させてもらいありがたい。
 一人夕食も3日目になるとだいぶ慣れてきた。
20時、Mにテレホンコールして無事を連絡。

4月6日 歩行数 25080歩 17.5㌔

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川




4月7日 4日目
那須塩原

4月7日目 4日目 6時半ラジオ体操して7時から朝食。
昨夜チェックアウト手続きしておいたのでご飯食べすぐに出発。今日は那須塩原へ。


JR日光駅
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






JR日光駅で昨日頼んだsuicaカードを受取り8:10発電車で宇都宮で乗換え那須塩原9:58着。今日の宿/那須ミッドシティホテルは駅から徒歩3分の案内があったので、湯本温泉に行く前に荷物を預けていく。


ホテルに荷物を預け、駅に戻って、10:40分発の那須湯本温泉行きバスに乗る。
約一時間で温泉バスターミナルに到着 \1020。那須湯本温泉は温泉らしい賑わいや情緒がまったくなく拍子抜け。バスの進行方向向こうに温泉神社の鳥居が見え上がっていく。

那須 温泉神社と那須与一 Wikipediaより
那須余一は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れた。十一番、十あまり一で余一と命名され、(後に与一に改名)源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦った。屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わる。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されている。『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』凱旋の後その神恩の深いことを謝し、大社殿を寄進その誠を表わした。他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納、三番目の鳥居も余一が奉納したもの。

『平家物語絵巻』巻十一 扇の的
源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島の岸に寄せ激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなる。夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がり、春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。
これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。 怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

温泉神社は屋島の闘いで名を馳せた那須与一と関わりがある。しかし芭蕉の時代、与一がその折 願いを込めたのはこの神社ではなく、那須神社(栃木県大田原市)八幡宮であると伝えられていた。つまり芭蕉は殺生石を訪れた時 那須与一に触れていない。



殺生石は溶岩、付近は火山ガスが噴出し硫黄の匂いがただよっている。芭蕉も目にした光景は当時も同じ。

2021年4月7日
日光路 (7)那須野
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須郡那須町湯本 野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす
(意)
馬に乗り那須野を進んでいると、ホトトギスが鳴いている。馬方さん鳴き声のする方に向きを変えて下さい、と芭蕉は詠んだ。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道




(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川



那須 殺生石

殺生石 横芭蕉句碑『石の香や 夏草赤く 露暑し』

殺生石から下った先に名湯「鹿の湯」がある。建物は明治時代、玄関は大正時代に建造現在もその姿を受け継いる。このお湯に浸かるのを、この旅行の楽しみにしていた ひとつ、ゆっくり いい湯をいただいていく。

『鹿の湯』HPより参照

那須温泉元湯・鹿の湯は、七世紀前半、約千三百年前の舒明天皇の御世に開湯されたと伝わり、狩野三郎行広という者が山狩の際に、射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿は傷ついた体を温泉で癒していた。そこで鹿により発見された「鹿の湯」と名づけた。公式には、聖武天皇の御世、天平10年(738年)正倉院文書のなかに那須温泉の記録が残されている。
江戸時代には、在府の大名はしばしば那須温泉に湯治に出かけ、正保2年(1645年)盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された湯治願も残されている。


那須湯本温泉・名湯「鹿の湯」

「鹿の湯」

入口で入浴料500円を支払い下足を預け、きれいに手入れされた廊下を進むと、左が女湯、右が男湯、脱衣場からすぐにお風呂場、洗い場はない、打たせ湯下の桶で軽く流して湯船に進む。 湯船は6つそれぞれ湯温が表示され、手前から41℃/42℃/43℃/44℃/46℃/48℃の6つの浴槽。奥の46℃48℃は遠慮する。 


湯本温泉バスターミナル

鹿の湯で入浴後一休みしてから、坂道を上がってすぐの湯本温泉バスターミナルに戻り、12:45発那須塩原駅行き~13:45分 那須塩原駅に帰ってくる。
反対側の東口にまわって、明後日雲巌寺に行くコミュニティバス時間をチェックしホテルへ。


那須ミッドシティホテル 部屋の正面 那須塩原駅が見える

飲食店はコロナ禍の中敬遠して、途中でコンビニにより、弁当+サラダ+スープなど買ってホテルの部屋で一人夕食。そしてお風呂で洗濯。
20時、今夜も部屋から、Mに約束のテレホンコールして無事の連絡。
4月7日 歩行数 13559歩 9.5㌔
 4月8日 5日目 遊行柳から白河の関跡をまわり須賀川へ
那須ミッドシティホテルの朝食はコロナ対策の為バイキングでなく、和食&洋食お弁当。洋食弁当を選択、部屋で食べる。


東北線:黒田原駅

7時半 ホテルをチェックアウトし那須塩原駅へ。
東北線7:44分発電車に乗り~7:49分黒磯着 乗換7:54発~8:03分 黒田原駅着。通学の高校生多数一緒に下車。駅前に停車中の8:10分芦野市役所行きバスに乗車。運転手さんに10分位で遊行柳最寄りの芦野支所バス停に到着 下車する。

2021年4月8日
日光路 (8)遊行柳
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須郡那須町芦野 田一枚 植(うゑ)てたち去る 柳かな
(意)
西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたったが、私はこの木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに田一枚が植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道








(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川




4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡

芦野支所バス停。四方八方畑ばかり。こんなに全く何もない場所にぽつんと放り出された感じがすごく新鮮な感覚。ずっと向こうの畑の真ん中に大きな木が茂ってるのが見える「あれが遊行柳だ!」いっぱいの青空の下のどかな田園をそこに向かってゆっくり歩いていく。





遊行柳

田一枚 植てたち去る 柳かな

芦野・遊行柳は、芭蕉の心を捉えた西行が「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだと伝えられる場所。「清水流るる柳」を見たいという願いがかなった、と芭蕉は感動し詠んだ句が「田一枚 .......」西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたったが、私はこの木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに一枚を植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。
(おくの細道に旅立ったのは西行の五百回忌に当たる年)


今日はこの旅行で最大の..歩行距離を覚悟して出発して来たが、抜けるような青空でこんなに気持ちいい場所からでラッキー...と 思えたのはここまで。


遊行柳から白河の関跡へは約11.7㌔、先を目指して歩き始める。


現在はどこもかしこも車が騒々しく排気ガスも多く、江戸前期芭蕉が歩いた頃と同じなのは空の青さと山の緑かなと思いながら歩く。


遊行柳から白河の関跡は栃木県境を越え福島県に入って約4時間かけ到着。

白河の関は、鼠ヶ関・勿来関とともに、奥州三関の一つに数えられた関所。
西行もここでも「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」と詠んでいる。


白河神社

白河の関跡 白河神社境内に、源義経が兄頼朝の決起に呼応し、東国に馳せ参じようとした時、戦勝を祈願し桜に旗印を立てたとされる「旗立の桜」や、戦勝祈願で弓矢を射立てたとされる「矢立の松」の碑が残っている。芭蕉もここにたち寄った時に、義経と芭蕉の尊敬する西行は同じ時代を生きた人、きっと西行や義経に想いを馳せたことだろうと想像できる。

4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡

白河の関跡はバスが一日1~2本しか走ってない、想定した通りで最寄の白坂駅までは歩くしかない。



源義経と佐藤継信⇒
源義経家臣 由来の「庄司戻しの桜」今年も満開

白河の関跡出てすぐ、白坂へ向かう途中に見事な桜。説明板を見るとなるほど ここも義経由来の話で、この見事な桜の木は、義経四天王の一人佐藤継の父基治.植栽の木(庄司戻しの桜)で芭蕉と曾良もおくの細道 道中立寄っている。
朝8時半芦野からから歩き始め白河の関跡へ12㌔歩いた後、そこからJR東北本線白坂駅まで8㌔きつい道のりだったが、午後2時半にやっと白坂駅 到着。

切符の代わりの
乗車証明書発行

白坂駅は無人駅、suicaは使えず乗車証明書をとってホームへ。
白坂13:49~新白河13:53着 乗換え13:57分発~14:24分福島県中通り 須賀川駅へ到着。



4月9日 6日目
黒羽雲巌寺





(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川





4月9日 旅行最終日

今日は那須塩原に戻って黒羽雲巌寺を参拝し帰路につく予定。

6時半ラジオ体操してウィング・インターナショナル・ホテル一階レストランで朝食。アルコール消毒体温測定ビニール手袋着用と何処も同じコロナ対策。


福島県中通り.那賀川・松明通り
須賀川市 HP市の案内
ウルトラマンの生みの親“特撮の神様”と称される円谷英二監督は須賀川市出身です。須賀川市は2013年5月、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市提携を結びました。
「すかがわ市 M78 光の町」は、須賀川市と「M78星雲 光の国」が姉妹都市を提携して誕生した仮想の都市です。町長には宇宙警備隊 大隊長 ウルトラの父が就任。仮想都市の住民登録や、町の名所紹介などを行なっています。
須賀川中心・松明通り(たいまつどおり)にはウルトラヒーローや怪獣のモニュメントが立ち並んでいます。今にも動き出しそうな迫力ある姿は必見です。また、通りの街路灯にはウルトラヒーローや怪獣などのシルエットが描かれています。

ウィング・インターナショナル・ホテル8時半チェックアウト、ウルトラマンモニュメント並んだ松明通りを須賀川駅へ歩く。
朝から青空いっぱい気持ちいい。今日は黒羽のお寺を訪ね帰路につく予定。


須賀川駅




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道










雲巌寺行き大田原市コミュニティ バス

9:15の電車で須賀川駅から那須塩原駅へ移動。駅東口から10:40発のコミュニティバスで雲巌寺へ約一時間で到着。途中の乗客は”0” バス停前から正面に参道が続いている。

2021年4月9日
日光路 (5)黒羽光明寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県大田原市余瀬 夏山に あしだを拝む 首途哉 (かどでかな)
(意)
光明寺に安置された役の行者の下駄を拝み、これから向かうみちのくの長旅の無事を祈った。

2021年4月9日
日光路 (6)黒羽雲巌寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県大田原市雲岩寺 木啄(きつつきも)庵 (いほ)はやぶらず 夏木立(なつこだち)
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
(意)
雲巌寺で寺をつつきこわす鳥とされているきつつきも、この庵だけは破らなかった。今、夏木立に囲まれ昔のままの別天地のような感じのする場所と詠んだ。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
2021年4月 (1)深川
2021年4月 (2)千住
2021年4月 (3)日光
2021年4月 (4)日光裏みの滝
2021年4月 (5)黒羽光明寺
2021年4月 (6)黒羽雲巌寺
2021年4月 (7)那須野
2021年4月 (8)遊行柳
(一) 日光路終
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川


4月9日 6日目
黒羽雲巌寺



黒羽・雲巌寺

雲巌寺・芭蕉『木啄も 庵はやぶらず 夏木立』句碑 

1689年芭蕉は雲巌寺を訪れた

境内にあった樹齢408年のスギ、2018年倒木の恐れあり伐採された。
芭蕉が来訪の頃すでにこの木はあった


雲巌寺から大田原市庁舎へ樹齢408年スギの一部を「年輪盤」として寄贈

大田原市庁舎

臨済宗の名刹雲巌寺の原宗明老師は2日、大田原市庁舎を訪れ、同寺で伐採された樹齢408年のスギの一部を「年輪盤」として寄贈した。1階エントランスに設置された。同寺前を流れる武茂川沿い「千丈の瀧」上部の崖に立っていた老大杉。根元の土砂が崩壊し倒木の危険があったため、昨年8月に伐採された。1610年の誕生から63年の徳川光圀(水戸黄門)の同寺参詣、89年の松尾芭蕉の同寺滞在などが記載され.......2019年10月3日下野新聞記事より

雲巌寺バス停
大田原市コミュニティ バス

那須塩原駅~雲巌時 所要1時間 片道運賃200円のコミュニティバスは行きも帰りも乗客は自分ひとりだけ、採算度外視でいつまで続けられのだろう、少し心配。
雲巌寺12:30発のバスで那須塩原駅に戻り13:53分発電車に乗り宇都宮・古河などで乗換え帰る。
4月9日 歩行数 10403歩 7.3㌔
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
『おくのほそ道』を辿る旅 (一) 日光路 終
(一) 日光路終
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Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道 日光路
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅    日光路 (福島県~宮城県~岩手県)
2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

2021年4月8日
日光路 (9)須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた
(意)
白河の関を超え奥州路に入ると、田植えの真っ盛り農民たちが田植え歌を歌っていた。ひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道




JR東北本線・須賀川駅 福島県中通り

白坂駅で取りだした乗車証明書で須賀川駅で清算、今夜の宿ウィング・インターナショナル・ホテルへ向かう
駅からホテルへまでは20分程松明通り(たいまつとおり)を歩いていく。
通りは広くきれいに整備された大通り。

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」

『風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた』の句碑

須賀川ウィング
インターナショナルホテル

ホテルに入る前、芭蕉ゆかりの寺・十念寺に寄る。
境内に芭蕉が須賀川で詠んだ『風流の 初や奥の 田植うた』の句碑



十念寺
ホテルにチェックイン。荷物を置いて街に出る。須賀川で芭蕉もう一つの地「可伸庵跡」へ。

2021年4月8日
日光路 (10)須賀川
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗
(意)
栗の花は地味であまり世間の人に注目されない、そんな栗の花さながら庵の軒で閑寂な生活するご主人の人柄をあらわしておもむき深い。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

可伸庵跡について
芭蕉と交友のあった俳人・相楽等躬(さがらとうきゅう)の屋敷の一隅に住んでいた僧・可伸の庵跡。芭蕉は「おくのほそ道」旅で等躬の屋敷に8日間滞在した。栗の木の下にある可伸の庵で等躬らと歌仙を巻いた。「世の人乃みつけぬ花や軒の栗」句碑は芭蕉が可伸のひっそりと暮らす様子に感じ入って詠んだ句である。

可伸庵『世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗』句碑

今夜もコロナ禍の中、飲食店は敬遠してコンビニで夕食を調達。カツカレー&サラダ&あんぱん 最後の夕食も部屋で。



お風呂に入り、20時、今夜も部屋から、Mに旅行最後のテレホンコールして無事を連絡。
4月8日 歩行数 39574歩 27.7㌔

『おくのほそ道』を辿る旅 日光路 2回目へ続く
日光路 2回目
2021年9月15日
日光路 (11)文知摺観音堂
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島市山口文知摺前 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)
【意】おくの細道で芭蕉は、文知摺観音堂文知摺石(もちずりいし)を眺めてこう詠んだ。
五月女(田植えする五月頃のおとめ)たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺(シノブの茎や葉の色素を布にすりつけねじれ模様)を摺っていたかと しのばれる。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
2021年4月奥州路1回目
4月8日 (9)須賀川
4月8日 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~2回目
9月15日 (11)信夫.文知摺
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



福島駅前広場.芭蕉&曾良像
「おくの細道」奥州路2回目は福島郊外の文知摺観音(もちずり観音)から。福島駅から往きはバスに乗って、帰りは歩いて福島駅に戻る予定。


文知摺石(もちずりいし)
福島駅から20分ほどバスにのり文知摺観音前で下車、迷いながら道を尋ね尋ねやっと見つけ境内へ。芭蕉も眺めた文知摺石は参道正面にどんと置かれていた。置かれていたというより、もともとそこにあった大きな石(岩)にいろいろな言い伝えが残されたものだ。


文知摺石(もぢずり)

文知摺観音.芭蕉像

平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺」もしくは「しのぶ文知摺」を詠んだ句のゆかりの文知摺観音。 甘く切ない恋歌  芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れたのか、私のせいではないのに、あなたのせい」という、甘く切ない恋の歌だ。さらに、源融と地元の長者の娘 虎女との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、観光地として知られていた。この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだ。芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。地元の子どもの言葉を借り「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。  
芭蕉はそんなことがあってよいのかと落胆し気を取り直して「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」と詠んだ。



おくのほそ道 まわり道...から参照
平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺(ずり)」もしくは「しのぶ文知摺(もぢずり)」を詠んだ句のゆかりの地が、山口地区の文知摺観音である。
 甘く切ない恋歌  芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。 「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 「『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れ始めたのか、私のせいではないのに(あなたのせいです)」という、甘く切ない恋の歌である。「しのぶもぢ摺」が、千々に乱れた恋心、「しのぶ」が「密やかな恋」を思わせる強力な枕詞だ。 さらにこの地に、源融と地元の長者の娘虎女(とらじょ)との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、文人や参詣者が訪れる観光地として知られていた。では、芭蕉もついでに立ち寄ったのかというと、そうでもない。 「この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだろう。悲恋も経験したのだし」と文知摺観音(曹洞宗普門院)の横山俊邦住職は言う。そんな色っぽい話を振る一方で横山住職は「この歌枕と伝説の地を、芭蕉は自分の目で確かめに来たのに、がっかりして帰った」と現実をドライに語る。 芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。「ほそ道」では、地元の子どもの言葉を借りて「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。芭蕉いわく「そんなことがあってよいものだろうか」芭蕉の激しい落胆が伝わってくる。 それでも、芭蕉が気を取り直すように詠んだ句が
早苗とる手もとや昔しのぶ摺〉ここ信夫の地で忍ぶ摺が行われていたのは昔のこと、せめて早苗を取る早乙女の手元に往事の所作を偲ぶとしよう、の意。ロマンの消失にがくぜんとしつつ、現在の田植えに視点を移し、昔をしのぶ感慨を詠んだのだ。この転換、さすがである。 

文知摺観音(もちずり観音)から福島駅までは約7㌔。帰りはゆっくり歩いて福島駅へ向かう。

2021年9月15日
日光路 (12)飯坂医王寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県飯坂町平野寺前 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



【意】節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。

福島駅から飯坂線に乗って飯坂温泉へ向かう。
1971年新婚旅行ではこの電車に乗ったのはすっかり日の暮れた夜。割合混雑していた電車の最前列に立ち、ヘッドライトに照らされ真っ暗闇に浮かび上がって夜空に続く二本の線路、それからの二人の人生を暗示しているかのような情景は今でも昨日のことのようにまぶたに浮かぶ。


飯坂線(福島⇔飯坂温泉)

飯坂線車内”ゆ”中吊り

今日は飯坂線に乗って、飯坂温泉2つ手前の「 医王寺前駅」 で下車、芭蕉も参拝した医王寺へ寄っていく。


飯坂線「 医王寺前駅」は無人駅
医王寺前駅は無人駅で、ホームから下りて線路を渡ると道路に「おくの細道・芭蕉路」案内板が建つ。それに従って住宅街を進むと約15分で医王寺に到着した。
1685(元禄2年)芭蕉は「おくの細道」途中医王寺を訪れている。


瑠璃光山「医王寺」(弁慶の笈や太刀など保存)
この寺は、奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。そして城主.佐藤基治の息子二人の継信、忠信兄弟は義経の忠臣で義経四天王と呼ばれている。


医王寺・芭蕉句碑「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」
2021年9月15日
日光路 (12)飯坂医王寺

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺


草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県飯坂町平野寺前 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)

【意】節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。

医王寺境内この先に 義経 佐藤兄弟像 
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


医王寺は奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。
源平合戦において、城主.佐藤基治は、藤原秀衡の命を受け、息子二人、継信、忠信兄弟を源義経に付き従わせた。兄の継信は屋島の合戦で平家の放った矢を義経の身代わりとなって受け戦死、弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身になり、僧兵に攻められた危機に機転を聞かせ自分が義経と名乗り僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させたが、後に潜伏しているところを襲われ壮絶な死を遂げた。息子二人の死を知り嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前の様子を見て、継信と忠信の妻二人、気丈に自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を着装。若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、武将の姿になり乙和の前に現れ「継信・忠信ただいま凱旋しました」と言い、乙和元気づけた。1685(元禄2年)「奥の細道」の途中医王寺を訪れた芭蕉は、佐藤兄弟を偲び「笈も太刀も五月に飾れ紙のぼり」と詠んだ。その弁慶の笈はこの寺の宝物殿に安置されている。


医王寺境内にある、左・佐藤忠信 中央・源義経 右・佐藤継信 の像

飯坂線・小川橋

医王寺を出て左に「奥の細道標識」脇の 山道を下り田園風景の畑の道を通って飯坂線の線路つたいに飯坂温泉へ向かう。芭蕉の歩いた江戸時代には電車などあるはずもなく のどかな田舎道だったろうが、はるかかなたの山の稜線は昔も今も変わらない。当時を偲びながら青空と野山を見ながら歩く。


飯坂温泉駅前の芭蕉像

穴原温泉は奥飯坂温泉とも呼ばれ飯坂温泉駅からは僅か5分程でついて14時少し過ぎ早めのチェックイン。フロントは3階で部屋は6階。
着替えて早速お風呂。お風呂は一階。眺めもいいお風呂で早いチェックインだったので貸切風呂のように一人占め。


「月之瀬」宿のHP写真

ゆっくり休憩しながら大相撲などみて、18時から夕食は3階大広間で。
コロナ対策で幾つかに部屋を仕切りしてグループ毎に分けられている。


畳廊下の夕食会場

今日は東北線岩沼~名取~仙台へ移動する予定。
9:30チェックアウト送迎バスで飯坂温泉駅まで送ってもらう。

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺



おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



飯坂温泉駅発10:00~10:23福島駅着でJR東北本線10:40に乗り~11:45岩沼駅着。
東北本線岩沼駅から900㍍1大通りを約10分歩き今日最初の目的地「二木の松史跡公園」へ。
 



JR東北本線・岩沼駅前の芭蕉像はマスクを付けさせられている

二木の松史跡公園 現在の武隈の松は8代目

東北本線岩沼駅から900㍍10分「二木の松史跡公園」
奥の細道、道中で芭蕉は、桜の頃の江戸を立って3か月あまり、二木の松に出会った感動を「桜より 松は二木を 三月越」と詠んでいる。


「桜より 松は二木を 三月越」芭蕉句碑
2021年9月16日
日光路 (14)岩沼武隈の松

(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺








草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県岩沼市二木 桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきごし)

-----岩沼市HPより抜粋-----
「武隈(たけくま)の松」
は、10世紀前半に詠まれた藤原元善の歌に登場します。元善は陸奥守として多賀城に向かう際、「武隈の松」が枯れていたのを見つけて小松を植え継ぎました。後にもう一度赴任した時に、この「松」に再会できた感動を和歌に詠んでいます。 元善が植えた松を2代目とすると、この後「松」は野火で焼けたり、枯れたり、橋の建材にするために切られたりして何度か姿を消したため、その都度、当時の陸奥守が植え継ぎました。芭蕉が見た5代目については、誰が植えたか記録がありません。現在一本の樹の根元近くから二股に分かれる「一株二股」の松ですが、元々は二本であり、11世紀初め紫式部の『源氏物語』に「武隈の松」は登場します。光源氏が歌に詠んだ「松」は二本であったといわれています。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



ここで芭蕉は「桜より 松は二木を 三月越」と詠んだ
2021年9月16日
日光路 (13)白石~岩沼
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
【意】実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺




「奥の細道」
あれほど歌枕に執着している芭蕉がなぜ雨ぐらいで実方中将の墓(墓は名取市愛島塩手北野にある)を素通りなのか?疑問が残る---鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。

岩沼駅に戻り、岩沼12:20の電車で12:26名取駅着。今日2つ目の目的地、源氏物語の主人公 光源氏のモデルといわれる中将・藤原朝臣実方の墓をお参りする。


芭蕉も奥の細道で近くまで来たが正確に見つけられず「笠島は いづこさ 月の ぬかり道」の句だけ残している。


芭蕉も難渋した名取の山村らしく畦道やら ぬか道を約1時間程歩く。道を尋ねるにも人の気配がないので5軒の農家に飛び込み2軒は留守、3軒の農家に入ってやっと辿りついた。


平安時代中期の公家・中将藤原朝臣実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の1人。また源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれる。 藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下っていた。 ある日、笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきと村人から言われたがそのまま通りすぎ、神罰が下ったか落馬、亡くなった。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規などがこの地を訪れ、実方を偲んでいる。


中将・藤原朝臣実方の墓




2021年9月16日
日光路 (13)白石~岩沼

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺




草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
【意】実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った
中将・藤原朝臣実方  -------日本伝承大鑑より抜粋-------
藤原実方は中古三十六歌仙の一人で、歌道に秀で美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人)後世において『源氏物語』のモデルの一人とされている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。
長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出た。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と陸奥守に左遷したのである。
本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。
長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない。
この返答に対し実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎた。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけ、実方は落馬し打ち所が悪く死んでしまった。
実方中将の墓は伝承通り、笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考える。
この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。

2021年9月16日
日光路 (15)仙台
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県仙台市宮城野区     あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒
(意)
染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」
私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの含意である。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺
2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川


芭蕉は 仙台・亀岡八幡宮参詣の折、仙台城(青葉城)を訪れ 通常上級武士ですら 通行できない、大手門から入城し二の丸三の丸を訪れている(芭蕉隠密説)



おくのほそ道 まわり道...から参照
 雨の中を北上した芭蕉たちは、白石城下で1泊。翌日1689(元禄2)年5月4日(陽暦6月20日)、岩沼経由で仙台を目指した。飯坂―仙台間は90キロ余り。これを2日で歩くのだから、急ぎ足だったろう。
 芭蕉は「おくのほそ道」で、藤原実方の墓があるという「笠島」を遠く眺め〈笠島はいづこさ月(つき)のぬかり道〉、岩沼では能因らが歌を詠んだ歌枕「武隈の松」を訪れ〈桜より松は二木(ふたき)を三月越(みつきごし)〉と詠んだ。急ぎながらも芭蕉はご満悦である。
、岩沼から先、名取川を渡り、芭蕉たちが仙台の城下に着いたのは4日の夕方。ちょうど、家の軒にショウブをふき、邪気を払う端午の節句の日だった。
 芭蕉たちは仙台に8日まで4泊したが、初めは宿探しに歩き回った。曽良の「日記」によると、まず国分町の旅籠大崎屋に投宿、当時仙台を中心に活動中の談林派の俳諧師、大淀三千風を人に尋ねるが消息不明。どうにも、あてにしていた人々がつかまらない。
 そこへ三千風の高弟で木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門。芭蕉たちは、彼を訪ね三千風が旅に出て不在と知るが、この出会いが芭蕉たちを、ある意味、救ったのだ。
 、二人は大崎屋に泊まり翌6日は、好天の下、大手門内の亀岡八幡宮を参拝。7日は、加右衛門が「和歌に詠まれながら不明になっている名所を調べている」と言い、玉田、横野、榴ケ岡、木下などを訪れ、薬師堂、天神社なども巡った。 さらに、その夜これから行く松島などの絵地図を描き、(マムシなどを防ぐといわれる)染緒を紺にした草鞋2足まで添えて餞別にくれたのだ。そして〈あやめ草 足に結むすばん 草鞋の緒〉旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしようと紺の染緒をアヤメ草に詠み代えたのだ。 そして芭蕉は「風流の道の痴(し)れ者は、この心遣いで、その本領を発揮したというべきだ」と、最大の賛辞を贈った。芭蕉が、ここまで人間を描いたのも珍しい。
芭蕉と曽良、仙台での3日目、亀岡八幡宮をお参りし、城の大手門をくぐり二の丸、三の丸を通り訪れている。
「ほそ道」に従い、塩釜港から遊覧船で松島「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに芭蕉の企みがありそうだ。「ほそ道」は創作だ。技巧的に黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である。

2021年9月16日
名取駅への帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。


アルモンテホテル仙台

西口近くのアルモンテホテル仙台へチェックイン、部屋に荷物を置いて、今日3つ目の目的地 仙台市薬師堂へ向かう。 仙台駅から地下鉄東西線で3つ目の薬師堂駅下車歩いて数分で「陸奥国分寺薬師堂 」


下鉄東西線・薬師堂駅

陸奥国分寺は、仙台市内に現存する中で最古の歴史を持つ寺。
1270年前の奈良時代、聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺のうち最北に置かれた寺だった。
薬師堂を中心とする現在の伽藍は、400年前の江戸時代初頭、仙台藩の祖 伊達政宗公によって再建されたもの。現在は信者さんの祈祷を行う「薬師堂」と、檀家さんの法事を行う「本坊」の2つに役割分担して活動している。

陸奥国分寺

芭蕉は,奥の細道の旅の途中,元禄2年(1689)5月5日から7日までの3日間仙台に滞在。この句は,その時芭蕉を案内した後わらじ二足などせんべつを贈った俳人・北野加之への感謝の気持ちを詠んだもの。


「陸奥国分寺薬師堂 」芭蕉句碑
2021年9月16日
日光路 (15)仙台


草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県仙台市宮城野区     あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの含意である。

(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺
2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川

アルモンテホテルの大浴場---ホテルHPより

国分寺・薬師堂お参りして地下鉄で仙台へ、駅ビルで夕食の食材を買ってホテル戻る。アルモンテホテル仙台はビジネスホテルにしては大きなお風呂がありゆっくり入って疲れをとる。
夕食は買ってきた神戸コロッケなどで部屋で済ませる。


9月17日 7時~アルモンテホテル1階レストランで朝食。ビジネスホテルとは思えないくらい料理が美味しく種類も豊富、器も綺麗で大満足。次もこのホテルチェーンを探して是非泊まりたいと思っている。




2021年9月16日
日光路 (16)平泉高館
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡

(意)
夏草の茂るこの地は兵士たちが功名を夢見て戦った跡。私も夢にその面影を感じたことだ


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道








(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺
2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川

金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。
 

月見坂

中尊寺はもっと大きな建物を想像していたが思ったより控え目な簡素な寺院だった。
 
中尊寺

 
中尊寺由来....中尊寺HPより参照
中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。 鎌倉時代以降、次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。
ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。


中尊寺 金色堂
2021年9月21日
日光路 (17)平泉中尊寺

草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂


おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道




すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている

(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像

中尊寺・金色堂

最後に能楽殿を見学。
能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。


能楽殿・能舞台
2021年9月21日
日光路 (16)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
  (意) 武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
2021年9月21日
日光路 (17)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂
  (意) すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている

朝ごはんを皆で食べ、Yちゃんは出勤時間、玄関で「じじ ばば は今日、中尊寺を見学して夕方帰るので夕食支度して待ってるよ」言うと笑顔で出かけて行った。歩いても10分位だが新米先生は自転車通勤だ。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺
2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川

一ノ関駅まで歩き8:56発の電車に乗り中尊寺最寄り駅の平泉駅へ9:03着。
歩いて最初は芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ高館・義経堂へ向かう。 


平泉駅から線路を渡って中尊寺通りを歩きはじめる。間もなく右にそれて義経終焉の地、高館(衣川館)・義経堂がある。芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだと思われ場所だ。


義経が始めて平泉を訪れてのは1174年、義経16歳の時で その頃の平泉は京都の文化にも引けを取らない平泉文化の成熟期を迎えていた。頼朝挙兵までの6年間義経は22歳までここ平泉で過ごした。平氏討伐後、義経の力を恐れた兄 源頼朝に追われるが、藤原氏三代 秀衡の庇護を受け、高館に居館を与えられた。ところが秀衡 病没のち、四代泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、1189年、父の遺言に背き衣川館を急襲して義経に付き従ってきた武蔵坊弁慶など忠臣が応戦するも、圧倒的な数の差に敗れ、義経は妻子と共にここで自害したと伝えられている。


高舘義経堂前からの眺め..芭蕉も同じ山川の景観を眺めただろう
源義経終焉の地 高館(衣川館)・義経堂の「夏草や 兵どもが 夢の跡」芭蕉句碑

芭蕉句碑
2021年9月21日
日光路 (16)平泉高館
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
  【意】武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


高舘義経供養塔

源義経主従終焉の地高舘義経堂を出て中尊寺駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。
伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだ。有名な“弁慶の立ち往生”である。が、あくまで伝承で弁慶が実在したかどうか定かでない。 


弁慶の墓

弁慶の墓

金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。
 

月見坂

中尊寺はもっと大きな建物を想像していたが思ったより控え目な簡素な寺院だった。
 
中尊寺
中尊寺由来....中尊寺HPより参照
中尊寺は嘉祥3年(850)比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。 清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。 清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。 鎌倉時代以降、次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
 平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。
ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。


2021年9月21日
日光路 (17)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂
(意)すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている

2021年4月8日
2021年4 (9)須賀川
2021年4 (10)須賀川
(一) 日光路
  2021年9月15日~21日
9月15日 (11)信夫
9月15日 (12)飯坂医王寺
9月16日 (13)白石~岩沼
9月16日 (14)武隈の松
9月16日 (15)仙台
9月21日 (16)平泉高館
9月21日 (17)平泉中尊寺


中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像
中尊寺・金色堂について....中尊寺HPより参照
金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。
内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。 この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。
仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。

中尊寺・金色堂
最後に能楽殿を見学。
能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。


能楽殿・能舞台
レストハウス横の中尊寺バス停から一ノ関駅行き11:58分に乗りYちゃん家近くの竹山バス停で下車、途中のフードパワーセンターというスーパーで今夜の総菜を買って帰る。 








おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



中尊寺に行っている間にK君は明日から仕事なので先に帰っていた。新幹線の中からLineで鳴子~一ノ関の写真をアルバムにして送ってくれた。18時Yちゃん仕事から帰り一緒に夕食。

おくのほそ道  日光路終
 日光路終
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